社会団体論の基礎づけ


社会団体論の基礎づけ


GRUNDLEGUNG DER LEHRE
VOM SOZIALEN VERBAND


尾高朝雄

(Tomoo Otaka)

1932


法学博士 京城帝国大学法哲学教授


エトムント・フッサール名誉教授閣下
崇敬の念をもって本著を捧げる



邦訳及び電子テキストデータ化 藤田伊織 2024.10.12

東京大学法学部教授(法哲学)であった尾高朝雄先生は、歯の治療中にペニシリン注射でショック症状を起こし1956年5月15日に57歳で死去されました。1956年5月に亡くなられたため、その著作物の著作権保護期間は、ドイツ語で執筆されオーストリアで出版されたものであっても、2007年1月1日に終了しています。現在の2018年に改正された著作権法は遡及しないので、この著作物については、すでに著作権保護期間の終了が明らかです。また、これまで邦訳出版された経緯もないので、翻訳して公開することに何ら問題はないと考えます。それよりも、若い気鋭の学者で、欧州に派遣され純粋法学のケルゼンや現象学のフッサール に直接学び、その学説を批判的に捉え、国家を考える基本となる「社会団体論」創設し、ドイツ語の論文としてオーストリアで出版し、海外では現在でも読まれ続け、近年は英語に翻訳され改めて出版されているこの著作が、邦訳されず、日本語で読めないと言うのは大きな損失と考えて、邦訳を致しました。もとより、法哲学の専門家でもない小生が取り組むのは、無謀との謗りもありましょうが、この著作の持つ大きな意味を多くの人に知っていただき、有志の方が、もっと真っ当な邦訳をされるのであれば、それを阻害するつもりは全くありません。ただし、無断の転載等はお断りします。
ご意見等は imyfujita@gmail.com にお願いします。誤字・脱字についてもお知らせいただければ、幸いです。

参考:「法の究極に在るもの」


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00001 1929年の春から、私は日本帝国政府のためにヨーロッパに滞在し、法哲学と社会学の分野でさらなる研究に専念することができたという好都合な状況のおかげで、社会団体論を哲学的に実証するという長年の計画を実行することができた。私はまずウィーンで、次にフライブルクで、そして最後に再びウィーンでこの研究に取り組んだ。この居住地の変遷は、私の思想の発展と密接に関係している。
00002 私は社会団体(soziale Verband)の存在領域を理解しようとして、主としてハンス・ケルゼン(Hans Kelsen)教授の純粋法学と彼のウィーン学派とに交流をもった。そしてこの理論を批判的に検討した結果、私は二つの基本的な結果を得た。第一に、社会団体は、それ自体統一された同一の独立した認識の対象として、もっぱら理念的精神的実体の領域に属することができるということである。この点で、私は純粋法学が示す道に従っている、第二に、社会団体一般を規範の複合体と同一視してはならず、特に国家を法秩序と同一視してはならない。この点で、この主張は純粋法学の学説から逸脱している。
00003 この社会団体の存在領域と存在の本質の探究から、さらに原理的な疑問が生じた。理念的精神的実体としての社会団体は、その理念性にもかかわらず、歴史的・社会的世界に実際に存在する対象としてどのように見なすことができるのだろうか。この疑問から、私はフライブルクで、本書を献呈するエトムント・フッサール(Edmund Husserl)教授のもとで研究を続け、超越論的現象学的哲学に基づいて、理念的対象の実在性の問題を検討することになった。そして、フッサールの現象学的な認識論的批判を具体的で理念的精神的実体(konkret-idealen Geistesgebild)の対象領域に適用し、「範疇的」直観(Anschauung)に二次的な超感覚的自己能与の形態としての「意味的(sinnhafte)」直観(Anschauung)を同定することによってそれらをさらに発展させて初めて、私は、社会団体が、それに属する人間の間の内的に調和した共同体化(vergemeinschaftende)関係(Beziehungen)に基礎を置くとき、それに対応する意味的直観(sinnhafte Anschauung)の中にその実在性を示すのだと確信を得るに至ったのである。
00004 本書の執筆を主な目的とした二度目のウィーン滞在中、私はアルフレッド・フェアドロス(Alfred Verdross)教授の提唱した国際法理論に従った「国際団体」の理念と現実の問題を扱った。この研究を自分の仕事の一環として行う必要があると考えたのは、個々の国家を超えて人類全体を包含する国際団体の問題は、間違いなく今日の社会情勢において理論的かつ実践的に熱い関心を集めているからである。この論文の最後のページの校正が完了した今、ヨーロッパにいる三人の恩師に心から感謝の意を表したい。
00005 さらに研究を進めるうちに、私は数多くのドイツの哲学者や社会学者、とりわけディルタイ(Dilthey)、ヘーゲル(Hegel)、ジンメル(Simmel)、マックス・ヴェーバー(Max Weber)の思想の輪と密接に接するようになった。私がこれらの研究者の理論を深く掘り下げるよう特に勧められたのは、京都の日本人恩師である西田幾多郎教授と米田庄太郎教授であり、彼らの講義やセミナーは無尽蔵の教えと科学的刺激の源であった。京都の臼井二尚(Jisho Usui)先生との長年にわたる協力関係も、社会科学の認識の視線を、社会的事実という経験的に確認可能な領域から、具体的理念的意味領域(Sinnessphäre)に向ける必要性を指摘してくれたという点で、私の思想の発展に影響を与えた。
00006 また、ウィーンのフェリックス・カウフマン(Felix Kaufmann)博士とアルフレッド・シュッツ(Alfred Schütz)博士には深く感謝する。彼らは、拙著の原稿と校正刷りを快く丁寧に見てくださり、事実関係および文体のさまざまな提案を通じて、貴重な援助を与えてくださった。フライブルクのオイゲン・フィンク(EUGEN FINK)博士には、超越論的現象学の意味を深く解明してくださり、本書の第二章の準備を助けていただいた。ウィーンのフリッツ・ウァイス(Fritz Weiss)博士の熱心な協力により、私が直面した言語的な困難はかなり緩和された。これらの方々の親切な支援がなければ、比較的限られた期間に、私にとっての外国語によるより広範内容の学術的研究を完成させることは不可能であっただろう。

00007 ウィーン-ハイリゲンシュタット、1932年3月末(原文ドイツ語)尾高朝雄
(訳者注:語彙の言語との対比で、「ドイツ語(Deutsch)」でのDeutschは、格などの関係はあるが、基本的に文章に現れたものをそのまま記載している)



目次


第一節 社会団体論の基礎づけの理論的必要性
・ギールケ(Gierke)とシュパン(Spann)による社会団体論の構築の試み
・国家の本質と国家学に関するケルゼンとスメントの論争
・歴史世界における理念的でありながら現実的な精神的実体としての社会団体
・社会学を現実科学として確立しようとするフライヤー(Freyer)の試み
・社会団体論の基礎づけの概要

第一章 社会団体の理念的存在(ideale Sein)
第二節 社会団体の現存在領域
・二つの基本的問題:社会団体の理念的存在と現実的存在
・精神の理念的領域における社会団体の同一かつ統一された現存在(Dasein)
第三節 社会集団(sozialen Gruppe)の自己保存 ー ジンメル(Simmel)
・社会団体の同一的現存在を説明するこれまでの試みは成功しなかった
・社会集団の自己保存に関するジンメルの理論
・ヴィーゼ(Wiese)の「関係学(Beziehungslehre)」の体系における社会的実体(Gebilde)
第四節 理念類型としての社会団体 ー マックス・ヴェーバー
・理解社会学(verstehenden Soziologie)の対象としての社会団体
・観念的に構築された認識手段ではなく、客観的に現存在する精神的実体としての社会団体
・社会科学的認識分野を根本的に拡大する必要性
第五節 規範的当為としての社会団体 ー ケルゼン
・ケルゼンによる社会科学の新たな地平の開拓
・ケルゼンの精神的存在と規範的当為との同一性
・ケルゼンの国家と法の同一性理論に対する批判
・精神世界を純粋に観念的意味領域に限定することの無意味さ
・理念と規範を同一視することの無意味さ
・観念的でありながら非規範的な精神的実体としての社会団体
第六節 理念的存在と現実的存在(Wirklichsein)
・社会団体の理念的存在の問題から、その現実的実在性の問題への移行

第二章 理念的対象の現実的存在性

第七節 現象学的認識論的批判の問題としての対象の現実的存在(Wirklichsein)
・現実の問題の相関としての真実性(Wahrheit)の問題
・意味するものと与えられるものとの一致としての真実性
・「事物それ自体(die Sache selbst)」との関係を通じての対象の現実的実在性の確認(Bestätigung)
第八節 現実的対象と理念的対象
・感覚的知覚(Sinnliche Wahrnehmung)と範疇的直感(kategoriale Anschauung);現実的対象と理念的対象との間の基礎的連関
・理念的対象の認識論的批判における二面的方法(doppelseitige Verfahren)
第九節 現実的対象の同一的存在
・社会的・歴史的現存在の理念的対象領域への包摂
・実在的対象の同一性は、感覚的知覚のなかに客観的相関物を見いだせない ・対象の「構成的」理念性と「存在論的」理念性
・「急進的先験主義」としての現象学的認識論批判
第十節 理念的対象の同一的存在
・具体的・理念的精神的実態の存在構造;「意味的直観(sinnhafte Anschauung)」における自己能与(Selbstgebung)
・具体的・理念的精神的実態の同一性の原理としての「同質的」基礎 ・統一性と全体性の原理としての「異質な」基礎
・確立された多様性から正当な統一性と同一性への必要な視点の転回
第十一節 理念性の現実の根拠(Wirklichkeitsboden)としての現実性
・高次の理念性の現実の基礎としての「事実性」;精神的事実性の構造分析
・具体的理念的精神的実態の客観的意味形成;「意味的基礎(sinnhafte Fundierung)」と「現実的基礎(sinnhafte Fundierung)」
・従来の社会科学の対象分野(Gegenstandsgebiet)としての精神的事実性

第三章 社会団体の現実的存在性

第十二節 即物的(sachliche)精神的実体と社会的精神的実体
・「即物的」精神的実体から「社会的」精神的実体を一般的に区分
・この区分の個々の具体的・理念的精神的実体への適用
・即物的精神的実体の「準永遠性(Quasi-Ewigkeit)」と対照的な社会的実体の歴史的変化可能性
・法の実定性の問題
・社会的精神的実体としての社会団体
第十三節 純粋な社会的実体としての社会団体
・「事実的な」社会的実体と「純粋な」社会的実体;「純粋な」社会的実体としての社会団体の存在様式を確立する。
・社会団体の現実の根拠をより正確に分析する必要性
第十四節 社会関係(sozialen Beziehung)の本質的構造
・「純粋な」社会関係の概念
・「社会化の形式(Form der Vergesellschaftung)」としての相互作用に関するジンメルの理論
・ジンメルの形式概念の批判的考察
・事実的領域と具体的・理念的領域における社会的現存在の地域的本質
・因果的相互作用としてではなく、構造的一体性としての社会関係
第十五節 社会団体の現実の基礎としての共同体化
・社会関係の基本形式の分析
・調和的と非調和的関係、合理的と非合理的関係、支配的と平等的関係
・「直接的(Direkte)」と「筋違いの(abgelenkte)」関係、「共同体化」と「社会化」の概念
・社会団体の現実的存在性の事実的基礎としての共同体化
第十六節 社会団体の客観的意味形成とその現実的存在性の歴史性
・社会団体の現実の根拠の分析のさらなる精密化
・共同体化と社会団体の間の現実性基礎づけと意味的基礎づけ
・社会団体の客観的な意味形成の行為
・社会団体の現実的存在性の相対性と歴史性
第四章 社会団体の内的構造

第十七節 社会団体における普遍(Allgemeine)と個別(Einzelne)
・社会団体の具体的存在構造を研究する二つの道
・社会団体の全体構造の分析;社会団体における普遍と個別の間の支配関係
第十八節 社会団体の全体性構造の三つの基本類型
・社会団体を「共同社会団体」「利益社会団体」および「協成社会団体」に三分類する。
・テンニエスの「共同社会団体と利益社会団体」論
・ヘーゲルの思弁哲学体系での社会団体の家族・市民社会・国家への三分類
・ヘーゲルの「人倫的実体」の学説に対する批判的指摘
第十九節 第一類型:共同社会団体(Gemeinschaft)
・共同社会団体の内在的構造分析
・共同社会団体における法、経済、宗教
第二十節 第二類型:利益社会団体(Gesellschaft)
・特別目的団体としての利益社会団体
・利益社会団体における経済システムの原子論的構造
・利益社会団体的統一、利益社会団体的支配と法的秩序の維持
第二十一節 第三類型:協成社会団体(Körperschaft)
・協成社会団体の本質的特徴としての「価値の超越性」
・近代的な団体類型の特徴
第五章 社会団体の実質的な社会的実体との外的連関(äußere Zusammenhang)

第二十二節 社会的実体の構造連関(Strukturzusammenhang)
・社会団体の具体的存在構造の分析的観察から総合的研究への転回
・ディルタイの『記述心理学』における構造連関の概念
・すべての人文科学の(Geisteswissenschaften:精神科学の)の基礎としての構造論
・構造連関と作用連関(Wirkungszusammenhang)
第二十三節 社会的構造連関における法の優位性
・純粋な社会的実体と事実的社会的実体との構造連関
・「社会生活の形式」としての外的規制に関するシュタムラーの理論
・社会的構造連関における法の「現実の(aktuelle)」優位性
第二十四節 法の社会的構造
・法と社会関係の構造連関
・「統一意志」としての法のシュタムラーの定義
・「共同体化の法」と「社会化の法」
・「社会秩序としての法」と「強制秩序としての法」
・法の二重構造
第二十五節 国家と法
・法と社会団体の構造連関
・純粋法学による法命題の分析の結果として、法の二重構造の現実化
・「強制秩序としての法」の体系と構造連関する社会団体としての国家
・国家の内的構造
第二十六節 世界団体の理念と国際実定法
・世界団体の現存在の問題
・「国際法の共同体化」のヴァードロス理論
・世界団体の理念と現実
・国際実定法の社会構造の分析
第六章 社会団体論の方法論的再検討

第二十七節 社会的現存在の存在論的科学としての社会団体論
・この方法論的再検討の課題
・社会的現存在の存在論的「現実科学」としての社会団体論
・社会団体論の認識の対象と認識の手段
・社会団体論と歴史科学
第二十八節 社会団体論と社会学
・社会学の存在論的部分的分野としての社会団体論
・社会学の中心的分野としての社会団体論
・社会団体論と社会関係論(Lehre von der sozialen Beziehung)
第二十九節 社会団体論と法学
・社会団体論と「事実的」社会科学
・「純粋」社会学と「事実的」社会学
・社会関係論と法事実科学;社会団体論と実定法学
結語

第三十節 社会団体論の基礎づけの実践的意義
・社会科学における理論と実践
・人間の実際的な社会的現存在の究極的な目標としての協成社会団体的国際社会団体
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序文


第一節 社会団体論の基礎の理論的必要性

00101 社会科学の全分野において、社会団体の本質と現実に関する問題ほど、ほとんど解明されていない問題はない。社会団体の「現実的(reale)」現実(Wirklichkeit)を素朴に前提とし、その構造を科学的に説明するか、あるいは教義的に仮象化しようとする従来の見解の原則的な通用性のなさは明らかになったが、独立した認識の対象としての社会団体の真の(wahre)現存在(Dasein)について、確固とした証明はまだない。実際、多くの場合、一様(einheitlicher)で本質的に同一の(identischer)対象(Gegenstand)としての社会団体は、社会現象の「経験的に(empirisc)」認識可能な領域には見出されず、その結果、社会科学の対象を形成することはできないと主張される。それは、社会科学が「経験的」科学としてのみ可能であると考えられているためである。現代の社会学者の多くは、社会科学の対象としての社会団体を、それに対する心的な(psychischen)「表象(Vorstellungen)」や、その意味によって主観的に決定される人々の実際の(tatsächlichen)「行為(Handlungen)」の複合体としてしか理解していない。厳密に言えば、これは社会団体そのものの真の(echten)現実的な(eigentlichen)現存在の否定(Verneinung)に他ならないことを意味する。理論的な社会科学的な認識(Erkenntnis)がこのような傾向を示すのは、社会政策や法の教義的解釈など、実践的な社会生活そのものを志向する社会学問分野であるのに奇妙だ。というのも、実際の社会生活そのものが、明らかに19世紀の個人主義的(individualistischen)発想(Auffassung)から集団主義的(kollektivistischen)方向への転換点にあるにもかかわらずだからだ。
00102 近代社会科学の発展の歴史には、それでも独立した科学として人文科学的な基礎の上に社会団体論を構築しようとするさまざまな試みがあった。特に忘れてはならないのは、社会団体論の構築に対する要求が最も力強く提起されたのが、まさに我々の1900年代の初頭であったということである。オットー・フォン・ギールケ(Otto von Gierke)が1902年のベルリン大学総長就任演説の中で、人間の団体の精神的現実についてまぎれもなく明確に言及したとき、人文科学的団体論を構築しようとする試みの礎石はすでに築かれていた。たとえギールケが自説を「有機的な(organische)」ものと呼び、生物学的有機体との比較を通じて社会団体の存在構造(Seinsstruktur)を明らかにしようと試みたとしても、この呼称とこの比較は、人間社会が「部分からなる全体の生命単位」であることを説明する以外の目的をもっていない0021。むしろ、ギールケは、この比較において、自然科学の領域の最外縁を認識し、その上で、人文科学(Geisteswissenschaft:訳者注;「精神科学」でもあるが、現在は「人文科学」が一般的)の領域においてのみ、実際に人間社会を論じることを望んでいるのである0022。ギールケによれば、この人間相互間に(zwischenmenschlich)形成された全体性の真の存在は、感覚によって知覚できるものではない。しかし、だからといって社会団体に「現実」がないわけではない。現実は感覚的に知覚可能なものとは一致しないからである0023。ギールケは、このきわめて正しい方向性に基づいて、人文科学的認識という超感覚的な領域において、社会団体の現実性(Wirklichkeit)を確立しようとした。
00103 精神的全体性としての社会団体の見解(Auffassung)は、今日の社会学において、とりわけオトマール・シュパン(Othmar Spann)に代表される。この「普遍主義(universalistischen)」の理論によれば、社会団体はその本質において「精神的かつ行為的な全体性」である0024。これは次の三点を意味する:第一に、社会団体は全体として本来の現実性(Wirklichkeit)を持っているが、その全体を構成する個々人は、この全体の構成員として、部分としてのみ実在しうる。従って社会団体が第一義的なものであり、個々人の存在は派生的なものにすぎない0025。第二に、社会団体は、その主要な性質が精神的なものであるという点で、自然の全体性、すなわち生物学的有機体とは異なる。人間の精神は、本質的な現存在形式(Daseinsform)として共同体(Gemeinschaft)を持っている。それゆえ、人間は、精神共同体(geistigen Gemeinschaft)の構成員(Glied)としてのみ現実である。それゆえ、人間の団体の本質と源は、この精神共同体にある0026。第三に、社会団体は行為的全体性であり、その生命は、経済的行為のように精神的目的のための手段として、あるいは、あらゆる精神的価値の実現のようにそれ自体が目的である人間の行為から成り立っているからである0031。シュパンによれば、この精神的全体性は、単に感覚的知覚可能な(sinnlich wahrnehmbaren)世界には現れないということである。社会団体の普遍主義的アプローチは、実は経験的、科学的帰納法の手順とは何の関係もない。それは結局のところ、真に存在する精神的な全体から出発して、その構成員に降りていかなければならない。従って、社会団体の理論としてのシュパンの「社会学説」は、その本質において、「分析的、演繹的、概念的科学」である0032。ここでも、社会団体の現存在は、因果的に決定された感覚的理解可能な領域では決して確認できず、超感覚的で純粋に精神的な領域においてのみ確認できるということが、深い意味をもって強調される。
00104 社会団体論を構築しようとするこれまでの試みに共通する欠陥は、その正しいとして方向づけられた結論が、一般に認識可能な哲学的正当化と論証に基づいていないという事実にある。ギールケ自身、社会的生活単位の存在について直接証明することを最初から放棄していた。彼は、個々の生活単位は直接的に証明可能ではないないため、逆にその存在を否定すべきではないと指摘するだけで満足したのである0033。従ってギールケにとっては、社会団体の現実性(Wirklichkeit)は、一方では外的経験を通じて、他方では内的経験を通じて、「間接的に(mittelbar)」しか把握することができないものである。というのも、我々の目の前で起こっている社会的出来事(Vorgänge)の観察、とりわけ「人間の歴史を深く読み解く」と、人間の活動や影響が個々人からだけでなく、同時に共同体からも生じていること、すなわち共同体がいかなる場合にも「活動的な主体」であることを示しているからである0034。しかし、この外側の経験が教えてくれることは、我々の内側の経験で確認することができる。我々は、一人ひとりが個々の生活単位を形成しているだけでなく、下位単位としても上位の生活単位に属していることを、確信をもって経験することができるからである。この二つの「間接的な」理由だけが、社会団体の現実的現存在に関するギールケの主張を裏づけている。社会生活の中で実践的に行為する人々は、これらから確信を得ることはできても、その確信の科学的正当性を主張することはできないのだ。
00105 ギールケが深い根拠をもたずに社会団体論を構築しようとしたのに対し、シュパンは綿密に構築された哲学的考察の体系すなわち「全体性の範疇論(Kategorienlehre)の論理学(Logik)」に普遍主義的社会学(universalistischen Gesellschaftslehre)の基礎を置く。しかし、シュパンが社会全体についての彼の理論を、その詳細な解明を試みるよりも、疑いのない公準としてそれを前提とする傾向があることには疑問がある。全体は決してその部分によって決定されるものではないが、その一方で全体はその部分に分割された主要な、まさに根源的なものを表すという純粋に論理的な事実は疑うべきではない0041。もちろん、論理的には全体が部分よりも優先される。しかし、我々の議論の中核をなすべきは、決してこの純粋に論理的な事実そのものではなく、むしろ、社会団体がそのような全体性として、どこまで、どのような意味で本当に存在するのかという具体的な問題である。社会科学で扱う社会団体とは、単に論理的なものではなく、歴史的・社会的世界の現実の現存在である。社会団体の現存在は、物や身体の存在とは明らかに異なる。では、社会団体はどのような存在様式を持つのだろうか。超個体的な(多数の個体から形成され、まるで一つの個体であるかのように振る舞うような)全体としての実在を、一般的に、しかも厳密な科学性をもって確認することができるのだろうか。この問題は、「社会団体は全体としてのみ理解されうる、全体として、それを構成する個々人よりも根本的で固有の『現実性(Realität)』を示す」と繰り返し述べたところで、何も解決にはならない。
00106 従って、現実の独立した科学としての社会団体論を確固として決定的に確立するためには、すでに多くの深遠な思想家たちによって確信をもって表明されてきた、社会団体の現実的現存在の主張の最終的な理論的基礎について、詳細に論じることが絶対に必要であろう。社会団体論の哲学的基礎づけは、間違いなく現代の社会科学的思考における最も重要かつ緊急な課題の一つである。

00107 というのも今日、「国家論(Staatslehre)」として、特に典型的な形式の社会団体論の本質に関する原則的な議論に立ち向かわざるを得ないからこそ、この社会団体論の理論的必然性の認識が、我々にいっそう強く求められている。この議論(Auseinandersetzung)は、ハンス・ケルゼンが1922年の批判的立場の著作『社会学的国家概念と法学的国家概念』(Der soziologische und der juristische Staatsbegriff)において初めて行った急進的な提案、そして1925年の体系的発表『一般国家学』(Allgemeine Staatslehre)において、国家の基本概念に関して行った提案と関連している。この問題についての客観的に妥当な意見の表明が不可欠なのは、まさに今目の前で行われているこの議論が、科学の進歩にとって肯定的で実りある結果ではなく、むしろ否定的な結果を約束しているように思えるからである。
00108 客観的で公平な視点から見れば、ケルゼンの業績の意義は、まずその批判的結論にある。この結論によってケルゼンは、国家の現実、ひいては他の社会団体の現実を、「現実性(reale)」として確立しようとする従来の試みの根本的な無益性を決定的に明らかにした。この意味で、時には素朴な自然科学的手法を用い、時には教義的な形而上学的基盤に基づき、あらゆる形で登場してきた社会的現実主義が社会科学の歴史において、通用しないことの決定的な証明としてケルゼンの業績は、評価できる。さらに、ケルゼンの確かな功績は、精神の領域と自然の領域を根本的に対置させ、理念領域の中に国家の現存在を見いだすことを初めて試みた点にある。ケルゼンによれば、国家の現存在領域を自然的現実の中に求めること、従って感覚的に知覚可能な現実の中に国家の本当の存在を見つけようとすることは根本的な間違いであるという。むしろ、国家は最初から「理念的な精神的実体」であることを示している。国家はその本質において「自然の産物ではなく、精神の産物」であり、国家は「魂と肉体は持っておらず、まったく異なる種類の存在」であり、従って「自然的な現実ではなく、また自然の現実の一部分でもなく」、理念的存在の領域、すなわち「理念的体系」、に属するより精神的対象なのである0051。ケルゼンは、この二つの基本的な記述によって、政治学だけでなく、人文科学を志向する社会科学全般に対して、現実という感覚的知覚可能な(sinnlich wahrnehmbaren)領域から、精神的実体(Geistesgebildes)という理念的な領域への根本的な視点の転換を要求している。精神的存在(das geistige Sein)は、何よりもまず、理念的存在(das ideale Sein)として理解されなければならない。
00109 その際に、ケルゼンの国家観に対して二つの重要な点で批判的な態度をとらなければならない。第一に、よく知られているように、ケルゼンはまず、この精神の理念的世界を「価値(Werte)」の世界として理解しようとし、さらに同時に、一足飛びに、「規範(Normen)」の世界として理解しようとする。これは、精神に関する規範的な概念であり、国家(Staat)と法秩序(Rechtsordnung)の彼の名高い同一視(Identifizierung)において頂点に達するものである。本書『社会団体論の基礎』の中で詳細に論じるように0061、国家と法の同一性に関するこの理論は、たとえそれが並はずれて鋭く深遠な仕方で定式化されているとしても、最終的な分析においては支持できないことが証明されなければならない0062。第二に、ケルゼンの研究は、理念的精神的実体としての国家が、同時にその歴史的・社会的規定において現実の存在を持つことがいかにして可能かという問題をまだ扱っていないことを指摘しなければならない。ケルゼンは、法秩序の「実定性」という概念で指定する「根本規範(Grundnorm)」という仮説を通じて、国家の歴史的現実を解明しようと試みているが、深い哲学的議論を通じて自説を立証したわけでは決してない0063
00110 とはいえ、社会的世界に対する人文科学研究の視線を上記のように転換させるというケルゼンの要求は、社会科学全般の方法論的基礎にとって、とりわけ社会団体論を構築しようとする試みにとって、依然として画期的なものであることを率直に認めなければならない。社会団体を純粋に理論的な認識の対象として客観的かつ事実に基づいて考察するのであれば、もはや感覚的知覚可能な(sinnlich wahrnehmbare)、あるいは形而上学的に仮想された「現実」としてではなく、むしろ理念的でありながら現実に存在する精神的実体(Geistesgebilde)として考えなければならない。この原則を獲得することにより、ケルゼンは実際に社会科学的認識の発展に永続的な貢献をしてきた。社会団体論を前に進めたいのであれば、このケルゼンの理論は無視できないし、無視すべきではない。
00111 もしケルゼンの業績が、国家の、ひいては社会団体一般の理念的存在領域を確立した限りにおいて、社会団体論の構築を可能にしたのだとすれば、最近、ドイツの重要な国家理論家によって、それが「国家論の危機(Krisis der Staatslehre)」の元凶であると非難されたことを、いっそう残念に思わざるをえない。ルドルフ・スメント(Rudolf Smend)は、1928年に出版した『憲法体制と実定憲法(Verfassung und Verfassungsrecht)』の冒頭で、ドイツにおける国家論と国法学がこのところ「危機的な状態にある」と嘆いている。スメントはこの状況を次のように説明する。「事態の特殊性は、ドイツ語圏で最も成功した国家論と国法学の学派の第一の信条によれば、『国家を現実の一部と見なしてはならない』という事実に特徴づけられる。この状況は、国家論のみならず国法学の危機をも意味する0071」このことは、ケルゼンとその学派の国家論、すなわち彼らの「純粋法学」基づく国家論が、これまでの国家論の脆弱さに対して、それ自体正当化された批判をもって、一般的な国家論の既存の価値と無価値のすべてを一掃してしまったために、「代替物の可能性さえ認めないまま」ついに「目的も目標もない行き止まり」に至ったことを意味している0072。スメントによれば、この学問の現在の危機の理由は、まさに国家論がその「零点(Nullpunkt)」に戻ったことにある。
00112 ケルゼンに対するスメントのこの非難は、間違いなくその的を完全に外している。というのも、ケルゼン自身が正しく想定しているように、彼のこれまでの主な著作を注意深く研究した人なら誰でも、彼が自然科学志向の社会学的現実主義と形而上学的な国家の実体化・絶対化を批判してきただけであり、それとは対照的に、社会的存在の領域を精神の領域として、とりわけ規範の領域として確立しようと試みてきたことを理解しているからである。ケルゼンによれば、規範的な法秩序としての国家は、最初から特異な存在であり、その特殊な客観性においては、自然界の存在と同様に科学的に扱うことができる。そして、国家の「存在(Sein)」について語ることができるが、それは自然の存在について語るのとはまったく異なる意味においてである。ケルゼンが常に「存在(Sein)」と「当為(Sollen:あるべき)」の対立をきわめて厳格に強調するならば、彼は最初から、概念的な混同の危険を防ぐために、国家の存在様式のこの特殊性を、自然のそれと十分に明確に区別することを目指している。この言葉の拡大された意味において、すなわち精神または価値の現実性として、ケルゼンは常に国家の「現実」を認識する用意がある0073。スメントとの「原理的対決」の中で、彼はこう言っている.「純粋法学における規範国家理論は、国家の具体的な合法性、その規範(価値)合法性(gesetzlichkeit)を示すことによって、国家を精神的現実体(Geisteswirklichkeit)として理解しようとする体系的な試みに他ならない0081
00113 他方、ケルゼンの規範論とは対照的に、卓越した国家の歴史的存在を理解しようとするスメントの試みもまた、理にかなっていることを見落としてはならない。スメントは、テオドール・リット(Theodoor Litt)の社会哲学的な議論に基づき、国家を、概念的に、絶えざる改革と自己実現の過程にある精神的な集合体としてとらえようとしている0082。スメントによれば、国家とは一体構造(Einheitsgefüge)であり、それは一方では、象徴(Symbolen)、形式(Formen)、法令(Satzungen)に集約されている。しかし、他方では、絶えず流動的であり、「常に新しく更新され、むしろ新しく生み出される限りにおいてのみ、国家は現実体である」のである0083。国家は、精神的集合体(geistiges Kollektivgebilde)として、単なる静的に定在する実体ではなく、精神的生活と精神的行為の存在の統一体であり、それが現実体であるのは、それが常に機能的な現実化、再生、より正確には永続的な精神的克服と発展において現れるからである、とスメントは主張する。この過程においてのみ、そしてこの過程によって、国家はその現実体を保持し、存続させることができる0084。この概念、スメントがこの「国家生活の核心的過程」を「統合」として呼称している「統合理論(Integrationstheorie)」0085は、社会的事実性の領域において、動態におけるまさに実現段階にある国家を示している。
00114 ケルゼンが、更にまた、スメントの統合理論は「価値の実現」すなわち社会生活の考察の重点を置き、その結果、国家を「自然の領域(Bereich der Natur)」に引き戻すものであるとし、異議を唱えて反論しようとするならば0086、彼の批判の先鋭化は確かに行き過ぎである。というのも、実際の生活過程(Lebensvorgang)は、自然のような因果律の唯一の支配下にある単純な心理的物理的(psycho-physische)現実ではないからである。ケルゼンが傾倒していると思われる見解とは逆に、精神は時間的な生活過程において自らを実現し、しかも精神のままでいるものである0087。国家や社会団体一般は、その現実的な存在様式によれば、理念的な精神的実体(Geistesgebilde)の領域に(Sphäre)属するが、その結果、意味的理解可能な(sinnhaft verstehbarem)連関(Zusammenhang)の中で、絶えず実現する生活事象の過程に参加することもできる。むしろ、理念的な精神的実体としての社会団体が、その理念性にもかかわらず、実際に存在し、現実の科学の対象として扱われうる究極の理由は、まさに、社会団体が、社会生活の事実的過程において、何度も何度もそれ自身を実現するという事実にある。こうして、社会的事実性における団体の「実現」は、団体が理念的精神的実体として実際に存在しうる唯一の基盤(Fundament)を形成するのである。しかし、ここで強調しておかなければならないのは、この「実現(Verwirklichung)」と「現実(Wirklichkeit)」という二つの用語は、決して、安易に同一視されてはならないということである。なぜなら、理念的精神的実体の現実は、それ自身の固有の存在形式であるのに対して、社会的事実性の中での実現においては、まさにそれ固有の理念性の存在領域を離れるからである。社会団体の「現実」と「実現」は、たとえ概念的に厳密に区別されなければならないとしても、それでもなお、「基礎」の連関の中で、互いに必然的に結びついている。このように事実を規定するならば、国家の現実体の基礎を「統合」という事実的な生活過程に求めようとするスメントの試みも、間違いなく問題の核心に触れるものであることを認識しなければならない。
00115 国家や社会団体一般は、このように、一方では理念領域にあり、その構成員の入れ替わりに影響されることなく、この理念領域において同一の存在を維持する精神的実体である。しかし、他方では、社会生活過程という事実的領域に基礎を置き、従って、現実の対象として、歴史的・社会的現実の一要因を構成する。比喩的に言えば、ケルゼンの鋭敏な分析は、まさにこの理念的な表象主義のまさに頂点に照準を定めているが、その現実の基盤を十分に明確に考察していないため、その歴史的現実の理由を正確に解明するには至っていない。対照的に、スメントは、現代に特有の歴史的感覚をもって、国家という現実の根拠を堅持する一方で、厳密に言えば、「統合」としての生活過程としての国家は、もはや「国家」という同一の対象としてみなすことができないという事実を完全に見落としているようだ。これらの二つの見解はそれぞれ、一つの同じ問題の連関の必要な層を照らし出している。しかし、問題のもう一つの層を正しい範囲で考慮しようとしない限り、どちらも一方的である。両者の見解は互いに補完し合うべきものであるが、互いに非難や反論をし合うようなことはあってはならないのである。
00116 国家論あるいは社会団体論が今日危機に瀕していることをスメントとともに強調しなければならないのは、まさにこのためである。しかし、この危機は、ケルゼンが国家の「理念的現実」を主張したことに由来するものでは決してない。このこと自体は、社会団体一般について実りある探求を行うための新たな地平が開かれたことを意味する、しかし、それとはまったく逆に、スメントのような人物が、この重要な科学の進歩を危機の原因として非難しなければならないと考えるような、科学研究活動の嘆かわしい現状にこそ、その原因があるのだ。このような状況は、まさに危機を生み出している。純粋に科学的な研究の分野に、党派的な政治感情が入り込んでいるのである!
00117 科学の進歩とは、客観的精神の絶え間ない発展である。この客観的精神--科学--は、私やあなたのためだけに存在するのではなく、特定の階級や民族や時代のためだけに存在するのでもない。むしろ科学は、歴史的・国際的な共通善であり、世代や国家という途方もない連関の中で、個人的・主観的な精神活動が無限に結合して統一された全体となることによって発展するものである。客観的な真理を発見するための、この歴史的・国際的な協力関係においては、前の世代、他国の人々、あるいは他の科学的流派や方向性のあらゆる成功が、貴重な業績として注意深く検討され、重んじられなければならない。もちろん、真の科学精神に貫かれた論議は、科学の進歩に再び弾みをつける。批判と反論は避けられないものであり、また不可欠なものである。しかし、科学において相互に反論し合う主張は、時として、まさに反論と論争において科学的協力を達成する。一方の研究者が、真実はもっぱら自分の側にあると主張し、もう一方の研究者が同じように声高に主張することを非難する。しかし、歴史的な発展は、この二つが科学の進歩に等しく貢献し、互いに補完し合ってきたことを示している。「蕾は花の出現によって消え、花によって反論される。同じように、果実の出現によって、花は植物の偽りの存在であると宣言され、果実がその真実として代わりになる。これらの形は、異なるだけでなく、相容れないものとして互いを置き換える。しかし、その流動的な性質は、同時にそれらを有機的統一の契機とし、そこでは互いに矛盾しないだけでなく、一方は他方と同様に必要であり、この同じ必要性こそが全体の生命を構成するのである0111」このように、社会団体論の現在の危機は、この真の科学的協力の精神を再び呼び覚ますことによってのみ、解消され、克服されるのである。

00118 しかし、国家の本質と国家論に関するケルゼン・スメント論争に関するこの意見表明は、方法論的混合主義であるという根本的な非難にさらされているように思われる。国家や社会団体を、理念的精神的実体として理解すると同時に、その理念性にもかかわらず、現実として、現実に存在する実体として、どのように理解することができるのだろうか?一方では、統一された、本質的に同一の存在として理念の領域に存在し、他方では、社会的事実性の絶えず変動する生活過程に基づく歴史的現実の一要因であることを、どのようにして示すことができるのだろうか?理念的な永続性と現実の歴史的変化可能性の両方を社会団体に帰属させることは、重大で明らかな矛盾ではないだろうか?さらに、この見解に固執する限り、国家を理念=規範的領域と現実=社会的領域とに同時に確立しようとした、とりわけイェリネク(Jellinek)とキスティアコウスキー(Kistiakowski)が提唱した「両面理論」に対するケルゼンの批判0112から、どうして逃れることができようか?この批判は、自然と精神の厳密な並置から、「あらゆる対象は一方か他方の圏域のいずれかにしか属すことができず、従って国家もまた、精神的実体か生活の現実のいずれかとしてしか概念的に決定することができないが、同時にその両方として決定することは決してできない」という帰結を常に導き出そうとするものであった0113
00119 これらの予想される不可避な反論にあらかじめ答えておくことで、通常信じられているのと違って、理念性の概念は現実性の概念と決して相容れないものではなく、逆に、あらゆる精神的現実は、多かれ少なかれ具体的な理念的構造としてのみ存在しうることを示したい。理念的現実の領域を把握することは、方法論的混合主義ではなく、むしろ問題そのものに根ざした要件なのである。そもそもこの「現実(Wirklichkeit)」は「存在(Existenz)」を意味するものではない。というのも、理念的精神的実体は、理念的な対象として、単に考え、想像するものとして、「存在」を持つこともできるが、それによって社会的現実の「存在規定(Seinsbestimmung)」がそれ自体に含まれることはないからである。対照的に、我々の社会団体論の基礎は、歴史的社会的な連関(Zusammenhang)の中で実際に存在するものとして理解できる理念的精神的実体に関するものです。従って社会団体の性質は、現実に存在する理念的精神的実体の性質としてまず解明されなければならない。
00120 真に現存在する精神的実体として、社会団体は現在、歴史的および社会的現実に属し、この現実の最も重要な要素のひとつを形成している。しかし、歴史的・社会的現実を、絶えず発生し変動する事実の生活過程と同一視することは慎重に避けなければならない。歴史的現実は、人間の行為や生活過程の連続的な性格を超越した、客観的で理念的な精神的実体から成るが、事実としての社会生活の絶え間なく変化する過程は、もはや「歴史的」とは呼べない。一個人の「歴史的」行為でさえも、それが歴史的であるのは、その個性の中に理念的で客観的な意味を創り出し、担っているか、少なくともある重要な方法でそれに言及しているからに他ならない。「歴史的」とは、事実上の生活過程ではなく、理念的で客観的精神的実体そのものである。従って、社会団体は必然的にその現実の存在の歴史性の決定に従う対象となる。しかし、その個人の、また超個人的な現実には歴史的な限界がある。従って、一方では、社会団体の統一された同一の存在を、その独立した理念性において認識しながら、他方では、それを歴史的なものとして、歴史的・社会的現実の要因としてみなすことは、矛盾ではない。
00121 しかし、社会団体は、歴史的・社会的現実一般と同様に、社会生活の事実的過程と必然的に連関している。この連関は、事実性が理念的精神的実体としての社会団体の現実性の基礎であるという事実によって成り立っている。理念的精神的実体、とりわけ「社会的」実体は、同時に、それに対応する一定の事実的生活過程によって基礎づけられた限りにおいて、またその限りにおいてのみ、実在しうるのである。理念的精神的実体と事実的生活過程との連関は、すでにスメントの「統合理論」との関連で示したように、「底礎連関(Fundierungszusammenhang)」である。従って、社会団体は、それを基礎づける「統合的な」社会生活過程に基づいてのみ、真に存在しうるのである。そう、社会的生活過程を通したこの底礎連関においてこそ、社会団体が歴史性の決定においてのみ、唯一実在しうる究極の理由が明らかにされるのである。こうして、事実的社会過程が、社会団体がその歴史的実在性を示す「根拠(Boden)」を形成するのである。従って、このことは、社会団体がその現実性を基礎づける生活過程と究極的に一致するということを意味するものでは決してない。この生活過程を、事実性の領域における団体の「実現」と呼ぶこともできる。そうなると、団体の実現あるいは事実性の領域で実現された団体は、もはや社会団体論が現実の対象としなければならない団体ではなくなる。現実化は理念的対象の現実性の根拠であるが、この対象そのものではない。現実的実体としての社会団体は、その「現実の根拠」として、変動する生活過程--「統合」--を必然的にもたらすが、実際には精神的実体の理念的領域に属し、常に理念的精神的実体であり続けるのである。従って、この論証からは、ケルゼンが的確に批判した「両面理論」に逆戻りする危険は生じえない。

00122 我々のこの基本認識は、結局のところ、この科学分野で最も成功を収めた新刊の一つである1930年のハンス・フライヤーによる「現実科学としての社会学(Soziologie als Wirklichkeitswissenschaft)」との必要な接触へと我々を導く。この必要性は、社会学を単に現実の科学として構築しようとする彼の断固たる提案、すなわち我々がフライヤーと完全に同意している提案が、現実科学としての社会学のいかなる「ロゴス科学的」構造をも否定しようとする点で、我々の見解と明らかに矛盾するという事実から生じる。これによれば、社会学の対象としての社会団体を、一方ではその歴史的現実において、他方では理念的で同一的な精神的実体として理解することは、原理的に不可能であるはずである。それゆえ、この時点でフライヤーと対決することは、彼の見解と比較した先に述べた我々の見解をより明確かつ明白に強調するために不可欠である。

00123 フラレイヤーによれば、人文科学は一般に「ロゴス科学(Logoswissenschaft)」と「現実科学」の二つの基本類型に分けられ、前者は精神的対象の客観的意味の科学であり、後者は人間の生活そのものからなる時間的・歴史的に決定された実体の科学であり、まったく異なる哲学的基礎の上に構築されるべきである。それによれば、これまでのドイツ社会学の基本的な誤りは、社会的現実の科学であろうと決意していたにもかかわらず、「ロゴス科学」の手法で取り組んだことにあるとされる。しかし、社会学は「現実科学」としてのみ可能である。フライヤーによれば、社会学を現実科学として構築しようとするこの試みは、「文化体系」の科学としてのロゴス科学の典型的な構造を初めて明らかにしたディルタイの人文科学的手法からの脱却も意味するという。「ドイツ社会学の起源」である「道徳的実体」についてのヘーゲルの思索的な議論もまた、歴史的現実のロゴス科学的(logoswissenschaftlichen)探求のモデルを示しているため、現実科学の方向における根本的な転換を必要としている。つまり、「社会学はロゴス科学ではない。体系的な文化研究の論理的な前身に自らを方向づけるなら、それは道を誤る。そうなると、その目的を見失うか、少なくとも大きく偽ることになる。それは社会的事実を非自然化し、現実の性格を奪ってしまう。社会学が社会生活を現実として把握しようとするならば、文化体系の科学とは根本的に異なる道を歩まなければならない0141
00124 このような「ロゴス科学的」社会学に対するフライヤーの断固たる批判とは対照的に、フライヤーとともにロゴス科学について語りたいのであれば、何よりも、単に論理的な概念の形成と生産に満足する科学と、歴史的に存在する具体的で理念的な意味形成体(Sinngebilde)をその対象とする科学とを厳密に区別しなければならないことを強調したい。言い換えれば、科学によって構成され、その結果、その主要な特徴においていかなる「社会的」現実も示すことができない単に理念的な意味の構造と、実際の理念性にもかかわらず、ある状況下では歴史的・社会的現実を示す客観的な精神構造や文化体系とは、十分に明確に区別されなければならない。フライヤーの批判は、社会的現存在を「対象(Gegenstand)」として、単に理念的で概念的に構築された意味形成体を検討しようとする社会学的方向に関する限り、正しい。他方で、フライヤーは、歴史的現実のあり方を決定する具体的で理念的精神的実体を正確に調査する可能性と必要性を認識していない。現実科学として社会科学を構築する試みは、いかなる理念的精神的実体もこの科学の主題領域からきっぱりと排除するという要求を伴うものであってはならない。
00125 一方では、具体的で理念的精神的実体や客観的な文化体系を、事実的生活過程を超越した、時間を超越した、現実とは異質な「ロゴス領域」においてのみ常に捉えようとすることは容認できない。なぜなら、客観的な文化体系は、「真に完全なものの様式」においてのみ我々にその姿を現すのではなく、その理念性にもかかわらず、いや、まさにその理念性において、変動する生活過程において何度も何度もその実現を見いだす限りにおいて、現に実在しうるからである。従って、ある法体系は客観的な意味が理念的なあるべき因果関係の総体としてのみ理解することができるが、その現在の有効性が事実上の法的行為において繰り返し確認される限りにおいて、同時に「実定」法として歴史的にも現在も実在するのである。有効な法体系としてのローマ法は、かつて歴史的に実在していた。他方、ドイツ民法は、現在の現実においてそこに存在している。芸術作品や科学理論の体系的な知識であっても、厳密に言えば、歴史的に決定されたものであり、しかし、この歴史的決定において、独立した実在性を示している。例えば、音楽作品としての交響曲は、決してその楽譜と同じではない。むしろ、芸術作品として、さまざまな演奏の中でそれ自身を発展させ、完成させ、同一の精神的実体でありながら、それ自身が歴史的で実在するものであることを示すのである。この意味で、それは単に「ロゴス領域」だけに属する理念的な存在ではない。科学理論に関する限り、フライヤー自身、それが歴史的に決定された存在でありうることを認めている。社会学は「科学」であり、その「論理的」基礎づけは、彼自身が遂行しようとするものであるが、「それ自体、完全な意味において、すなわち真に弁証法的な意味において、歴史的現象である」と彼は公然と主張している0151
00126 他方、フライヤーが社会学の主題--歴史的現実--を、「論理的」あるいは「理念的」な意味、すなわち卓越した意味を参照することなく、「生活」として「出来事」として理解しようとするとき、フライヤーもまた誤っている。もし彼が、社会学の対象を単に絶え間なく変動する社会生活過程の観点から記述し、その結果、「現実科学」の概念を「事実的」現象の科学という観点からのみ定式化するのであれば、たとえ彼がスメントのように社会学の最も重要な対象--社会団体--の本質を見誤るという過ちを犯すことになったとしても、少なくとも彼の議論において一貫性を保つことができただろう。しかし、フライヤーの構想の内在的な矛盾は、社会学の全領域から論理的あるいは理念的精神的実体を完全に排除しようとするあらゆる努力にもかかわらず、彼は常に、「社会(Gesellschaft)」「共同体(Gemeinschaft)」「身分(Stände)」「国家(Staat)」のような、絶え間ない変容のなかで同一のままである社会的実体を、社会学的認識の主要な対象として保持しようと努めているという事実にこそ現れている。フライヤーによれば、社会的現実とはまず「確定した出来事」「歴史的運動の実質的実体」を意味するが、次いでそれはまた、彼にとって「生活実体」つまり「ある程度の永続性と形式的性格をもつ秩序」である0161。しかし、フライヤーは、「ロゴス科学」と「現実科学」という厳しい二元論によって、この本質的な「社会現実の二重の性格」をどのようにして解明することができるのだろうか?「真の弁証法」という魔法の杖は、人文科学の主体構造におけるこの最も困難な問題に直面すると、おそらく完全に機能しなくなるだろう。
00127 他方、我々は、フライヤーの意味での「ロゴス科学」は、同時に「現実科学」でもありうるという根本的な洞察から出発し、社会学の中心的分野としての社会団体論は、「社会現実のロゴス科学」--現実的で歴史的な社会的現存在の存在論として--としてのみ、正当化されうると考える。もちろん、「現実(Wirklichkeit)」という概念は、「事実性(Faktizität)」とはまったく異なる意味で理解されなければならない。「現実」の概念は、単に理念的な「存在(Existenz)」の概念とはすでに区別されているが、ここでもまた、単純な「事実性」の概念と対置される。これは、理念的精神的実体が、その理念性にもかかわらず、歴史性の本質的な決定において示す「現実」であり、ディルタイが歴史的社会的「現実」と呼び、人文科学の対象領域であると見出した現実そのものである。フライヤーは、その構造を「ロゴス科学」のそれと正しく認識している、理念と現実が決して両立しないものではないのと同様に、「ロゴス科学」も、先ほど確立された現実という言葉の意味において、「現実科学」に敵対するものではない。

00128 この結論だけでも、最も多様で複雑な問題をもたらす。我々には長く困難な道のりが待ち受けている。それだけに、深遠な哲学的基盤が必要なのである。エトムント・フッサールの超越論的現象学ほど、優れた方法で道筋を与えてくれる西洋哲学の体系は他にない。というのも、具体的な精神的実体の、理念的でありながら実在する構造を正確に照らし出すことができるようになるためには、たとえフッサールの成果を根本的に拡大解釈して適用しなければならないとしても、理念的対象の実在性の問題は、この超越論的現象学による以外には根本的な解明を見出すことができないからである。従って、我々は、現実的存在の究極的な意味、理念的対象一般の現実的存在の究極的な意味を、フッサールの現象学的な基本的態度に立脚して論じることができるようにする(第二章)ために、社会団体の理念的現存在領域を批判的に決定することから始めなければならない(第一章)。この哲学的議論を通じて、社会団体の実在性の問題--間違いなく中心的な問題である--を正確に解明することができれば、基礎の課題はすでにその主要な特徴において解決されたことになる(第三章)。しかし、このようにして哲学的に決定された対象の具体的な存在様式については、なお詳細に検討しなければならない。なぜなら、具体的な問題を扱うことは、科学の基礎にとってきわめて重要だからである。このさらなる課題は、必然的に2つの方向に分けられる。すなわち、テンニエスとヘーゲルの理論に関連して、社会団体の内的構造を分析的に論じることである(第四章):また、社会的現実の一般的世界における社会団体の外部との繋がりの、ディルタイの精神科学的調査に基づいて行われる、総合的探求である(第五章)。最後に、方法論的な総括によって、社会科学の全分野における社会団体論の位置づけを示す(第六章)。このようにして、我々の「社会団体論の基礎づけ」の概要の主な特徴が決定される。


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第一章 社会団体の理念的存在


第二節 社会団体の現存在領域(Daseinssphäre)

10201 導入的な議論から二つの基本的な命題が浮かび上がってくる。1:人間相互間に(zwischenmenschlich)形成される統一体としての社会団体は、理念的精神的実体としてのみ、理論的認識の独立した対象となる。2:理念的精神的実体としての社会団体は、その理念性にもかかわらず、実際に存在することができ、この現実の存在においては歴史的・社会的現実に属することができる。このように、社会団体の理念的存在と現実性は、社会団体論の基礎づけの二つの中心的な問題を形成する。この章では、その理念的存在(idealen Seins)の問題を扱う。

10202 それ自体が同一で統一された対象である以上、社会団体は単なる現実性や事実性の領域にはまったく属さない。社会団体の実在性を立証しようとする伝統的概念は、原理的に、それを絶対的に実在的あるいは事実的な対象として扱おうとしたために失敗したのである。確かに、「国家(Staat)」のような社会団体に「特徴(Eigenschaften)」を付与することもできるが、それは事実的存在の領域で明らかに把握可能なものである。国家はいくつかの「現実的」要素から構成されていると言われる。例えば、国家が存在する領域、国家生活(Staatsleben)に参加する多数の個々人、人間の限りなく複雑な社会的行為、特に通常「国家活動(Staatstätigkeiten)」と呼ばれる、いわゆる国家機関の活動である。これらすべては、経験的現実において観察され、国家の「現実的」あるいは「事実的」構成要素として記述されうる。しかし、超個人的(überindividuellen)で歴史的な時間の持続において、その事実的構成要素が絶えず変化しているにもかかわらず、つねに同じ国家として存在しつづける国家、つねにさまざまな現実の国家活動においてそれ自身を実現し、しかし決してそれらに完全に還元されることのない国家、国家のすべての国民(Staatsangehörigen)が一時的に眠っていたり、事実的な国家の活動(Akte)や行為(Handlungen)の外に立っていたりしても、同じ実体でありつづける国家;要するに、それ自体が同一で統一されたものとしての国家は、単純な事実性において存在するものとして確立されることは断じてない。

10202 この基本的な困難は、理念的存在の領域に根本的に身を置き、社会団体をその実際のあり方、すなわち理念的な精神的実体の様式において考察するときに初めて、完全に解消される。というのも、理念的精神的実体には、そのさまざまな「存在的(ontischen)」な性質が絶えず変化するとしても、その内奥には、それ自体において同一であり続けるという独自の決意があるからである。理念的な精神的実体のこの本質的な同一性は、高次の理念性の精神的領域においてだけでなく、事実的あるいは実際の精神的対象との関係においても、すでにはっきりと認識することができる。例えば道具は、たとえそれが日常的に使われることで部分的に破損し、新たな物質で補われたとしても、現存在の核心において意味のある理念的なものであるという理由だけで、同一であり続ける。音楽は、さまざまな演奏を聴いても、常に「同じ」作品である。絵画は、その複製がさまざまな形や大きさで見られるとしても、それ自体が同一の作品であることに変わりはない。同様に、帰属する個々人が絶えず変化しているにもかかわらず、またその行為が無限に多様であるにもかかわらず、社会団体は、それが理念的精神的実体であるという理由だけで、何世代にもわたって同一の対象であり続けるのだ。このように、同一で統一された団体は、とりわけ「理念的現存在領域idealen Daseinssphäre」に属する。社会団体の超個人的同一性と統一性は、それによってのみ、社会的全体として、独立した対象として、個々人の単なる総和や実際に行われている個々人の社会的行為の複合体から明確に区別することができる。従って、社会団体の存在様式は、その本質において、理念的存在の様式に他ならない。
10204 この視点を科学的に正当化するためには、これまで社会団体の同一性の問題を扱ってきた理論を批判的に見なければならない。一方では社会学の分野で、他方では法学の分野で行われた社会団体論の発展には、人間の団体の同一の持続性を説明しようとするさまざまな試みが見られるが、それらは一貫した理論であるにせよ、部分的な考察の結果であるにせよ、基本的にはいくつかの主要な類型に遡ることができる。この種の最初の試みのひとつが有機体論であり、素朴な自然科学の立場で生物学的な有機体との直接的な類推によって、社会団体の同一かつ均一な存在の基礎を確立しようとするものであった。この理論は今日では時代遅れである。「法人(juristischen Person)」の実在性の問題も、教義的な(dogmatische)法学の領域では、もはや真剣に取り上げられるべきものではない。というのも、実定法(positive Recht)が個人と並んで法人という概念を確立し、法人に独立した法的能力(権利能力;Rechtsfähigkeit)を付与している限り、実定法の実践的な理念と概念化だけに基づく教義的な法学は、法人が現実に存在するか否かを問う必要すらないからである。従って、我々の批判的分析は、社会的世界に対する多かれ少なかれ「人文科学的」「理論的」研究の枠組み内でのみ実行される。

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第三節 社会集団(sozialen Gruppe)の自己保存 ー ジンメル

10301 まず第一に、そのような社会団体のそのものの同一性のある存在を論じるのではなく、社会団体について、社会科学者に対してではなく、社会生活の中で実践的に行為している人間(Menschen)に対して、何世代にもわたって同一のままであるものとして見えている事実上の理由を指摘することで満足しようとする、そういっ種類の理論的説明が考えられる。この理論は、社会団体それ自体が同一性のある独立した対象として厳密に理論的、科学的に認識できる対象であるかどうかという問題には関心がない。むしろ、この理論が示しているのは、社会的に行為する人間が、社会団体の超個人的存在を想像したり納得したりするのを助ける、心理的あるいは社会的事実にすぎない。従ってそれは、社会団体の同一性のある存在としての擬似的説明にすぎない。
10302 この擬似的説明の典型的な形は、ジンメル(Georg Simmel)の「『社会』集団の自己保存(Selbsterhaltung der sozialen Gruppe)」理論に見出すことができる。他の点で、我々は社会学を独立した社会科学として確立しようとするジンメルの深遠な試みに基本的なものを負っているが0201、ここで我々は、「彼の説明は問題を解決することなく、その周辺を回っているだけである」と言わなければならない。従ってこの節では、社会団体の同一性のある存在の問題に関連する限りにおいて、ジンメルの理論を扱いたい。

10303 ジンメルによれば、「社会(Gesellschaft)の統一性("Einheit)」の形成は一般に二つの異なる段階で行われる。第一の、より低い段階では、「社会」は「精神的相互作用(seelischen Wechselwirkung)」の過程ですでにその統一性を示し、それを通してのみ「社会(Gesellschaft)」として認識される。ジンメルは、社会は「複数の個々人が相互作用するところ」に存在すると考えている。人間相互間(zwischenmenschlicher)作用の中に存在するこの社会は、この理由だけで統一された存在とみなすことができる。というのは、経験的な意味での統一とは、要素(Elementen)の相互作用に他ならないからだ0211
10304  この最も広い「統一性(Einheit)」の概念から出発して、ジンメルは今一度、「社会集団(sozialen Gruppe)」という、より高いレベルで、社会の統一された存在を認識する。相互作用がすでにその一般的な形態において統一性を示しているとすれば、この統一性は明らかにまだ永続性を欠いている。なぜなら、人間相互間作用はその性質上、不連続で変化しやすいからである。これとは対照的に、社会集団、すなわち家族、学校、ギルド(Zunft)、教会、国家など、は、実際上の社会過程におけるいかなる変化や中断にもかかわらず、それ自体を保持する。そして、まさにこの「集団の自己保存」を継続することにこそ、ジンメルは、社会的実体が、個々人自身の人間相互間作用の中で与えられる統一性と比べて、より高い統一性を持っていることを見出しているのである。ジンメルは言う:「それらの集合的実体はすべて、歴史的な個々の現実として、その時間的な生活過程がすべての意味を担うだけでなく、一般的な概念、一般的な法則、一般的な形式のように時代を超越したものであり、その意味と妥当性は、個々に特異で、現れたり消えたりする具体例や成果と同一ではない」と0212。歴史的現実を見るとき、我々は常に、歴史的国家や歴史的教会のような歴史的実体は、生活の現実的過程における変化しやすい不安定な現象にすぎないのではなく、あらゆる生活の揺らぎから切り離された超俗性により、大きな永遠性に何らかの形で関与しているという印象を抱く。「このような感覚を持つのは、そのような集合体が、個々の構成員に比して相対的な永遠性を持っていて、構成員の個々の特殊性やその出入りに無関心でいられるからかもしれない」0221と、ジンメルは考える。集合的実体のこの「永遠性」は明らかに相対的なものであり、理念的法則の絶対的永遠性ではない。しかし、この相対的な永遠性によって、これらの実体は、個人とは原理的に異なり、「持続しつづけ、つねに存続するものとして、個々人の変動的で一時的な存在と向いあう」のである0222。これらの発言から、ジンメルはすでに、一様で本質的に同一の社会団体の本質的な現存在形式を明確かつ正確に認識していることがわかる。
10305 しかるに、社会団体のこの超個人的な同一性と統一性についてジンメルが与える説明は、素朴な経験的心理学に基づいており、それゆえ完全に的外れである。ジンメルが、「集団の自己保存」を語ることができるのは、ある社会集団が、その構成員の離脱や変化にかかわらず、それ自体を同一に維持するような事実がある場合であるといっているのを我々は知っている。「我々は、何十年、何世紀も前に存在したものと現在存在しているのは同じ国家、同じ団体、同じ軍隊だと言うが、これらの組織体の構成員は誰一人として当時と同じ人ではない0223」この事態は、ジンメルの社会学的調査を特有の困難へと導く。ジンメルの社会学の基本的範疇(Grundkategorie)である相互作用は、彼にとってすでに「多様な要素の統一」を意味しているのだから、もし構成員の相互作用を、その存在の一般的な時間的持続期間において確立する可能性さえあれば、集団の統一性を「社会学的に」説明することは容易であろう。しかし、相互作用は、従って相互作用による統一性もまた、同じ時間的持続期間内に存在する要素間にのみ存在しうるのである。なぜなら、時間によって互いに分離された存在の場合、相互作用そのものがここでは欠落しているため、もはや相互作用を通じて統一性を説明することはできない。「以前のものは確かに後のものに影響を与えることができるが、後のものが以前のものに影響を与えることはできない」のだ0224。それゆえ、ジンメルにとって、彼の社会学の主な原理、すなわち相互作用の原理を通して、集団の自己保存の理由を説明することは最初から不可能であり、「まさにこの理由のために、個々人の変化に直面した社会的統一の持続は、別個の問題を構成し、それは同時に、ある与えられた瞬間にその統一が形成されるという説明では解決されない」のである0225
10306 それでジンメルは、人間の集団生活に不可欠な三つの状況に注目することで、この困難を解消しようとしている。ジンメルは言う。「集団の団結の連続性を伝える最初で最も身近な契機(Moment)は、地域性、つまりその集団が生活する土地の持続性(Beharren)である。国家は、そして都市はなおさらであるが、その他無数の団体もまた、その内容におけるすべての変化の恒久的な基盤を形成する領土において、まず第一にその統一性を持っている0231」「例えば、ある国家の全人口が征服集団に追い出されたり、奴隷にされたりしても、領土の持続性にもかかわらず、国家集団が変化したことに変わりはない」ということだ0232。第二の要素は、この地域性の持続と相互作用し、その有効性において、集団の保存にとってこれとは比較にならないほど重要なものであり、ジンメルによれば、世代の生理学的な連関、すなわち「親族関係全般の連結(die ganze Verkettung der Verwandtschaftsbeziehungen überhaupt)」である0233。この血縁関係、より正確には血縁関係に対する内的意識が、社会集団の統一に重要な役割を果たしていることは間違いない。しかし、この生理学的事実やその意識が、集団そのものの同一性を意味するものではないことも、同様に明らかである。従って、土地の持続性(Beharren)も、世代間の生理学的なつながりも、社会集団(sozialen Gruppe)の自己保存の究極的な理由にはなりえない。
10307 奇妙なことに、ジンメルは、集団の自己保存の第三の要因として、世代交代の漸進性を挙げる。ジンメルは言う。「親から子、子から孫へという連続する世代の継承は、大きな集団の統一された自己を維持するために、比較にならないほど重要であるが、ある世代が次の世代に取って代わられること、ある世代が別の世代に取って代わられることは、全てが一度には起こず、重なり合っていくことから、可能になる」と0234。ある瞬間の変化が、集団の全生活のごく一部にしか影響を及ぼさないという事実だけが、この世代交代を通じて集団が自己を保存することを可能にしている。「それは次のように図式的に表すことができる。もし集団の個人やその他の生活条件の全体が、ある瞬間には a b c d e として記述できるが、後の瞬間には m n o p q として記述できるとしても、人は依然としてその統一されたものの保存について語るだろう。とはいえ、a b c d e -- m b c d e -- m n c d e -- m n o d e -- m n o p e - m n o p qという展開になるのであれば、単一的な自己が保たれていることになる。それは、各段階は前後の段階から一つの要素だけが変わっていて、各瞬間は前後の瞬間と多くの同じものを共有しているからだ」と0241。地域の永続性、生理学的な血縁関係、世代交代の漸進性は、ジンメルが社会集団の自己同一性と統一性の問題を説明するために用いる手段である。
10308 しかし、以上は、社会集団の存在の同一性の単なる副次作用を説明しているだけなので、明らかにその目的を完全に逸脱している。ジンメルが解明するはずだったのは、社会団体自身の客観的かつ科学的に確認可能な存在の同一性なのである。実際のところは、ジンメルの努力は、科学的研究者に対してではなく、社会的に行為する人間が、社会的集団が超個人的存在を示すという印象を自身で得ることを可能にするように現実の状況を説明することに最初から向けられているのである。しかし科学者であれば、地域性の持続、生理学的な血縁関係、構成員間の変化の漸進性は、それ自体が社会集団そのものの真の自己同一性を意味することは決してあり得ず、決して意味しないことを、難なく知っている。それでも、社会生活の中で実際的に行動し、それに参加している人間が、こうしたさまざまな状況の存在を通して、自分自身が構成員である社会集団は、その自己同一性を失うことなく、個々人の個性や世代の境界を超越して存在しているという深い確信を獲得することは、まぎれもない心理学的事実である。しかしこれでは、社会団体の客観的存在の科学的正当性については一言も語っていないということだ。例えば、実際的に行為する人間は、自分の「祖国(Vaterlandes)」の存在について根の深い確信を持つことができる。この意識は、その人間の「祖国」が、その祖先がすでに生き、死んでいった領土に存在することに密接に関連している可能性があり、それは、領土共同体であると同時に国民共同体の密接なつながりを意味し、その構成員は徐々にしか変化しないという事実とも密接に関係している。しかし、そのような祖国概念の存在は、祖国そのものが科学的に確認可能な形で本当に存在するという事実の客観的基準を我々に提供してはくれない。ジンメルの説明は、社会団体の自己同一で統一的な存在という「主観的」意識の出現という心理学的過程に関わる限りにおいては、十分に価値あるものであろうが、社会団体の客観的存在の科学的実証にとっては、まったく意味を持たない。
10309 ジンメルの理論が社会団体の客観的存在を説明できなかった理由は、単純に、その理論が最初から最後まで単に経験的、純粋に心理的現実の領域に限定されていたからである。

10310 経験的および心理学的説明の助けを借りて社会団体の真の存在の問題を解決することは不可能であることは、レオポルト・フォン・ヴィーゼ(Leopold von Wiese)によってさらに明確に示されている。ヴィーゼは、本質的にはジンメルの基本的な社会学的概念を踏襲してはいるが残念なことに生き生きとした知的な内容がまったく欠けている彼の「関係学(Beziehungslehre)」の体系の中で、人間の「観念(Vorstellung)」の中に社会団体の存在領域を確立したいと考えている。
10311 ヴィーゼにとって、社会団体、すなわち彼の用語法によれば「関係構造(Beziehungsgebilde)」は、「厳密に言えば、決して人間から構成されるのではなく、関係に遡ることのできる観念から構成される0251」国家、教会、家族、協会(Verein)などの「関係構造」は、「人間の観念の中にのみ存在し、従って、対応する観念を人間が大切にしている限り存在する。その活力は、これらの観念の深さ、持続性、広がり、再現性に依存するる。これらの観念の中には、しばしば不正確で漠然としたものもあるが、非常に広範で、持続可能で、反復可能であるため、永遠で超自然的に見える抽象的な力となる。しかし、これらの純粋な精神的実体は、それを考えたり感じたり望んだりする人間の特性に完全に従ったものである。人間の精神が無限に向かって努力することを好むからこそ、精神的実体もまた無限に見えるのである0252」「我々が、これらの社会的実体を我々の外部に存在し、我々を支配していると考えたり感じたりすることができ、またしばしばそうする傾向があるのと同様に、社会的過程(たとえ我々がそれを客観的な自然の力として理解するとしても)がそれ自体、感覚的知覚可能な(sinnlich wahrnehmbar )ものではないのと同様に、実はそれらは我々の心(Seele)の中にしか存在しないのである0253
10312 ヴィーゼは「一般社会学(Allgemeinen Soziologie)体系」の第二部全体を「団体学(社会形象論;Gebildelehre)」の提示に割いているが、社会団体に関する彼の議論は、この認識対象の特異性を正当に評価していないと言わざるを得ない。人間が観念の中で見出した実体(Gebilde)は、確かに「心理学(Psychologie)」の対象となりうるが、それはこの実体の「観念(Vorstellung)」に対してだけであって、実体そのものとしては決してありえない。我々が「ケンタウロス」や「天使」を思い描くことを妨げることは誰にもできない。しかし、この考えを実証することによって、ケンタウロスや天使の真の存在についての問いに肯定的に答えることができるということにはならない。もちろん、このことはヴィーゼ自身にとっても明らかである。彼は、このような客体性(Gegenständlichkeit)は単に「観念」としてしか存在しないが、それにもかかわらず、その観念が社会過程に効果的な影響を及ぼす限りにおいて、社会学の対象として研究することができると考えているにすぎない。ヴィーゼは言う。「実体(Gebilde)の存在を人間の「内部(Innere)」に移し、可視の世界から追い出さなければならないという事実は、対象が幽霊のような無力なものであるということを意味しない。人間を支配する最大の力は、常にその人間自身の観念である。心に宿るものが我々を支配しているのだ」と0261。しかし、「我々の心に宿り」我々を支配する何かが、実際の社会過程において生命を左右する効力を持つというまさにその理由から、社会学の主題を形成しうるとすれば、「天国」と「地獄」の実在を真剣に信じさえすれば、「天国と地獄」の理論のようなものを、国家論のように、そして実際に社会学の一部として構築することができるだろう。ヴィーゼならおそらくこう答えるだろう:社会学が実際に扱っている社会実体は例外なく「関係構造」、つまり社会過程まで遡ることができる実体だけだ。ヴィーゼによれば、「社会実体論(sozialen Gebildelehre)の主な課題」はまさに、「社会実体は相対的に形成された物象として提示されるが、実際にはそれらは物象ではなく、社会過程の「凝集」であり、すなわち実体のないものであるという、一見矛盾した事実を説明することである」と0262。従って、ヴィーゼの形象理論(Gebildelehre)は、結局のところ、社会形成を絶えず進行している社会関係に完全に還元すること以外の何ものでもなく、それは最終的には、社会実体の客観的存在の否定、実際には理論の対象自体の否定を意味するだけである。
10313 ジンメルもヴィーゼも、この問題を不幸な方向に転換させていることは間違いない。厳密な科学性をもって社会団体を研究したいのであれば、まずその特異な性格に注目し、純粋に社会団体の真の存在を立証しなければならない。他方で、社会生活の中で実際的に行動している人々が、何らかの形で団体の存在を信じ、それについての考えを持っているという単なる事実を立証することで満足しようとし、その上で、団体の「意味性」や「信憑性」の自然な出現と効果を経験的・心理学的に説明しようとするだけなら、人は決して、無益な影探しを超えて実りある結果に到達することはできない。社会団体を身体的・心理的事実に還元するということは、厳密に言えば、対象そのものの溶解と排除に他ならない。他方、社会団体を客観的かつ理念的精神的実体構造として考える者には、存在領域もまた自らを現し、そこでは、社会団体は、それ自体において自己同一かつ統一された対象として、独立した存在を示す。自己同一性と統一性は、単純な現実の中には決して見つけることができない性質で、最初から理念的な要因として理解されなければならない。単純で現実的な客体性(Gegenständlichkeit)は、身体的性質であろうと心理的性質であろうと、流動的で変化しやすいものだが、この表象性の理念的な意味は、現実の領域の外側で自己同一で統一された精神的実体として永続的に存在する。ここで扱うべき多くの複雑な問題はまだ残っているが、これらの批判的な議論に基づいて、すでに一般的に言えることは、超個人的な、自己同一で統一的な社会団体の存在領域は、理念的精神的実体の領域そのものに他ならないということである。

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第四節 理念類型(Idealtypus)としての社会団体 マックス・ヴェーバー

10401 これまでの経験的社会学が、単純な事実性の領域で社会団体を研究しようとする限り、必然的に認識対象の溶解につながるという事実は、マックス・ヴェーバー(Max Weber)の「理解社会学(verstehenden Soziologie)」にも明確に示されている。このことは、決定的な意味を持っている。なぜなら、解釈し理解する人文科学としてのドイツ社会学の方法論的基礎を最初に確立したのは、まさにマックス・ヴェーバーだったからである。
10402 マックス・ヴェーバーによれば、社会学は経験的な文化科学(Kulturwissenschaft)であるべきであり、その関心は人々の事実的な、あるいは実際の行為以外に向けられることはないのだから、社会団体は経験的な現実として扱われなければならないという。科学が「理解」する対象は、人間の事実行為であり、それは、行為者が主観的に意図した意味と結びついており、その経過がそれに方向づけられている場合のみである。さらに、それが主観的に意図された意味での他者の振る舞い(Verhalten )と関連している限りにおいてのみ、「社会学」を理解する対象を形成し、従って「社会的行為(soziales Handeln)」と呼ぶことができる0281。このようにして、人間の実際の社会的行為のみが理解社会学の対象と呼ばれるのであれば、この科学の対象としての社会団体もまた、必然的に、ある種の社会的行為の典型として自らを示さなければならない。このように、理解社会学の体系のでは、社会団体は個々の人間の行為の複合体に還元され極端に縮小されるが、これも明らかに、自己同一で統一された現存在の解体(Auflösung)を意味する。
10403 とはいえ、マックス・ヴェーバーは、社会学の方法論的な議論のすべてにおいて、この見解を一貫して維持しようとした。ウェーバーは言う。「社会学にとって、『国家』、『協同組合(Genossenschaft)』、『封建制』などの用語は、一般的に言って、ある種の人間相互作用の分類を示すものであり、従って、それらを関係する個々の人々の『理解可能な(verständliches)』行為(Handeln)に還元することが社会学の使命(Aufgabe)である」と0282。あるいは言う。「社会学的観点からすれば、『国家』という言葉の背後には、それを使うとしても、人間の一連の特別な種類の行為があるだけである」と0283。ウェーバーは、この一般的な見方から始めて、この問題を、特に国家に関して、次のように詳しく説明する。「経験的現実の中で、何が『国家』という概念に相当するのかと問えば、我々は、無限に拡散し離散する人間の行為と容認の関係、事実的で法的に秩序づけられた関係、一部は特殊で一部は定期的に繰り返される性格をもつ関係を見いだす。それは、実際に有効な、あるいは有効であると思われる規範と、人間の間の支配被支配関係に対する信頼という観念によって結びつけられている0284」「国家」「協同組合」「株式会社(Aktiengesellschaft)」「基金(Stiftung)」などの社会的実体は、異なった認知目的において、特に法的な目的において、例えば権利と義務の担い手として、あるいは法的関連行為の実行者として、一個人のように扱うことができる。「他方、社会学による行為の理解解釈にとっては、これらの実体は、我々が理解できる意味のある行為の唯一の担い手である個々の人間による具体的な行為の過程や内容にすぎない0291」このように、理解社会学では、社会団体を無限に複雑で相互に関連し合い、常に流動的な状態にある社会的行為へと分解する。従って、これらの行為の自己同一性や統一性については、もはや正しい意味で問うことはできない。しかし、もし社会学が社会団体を、個々の人間のそのような行為の複合体として理解するならば、厳密に言えば、それは団体が固有の独立した対象として真に存在することを否定することに他ならない。

10404 しかし、理解社会学は、社会団体を人間の行為に還元するが、他の社会現象と明確に区別できる固有な社会的事実を探求するためには、例えばそのような団体を「国家」や「協同組合」などと表現する通常の用語の付与から逃れることはできない。しかし、ある社会的行為の複合体に対して、その固有性を与えるものは何なのだろうか?その固有性によってのみ、我々は当該事実を例えば「国家」として認識し、他の社会的行為の複合体と明確に区別することができるのだろうか?この問いに答えるのは、理解社会学の観点からは容易である。ある社会的行為の複合体は、要するに、主たる行為者によって主観的に意図され、彼らの行為の経過を決定するその意味が、それ自体、すでに国家の特徴と呼ぶことができるある具体的な固有性を含んでいるという事実によって、国家と呼んで、国家として認識できる。このように、最も一般的な場合では、ある社会的行為の複合体が、実際に施行されている、あるいは施行されることが意図されている国法の一定の規範の主観的な意味によって、あるいは、国家内の人間が人間を支配するというある種の関係の主観的な意味によって存在することが決定される場合、「国家」と呼ばれる。ある社会的行為の現実的あるいは可能的な経過が「国家」として認識されうる理由は、結局のところ、問題となっている主観的意味(subjektiven Sinnes)の具体的な固有性にあるに違いない。従って、理解社会学の体系においては、国家は意味(Sinn)を通して、すなわち主たる行為者によって主観的に意味されるところの意味を通してのみ、「国家」として認識されうるのである。
10405 ここで非常に難しい認識論的問題が生じる。これまで見てきたように、「国家」についての社会学的認識の最終的な基準は、それが国家の法秩序の体系の意味(Sinn)であれ、特定の種類の支配・被支配関係の意味であれ、国家の機能の「担い手」として仮想された実質的で超個人的な存在の意味であれ、主観的な感覚の具体的な固有性になければならない。マックス・ヴェーバーによれば、ある社会的行為が主観的な意味と結びついており、その過程においてその主観的な意味を志向しているという事実だけが、当該社会的行為の「理解可能性」を保証し、従ってその社会学的認識可能性を保証することができるという。しかし、あらゆる社会学的認識、ひいては「国家」そのものの認識の根底にあるこの主観的な意味を理解する究極の可能性とは何だろうか。社会的行為者が実際に意図する「主観的な」意味を認識し、明証(Evidenz)をもって理解することを可能にするものは何であろうか。主観的な意味の理解可能性は、社会的行為の理解可能性を保証するはずのものであるが、その前提はそう簡単には成り立たない。
10406 抽象的に構築された「理念的で典型的な」概念を媒介として実際の社会的行為の理解を可能にし、それによってこの認識(Erkenntnis)の正確さと確実性を確保しようとするマックス・ヴェーバーの独創的な試みは、一見、この難題を解消するように見える。マックス・ヴェーバーによれば次のようになる。「例えば、いわゆる国家を構成する、限りなく複雑な、事実として発生する行為について認識することは、非常に困難である。なぜなら、それらは合理的で明確に意識された意味に向けられているだけでなく、非合理的な(irrational)精神的要素によって影響されて、決定されるからである。従って、まず、国家の事実に含まれる社会的作用がもっぱら「合理的(rational)」なものであるかのように、すなわち非合理的な影響に影響されることなのないものであるかのように、抽象化によってその国家の事実を定式化しなければならない」と。この抽象的に構築された事実としての「国家」との比較においてのみ、すなわち、国家の理念型との比較においてのみ、事実的国家のすべてのありうる非合理な構成要素を「擾乱(Störungen)」や「逸脱(Abweichungen)」として理解し、特定することができる0311。歴史上の国家が、同時代人(Zeitgenossen)の理念や感情の総合の中で実際に想定している具体的な内容は、このように「理念的-典型的な概念への志向を通してのみ見えてくる」のである0312。このように、理念的・典型的に構築された国家概念は、国家の名の下に集約され非合理的な意味内容の影響を受ける事実現象を明確に理解し、正確に記述するために不可欠な認識手段を形成する。
10407 しかし、この社会学的認識の問題は、理念型という概念をマックス・ヴェーバーのように理解し使用するのであれば、決して最終的な解決を見出すことはできない。マックス・ヴェーバーによれば、理念的な「国家」とは、抽象的に構築された社会的行為の複合体にほかならず、行為者の主観的方向づけによって合理的、一方的かつ人為的に強化され、常に明確に意識された意味に固執するものである。この理念的・典型的な国家は、しかしながら、たとえそれが客観的に、概念的な純粋さにおいて本当にそこにあり得て、「国家」と呼ばれても、合理的だけでなく「非合理的」な意味内容(Sinngehalt)によって共同決定される事実的状態なので、すぐには理解できないだろう。というのも、合理的な意味であっても、それが事実的な個人の行為者によって「主観的に」意味づけされるので、その結果、研究者の知覚(Wahrnehmung)に直接与えられず、非合理的な意味と同様に、研究者にとって近づきがたいものだからである。合理的な意味も非合理的な意味も、それが主観的な意味のままであれば、直接理解することはできない。一方、ある意味は、それが客観的な意味として我々に突きつけられている限りにおいて、一般的に理解することができる。客観的な意味とは、私にとってだけでなく誰にとっても存在するものであり、精神的共有財産である。誰もが接触することができるこの客観的な理解可能性によってのみ、感覚は事実的で主観的な精神生活の理解を伝えることができるのである。主観的意味の無限に多様な形態は、問題の主観的意味に対応する客観的意味が、誰か一人のためだけでなく、同じように社会生活で実践的に行動する人々の精神的共有財産として与えられ、このようにして問題の理解を伝えるという事実を通じてのみ、科学的研究者によって把握されうる。従って、「国家」という理念型が、事実内容として、事実行為の複合体の意味理解を伝えることができるとすれば、それは、マックス・ヴェーバーが考えているように、この理念型が合理性の方向に一方的に、人為的に増大させた精神的構築物であるからできるのではなく、基本的には、行為者にとっても観察者にとっても同じように接触可能で理解可能な「客観的」意味形成体(Sinngebilde)であるからできるのである。
10408 さて、ここで強調すべき基本的重要性は、主観的に表された意味とは対照的に、客観的意味形成体は、単純な事実性において与えられるものではなく、本質的に理念的実体(ideales Gebilde)であるということである。客観的な意味としての理念的・典型的「国家」は、それを通して事実的な国家の外観を意味ある方法で理解し、検討することができるが、それゆえ、マックス・ヴェーバーがまさしく正しく言うように、「理念的な」意味形成体なのである。まさにこの「理念性」においてこそ、「国家」という理念類型は、事実的な国家構成要件についての社会学的認識を媒介し、可能にすることができるのである。しかし、このことから、この理念類型はもはや、精神的に構築され、しかも事実的に進行し、あるいは実行可能な社会的行為の単なる複合体として理解することはできず、事実性の領域に対して上位に位置し、それ自体において自己同一かつ統一なままである精神的実体(Geistesgebilde)なのである。というのも、客観的精神的実体は、その客観性と理念性において、あらゆる事実の変化にかかわらず自己同一であり続けるという独立した存在様式を示すからである。従って、社会学的認識の類型形成の方法論は、必然的に、客観的精神的実体としての国家の理念的存在を認識することにつながる。
10409 マックス・ヴェーバーが「機会(Chance;可能性、偶然性)」という概念を通じて社会団体の永続性を解明しようと試みたにもかかわらず、最終的には、理念型として構想された国家やその他の社会団体を、客観的に存在する理念的精神的実体として認識する必要性が残っている。マックス・ヴェーバーは言う。「たとえ『国家』『教会』『協同組合』『婚姻』などのような、いわゆる『社会的実体』を扱っているとしても、社会関係は、その意味するところに従って、ある行為が起こった、起こっている、あるいはこれから起こるであろうことを示すことができる機会(Chance)の中に、排他的かつ単独に存在する。このことは、これらの概念の『実体的な(substanzielle)』解釈を避けるために、常に留意されなければならない」と0321。マックス・ヴェーバーにとって、ある団体の自己同一な存在とは、たとえある時点ではそのような行為が存在しなくても、ある状況下である社会的行為がある方法で起こりうるという機会・偶然性(Chance)を意味するにすぎない。事実上の行為は、このようなかたちで行われ、変化し、停止する。そして事実行為の持続性はない。とはいえ、特定の状況の存在下では、特定の行為が常に同じように進行し、変化し、停止する可能性(Chance)は残る。マックス・ヴェーバーは、この可能性・偶然性の持続こそが、いわゆる超個人的な団体の持続的存在の理由であると言う。
10410 しかし、文化科学を志向する理解社会学におけるこの可能性(Chance;蓋然性)の考え方は、「帰納的」科学の意味での経験的法則として理解されてはならないことは明らかであろう。むしろ、マックス・ヴェーバーが強調しているように、「『法則』と呼ぶことに慣れている理解社会学のいくつかの理論」は、「観察によって裏づけられた、ある事実が存在する場合に予想される社会的行為の経過の典型的な可能性であり、それは行為者の典型的な動機と意図から理解可能なもの」なのである0331。従って、可能性(Chance)の認識の根底にあるのは、帰納的に確立された法則性ではなく、逆に、あらゆるいわゆる社会学的法則を条件づけるのは、可能性(Chance)そのものなのである。
10411 ここで、社会的出来事における可能性(Chance;蓋然性)の究極的な根拠はそもそも何なのか、もしそれが帰納的に確認された、あるいは確認可能な正当性の問題でないとすれば、という疑問が生じる。そうすると、可能性(Chance)とは、行為者によって主観的に意図された意味が一定の、すなわち「典型的な」性格を持ち、行為者がこの典型的な性格に従って自らの社会的行為の進路を、あらかじめ予想される一定の方向に決定し、方向づけるという事実によってのみ成り立つことになる。科学的な調査に限らず、社会現象の日常的な観察においても、我々は、ある種の行為が、ある状況下で、ある特定の方法で進行するという予見可能性を得ることができる。ある行為がどのように進行するかのこの予見可能性は、主観的に意図された様式において、この行為を方向づける意味が「典型的な(typischen)」、すなわち客観的に固定された、あるいは固定可能な性格を持っているという事実から生じる。例えば、「国家」という社会的行為の複合体の可能性的性格(Chancencharakter)は、「国家」という客観的意味が、主観的に意図された様式において、「国家」という事実要件を構成するすべての社会的行為の方向性を、ある一定の方向に繰り返し方向づけるという事実からしか理解できない。従って、この可能性(Chance)が継続的に存在することの認識論的根拠は、最終的には当該行為の根底にある意味の本質的な客観性と同一性の中に見出すことができる。
10412 このように、社会団体の理念的典型的概念は、その性質上、客観的な理念的精神的実体であるがゆえにこそ、事実的な社会現象を認識する不可欠の手段としての役割を果たしうることが原理的に明らかにされる。実際に行われている行為において、理念的典型的に構想された社会団体の事実的相関が必然的に可能性(Chance;蓋然性)の性格を持つという客観的状況は、客観的な精神的実体としての社会団体が、関係する行為のあらゆる主観的動機づけの根底にあり、それらに明確に識別可能な方向性を与えるという事実からも生じる。しかし、最新の分析では、社会団体そのものは、社会的世界の研究者によって人為的に構築された単なる認識の手段でもなければ、その可能性(Chance)の性格のために要約して認識できる事実的な社会的行為の複合体でもなく、あらゆる理念的・典型的な概念形成、可能性(Chance)の性格(Chancencharakter)をもって行われるあらゆる社会的行為の根底にある理念的で客観的な精神的実体であり、そのようなものとして科学的認識の独立した対象を形成することができるのである。

10413 こうした批判的な議論の結果は、同時に社会学的あるいは社会科学的な認識の範囲(Kreises)を極めて重要な形で拡大することを必要とする。
10414 すでに示したように、マックス・ヴェーバーにおける理念類型概念の形成は、認識の「手段(Mittel)」を得ることだけを目的としているが、この手段は、社会世界の構造を洞察するために「不可欠(unentbehrlich)」なものであると言わなければならない。マックス・ヴェーバーは、「抽象的な理念型の形成が考慮されるのは、目的としてではなく、手段としてである0341」と言っている。マックス・ヴェーバーの社会科学的研究における理念類型概念の形成の意義のこのような方法論的限界は、二つの理由から生じている。第一に、マックス・ヴェーバーは、最初から理念類型を人為的に構築された、あるいは構築可能な思考構造として考えていたのであるから、理念類型概念の形成に社会科学的認識の目標そのものを見出すことは論理的に不可能である。理念類型(Idealtypus)を、「文化現象の固有性を鋭く意識化する」ためにのみ役立つ、人為的に形成された「解釈図式(Deutungsschema)0342」と理解するならば、もちろん、認識の目標としての本質的な価値をそこに見出すことはできない。第二に、マックス・ヴェーバーにとって、とって文化科学や社会科学は、その性質上、社会的事実の経験科学なので、理念類型(Idealtypus)あるいは「理念的な」精神的実体の認識を、社会科学的調査の目的として受け入れることは不可能である。というのも、経験科学は、その認識の目的が単純な現実性または事実性の領域に厳密に限定されるべきであり、同時に「理念的な」精神的実体や文化的実体についての科学であってはならないからである。従って、マックス・ヴェーバーは、理念類型を社会科学的認識の手段以上のものとして見ることを控えるという点において、完全に一貫した態度を保っている。
10415 しかし、マックス・ヴェーバーがこのように社会学的認識の対象分野(Gegenstandsgebiet)を単に「事実的」な社会的行為の領域(Sphäre)に限定せざるを得なかったのは、科学が認識論的意図を持って構築する抽象的理念的意味形成体(Sinngebilde)と、歴史的発展の過程で客観的に形成され、それゆえ特定の状況下で真の社会的現実を示すことができる具体的で理念的精神的実体(Geistesgebilden)との間の不幸な取り違えのためであった。科学研究において、さまざまな抽象概念を形成しなければならないことは明らかである。それは、真の認識対象を明確に理解し、そうした抽象概念と比較して対象を説明できるようにするために必要である。これらの科学的に構築された概念は、意味の抽象的意味形成体(Sinngebilde)であり、認識の手段として科学研究には不可欠であるが、社会科学の認識対象そのものを形成することは決してありえない。他方、具体的で理念的な精神的実体は、単なる抽象的構築の結果ではなく、歴史的・社会的な連関の中でかつて真に実在し、あるいは現在そこに存在する、それ自体客観的な対象である。従って、例えば、抽象的に定式化された「国家一般」という概念は、科学的あるいは科学以前の「概念形成」の結果であり、社会性の現実世界には見いだせないものである。これとは対照的に、「ローマ国家」は真に社会的かつ歴史的な精神的実体であり、一定の社会的条件のもとで、疑いようなく実在していたのである。前者は「抽象的に構築された」理念類型であり、社会科学における認識の対象であってはならない。後者は社会的連関の中に客観的かつ真に存在する精神的実体であり、現実科学の対象として十分に見ることができる。どうやらマックス・ヴェーバーは、抽象理念的な、精神的に構築された意味形成体(Sinngebilde)、具体理念的な、歴史的に存在する精神的実体との間のこの根本的な違いを見落としていたようだ。抽象的に構築された実体は社会科学の認識の対象にはなりえないという鋭くとらえられた事実から、ウェーバーは、あらゆる理念的精神的実体は常に、認識の手段として科学的技法上構築された理念類型にすぎないという誤った結論に達し、その結果、社会科学は、理念的でと自己同一な社会団体をその対象とすることを一切控えなければならないという結論に達したのである。
10416 しかし、もし我々が、マックス・ヴェーバーが一貫して理念類型と呼んでいる客体性(Gegenständlichkeiten)の中で、単なる認識の手段として構築された抽象的で理念的意味形成体と、客観的に存在する具体的で理念的精神的実体とを鋭くはっきりと区別し、後者の存在様式を正確に視覚化するなら、社会団体を独立した自己同一で統一な定在する(daseiende)客体性(Gegenständlichkeit)として理解し、それをそのようなものとして正確に研究する道が、我々の前に、開かれていることがわかる。客観的で理念的精神的実体の領域を、社会科学の独立した対象領域(Gegenstandssphäre)として認識することは、まったく新しく、きわめて実り多い視野を切り開くことになる。もちろん、「客観的(objektiven)」で「理念的(idealen)」な精神的実体の領域を研究対象としようとするこれらの社会科学は、もはや単なる「経験的(empirische)」科学として構築されることはできない。しかし、なぜ社会科学が単純な事実性の領域に限定されたままでなければならないのだろうか。社会科学の伝統的な取り組み方では経験的なものとして理解されがちな対象も、社会世界がその一部である精神世界の本質的な構造を、まずしっかりとした哲学的基礎から深く考察・検討しさえすれば、多かれ少なかれ「理念的な」意味構造(Sinnesstruktur)を示すのではないだろうか?そして、社会科学は、伝統的な方法論によって恣意的に設定された単純な経験的事実性の限界を突破し、理念的で客観的な客体性(Gegenständlichkeiten)の広大で豊饒な存在領域(Daseinssphäre)の深部に入り込み、そこで最終的に、まさに理念的精神的実体としての社会団体の究極的な存在様式を解明できるようになることに、真の適切な目標を見出すべきではないだろうか?
10417 この急進的な提案の正当性は、社会的現存在に関する人文主義的認識の哲学的基礎についての後に続く議論から初めて明らかになるであろう。

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第五節 規範的当為(normatives Sollen)としての社会団体 ケルゼン

10501 社会団体の究極の存在様式(Seinsart)としてのみ考えられるものとしての理念的存在(ideale Sein)とは、その本質において、単に経験的な事実科学(Tatsachenwissenschaft)の対象領域(Gegenstandssphäre)の外にある。もしある科学が、その実際の存在領域(Daseinssphäre)において社会団体を研究(untersuchen)しようとするならば、それは、単に経験的な事実科学とは全く異なる認識論的基礎の上に構築されなければならない。社会現象が持つ意味の理解可能性の特異性を明示し、理解社会学(verstehenden Soziologie)のための方法論的基礎を自然科学から鋭く切り離そうとしたマックス・ヴェーバーの深遠な試みは、社会学の対象分野(Gegenstandsgebiet)を事実性の分野(Bereich)から切り離すことができなかったため、中途半端なものにならざるを得なかった。精神の世界は、たとえこの世界が、無限に多様で変化し続ける事実性あるいは現実性の領域とその最下限において融合しているとしても、理念的な意味領域(Sinnessphäre)の構造としてのみ明確に理解することができる特異な構造を示している。従って、精神世界を志向する科学全般、とりわけ社会科学を単なる事実学とみなし、その研究の対象から理念的存在(idealen Seins)の領域(Sphäre)を除外することは、もとより許されない。むしろ、真の意味での精神科学や社会科学は、客観的な精神的実体という理念的な領域(ideale Sphäre)をその対象分野(Geistesgebilde)の中心として確立し、精神的な現実現象を常にこの意味領域との関係において考察し解釈することによってのみ、成立しうるのである。社会科学が真の意味での人文科学として登場するためには、単純な事実性から理念的意味の領域へと視線を根本的に転換することが必要である。
10502 このような視点の転換が、偉大な法学者ハンス・ケルゼン(Hans Kelsen)によって最初になされたことは、まったく驚くにはあたらない。他の社会科学がその起源と発展において常に経験的事実に焦点を当ててきたのとは対照的に、法学は最初から、法規範の客観的に妥当な意味連関(Sinnzusammenhang)を対象としてきた。
10503 ケルゼンは、存在(Sein; is;である)と当為(Sollen; ought;べき)の基本的な区別から出発して、純粋理念の分野における法学研究の対象を、比類ない鋭さと一貫性をもって理解し、論じている。ケルゼンが自らの法理論を「純粋法学(Reine Rechtslehre)」と呼ぶとき、この呼称は基本的に、法学的認識を自然科学志向の社会学的考察のあらゆる混合物から純化するという方法論的要件を指し示しており、他方、この「方法の純化(Reinheit der Methode)」は、この認識があらゆる倫理的・政治的要素から独立することも意味している0371。以前は自然界に属すると考えられていた法、また物理的・心理的因果関係によって決定される社会的現実の一要素とみなされていた法は、もはや正しい用語の意味での法ではない。というのも、法固有の合法性とは、「当為(Sollen)」の合法性であり、それは自然の因果的合法性とは全く対照的であり、それゆえ決して自然界に還元されることはないからである。純粋な形では、法とは規範的な当為に他ならず、その特殊性は理念的な意味連関(Sinnzusammenhang)の中でしか把握することができない。それは実際には理念的なものであり、意味のあるものであり、精神的なものである。従って、法を純粋に法そのものとして研究しようとする科学は、自然科学の方法とは根本的に異なる手順を創造しなければならない。それゆえ、法学は、因果関係ではなく、規範的な当為の理念的な意味連関を主要な原理とする、完全に独立した基礎の上にのみ成立することができる。このように法学には、理念的意味領域(Sinnessphäre)に焦点を当てた人文科学的社会科学の型が見られる。社会科学の分野において、純粋な事実科学から理念的意味領域の理論的研究への道が、主として法学を媒介として、またまさに純粋法学の創始者を通して開かれた理由は、まさにこの科学自体の固有の対象構造(Gegenstandsstruktur)にある。
10504 ケルゼンとともに、社会科学にとってまったく新しいこの立場を採用するならば、社会団体は、単にそれに対応する観念や、それに対応する主観的意味によって方向づけられる社会的行為ではなく、それ自体において自己同一で統一された独立した精神的実体をそこに見る限りにおいて、理念的意味領域に焦点を当てた人文科学の対象としてのみ理論的に研究されうることもまた必然的に理解される。ケルゼンが、法学だけでなく、社会団体論としての国家学を、その典型的な形で、自然科学的社会学とは方法論的に対照的な純粋人文科学として確立しようとするのは、まさにこのためである。「純粋法学」の構築は、必然的に「純粋国家学(Reinen Staatslehre)」の創出をもたらした。
10505 ケルゼンによれば、国家は決して自然で因果的に決定された現実ではなく、最初から純粋に理念的精神的実体である。しかし、彼は国家の「現実性(Wirklichkeit)」や「実在性(Realität)」について語る可能性を認めている。しかし、この国家の「現実」あるいは「実在」は、自然の現実とはまったく異なるものを意味する。ケルゼンは言った。「もし『存在』という概念が、自然における存在、因果的・法的決定性という狭い意味で理解されるのではなく、概念的に定立されて有るもの(Gesetztsein)一般、あるいは認識の対象それ自体であるという最も広い意味で理解されるのであれば、国家もまた、認識の対象としての法と同様に、もちろんひとつの存在である。そのとき、当為の存在について語ることができる。ただ、それは自然存在とはまったく異なる種類の存在である。その際、国家や法の『実在(Realität)』を主張することもできるが、自然の具体的な実在と混同してはならない0381。ケルゼンにとって、この国家の具体的な存在とは、理念的な精神的実体の存在であり、その現実は精神的現実である。従って、「自然界--物理的・心理的関係の領域--ではなく、精神の領域に国家はある0391」ケルゼンが国家の実在論的観念と激しく闘い、国家の「実在性」を繰り返し否定するとき、この否定は「国家は自然の実体ではなく精神の実体であり、それゆえ、国家は、伝統的な学説が想定したような魂と肉体をもった存在ではなく、まったく別の種類の存在である。それゆえ、国家は、言葉の一般的な用法では、自然的実在ではなく、自然の現実の一部分でもないのである。そのような実在あるいは現実と呼ばれるものは「理念的存在」と対立するものである」という表明であった0392。この素朴な観念における国家の実在性の否定から、精神的存在の理念的存在としての国家の存在を検討する試みを正当化する、肯定的な結論を導き出すことができる。従って、国家学は、自然科学的な方法や単なる経験的な方法に基礎を置いてはならず、純粋人文学の認識論的基礎と、それらに固有の法則性と概念化に基づいて、その構造を構築しなければならないという要求が生じる。社会団体論(国家学はその一部である)を、それ自身の特質と独立性において確立する可能性と必要性は、ケルゼンによって初めて明確かつ決定的に示された。

10506 しかし同時に、社会科学に新たな地平を切り開いたことは、その事実上の結果を極端なものとし、人文科学的認識があまりにも大きく狭められてしまったことも認めざるを得ない。これは何よりも、ケルゼンが「マールブルク学派」の新カント主義の厳密な二元論的基本概念から出発して、一足飛びに、精神の世界を当為(Sollen)の世界と同一視したことに起因している。そこで以下では、彼の名高い国家と法の同一性理論を扱うことができるように、精神的存在(geistigem Sein)と規範的当為(normativem Sollen)の同一性を批判的に見ていくことにする。
10507 精神世界の規範的概念において、ケルゼンはマールブルク学派(Marburger Schule)の創始者ヘルマン・コーエン(Hermann Cohen)と完全に一致している。コーエンは「純粋意志の倫理学(Ethik des reinen Willens)」において、ケルゼンは「純粋法学(Reinen Rechtslehre)」の基礎に捧げたすべての著作において、両者とも存在と当為の根本的な対置(Gegenüberstellung)から出発している。ケルゼンとコーエンにとって、この存在と当為の厳格な対置の目的は、存在に関する自然科学的認識の侵入から人文(精神)科学的認識の純粋さを守ることにある。そして、コーエンにおいて、存在とは実際には自然の存在を意味し、この意味において、当為と厳密に区別されるように0401、ケルゼンにおいても、存在と当為の区別は自然と精神の区別と一致する。どちらの場合も、存在とは何よりもまず自然における存在であり、この性質のため、存在の世界は、当為の世界としての精神の世界と対立する。
10508 このことから、この二人の学者にとって、精神世界に焦点をあてた科学は、その性質上、もはや自然科学的な意味での単なる存在科学(Seinswissenschaft)として正当化されることはなく、当為科学あるいは規範科学以外の何ものでもあり得ないということになる。この厳密に二元論的な思想の学派では、「精神」とは、それ以上説明するまでもなく「当為」を意味し、「精神科学(Geisteswissenschaf;人文科学)」とは、それ以上説明するまでもなく「規範科学」を意味する。このように、コーエンは「人間の法則」を当為に見出している。彼にとって、人間についての科学、精神科学とは、何よりもまず規範科学なのである。彼は倫理学と法学を「精神科学の論理」としての倫理学と「精神科学の数学」としての法学を対比させる形で、人文科学の基礎となる二つの主要部分として提示している0402。コーエンはすでに、国家学は必然的に国法学(Staatsrechtslehre)でなければならず、国家学の方法論は法学にのみ求めることができると主張している。ケルゼンが精神科学の認識論的基礎を規範科学のそれと同一視し、その結果、精神的実体をその対象とする科学を「当為の科学」と定式化するとき、彼はコーエンとまったく同じ方向をたどっているが、ただコーエンでは倫理的なものが、ケルゼンでは法学的なものが、研究の前面に立つという違いがあるだけである。
10509 このように、ケルゼンの法理論においては、一方では存在と当為、他方では自然と精神という二対の概念の対立が認識論的に同値であることが常に重視されている。ケルゼンによれば、存在と当為という対立は、「精神科学一般の認識の方法論と、特に国家学的と法学的認識の方法論の基本的要素」である。当為と存在の対立には、精神と自然の対立が現れるからである0411」このように、ケルゼンの純粋法学は、つねに「国家と法に向けられた認識の基礎としている自然と精神の対立を、現実と価値の対立、(機械的な)因果律と規範(価値法則;Wertgesetz)の対立と一致させる」傾向がある0412。国家も法も、因果律によって決定される自然の世界には属さず、むしろ精神の世界に属するという結論から、国家は規範体系以外の何ものでもないということになる。従って、国家と法の同一性に関するケルゼンの理論は、基本的には、精神と規範という彼の基本的な等式の論理的帰結にすぎない。
10510 ケルゼンは、国家だけでなく、国家も含まれる社会全般を、価値の複合体に、ひいては規範の体系に一様に還元することを考えていたことは強調されるべきである0413。このように社会的なものを規範体系(Normensystem)に還元することに比べれば、国家と法の同一視(Identifizierung)はその特殊例にすぎない。ケルゼンは、「国家を規範秩序として、すなわち、言語的には当為命題(Sollsätzen)に、論理的には仮説的判断に表現される規範の体系として考えることによって、その条件と結果とが『当為(もしaならば、bとしなければならない)』によって結びつけられるのであり、原理的には、国家は法が構想されるのと同じ領域に引き込まれるのである」と述べている0414。あるいは、「国家の存在領域(Existenzsphäre)は規範的有効性(normative Geltung)であって、因果的現実性ではないこと、国家という概念に位置づけられる特定の統一性は、自然的現実の世界ではなく、規範(Normen)や価値(Wertes)の世界にあること、国家はその本質において規範の体系であるか、そのような体系の統一性のための表出(Ausdruck)であることが認識されるならば、秩序としての国家は、法的秩序であるか、その統一性の表出でしかありえないという認識は、実際にはすでに達成されている0415」国家への特別な適用において、ケルゼンの精神科学の基本概念は次のようなものである。「 国家は決して自然界に属するものではなく、精神界の一部を形成するものであり、精神的実体である。精神世界とは一般に価値、ひいては当為の世界以外にはありえないのだから、精神的実体は自らを価値や規範の体系としてのみ示すことができる。従って、最終的に、国家は、一般的には当為・規範の体系として、特に統一された法秩序(Rechtsordnung)として、自らを示さなければならない」
10511 しかし、このケルゼンの国家と法秩序の同一視は、より詳細に分析すれば、その前提となる認識論的前提、すなわち、精神的存在(geistigen Seins)と規範的当為(normativen Sollen)との同一視(Identifizierung)が容認できないものであることがわかる。もちろん、国家は特定の統一的に組織された法秩序と密接な連関(Zusammenhang)がある。国家という概念は、それと構造的連関にある(strukturell zusammenhängende)法秩序への言及なしには、明確に定義することは決してできない。この国家と法との構造連関(Strukturzusammenhang)は、社会科学の最も重要な問題の一つとして、後に詳しく論じられるであろう0421。しかし、国家が究極的に法秩序そのもの以外の何ものでもないと、単純に主張することはできない。特に、ケルゼンは、その規範的世界観の結果として、国家のみならず社会一般を規範の複合体として考えたいとする点で、行き過ぎている。「社会的世界全体」が「精神の世界(eine Welt des Geistes)」としてのみ理解されうることは、明らかに事実である。このことを鋭く一貫性をもって示したことは、間違いなくケルゼンの不朽の功績である。しかし、それにもかかわらず、社会的なものが精神的なものであるがゆえに、規範の複合体に還元されなければならないなどと言ってはならない。人間の社会的現存在、ひいては社会団体は、規範的当為と同一のものではないのである。
10512 ただし、ここでの主な疑問は、精神的なものが常に同時に規範的なものを意味するのか、ということである。我々の日常生活にあるごく単純な物体、例えば机(Schreibtisch)を考えてみよう。もちろん、この物体をその起源の観点から純粋に因果的に見たり、大きさや重さを決めたり、床にかかる圧力を測定したり、化学組成の観点から説明したりすることはできる。そうなると、この机は単に自然の一部分として、純粋な自然科学の対象として我々の前に存在していることになる。さしあたり、この自然科学的態度を完全に排除したい。そうすれば、この机はすでに有用なもの、使えるもの、価値のあるものとして我々の前にあることになる。もちろん、このことは机が霊的なものであり、精神的な対象を表しているという意味ではない。純粋に自然なものの有用性や価値、例えば土の肥沃さや風景の美学的な美しさについて語ることもできる。しかし、机の本質とは、それが有用で価値のあるものであるだけでなく、同時に、人間がある合目的な理由から「形成」したものであるという事実にある。それは客観的な「形成体(Gebilde)」であり、「道具」である。それは、ある個人にとって有用で価値があるだけでなく、それが作成された目的であるすべての文化人(Kulturmenschen)にとっても同じように有用であるという意味で客観的である。客観的に有用な形成体としてのこの能力においてのみ、机は精神的なもの、精神科学(人文科学;Geisteswissenschaft)の対象として見なされるのである。
10513 ここでさらなる疑問が生じる。すなわち、精神的な何かとみなされているこの書き物机が、それ自体として、そのまま、当為連関(Soll-Zusammenhang)そのものとして、規範的な何かとして理解されうるかどうかである。確かに、一定の状況下では、机(Tisch)は契約の対象となり、その結果、当為連関における法的事実の構成要素として分類されうる。さらに、「役に立つ道具を意味なく壊してはならない」とか、「規則に従って取り扱い、使用すべきだ」といった一般的な実践的規則を机に適用することもできる。しかしながら、この場合、机は、具体的で実践的な観点からのみ、この机という対象物に関して定式化される当為連関の物質的な基盤にすぎない。厳密に言えば、規範的当為(normative Sollen)とは、より高次の実践的な態度(Einstellung)の表出形式(Ausdrucksform)であり、ある対象やその状態、特に精神的なものに関して、人間の特定の振る舞い(Verhalten)を規定するものである。このように、問題の精神的対象あるいは状態は、関連する規範的当為連関の中で、それ自体が個々の要素として配置されるが、規範的連関の中のこの個々の要素は、それ自体が規範的である必要はない。机のような精神的対象は、たとえそれが有用であり、それゆえ価値を「運ぶ(trägt)」ものであっても、それ自体が規範的な当為であるわけでは決してなく、ある規範的設定において具体的な当為命題を定式化するための素材を生み出すものにすぎない。従って、そのような机も精神的対象ではあるが、規範的当為の直接的な領域からは明らかに外れている。
10514 規範理論の側からは、これに次のように反論することができる。「この問題の連関では、人間の道具(Werkzeug)や事実行為のような実際の客体性(Gegenständlichkeit)の問題では決してない」と。ケルゼンは、「価値を『運ぶ』あるいは精神的価値が『実現される』事実的対象は、もはや精神的なもの(Geistigen)の領域(Sphäre)にはない」と考えた。従って、事実の対象それ自体が規範ではなく、当為でもないと主張することでは、精神的世界の規範概念に反論することは決してできない。これに対して、純粋に精神的な領域にのみ焦点を当て、単なる事実性の領域を視野から決定的に排除するならば、この純粋な精神の領域は、規範的当為の領域以外の何ものでもないことに気づかなければならない。なぜなら、この領域に見出される客体性(Gegenständlichkeiten)は、純粋に理念的な意味形成体(Sinngebilde)であり、その本質は規範的なものとしてしか適切に把握できないからである。理念的意味形成体としての社会団体は、その本質において規範的当為と同一視されるべきであるとするケルゼンの主張は、精神的事実性(geistige Faktizität)が規範的当為を形成しないという記述に影響されることなく維持されることができる。
10515 しかし、この反論でさえも、社会的なものを規範的なものと同一視するための十分な正当化理由にはならない。第一に、「精神(Geist)」の概念を純粋に理念的意味領域に限定することはできないからであり、第二に、純粋に理念的な意味形成体領域は、規範的当為領域と完全に一致するわけではないからである。従って、この二点に関して、我々は、精神的存在の規範理論の哲学的基礎を批判的に検討し続けたい。

10516 ケルゼンの規範理論は、最初から、精神世界を単に純粋な理念的意味領域としてしか考えない傾向があることは明らかであり、それは、現実領域における、特に事実的生活過程における、理念的意味形成体の「実現(Verwirklichung)」を、もはや精神的なものとしてではなく、自然存在の一部とみなしているからである。確かに、理念的精神的実体は、事実的な社会生活の中で活動し、行為している人々によって考えられ、感じられ、希求されるものである。そして、この理念的精神的実体の思考、知覚、あるいは意志は、現実生活の動機的連関に入り込み、人間のそれぞれの社会的行為においてそれ自身を実現する。ケルゼンは今、理念的意味(idealen Sinnes)や規範的当為(normativen Sollens)の思考(Denken)や感情(Fühlen)や意志(Wollen)が現実の行為の「動機(Motiv)」として入り込むこの連関を、単に「因果的連関」あるいは「自然存在」の連関としてとらえている。彼は言う。「規範の意志は、規範に従って行為することで『実現(Verwirklich)』される。なぜなら、この意志そのものが動機であり、行為の原因(Ursache)であり、作用(Wirkung)でもあるからである。従って、この関連は完全に「自然存在」の領域にあてはまる」と0441。こうしてケルゼンは、事実的な「生活」一般においては、価値の「実現(Verwirklichung)」において、人はもはや価値や精神そのものを理解することはできず、その結果、この生活過程は一般に、因果律によって機械的に決定された自然として扱われるだけであると考えるのである0442。もしこのようにして、精神的なものが実現されるという事実的生活過程における人間の行為やその他の外的事実を、単に自然的なものとみなし、真に精神的な性質を否定することができるのであれば、精神的なものを規範的なものとみなす理論的可能性が与えられることになる。従って、この概念的な制限を維持したまま、意味や価値の客観的で理念的な内容としての精神的なものは、最終的には規範的なものと同一視されなければならないと主張することができるだろう。
10517 しかし、今日の精神(人文)科学の進歩は、「精神(Geist)」という概念を純粋に客観的な意味領域(Sinnessphäre)に限定することの無意味さを理解するのは、我々にとってもはや難しくない。というのも、今日、精神は事実性の領域でその姿を現すが、それでもなお精神のままであることを、我々は元々解っているからである。具体的な道具や実際の人間の振る舞い(Verhalten)など、この精神が支配する事実は、それを精神的なものとして理解しようとする限り、自然科学的な観点から見ることも、自然科学の対象として研究することもできないことは明らかである。だからこそ、自然科学的な手法で人間の精神的な生活を捉えようとした科学は、必然的に自己解体をまねかざるを得なかったのである。例えば、伝統的には精神(人文)科学に属していた心理学は、物理学が外界の自然を研究するのと同じように、内的意識を単に均質な要素に還元し、因果律によってそれらの関係を機械的に説明することだけを考えていたので、最終的には自然科学の一分野となった。社会学もまた、その原初的な形態においては、人間の精神的共存(geistige Zusammenleben)を解明することが原理的に不可能であることを明らかにせざるを得なかった。ケルゼンの「精神的なものは自然科学の方法では決して理解できない」という断固とした主張は、もちろんまったく正しい。だからといって、精神的なものが事実の領域にも見いだせないということにはならない。精神世界の研究において自然科学的手法を排除することが、現在すでに確固たる地位を確立している精神(人文)科学を、純粋に理念的な意味の領域に押し戻すことにつながってはならない。
10518 むしろ、現代的な人間の認識の発展は、人間の事実的生活を、自然の一部分としてではなく、原理的には人間的なものとして、正確には「精神的」生活として研究する必要性を示したことにある。心理学はその始まりにおいて、精神的(psychisch)現象の自然科学的解釈にその主要な任務を見出したが、ディルタイ(Dilthey)によって明確に示されたように、人間の内的経験の解釈と記述の人文科学であることが、最初からその主たる使命なのである0461。社会学は、これまでのその発展過程に従って、社会現象を自然との類推でとらえようとする傾向がつねにあり、現在も時折そうであるが、この科学が人間の共存(Zusammenlebens)を理解する精神(人文)科学としてはじめから確立されていなければならないという本質的な要求は、依然として変わってはいない。このことの方法論的解明は、何よりもまず、マックス・ヴェーバーに負っているのである0462。これらの科学の対象が、人間の内面や外面の生活にある事実の中に見出されたからといって、それらを精神(人文)科学として構築することを妨げるものではない。心理学と社会学は、精神(人文)科学的方法を基礎とすることによってのみ、その任務を十分に果たすことができるのである。従って、精神的なものの事実現象は常に精神的なものとして理解されなければならないことは明らかである。精神的なものを規範的当為と同一視しようとするケルゼンの試みは支持できない。なぜなら、精神の世界には精神的事実性も含まれており、それ自体は明らかに規範的当為であるはずがないからである。
10519 しかるに、精神的な事実性に関するこの議論は、まだ我々の問題の核心には触れていないことを認めざるを得ない。我々がケルゼンとともに、精神的事実性に原理的に優越する精神的実体の理念的領域における社会団体の存在様式を確立しようとする限り、人間生活の事実性もまた精神的なものとして扱えるか否かということは、直接的にはまったく問題になりえないからである。事実的なものは、確かに精神的なものとして現れることは十分にある。しかし、社会団体は精神的な事実性ではなく、最初から高次の理念性をもつ精神的実体の領域に属している。それゆえ、理念的な精神的実体がその独特の理念的存在において規範的なものとして自らを提示する場合には、社会団体は規範的存在の様式しか持ち得ないということを、ケルゼンとともに認識しなければならないだろう。そこで我々は、理念的精神的実体の存在構造(Seinsstruktur)を正確に論じることができるように、単なる事実性の領域から純粋な理念性の領域へと視線を移したいのである。
10520 規範理論の側から予想されることだが、我々の反論に対する上記のような回答が示すように、ケルゼンはまず、精神(人文)科学の対象領域から事実的なものをきっぱりと排除し、この強く制限された精神的な領域のすべてを当為の領域として理解しようとする。この考え方は、あらゆる精神(人文)科学的認識が、必然的に精神的価値に関するある種の「理念」を前提としていることを指摘することによっても正当化できるだろう。経験的な精神(人文)科学の対象である精神的事実性--精神的なものの「実現(Verwirklichung)--が、それ自体、規範的当為ではないとしても、事実として与えられたものを「精神的」現象(Erscheinung)として意味的に(sinnhaft)理解する(begreifen)ことができるようになるためには、意味(Sinnes)や価値(Wertes)という純粋に理念的な領域を常に参照しなければならない。この理念的な意味領域は、精神的規範論によれば、あらゆる精神的な事実性を認識するために必然的に前提としなければならないものであり、もはや、単に当為と対立する存在ではなく、規範的当為の純粋な領域そのものである。
10521 この点で、社会科学における規範理論は、ハインリヒ・リッケルト(Heinrich Rickert)の「文化科学的(kulturwissenschaftlichen)」方法論とも一致する。よく知られているように、リッケルトによれば、文化科学的認識は、「文化的価値(Kulturwert)」の特定の概念との関係において経験的に(empirisch)与えられたもの(Gegebene)を考慮することによってのみ可能である。これによれば、「理論的価値関係づけ」の方法(Verfahren)こそが、経験的文化科学の最新の方法論的基礎なのである0471。この考え方はまた、文化現象に関するあらゆる経験的認識の根底にある文化的価値の超越論的領域は、同時に純粋な当為の領域でなければならないという主張にも必然的につながる。なぜなら、理念的な意味(Sinn)あるいは価値は、それが「ある(ist)」以前に「適用される(gilt)」からである。このように、精神的なものは、その「実現(Verwirklichung)」において、その「事実性」の様式において、規範的なものと同一視されないかもしれないが、それにもかかわらず、純粋に理念的で超越論的な意味領域(Sinnessphäre)においては、規範的なものに還元可能であるように見える。
10522 従って、次のような問題提起(Fragestellung)が生じる。客観的で理念的な意味あるいは価値は、究極的には規範や規範の複合体と見なされなければならないのだろうか?もしこの問いに対して肯定的な答えが与えられるとしたら、国家または社会領域一般の規範的概念を無条件に承認する必要があろう。というのも、理念的精神的実体としての社会団体は、理念的な存在がその本質において規範的当為である限り、究極的には規範あるいは規範の複合体でなければならないからである。まだ明らかにされていないのは、理念的存在(idealen Seins)と規範的当為(normativen Sollen)との関係(Verhältnis)である。

10523 しかし、この理念を規範に単純に同一視(Identifizierung)することは、今問題になっている理念的意味領域の本質的構造をより詳細に論じれば、すぐに論理的に通用しないことがわかる。厳密に言えば、客観的な意味は、文化的価値という最も抽象的な考えであっても、規範的であるとの主張もしていないし。規範的なものとして本来の姿をまだ見せてはいない。あらゆる客観的な価値理念は、その原型において、人間の本来の実践的な態度(Haltung)において意図され、あるいは熱望されているものであることを認めなければならない。しかし、この本来の実践的態度、マルティン・ハイデッガーが言うところの「気遣いという仕方での関わり(das besorgende Zu-tun-haben)」0481、から価値理念が生まれるのであるが、それはまだ、当為の規範的態度としては現れていない。むしろ、より高次の実践的な態度としての規範的態度は、必然的に理論的な検証と抽象化に基づいており、そうした理論的な検証と抽象化だけによって、本来意図され望まれていたものから客観的な価値理念を生み出すことができるのである。当為の本来の規範的態度は、この理論的に確立された客観的理念との関係においてのみ、すなわち、この理念が実現され、あるいは実現される当為であるという規範的意識(normative Bewußtsein)としてのみ形成される。確かに、こうして生成された実践的な当為に対して再び理論的に対応し、純粋に科学的な手続きによって、それ自体が実践的なものである当為命題の本質的な構成を理論的に記述、分析、あるいは解明することができる。こうして「理論的規範科学」が生まれるのであり、それは、例えば理論法学がそうであるように、実践的な当為命題を理論的研究の対象とする。従って、理論的規範科学は、規範的当為命題や技術的規則そのものを直接的に生成することを目的とする立法論(Gesetzgebungslehre)や実践的な法解釈論(Rechtsauslegungslehre)のようなあらゆる実践的な学問分野とは異なるものである。これは明らかに、純粋に理論的な規範科学を確立することの認識論的可能性を示している。とはいえ、このようにして確立される理論的規範科学は、その原初的な形で同じく構想された価値理念の理論的な認識と同一視することはできない。なぜなら後者はもはや規範科学とは呼べないからである。
10524 むしろ、あらゆる規範科学は、その理念や理念的意味についての純粋に理論的認識を前提としているが、それ自体は規範や当為命題(Soll·Satzes)についての認識ではない。この原則は、エトムント・フッサールの「論理学研究(Logische Untersuchungen)」に典型的に示されている。フッサールは、「あらゆる規範的学問は、ある種の非規範的真理の認識を必要とする」と言う。なぜなら、「AはBであるべし」という形式の各規範的命題は「BであるAのみがCの諸性質を有する」という理論的命題を含合しているのである。同時に、この性質Cは決して規範的なものではなく、善や正義の理念のような、それぞれの理念的な意味の単なる性質である。従って、第一の規範的命題の基礎となる第二の命題は、純粋に理論的なものであり、もはや規範化の意図を含むものではない0491。これらの事実は、規範的精神(人文)科学と非規範的精神(人文)科学の両方の対象領域を構成する客観的および理念的な意味の世界が、何よりもまず当為の世界ではないこと、そしてその結果、理念的な意味や価値を規範的当為と単純に同一視することが原理的に成り立たないことを明示している。
10525 文化的価値の最高の理念から、最も具体的で物質的な精神的実体に至るまで、無限に多様な客観的意味形成体から階層的に構成される意味領域は、理念的で精神的な「存在(Seins)」の真の世界である。これらの多様な意味形成体は、実践的に規範的なものに対する基本的な態度の変化を通じて、意図されたものとして現れることができる。そのとき初めて、実際の当為命題(Soll-Sätze)が現れ、その当為命題は、条件付きであれ無条件であれ、それぞれの理念形成体が現実化されることを要求するのである。これらの当為命題は、人間がそのような振る舞いを望むか望まないかを問うことなく、人間の実際的な振る舞いを、ある特定の意図された方向へと規制し、決定する。人(Man)は今、これらの実践的な当為命題に理論的に自分を合わせることができる。その結果、規範に関する純粋に理論的な認識が得られ、その統一的な体系が理論的規範科学を形成する。まず理論的に観察する立場から実践的に規範化する立場へ、そしてまた実践的に規範化する立場から理論的に観察する立場へと、この二重の態度の変化は、道徳律、法規範、宗教的戒律といった実際の規範的実体を、その客観的かつ具体的存在として認識する可能性を生み出すのである。そして、それらは理論的規範科学の対象とみなすことができる。このように、理念的な意味形成体の領域には、しばしば、当為命題や規範的実体も含まれる。これだけでも、上に示した二重の態度の転回の結果としてのみ可能なのである。従って、理念的な意味形成体は、たとえそれが客観的に意図されたものとしてこのような態度の用法で、とりあえず純粋な存在として、示されるとしても、その元の姿を規範的当為とみなすことはできない。
10526 従って、理念的意味形成体の現存在(Dasein)でしかありえない社会団体(soziale Verband)は、それ自体決して規範の複合体ではないということも理解できる。社会団体は、純粋で精神的な存在(Sein)として、理念的意味領域に存在する。確かに、社会団体は、実践的な社会生活における人間の努力の目標となりうるし、社会的現存在の価値中心である以上、実践的価値判断の究極的基準となりうる。しかし、もともと、それは規範的当為ではない。また、社会団体の規範的解釈は最後まで維持することができない。なぜなら、主として観察する立場に純粋な存在として提示されるその対象に、実践的に規範化する立場への根本的な転向によってのみ示すことができる特性を付与しようとするからである。ケルゼンが、社会団体、とりわけ国家が、存在(Sein)として、それも当為の存在とみなすことができると繰り返し強調するとき、この「当為の存在(Sein des Sollens)」は、我々がここで原則として扱っているものである理念的精神的実体の存在とは明確に区別されなければならないことを断固として強調しておかなければならない。というのも、後者、すなわち本来の姿の理念的意味形成体の存在は、実際には純粋で自然のままの存在であり、それ自体には規範的当為の性質は含まれていないが、前者、すなわち当為の存在は、実践的な当為を理念的客体性(Gegenständlichkeiten)の領域に戻して、それを理論的規範科学の対象としてとらえることによってのみ認識することができるからである。
10527 要約すれば(Zusammenfassend)、理念的存在は規範的当為より論理的に先行すると言わざるを得ない。しかし、理念的存在には、人間の態度の二重の方向転換によって、無限に多様な規範的実体(normative Gebilde)をも内包することができる。その場合、もちろん、「当為の存在」についても語ることができる。なぜなら、規範的当為もまた、本来の理念的存在と同じ高さ(Ebene)に立ち、それゆえ、「理論的」認識の対象となり得るからである。とはいうものの、規範的当為は、理念的意味領域の特定の下位分野(Teilgebiet)を形成しているに過ぎない。単なる事実性の領域ではなく、理念的意味領域にある精神的なものは、決して常に規範的当為として自らを示す必要はない。実際、精神的なものは、第一義的に当為という形式で現れるものではない。
10528 これらの批判的な論究から、理念的精神的実体としてしか、その本質的なあり方を解明できない社会団体は、第一義的には、そして実際には、当為命題の複合体ではないことがわかる。また、社会団体は規範の複合体と密接に連関してはいるが、そのような複合体と同一視してはならないものである。国家は、たとえその存在様式の本質的な特性が法の構造連関の中でしか明らかにできないとしても、概念的には法秩序から厳密に区別されなければならない。人間相互間に形成された全体としての社会団体は、理念的でありながら規範的でない精神的実体として、その完全な姿を現す。社会団体の理念的存在(ideale Sein)は、決して規範的当為や当為の存在ではない。社会団体は、理念的精神領域に向けられた存在科学の対象を形成するが、その方法論的基礎において、規範科学とは容易には一致し(zusammenfällt)ない。社会性の世界に関するケルゼンの規範主義的見解における思わしくない点は、この理念的意味領域の基本的構造分析によって完全に排除された。今や、規範科学から概念的に独立した社会団体論を構築し、さらに発展させる道が開かれたのである。

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第六節 理念的存在(ideale Sein)と現実的存在(Wirklichsein)

10601 先の第五節で、社会団体の現存在領域は、理念的意味領域に他ならないこと、そして、統一性と同一性のある対象としての社会団体の存在は、理念的精神的実体としてのみ理解されうることを立証した。さらに、社会団体の現存在領域を理念的で客観的な精神的実体として確認することは、決して我々の対象を規範の複合体に還元することを意味しないことが示された。社会団体の理念的存在は純粋な存在であり、当為の存在ではない。社会団体をその特定の対象とする科学は、単なる事実科学とも規範科学とも明確に区別される、独立した認識論的基礎の上に構築されなければならない。
10602 しかし、この社会団体の現存在領域の発見は、いまだ問題の解決を意味するものではない。むしろ、我々の極めて困難な任務の始まりにすぎない。というのも、社会団体は理念的な客体性(Gegenständlichkeit)であり、それは理念的な意味領域においてのみ特異な存在を示すという言明は、それが「本当に」そこに存在すること、つまり「本当に存在する客体性」として扱えることをまだ意味しないからである。理念的なものは現実的にもなりうるが、理念的な存在すべてが現実的存在(Wirklichsein)になるわけではない。単なる理念的な存在に関しては言えば、確かに「天使の存在」について語ることができるが、それは、天使が「本当に」そこに存在するということではない。この一般的な意味での「あること(Sein)」を「存在(Existenz)」と呼びたい。そして、理念的精神的実体の「現実にあること(Wirklichsein)」は、単なる理念的な「存在(Existenz)」とは鋭く明確に区別されなければならない。従って、我々が批判的に確立した社会団体が理念的に「あること(Sein)」は、単なる理念的な存在(Existenz)としてではなく、「現実にあること(Wirklichsein)」すなわち現実的存在性として理解されなければならない。というのも、我々がいま根本的に解明しようと努めている社会団体の存在様式(Seinsart)は、同時に歴史的・社会的現実(Wirklichkeit)の一つの要因を形成していなければならないからである。社会団体論の対象をなす国家は、単なる想像上の「ユートピア」国家と同一ではない。従って、社会団体は、それ固有の理念性において、「現実性定立(Wirklichkeitsthesis)により確定されねばならない。社会団体は、それ自体、間違いなく理念的意味領域に属しており、「現実科学(Wirklichkeitswissenschaft)」としての社会科学の対象を形成することができるが、それはそれが一定の歴史的および社会的規定性(Bestimmtheit)を伴ってそれ自体の現実的存在性(Wirklichsein)を示す場合に限られる。
10603 ここに、社会団体論の基礎づけとなる核心的な問題が現れる。はじめから理念的精神的実体であるはずの社会団体が、同時に、その理念性にもかかわらず、どのようにして科学の現実の対象となりうるのか?この問題が非常に難しいのは、まさにここで考察されている社会団体の「現実的存在性(Wirklichsein)」が、実際の生活過程における社会団体のいわゆる「実現(Verwirklichung)」と概念的に混同されてはならないからである。もちろん、社会団体の理念的意味は、社会的に行為する人間によって主観的に意味され、その結果、社会生活の事実的過程において「実現(verwirklicht)」される。ケルゼンの規範理論との関連で示したように、社会団体の理念的意味の事実的実現は、精神的なものとみなすこともできる。そこに、人間の実際の社会的行為における社会団体の理念の実現を「精神(人文)科学的に」研究する可能性がある。しかし、今我々が論じている社会団体の「現実的存在性(Wirklichsein)」を、その意味の事実的「実現(Verwirklichung)」と同一視するならば、社会団体論は、人間の事実的行為のみを対象とする、単なる純粋に経験的な社会科学に成り下がってしまうだろう。もちろん、社会団体の理念的意味によって決定される事実上の生活過程は、より高い理念性を持つ精神的実体としての社会団体とは、もはや同じ理念性のレベルにないことは明らかである。従って、社会団体の現実的存在性(Wirklichsein)とは、社会的事実性においてその意味を実現することだけを意味するのではなく、理念的精神的実体としての社会団体が、その理念性においてまさに示す現実(Wirklichkeit)を意味する。現実的存在性(Wirklichsein)という概念は、単に理念的な「存在(Existenz)」 という概念とは明確に区別され、従って、単に事実的な「実現(Verwirklichung)」という概念とも厳密に対立しなければならない。
10604 しかし、理念的精神的実体としての社会団体の現実的存在性(Wirklichsein)というこの問題は、厳しい二元論的観念論の哲学的基礎の上に立ち、理念と現実の間の両立しがたい対立を難しい話は抜きにして信じる人には、無意味に見えるに違いない。そのような人にとって、理念は「当てはまる(gilt)」が、現実性はない。この考え方によれば、理念的精神的実体を現実の対象として、現実科学の対象として扱うことは考えられない。しかしこの見方は、「現実性(Wirklichkeit)」の概念と単なる「実在性(Realität)」の概念とをあまりにも簡単に混同し、同一視するものだ。理念的精神的実体が感性で知覚しうる実在性(Realität)を持たないことはすぐにわかる。「理念性(Idealität)」は明らかに「実在性(Realität)」と概念的に対立する。しかし、このことは、理念的な形成物がその理念性において、科学の実際の対象を形成することができないということを全く意味しない。むしろ、ある状況下では、理念的な対象は即座の直観(Anschauung)の中で自己能与(Selbstgebung)し、この即座の自己能与の中で、たとえこの種の自己能与は実在する対象の自己能与とはまったく異なるとしても、実在する対象として自らを示す。精神の理念的な領域は、社会団体もまたこれに属するが、現実の存在領域に上位に位置する抽象的で歴史のない「論理的」客体性(Gegenständlichkeiten)の単なる集合体ではなく、無限に多様で事実的な精神的実体の体系的に秩序づけられた領域である。精神的実体は、特定の条件下で現実的存在性(Wirklichsein)を獲得し、実際に存在する歴史性の世界に姿を現わす。実際に存在する、理念的精神的実体の領域に対する明確な洞察は、独立した「現実科学(Wirklichkeitswissenschaft)」として社会団体論を構築する可能性を与える。
10605 しかし、それ自体が理念的存在の様式である理念的精神的実体の現実的存在性(Wirklichsein)は、それにもかかわらず、問題の精神的実体が実現される社会的事実性の領域と密接に結びついているという事実を見落としてはならない。 厳密に言えば、理念的精神的実体は、その意味が活動的で行為的な社会的事実性の中で繰り返し実現されるときに現実となるである。従って、理念的精神的実体としての社会団体は、その意味が社会生活の事実的過程において繰り返し実現される限り、その理念性にもかかわらず、同時に現実的でありうる。この問題の最終的な難しさは、一方では、理念的精神的実体の「実在すること」と、その意味の事実的な「実現(Verwirklichung)」とを概念的に峻別しなければならないが、他方では、この二種類の精神的存在を常に互いに不可分の関係で考えなければならないという事実にある。理念的存在とは、問題となる理念的精神的実体が、特定の事実性にある方法で関係している場合にのみ、現実的存在性(Wirklichsein)を持つ。この基本的な事実を明確にすることが、次の章の課題である。

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第二章 理念的対象の現実的存在性(Wirklichsein)


第七節 現象学的認識論的批判の問題としての対象の現実的存在性

20701 第一章での批判的論究から生じた問題を、もう一度明確に定式化することが必要であろう。意味形成体や精神的実体としての社会団体だけが、統一性と本質的に同一性のある科学の対象を構成することができるのである。ところで、「ユートピア的(utopischer)」国家は、純粋に理念的精神的実体として、単に想像上の国家形態としても存在することが可能であり、従って、正確には現実科学の対象ではないにせよ、科学の対象とみなすことができるであろう。現実に存在する社会団体の意味内容と「ユートピア的」な方法で考え出された想像上の団体との基本的な違いは、前者が常にその客観的相関物の現実的存在性(Wirklichsein)を自らのうちに主張しているのに対し、後者はそれ自体、そのような「現実性定立(Wirklichkeitsthesis)」を伴わないという事実にこそある。社会団体が純粋な意味内容(Sinngehalt)として存在するだけでなく、同時に社会団体は「実際に(wirklich)」そこにあると人間は考え、信じる。社会団体のこの現実的存在性は、それが感覚(Sinnlichkeit)において所与された「実在」や形而上学的に想定された「実質的」現実を意味する限りにおいて、最近の社会科学の発展、とりわけケルゼンの鋭い批判によって、十分な正当性をもって否定されてきた。社会団体が本当に存在するという判断(この判断は伝統的な社会的現実主義が決して疑おうとしなかった真実であるが)は、それ自体の客観的相関物を失ってしまったようで、いわば宙に浮いている状態にある。ここで問題は、理念的意味としての社会団体は、感覚的現実の中にしかその相関物を見出すことができないのか、つまり、感覚的(sinnlichen)現実の意味において現実性を持たないのであれば、理念的対象が現実的存在(Wirklichsein)であることは一切否定されなければならないのか、ということである。
20702 この問題を正確に解明するためには、我々はまず現実全般の問題に目を向け、徹底的に哲学的な考察を深めなければならない。しかし、「現実(Wirklichkeit)」の問題は、その性質上、「真実(Wahrheit)」の問題と相関関係にあり、従って真実と最も密接に関連して解決されなければならない。というのも、ある対象が本当にそこにあるかどうか、その対象に現実性があるかどうかという問題は、問題の対象が本当にそこにあるという判断(Urteil)が真実(wahr)で正しい(richtig)かどうかという問題に他ならないからである。このように、二つの問題の相関関係は極めて明確である。現実性定立(Wirklichkeitsthesis)を用いて判断を下す場合、その判断において現実に存在するとして設定された対象が、本当に意図されたとおりに「与えられている(gegeben;所与の)」ものなのかという問題が生じる。この場合、問題は判断の対象の側から考察され、従って、存在(Sein)、あるいは現実的存在(Wirklichsein)の問題として提示される。他方、同じ判断を判断行為(Urteilsakt)の側から見て、この行為の「意図(Intention)」が問題の対象と正しく関連しているかどうかを問うなら、判断の真実性(Wahrheit)または判断の正しさ(Urteilsrichtigkeit)の問題が生じる。真実(Wahrheit)の概念は判断行為(Urteilsakt)を指すが、現実(Wirklichkeit)の概念は対象そのものを直接指す。従って、現実の問題は、真実の問題と同時に提起され、議論されなければならない。
20703 真実(Wahrheit)に関する一般的かつ基本的な哲学的問題は、西洋哲学の発展の歴史において中心的な問題として繰り返し提起され、多様な方法で扱われてきたが、近代哲学において、最も完璧な定式化と最も深い解明がなされたのは、エトムント・フッサールの意図的な(intentionalen)認識批判(Erkenntniskritik)においてであった。
20704 フッサールの「超越論的現象学(transzendentale Phänomenologie)」の究極的かつ最も現実的な目的は、「世俗的(mundanen)」科学が素朴に前提としている真実概念の単なる議論にあるのではないことを強調して指摘しておかなければならない。むしろ、「自然的態度(natürlichen Einstellung)」から「超越論的態度(transzendentalen Einstellung)」に転じることによって、すなわち「超越論的-現象学的還元(transzendental-phänomenologische Reduktion)」によって、フッサールは、そもそも客観的世界の究極的意味を「構成的に」解明することができるようになるために、直接経験の絶対的領域、すなわち「超越論的主観性(transzendentalen Subjektivität)」の領域に侵入しようと努めているのである。「純粋現象学および現象学的哲学のための考案(イデーン)(Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie)」の「あとがき」でフッサールは、彼のこの著作は「純粋現象学、あるいは超越論的現象学というタイトルのもとで、デスカルト以来の哲学的発展の全過程によって準備されたとはいえ、『超越論的主観性』という、もっぱら新しい経験の分野に関連する(フッサール)自身の科学を確立しようと試みている」と述べている0561。超越論的現象学の課題は、このように、単に世界の世俗的な認識の基礎となる最も一般的な理論、すべての科学のための「科学論(Wissenschaftslehre)」となることではなく、究極的には、「それ自体に立脚し、絶対的に独立した科学、実に唯一の絶対的に独立した科学」を表わすことである0571
20705 超越論的主観性という根源的な土台の上に、唯一絶対の普遍科学を築き上げようとするこの壮大な試みは、あまりにも偉大であるがゆえに、今日でも完全な推敲を欠いているため、その真の意味と範囲を完全に理解することはほとんどできない。従って、今後の議論においては、究極の科学理論として真理と現実の問題を深く解明している限りにおいて、哲学的基礎としてフッサールの現象学を活用したい。フッサールの著作のうち、「論理学研究・第六研究(die VI. Logische Untersuchung)」と「形式論理学と超越論的論理学(Formale und transzendentale Logik)」の二著作は、フッサールの哲学思想がこれらの著作で体系的に展開されているわけではないにもかかわらず、我々の研究の基盤となっている。

20706 フッサールがその『論理学研究・第六研究』の中で区別している真実(Wahrheit)の四つの概念のうち、まず最初の、最も簡潔な概念「真実とは、『意味するもの(Gemeint)と、そのように与えられたもの(Gegeben als solchem)との間の完全な一致』を意味する0572」 を選び出し、それを考察の出発点とする。言い換えれば、真実とは「意味するもの(Gemeint)と見られるもの(Erschauen)の同一性」を意味する0573。この第二の定式化が原理的に可能なのは、与えられたもの(Gegeben;所与)は究極的に、直接の(unmittelbaren)直観(Anschauung)において与えられたもの以外にはなりえないからである。
20707 初歩的な例をいくつか挙げれば、これらの命題を理解しやすくなるだろう。家から通りへ歩いているとき、ふと懐中時計を持ってこなかったことをに気づく。よく考えてみると、その時計は私が数時間前に私の机の上に置いたので、そこにあるという結論に達する。家に帰ると、通りで私が思って、判断した通りに、時計が机の上に置かれていた。ここには、意味するものと与えられるものが一致するという、最も単純な例のひとつがある。この一致に基づき、私は今、路上で下した判断は真実であり正しいと言える。この判断行為の意図は、間違いなく知覚(Wahrnehmung)に与えられたものと正しく関連している。
20708 別の例を挙げよう。ある高校教師が、京都という都市(まち)が日本の特定の地域に位置するということを教える。この地理的言明(Aussage)が真実であるための究極の基準は、実際に東アジアにある帝国の古都を地球上の特定の場所に見つけることができ、その伝統的な都市生活のあり方が、その高校教師が主張したとおりに実際に知覚できるかどうかである。この言明は、思考において、そこに定式化された内容と、それが指し示すすぐに知覚可能な地理的現実との間に、適切な対応関係を確立する可能性が常に存在する場合にのみ真実となる。
20709 しかし、判断が真であると認識できるようになるためには、意味するものと与えられるものとの間のこの一致(Übereinstimmung)が実際に実現されることが必ずしも必要ではない。このような一致の可能性が確認され、あるいは証明されるだけで、人は判断の真実性を主張し、認識することができる。これによって、天文学者は、おそらく機器の不正確さのために惑星を直接認識することができなくても、数学と力学の連関から得られる結論を使用して、新しい惑星を発見し、その大きさ、距離、または移動方向を決定することができる。この場合、意味するものと与えられるものとの間には完全な対応関係はない。それでも、この新しい天文学的知識が真実であることを認めなければならない。必要な水準まで精密化された技術的手段が利用できるようになれば、最終的には、特定の時刻に宇宙系の特定の点で新しい惑星を実際に観測する可能性以外に、この知識は、真実性の基準を持たないという事実には変わりはない。数学的および物理的検証の目的は、この一致を実証することに他ならない。ここでの真実は、意味するものと知覚されるものとの間の実際の一致にあるのではなく、そのような一致の可能性にある。
20710 この実態は一般に、断定的な判断行為の「意図(Intention)」とその「成果(Erfüllung)」との関係として明らかにすることができる。あらゆる意向(Meinen)、あらゆる思考(Denken)、あらゆる判断(Urteilen)は、もしそれが現実性定立(Wirklichkeitsthesis)を携えているならば、その客観的相関物を目指し、当該対象が現実的存在(Wirklichsein)であるか、非現実的存在(Nichtsein)であるか、を提起する。目的に対する意図性(Intentionalität;志向性)は、思考行為の基本的性格である。この意図は、対応する直観(Anschauung)において成就されるか成就されないか、直接に与えられたものによって成就を見出すか見出さないかである。対象の現実的存在性を主張する判断行為の意図が、直接の直観によって成就されるとき、あるいはこの成就の可能性が確立されるとき、人は判断されたものが本当にそこにあり、現実的存在性(Wirklichsein)を有していると言う。これは同時に、その判断が真実であることを意味する。そうでなければ、その判断は誤りである。真実とは、上述したように、意味するものと与えられるものとの一致として定義されたものであるが、従って、この判断行為の分析においては、意図の正しさとして理解することができ、その基準は、意図の直観的な(anschaulich:鮮明な)成就にあるのである0591。直観(Anschauung)は「知覚(Wahrnehmung)」とも呼ばれることがあるので、この命題は次のように定式化することもできる。「断定的な判断行為の真実性は、直接の知覚におけるその成就を通じて確立される」
20711 ただ、「知覚(Wahrnehmung)」あるいは「直観(Anschauung)」という概念が、ここでは主として拡張された意味で理解されること、すなわち、「感覚的(sinnliche)」直観(Anschauung)だけでなく「範疇的」直観(Anschauung)も含まれることを強調することが何よりも重要である。この感覚的と範疇的な知覚あるいは直観の区別は、認識の現象学的解明において、また、後で詳しく述べるように、現実的対象と理念的対象を比較するための基盤として、非常に重要な役割を果たす。真実性の究極の基準は、直接的な知覚や直観による意図の成就にのみあると言うなら、知覚や直観という概念を、今示したような拡張された意味で理解しなければならない。
20712 知覚を通した意図の成就は、無限に多様な完全性の度合いで示される。言い換えれば、絶対的な真実と絶対的な虚偽という相反する両極端の間には、無限に多様な十全性(Adäquation)の段階があり、それに対して当該判断内容の相対的な真実性を測ることができる。通常、意図されたものは、明確に与えられたものと部分的にしか一致しない。この場合、意図的な思考の部分的要素だけが直接的な知覚の中でその成就を見いだし、他の要素はまったく成就できないか、せいぜい不十分な成就にとどまることが多い。この欠陥や不完全な一致から、それによって疑問視される意向(Meinen)や思考(Denken)は、相対的な真実性しか持たないことになる。理念的な限界としてのみ、意図されたもの(Gemeinte)、あるいは、考えられたもの(Gedachte)が、その意図されたもの、考えられたものとして完全かつ正確に知覚される場合、つまり、意図(Intention)が知覚(Anschauung)の中で完全に成就(Erfüllung)される場合を想像することができる。この場合、与えられたものは、思考や判断において意図され、信じられているものと完全に同一である。これが、意図と成就が完全に一致する理念的な状態である。そのとき、最高の妥当性(Adäquation)、ひいては完全な真実性(Wahrheit)に到達する。
20713 意図と成就の間の最も初歩的な関係が明らかになる自己能与の(selbstgebende)知覚(Wahrnehmung)に関して、フッサールはこの状態を次のように示している。「そこでは、可能な成就関係の考察は、中間的かつ部分的な成就ではなく、完全かつ全意図が成就に達した成就増大の最終目標を指し、最終的かつ究極的な成就を指し示すものである。この結論となる観念の直観的(intuitive)内容(Gehalt)とは、可能性のある充足の絶対的総和であり、直観的(intuitive)表象(Repräsentant)とは、それ自体であるような対象そのものである。代表象する(repräsentierender)内容(感覚内容)と代表象される(repräsentierter)内容(客観的性質)は、ここでは同一で一つになる。そして、概念的な意図が、この理念的に完全な知覚(Wahrnehmung)を通じて究極の成就を得た場合、そこでは、真の意味での「ものと知性との一致(die echte adaequatio rei et intellectus:トマス・アクィナス)」が確立されている:目的は、まさにそれが意図されたものとして、真に「存在する」あるいは「与えられる」のである;その成就を欠く部分的な意図はもはや呈示されない」0601認識の不完全な段階では、知覚はいわばさまざまな程度の「射映(Abschattung;しゃえい)」を対象物に与えるが、理念的な限界では、対象物は知覚の中で「絶対的な自己」を示す。ここでは、すべての射映は消滅している0602。(訳者注:射映 Abschattung はフッサール現象学の用語で,リアルな空間的事物の現れ方を示す術語。われわれが事物を知覚しうるのは,事物自身がその色彩や形態を,われわれに射映してくる sich abschatten からである。しかし射映を通しての事物の自己呈示は,そのつどのパースペクティブに応じてつねに一面的でしかありえない。なお,射映してくる空間的事物と,非空間的な体験ないし感覚与件としての色彩射映や形態射映とは,区別されねばならない。改訂新版 世界大百科事典、執筆者:立松弘孝氏)
20714 フッサールがここで特に知覚行為に関して解明した意図と成就の完全な一致は、知覚行為の中に見出されるだけでなく、判断行為と知覚におけるその成就との関係においても起こりうる。この場合にのみ、「『思考』の『もの』に対する適切さの十全性(Adäquation)が明らかになる」のである0603。厳密に言えば、ものの現実的存在性(Wirklichsein)は、判断されるものと、もの自体において与えられるものとが完全に適切に一致するという、この理念的な境界線(Grenzfall)上の場合においてのみ、完全に確認することができる。それは、当該対象に向けられた判断の意図が、射映のない(abschattungslose)最高の形で成就することによってのみ、完全に確認されるのである。「確認という概念は、このように」つまり「もっぱら、設定行為とその設定の成就との関係、ひいては知覚を通した成就との関係を指す」のである0604。確認は、判断しようとする意図と「事物(Sache)」とが一致するという理念的な場合にのみ、絶対的な完全性を達成する。
20715 このように知覚を通して対象の現実的存在性(Wirklichsein)を確認する過程で、認識(Erkenntnis)の現象学的解明においてもう一つ極めて重要な概念、すなわち「明証(Evidenz)」の概念が浮上する。フッサールは明証(Evidenz)の二つの意味を区別している。第一は「より緩やかな意味では、設定された意図(特に主張)が、それに対応する完全に適合した知覚によってその確証を見出す場合に、明証と言う。たとえそれが、つながった個々の知覚の適切な統合であったとしてもである。そのとき、明証の段階や程度について語ることは、理にかなっている0611」第二は、対照的に、語句の厳密な意味での明証は、実在すると考えられているもの、あるいは実在すると主張されているものが、最も適切な知覚(Wahrnehmung)によって、思考され、意図されたとおりに完全かつ正確に成就される場合にのみ認識されうる。「明証の認識論的に簡明な意味は」、このように 「もっぱら、この究極の、克服不可能な目標、この最も完全な成就総合(Erfüllungssynthesis)の行為に関係しており、対象は単に意味されるだけでなく、それは意図、例えば判断の意図、と最も厳密な意味で一体となるように与えられるのである0612」この最も厳密な意味での明証(Evidenz)とは、最も完璧な合致総合(Deckungssynthesis)の行為である。それは客観化行為であり、その客観的相関物のみが「真実性(Wahrheit)の意味での存在」と呼べるのである0613。意見(einens)、思考(Denkens)、判断(Urteilens)の意図的で客観的な行為(Akt)が完全な明証を持ち、その意見されたもの、思考されたもの、判断されたものが直接の知覚において完全な成就(Erfüllung)を見いだす場合、そこでのみ、当該対象の現実的存在性(Wirklichsein)が究極的に確認される。対象が現実的に存在するという意味での真実とは、このように、自己能与(selbstgebenden;自らを与える)の明証の相関物(Korrelat)に他ならない。

20716 このことは、ある対象の現実的存在性は、直接の知覚を通じて直観的に成就されることに、その究極的な根拠があることを明らかにしている。ある判断、特に科学的判断は、何かが本当にそこにある、何かが実在性を有する、ということが、真実で正しい判断として正当化されるためには、直接的知覚にその十全性(Adäquation)を見出さなければならない。十全な成就が与えられる直接的知覚の客観的相関物もまた、すでに示したように、「そのもの自体」と呼ぶことができる。従って、ここで得られた結果は、再び次のように要約することができる。あらゆる科学的判断は、「そのもの自体」に立ち戻り、そこで最終的な確証を見出さなければならない。科学的認識とみなされるすべての判断は、その正しさ、真実性を、「そのもの自体に対する十全さ(Adäquation)を通じて」示さなければならず、そのような方法で、その判断の正しさは、単に一回限りの偶然的な十全さによってのみ確立されるのではなく、いつでもその再現可能性によって、何度でも立証されうるのである。(062l)
20717 その際、科学的認識は通常、個別の具体的な記述では表現できない多かれ少なかれ抽象的で客観的な事実にのみ関係していることを注意深く考慮する必要がある。このため、科学的認識は、もとの知覚に直接還元できる個々の判断からなるのではなく、原則として、個々のものに直接その十全性性を見出すことのない、より一般性の高い判断からなる。その結果、あらゆる判断をそのもの自体に遡及させるという、先に述べた要求が根本的に深まることになる。科学的認識が原理的に構成する一般的判断は、まず個々人の判断に遡り、その正当な根拠について、吟味され批判されなければならない。なぜなら、個々人は、すべての真実が最終的に遡って参照する最後の基質的対象だからである0622。このように、すべての判断を最終的な個々人の判断に還元するということは、同時に、より高いレベルのすべての真実を最も低いレベルの真実に還元するということを意味し、すなわち、もとの個々の対象に直接言及し、そこに最終的な確証を見出すことができる真実に還元するということである0623。しかし、個々の対象は知覚を通じて、あるいは「第一義的かつ簡潔な意味(Sinne)での経験(Erfahrung)」を通じて与えられるのだから、最終的には、すべての真実を「経験の原初的根拠」に遡らせ、その直接的な明証を確認しなければならない。従って、一般的な判断は、たとえ事実上のアプリオリ(先験的)な判断であっても、「真正な明証を批判的に生み出すためには、個々人の模範的な直観(Anschauung)、つまり『可能な(mögliche)』経験への戻り(Rückgang)を必要とする」のである0624。そう、論理学でさえ、この意味での経験論を必要とするのである。すべての場合において、経験(Erfahrung)は科学的認識に明証と真実の究極の基準を提供する。
20718 すべての真実を直接の経験の原初的根拠へと鏡映関係(Rückbeziehung)させるこの要求は、超越論的現象学が真実の問題の解明において「急進的経験主義(radikaler Empirismus)」であるという主張を正当化する。すでに述べたように、現象学における「経験(Erfahrung)」や「知覚(Wahrnehmung)」の概念は、決して「感覚的」経験だけを意味するのではなく、もう一つの重要な要素として、いわゆる「範疇的(kategoriale)」直観(Anschauung)も含んでいるという事実を見落としてはならない。そうでなければ、事実上のアプリオリ(先験的)な判断の真実性を確認することは不可能である。例えば、「空間的広がりは色彩を確立する」という本質的な法則は、感覚的知覚に遡るだけでは決して確認できない。むしろ、その本質が最終的に確認されるのは、範疇的直観、つまり「本質観取(Wesenserschauung)」においてでなければならない。そこでは、感覚的に知覚される個別的なもの、例えば、ある空間的広がりとある色との間の具体的な関係は、確かに不可欠ではあるが、それでもなお「典型(Exemplar)」として機能するにすぎない。しかし、この感覚的知覚と範疇的直観の違いについての詳細な議論は、次の節の課題(Aufgabe)である。
20719 間違いなく、すべての真実を直接の経験という究極の根拠に関連づけようとするこの急進的な要求は、伝統的な認識論とは対照的に真実の問題の最も深い基礎を明らかにし、同時に超越論的現象学に究極的科学理論の意義を与えようとする、フッサールの試みの核心がある0631。フッサールによれば、真実の問題は「懐疑的な否定主義または相対主義と論理的絶対主義との間で交渉する弁証法的な単なるゲームの問題」ではなく、むしろ「客観性という独自の基盤に立脚し、高度に包括的な調査を指し示す、手ごわい作業上の問題」である0632。それゆえ、真実と現実の問題を論じるための最終的な支えは、内容のない「自らの領域」でのみ真実と明証を絶対化し、「上から目線」でのみ具体的な問題を解決することに満足する伝統的な論理学や形式的認識論によっては、提供されない。超越論的現象学だけが、認識の意図的批判を通して、すなわち、明証批判のすべてを「ものそれ自体に」戻すという無条件の要求を通して、あらゆる具体的、実質的(sachhaltige)真実を徹底的に解明することができるのである。
20720 真実の問題は「途方もない仕事(gewaltige Arbeit)の問題」であるというフッサールの言葉の真意は、しかし、そこにすべての真実を個々人の主観性の直接体験に遡及させるという要求を見るだけなら、その全容はまだ明らかにされていない。なぜなら、あらゆる真実が参照され、最終的な確証を見出す、あらゆる証拠の原初的な根拠が、個々人の主観の直接的な経験に限定されたままであれば、認識の「客観性」の解明を達成することは決してできないからである。現実性定立(Wirklichkeitsthesis)を伴うあらゆる判断、特にあらゆる科学的判断は、ある主体のみにとっての対象の現実性だけでなく、当該対象の客観的存在(Dasein)に言及している。それは必然的に、その対象が私だけではなくすべての人にとって実際に存在するものであり、客観的な存在であるという主張を含んでいる。もし超越論的現象学が、究極的に真実の問題を直接的な経験の「主観的」根拠と関連づけることだけを望むなら、どうして対象の現実的存在性(Wirklichsein)の「客観性」の秘密を解き明かすことができるのだろうか。もちろん、この現象学的な基本的態度の帰結として、荒っぽい独我論(独在論、唯我論:Solipsismus)「真に実在するのは自我とその所産だけであり、他我やその他すべてのものはただ自己の意識内容にすぎないとする立場」)があってはならない。
20721 フッサールは、彼の哲学の最も重要な概念の一つである「超越論的間主観性(transzendentalen Intersubjektivität)」の概念を確立することによって、こうした疑念を解消した。フッサールによれば、ある対象の現実的存在性の客観性は、当該判断の明証が個々人の主観性にではなく、集団的な「間主観性(Intersubjektivität)」に究極的な根拠を持ち、そこに究極的な基準を見出すという事実によってのみ立証される。それは、個々の対象の客観的現実的存在性の問題だけではなく、とどのつまりは(schließlich und endlich)、与えられた「世界」全体の客観性の問題なのである。私の目の前に本当にある世界は、結局のところ、「我々全員の世界なのである。客観的な世界として、それはそれ自身の意味において、私だけでなくすべての人にとっても『一度限りの真実である』という範疇形式を持っている」ということである0641。この「世界の客観性」は一般に、経験の間主観的共同体の中に究極的な根拠を持つ。客観的世界とは、この世界についての間主観的な世界経験の「構成的」結果に他ならない。「上述の構成要素としての世界経験とは、単に私のごく個人的な経験を意味するのではなく、共同体的な経験を意味する。『世界』そのものは、ある意味で(sinngemäß)、我々全員が原則的に経験することができる、同一のものなのである。ちょうど『客観性』の付与(Asweisung)が相互の合意とその(肯定的)批判に基づいているのと同じように、我々は皆、自分の経験を『交換』することで、つまり共同体化することで、意思伝達でき0651、経験、明証は、存在を与え、そしてそれ自身を与える。それが不完全な経験であるときは不完全だが、その性質に従って、それがそれ自体を完全にするとき、つまり、一致の統合においてそれ自体を拡張するとき、より完全になる」のである0652。ある対象の客観的な現実的存在性(Wirklichsein)に関するあらゆる真実性の最終的な検証は、基本的に言えば、まさに途方もない仕事(gewaltige Arbeit)である。なぜなら、問題の明証は、とどのつまりは、それ自身だけでなく、共通の、間主観的な経験の基盤に戻ることによって確認され、復元されなければならないからである。(訳者注:間主観的とは、「それぞれ自己意識をもつ複数の個別的主観の間の関連を問題にする見地であるさま」;精選版 日本国語大辞典より)
20722 客観的世界あるいは客観的真実の間主観的(intersubjektiven)構成(Konstitution)という問題は、こうしてフッサールの認識論的批判の頂点を形成する。この問題についての彼の議論の結果は、次のようなものである。ある客観的対象の現実的存在性は、その存在と認識の究極的な根拠を、直接的で超越論的かつ間主観的な世界経験(Welterfahrung)の中に有している。
20723 対象一般の現実的存在性に関連した現象学的認識論的批判のこの短い記述を締めくくるにあたって、あらゆる認識の明証の根底にある「間主観的(intersubjektive)経験共同体(Erfahrungsgemeinschaft)」が、客観的に存在する世俗的な社会性という意味ではなく、むしろ超越的間主観性という厳密に現象学的意味で理解されるべきものであるという事実に注意を喚起することが不可欠であることを指摘する。もちろん、間主観的な共同体関係は、客観的に定在する(daseiende)人間相互間(zwischenmenschliche)関係(Beziehung)とみなすことができる。また、自我を超越論的な自我(Ich)との関連で、世俗的な(weltliches)自我(Ich)として扱い、説明することができるように、間主観的な共同体関係の本質的構造や本質的形式を論じることもできる。しかし、まさにこの理由から、ちょうど、構成的超越論的自我(Ego)という意味での自我(Ich)を、構成的世俗的自我から厳密に分離しなければならないのと同じように、「構成するもの(Konstituierende)」としての超越論的間主観性は、「構成されるもの(Konstituierten)」としての世俗的社会性と概念的に厳密に区別されなければならない0653。それ、すなわち超越論的間主観性だけが「現象学(Phänomenologie)」の問題において役割を果たすことができ、これ、すなわち世俗的社会性は「俗世間的(mundanen)」社会科学、特に社会学の対象として扱われなければならない。
20724 ここではこれだけを述べる。「超越論的」社会性と「俗世間的」社会性との差異と連関についての詳細な議論は、社会団体論の基礎を築くという我々の任務を超えている。なぜなら、社会学の方は最初から「俗世間的」社会存在の構造分析に設定されているからである。

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第八節 現実的対象と理念的対象

20801 客観的対象の現実的存在性は、それを意図する判断行為(Urteilsaktes)が、直接的で間主観的な経験において鮮明に(anschauliche)成就する(Erfüllung)ことによって確立される。この命題(These)は今、最も重要な問題を生じさせる。それは、「『理念的な』対象を確立する行為(Akt)は、どのようにしてその鮮明な成就を見出すことができるのか?」である。この節では、この問題が我々の頭を占めることになる。
20802 一般に理解されている「理念的な」対象の例として、幾何学的な意味での図形を取り上げてみよう。よく知られているように、円のような幾何学的図形は、理念的な限定的場合としてしか考えられず、具体的には決して物(Ding)と同じように与えられることはできない。従って、「実在する(Real-Seins)」という意味でその現実的存在性(Wirklichsein)を理解し、それを感覚的知覚能力(sinnliche Wahrnehmbarkeit)によって確認することは最初から不可能である。しかし、ある幾何学的図形を想像(vorstellen)できるようになるためには、そもそも感覚的な意味で何らかの実際の形を知覚しなければならない。厳密に幾何学的な意味での理念的な円は、実際、「対応する(korrespondierenden)」感覚的知覚、例えばコンパスで描かれた円の知覚に基づいて生じる。しかし、それはもちろん、純粋に幾何学的に知覚される円と同一ではありえない。ここで感覚によって認識される図形は、決して幾何学的な意味での円ではなく、むしろ理念的な図形「円」がそのようなものとして認識される機会(Anlasses)の役割を果たすにすぎない。コンパスで描かれた円は、純粋に幾何学的な円を想像したり見たりするための「特異な事例(Fall)」として、「典型(Exemplar)」として、「実例(Beispiel)」として、あるいは「実例の大まかな類似物」としてのみ機能しているにすぎない0661。しかし、純粋に幾何学的な円の現実的存在性や、それに言及する幾何学的定理(geometrischen Sätze)の真実性は、感覚的知覚の領域においてのみ関連する意味意図の十全の充足を求めるのであれば、決して確認できないことは明らかである。このような理念的な対象の場合、意味されることや思考されることは、感覚的な即時物性において与えられるものと一致することはありえない。しばしば理念的な対象の現実的存在性を完全に否定し、理念を現実と厳しく対立させる傾向があるとすれば、それは現実的存在性を現実的(Real-Sein)であることと同一視し、あらゆる 客体性(Gegenständlichkeiten)の現実的存在性の根拠を単に感覚的知覚(sinnlichen Wahrnehmung)に求めるからである。
20803 一方、フッサールは、理念的な対象の現実的存在性の可能性、いや必然性を基本的に示している。我々はまた、理念的対象が実在し、真に存在するものとして認識されうる条件についての知識をフッサールに負っている。しかし、この結果に到達するためには、フッサールはまず、知覚(Wahrnehmung)や直観(Anschauung)の概念を、従来の感覚的領域への限定から解放しなければならなかった。理念的な対象が持つ意味志向(Bedeutungsintention:意味のある意向)は、もちろん、感覚的知覚の中にその成就を見出すことはできない。とはいえ、この理念的な対象は、単に考えるものとしてではなく、実際に知覚されるもの、見えるものとして存在する。感覚的に知覚される円に基づいて理念的な幾何学的円を想像し、それに連関してあるアプリオリな関係(Verhältnis)を理解するならば、この理念的な幾何学的円は単に意味され、思考されるだけでなく、それと同時に、見られあるいは知覚されるものであることが明白かつ即座にわかる。幾何学における定理(Satz)とは、決して空中に浮かぶ言説(Aussage)ではなく、客観的な相関関係においてそれ自身を成就させ、確認する主張(Behauptung)なのである。従って、理念的な対象の実在性の究極的な根拠を見極めようとするならば、「知覚(Wahrnehmung)」や「直観(Anschauung)」という言葉を抜きにはできない。むしろ、これまで単なる感覚性の領域でしか追求されてこなかった知覚や直観の概念を、「範疇性(Kategorialität)」の領域にまで根本的に拡大しなければならない。そうすれば、理念的な対象がそれ自身を提示する特有の知覚(Anschauung)を、「感覚的知覚(sinnlichen Wahrnehmung)」と明確に区別するために、「範疇的直観(kategoriale Anschauung)」として特徴づけることができるだろう。
20804 ここで区別された二つの基本的な自己能与(Selbstgebung)の形態のうち、私は範疇的な(kategoriale)ものだけを「直観(Anschauung)」と呼び、感覚的な(sinnliche)ものだけを「知覚(Wahrnehmung)」と呼ぶのがより適切だと考える。純粋に理念的で幾何学的な図形を設定する行為は、このように、感覚的知覚の中にその成就を見出すのではなく、範疇的直観の中にのみその成就を見出すのである。一般に、「総体性(Inbegriff)」「多重性(Vielheit)」「全一性(Allheit)」などのさまざまな範疇形式のような理念的対象は、それ自体、単純な感覚性では与えられない。それらは、それらに対応する現実の対象が感覚的に知覚(Wahrnehmung)される機会に、範疇的直観(Anschauung)においてのみ与えられるのである。理念的対象の現実的存在性は、このように、関連する意図行為が、ある実在的対象の対応する知覚(Wahrnehmung)に基づいて、範疇的直観においてその成就を見出すという事実によって確認される0681
20805 ここで、感覚的知覚と範疇的直観の本質的な違いは何かという疑問が生じる。フッサールはこの違いを、両者の間の独特で漸進的な関係(Verhältnis)に見出す。感覚的知覚と範疇的直観が対象を「直接(direkt)」かつ「即座に(unmittelbar)」把握する限り、両者に本質的な違いはない。理念的な対象は、現実の対象が感覚的知覚において見出されるのと同様に、範疇的直観においても直接的に見出される。しかし、この対象の直接的な把握(Erfassen)は、次の場合に応じて、異なる意味と性格を持つ。「狭い意味での知覚(Wahrnehmung)であるか広い意味での知覚であるかによって、あるいは、『直接』把握(erfaßte)された対象が感覚的な対象であるか範疇的な対象であるかによって、言い換えれば、それが現実的な対象であるか理念的な対象であるかによって。我々は、感覚的な対象や現実的な対象を、可能な直観(Anschauung)の最も低いレベルの対象として、あるいは、範疇的な対象や理念的な対象を、より高いレベルの対象として特徴づけることができる0682」範疇的直観(kategoriale Anschauung)が感覚的知覚(sinnlichen Wahrnehmung)と異なるのは、範疇的直観が対象、すなわち理念的な対象を直接かつ即座に把握するのは、それはより高次の段階においてのみであるのに対し、感覚的知覚は最初の、最も低次の行為段階において、それに対応する現実の対象を把握するという点である。現実の対象は感覚の知覚行為の中で「単純な仕方で」構成される。「感覚的対象は知覚の中で一つの行為段階(Aktstufe)で存在する0683」これに対して、理念的対象が構成される行為、すなわち範疇的行為は、その本質において「基礎づけられた」ものであり、それらは感覚という単純な知覚行為が基礎づけたものである0684。例えば、コンパスで描かれた円の知覚は一筆書きで与えられるが、理念的で純粋に幾何学的な円の知覚は、現実の円の感覚的知覚によって基礎づけられたより高い行為レベルでしか生じない。一言で言えば、感覚的知覚は基礎づける(fundierender)行為であり、範疇的直観は核心をなす根拠づけられた(fundierter)行為なのである0685
20806 こうして、現実的なものと理念的なものの違いが一般的に明確になる。現実とは、感覚的知覚に「あからさまに(schlicht)」「一挙に(in Einem Schlag)」我々に現れる対象であり、例えば「外的な」ものである0691。外的なものは感覚的に知覚可能であり、単純に理解可能であり、その意味は感覚的経験の根底において十全な成就を見出す。外的なものの現実的存在性は、それが我々の感覚的知覚において単純に与えられている限りにおいて、明証をもって確認することができる。これとは対照的に、理念的な対象は感覚において直接的に与えられることはまったくない。感覚的知覚は、理念的対象の意味を十全に成就させることはできない。例えば、範疇的形式は、それ自体では感覚的に知覚できない。基本的に、範疇的形式の現実的存在性を、その意味の感覚的な成就によって確認することは不可能である。これは超感覚的な範疇的直観においてのみ確認できる。現実の対象と理念の対象との違いは、このように、一方では感覚的知覚として、他方では範疇的直観として現れる、即時的自己能与の対応する違いの中に、究極の理論的基盤(Fundament)を持つ。
20807 こうして原理的に区別された客観的対象の二つの基本的形式は、今や互いに非常に緊密で必然的な連関にある。この連関は、範疇的形式や理念的対象が、対応する感覚性の基礎の上にのみ存在しうるという事実に表れている。明らかに、すべての理念的対象は、現実的対象によって必然的に「基礎づけられ(fundiert)」ている。このことが、これら二種類の対象物の間に、独特の基礎関係(Fundierungsverhältnis)を生み出している。通常、現実的対象は、当該理念的対象を、単に特殊な事例として、標本として支えている。しかし、対応する現実を通しての理念の基礎づけは、決して常に「模範的な」基礎づけであるわけではない。いずれにせよ、ある現実的対象の認識は、対応する理念的対象の自己能与のための必要な契機としてのみ機能し、当該理念的対象は厳密に言えば、超感覚的な範疇的行為段階においてのみ与えられる。こうして、理念的対象は、範疇的直観においてのみ、その完全な姿を現す。即時的自己能与の場を(感覚的知覚から範疇的直観へと)拡張することによってのみ、理念的対象を批判的に明証する可能性が保証されるのである。よく知られているがしばしば誤解される現象学的な「本質直観(Wesensschau)0692」も含む範疇的直観は、こうして理念的対象の現実的存在性の究極の基準を提供する。
20808 ここで、理念的対象の現実的存在性(Wirklichsein)の根拠に関するこの議論を、前節で提示した個々の対象に対するすべての真実(Wahrheit)の鏡映関係づけ(Rückbeziehung)という一般的要件と比較するならば、理念的対象に関する現象学的認識論的批判は、本質的に二つの異なる手続きから構成されていることに直ちに気づかなければならない。
20809 上述で我々は、すべての一般的な判断は、そしてそのような判断が主に科学的認識を構成するのだが、個々の判断に還元されなければならないという原則を確立した。言い換えれば、より高いレベルの真実はすべて、元の個々の対象に直接関係し、そこに最終的な確認を見出す最も低いレベルの真実に還元されなければならない。あらゆる認識論的批判が繰り返し言及するこれらの個々の対象は、間違いなく「現実の(reale)」対象である。というのも、現実のもののみが究極的な個体(Individuum)でありうるのに対して、理念(Ideale)はその本質(Wesen)において多かれ少なかれ普遍的なものを含んでいるからである。その結果、すべての真実を個別的なものに鏡映関係づける(Rückbeziehung)という全体的な要請から、同時に、すべての理念的な対象を現実的なものに関連づける必然性が生じる。この必然性は、先に述べた現実の対象と理念の対象との間の「基礎関係」からも生じる。これら二つの基本的な客観性の形式間の基礎関係は、現実の対象が最初の、そして最も低い行為レベルで自らを示す一方、理念の対象は、最も低いレベルよりも多かれ少なかれ優位にある、より高いレベルにおいてのみ構成されることを意味している。現実の対象は、理念の対象を支えるものである。なぜなら、理念の対象は、現実の対象の知覚の契機においてのみ存在しうるからである。その結果、理念的対象に対する認識論的批判は、その現実的存在性を確認することができるようにするために、必然的に現実的対象へと遡らせなければならない。従って、理念的対象の現実的存在性は、それを基礎づける現実的対象との鏡映関係(Rückbeziehung)を通じてのみ、最終的な確証を得ることができるのである。この意味で、フッサールは「非現実的な対象よりも現実的な対象が優先される」とも言っている0701。このように、両者の間の基礎的な関係は、本質的に、理念的な対象の認識論的批判において、現在の、あるいは起こりうる、しかし常に現実的な対象との鏡映関係を必要とする。
20810 この要件は、もう一つの、一見正反対に見える必然性、つまり、理念的対象の現実的存在性の究極の基準は、感覚的知覚の中にあってはならず、範疇的直観の中にしかあってはならないという必然性と平行線上にある。理念的対象の明証批判は、密接に連関した二つの手順(Verfahren)から構成される。一つは、理念的対象をそれに対応する現実的対象に鏡映関連づけること、二つは、理念性特有の範疇的直観を通じてその現実的存在性を確認(Bestätigung)することである。次の課題は、これら二つの手順の間に必要な関係をまとめ、理念的対象に対する明証批判の両面性(Doppelseitigkeit)を完全に明らかにすることである。
20811 理念的対象は、その現存在領域(Daseinssphäre)を感覚的知覚可能な現実の中に見出すことは決してできないが、それでも、理念的な幾何学的円が現実の円の上にそれ自身を示すように、現実の対象物に立脚してそれ自身を示さなければならない。フッサールが言うように、理念的精神的実体は、「その特異な性質が空間的な拡張性、本来の局所性、可動性を排除する」ものであるが、「物理的な具象化」を可能にし、その結果、現実に参加することができるのである0711。しかし、理念が現実に「参加(Anteilhaben)」することは、決して恣意的な可能性ではなく、むしろ理念の現実的存在性(Wirklichsein)の基本的条件なのである。理念的対象は、それに対応する現実的存在が実際に存在するか、少なくとも可能性のある範囲において想像され、この感覚的現実性において当該理念的対象を下支えしている限りにおいてのみ、真実で、現実的でありうる。それゆえ、理念と現実の根本的な鏡映関係(Rückbeziehung)を求める認識論的要求は、理念と現実の間の本質的で、基礎づけ(fundierend)、基礎づけられた(fundierten)連関(Zusammenhanges)の必然的帰結に他ならない。
20812 しかし、このことは、理念的対象がその理念性においてまさに示す本質的な特異性を、単純な現実に純粋にそのまま鏡映関係づける(rückbezogen)ことができるという意味ではない。理念的精神的実体は、それが現実の根底(Urboden)に完全に還元され(reduzierte)てしまえば、もはや同じ実体とは見なされなくなる。もし理念的な円が現実の円を完全に鏡映関係づけされれば、それはもはや純粋の幾何学的実体とは見なされなくなるということである。特定の理念的精神的実体を支える現実の対象は、もちろん、それによって確立された理念的実体の代わりには、決して置かれてはならない。理念的な対象にそのような決定する本質的な特殊性は、決して単純に現実と鏡映関係づけ(rückbezogen:訴求す)ることはできないが、範疇的直観を通じてのみ把握することができる。理念的な対象は、常にその本質的な特異性において、範疇的直観の中で自己を示すが、対応する現実の感覚的知覚は、理念的対象のこの自己能与の基本的条件の役割を果たす。理念的対象と現実的対象との鏡映関係(Rückbeziehung)が不可欠なのは、まさに理念的対象の範疇的把握が、この還元的手法(reduzierenden Verfahrens)によって初めて可能となるからである。
20813 こうして、理念的対象の明証批判の本質的な二面性が完全に明らかになった。 理念的対象の明白な現実的存在性は、一方では、それに対応する実在性の感覚的に把握可能な根拠へと還元することによって確立される。なぜなら、現実は、あらゆる理念の自己能与の必要条件を構成するからである。他方で、理念的対象の現実的存在性は、まずそれ自身の超感覚的、あるいは範疇的知覚によって確認されなければならない。なぜなら、理念は純粋に感覚的知覚では決して完全な形でそれ自体を示すことはないからである。それゆえ、現実への鏡映関係づけは、理念的対象の明白な現実的存在性を確認するために不可欠な契機を形成し、同時に、範疇的直観による直接的理解は、理念的対象領域内のすべての認識にとって常に決定的な要因であり続ける。

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第九節 現実的対象の同一的存在(identische Sein)

20901 真実と現実の究極的な意味についての現象学的な議論の結果、我々は次のような基本的な認識(Erkenntnisse)を得た。第一に、理念的対象は、超感覚的(übersinnlichen)で範疇的直観(kategorialen Anschauung)においてのみ、実際に存在するものとして理解することができるということ、第二に、この理念的対象の理解は、常に、対応する現実の感覚的知覚(sinnlichen Wahrnehmung)の契機に達成されなければならないということである。さて、もし社会団体(soziale Verband)が、理念的精神的実体として科学的認識の独立した対象を表して、単に理念的に存在するものにすぎないということでなく、同時に現実に(wirklich)存在するものとして確立されるべきものであるならば、社会団体が理念的でありながら現実に存在しうるのは、どのような現実的基盤(reale Fundament)の上であるのか、ということを基本的に問わねばならない。
20902 社会団体の存在様式(Seinsart)をより正確に解明する前に、まずこの現象学的に導き出された基本的態度が、社会的あるいは歴史的存在という具体的な問題領域に容易に適用できるかどうかをまず検証しなければならない。単に実在論者や経験論者の立場から見れば、我々はここで根本的な非難を受けることを予期しなければならない。つまり、超感覚的な(übersinnlichen)根拠に基づいて現実(Wirklichkeit)を語ろうとしたり、「範疇的(kategoriale)」直観(Anschauung)を通じて理念的対象の現実的存在性(Wirklichsein)を確認しようとしたりするのは、根拠のない空想的な熱狂であるという非難である。我々はこの非難に確実に向き合い、最も深刻な方法で考えなければならないのである。というのも、フッサール自身ですら、「論理学研究・第六研究(die VI. Logische Untersuchung)」において理念的対象や範疇的直観について語ったとき、社会団体やその他の歴史的実体のような具体的対象を念頭に置いていなかったからである。フッサールがそこで理念的あるいは範疇的な自己能与(Selbstgebung)と表現したものは、上述したように、最も抽象的な範疇的形式、あるいは最も普遍性の高い事象含有的で本質的法則の自己能与に過ぎない。フッサールが、感覚的知覚(innlichen Wahrnehmung)に対立する超感覚的直観(übersinnliche Anschauung)を「範疇的(kategoriale)」と呼んでいるのは、理念的対象領域に関する彼の認識批判において、最も普遍的で最も抽象的な「範疇的」客体性(Gegenständlichkeiten)を、考察の前景に引き寄せているからである。このため、現象学派自身でさえ、歴史的・社会的実体を理念対象の領域内に置き、その現実的存在性の究極的根拠を超感覚的な「範疇的」直観に求めることは許されないと異論を唱えうるのである。
20903 「論理学研究」において、フッサールの理念的対象概念が狭められているのは、フッサールがその偉大な誠実さにおいて、疑いの可能性が排除されているような、最も注意深く精査された問題領域の中でのみ哲学的思考を展開しているという事実によるにすぎない。「範疇」形式が理念的対象のひな型を表現するよう定められていることは明らかである。しかし、これは決して、フッサールが単に「範疇」形式を理念的対象として理解させたかったことを意味するものではない。私の考えでは、むしろ、超越論的現象学の体系における理念的対象の領域が、論理的形式や範疇形式によって尽くされるわけではないことを示すことは可能だと思う。実際、彼のこれまでの著書で詳しく扱われることのなかった歴史的・社会的世界の対象領域の存在の構造を、彼の学説に基づいて徹底的に探究しようとするならば、フッサールの厳密に論理的な思考過程を根本的に拡大した意味で適用することがまさに不可欠である。
20904 我々は「現実的」対象の存在様式を批判的に分析し、現実主義や経験主義の絶え間ない主張に反して、この現実的対象は通常信じられているほど現実的ではないことを示すことによって、社会団体の存在様式を理念的対象のそれとして理解することはまったく合理的ではないという異論を克服しようとする。私は、感覚的知覚が最初から疑いの余地のなく作用する現実的対象そのものが、究極的にはその現存在の核心に理念的な何かを含んでおり、それがなければ、それ自体が「自己同一(identischer)」である対象として自らを示すことができないことを立証することまでを、自分の使命としている。従って、これは主として、現実的対象の「同一的存在(identische Sein)」についてである。

20905 我々は、現実的対象、つまり我々に直接与えられた外的なものを、同一の、唯一無二の対象として理解する。厳密に言えば、それ自体が同一でない「ある」対象を想像することは不可能である。我々が同一の対象について語るとき、この対象が同一であることは、最初から暗示されているか、前提とされている。
20906 ここで問題となるのは、「現実の(realen)」対象のこの「自己同一性(Identität)」が、最終的な分析において、実際に実在する、感覚的に知覚可能な性質とみなすことができるかどうかである。感覚的に「単純(schlicht)」で「一気に(in einem Schlag)」知覚できるとされる現実的対象の例として、机(Tisch)を取り上げてみよう。精神世界の規範理論に関する批判的議論では、逆の意味で同じ例を用いた。そこでは、自然の一部と見なすこともできる机が、その有用性と実用性において、すでに我々にとって「精神的」対象を構成していることを示した。しかしここでは、机を実際の生活にとって有用で価値のあるものにしているこうした性質を完全に考慮から排除している。そして、机を石や木片のような単純で外的なものとして我々に見せる。我々は、この机をさまざまな方向や距離から、あるいはある一定の方向から見ることができる。夜には卓上灯の光で、朝には日の光で見る。この机に対する我々の認識は常に変化している。その結果、この机もまた、さまざまな色に見え、その中でさまざまな「陰影(Abschattungen)」を見せる。それにもかかわらず、我々はこの机が常に同じものとしてそこにあることをよく知っていて、それ自体が同一である対象として見なしている。この現実の対象の「自己同一性(Identität)」は、最初は疑いようもなく自明のことのように思えるが、影を落として変化する感覚的知覚そのものでは、決して見出すことはできない。感覚的知覚の観点から見ると、実際には無限の多様性と絶え間ない変化があるだけで、決してそれ自身にとどまる同一性は存在しない。従って、対象の同一性を求める意図(Intention)は、厳密に言えば、決して感覚的知覚の中にその成就を見出すことはできない。言い換えれば、対象一般、ひいては現実的対象もまた、単なる感覚性では決して与えられない何かを示しているのである。
20907 このことはすでに、現実的対象の自己同一性は、感覚的知覚の客観的相関物(objektives Korrelat)ではありえないことを示している。現実的で外観的なものは、一つの同じ対象として、その自己能与の中に超感覚的なものをすでに含んでいる。少なくともその存在の核心において、つまり究極的な自己同一性において、理念的な何かを示している。例えば、私の机の上にある鉛筆を見るとき、私はその「こちら側の一面」しか見ない。しかしこの鉛筆には、今は見ることのできない「向こう側のもうひとつの面」があることを、私は最初から知っている。鉛筆を手に取り、くるりと回すと、想像していたとおりの反対側の面が目の前に現れる。このように、現実的対象の部分的な意図は、常に感覚的知覚の中で正確に成就する。同時に、私は、感覚的かつ実際に知覚されたそれぞれの面は、同一の対象の「一つの」面にすぎないことを常に意識している。ある現実的対象について、私がある瞬間に間違いなく知覚しているものは、常にこのものの一側面、一部分、あるいは特定の局面にすぎないということを、私は明証をもって認識している。しかしこのことは、私がすでに、この対象が全体として同一であることを前提としていることを意味する。一般的に、ある現実的対象の一部分だけが「前景(Vordergrund)」としてありのまま知覚に現れ、一方、同じ対象の他の部分は「後景(Rückseite)」として潜在的に与えられる、つまり隠されたままである。この隠された裏側の意図は、しかし、感覚的な成就を見いだすことができる。これらの部分的な成就の「統合」に向けられた「全体性の意図」は、しかし、決してそれが意味するとおりの感覚的な成就を見いだすことはできない。「全体」であり「自己同一」である一個で同一の対象は、感覚的な多様性よりも優れた上位の領域においてのみ存在しうるのである。
20908 これが、意識の現象学的構造分析に基づいて、対象一般の「普遍的理念性(allgemeinen Idealität)」について語ることができる理由である。意識の現象学的分析において、客観的に存在する対象一般は「超越的」対象を意味し、そのような対象として「内在的(immanenten)」な意識の流れ(Bewußtseinsstrom)と対立する。ある対象を意図する意識の流れは、必然的に、意図されたものに対してそれ自身を多様体(Mannigfaltigkeit)として提示する。これとは対照的に、超越的対象は、経験の多様性が向けられるものとして、すなわち多様な経験意図の統一された目標として、その本質に従って最初からその自己同一性を示す。このように、それは意図的経験の「自己同一性の極(Identitätspol)」を形成し、まさに個々の経験を超越するこの自己同一性において「超越的」なのである0761。厳密に言えば、「流れ」としての現実的で内在的な意識の流れは、それ自体において自己同一性を保つことができないので、このような対象に属する自己同一性は、もはや意識そのものの現実的な構成要素とみなすことはできない。あらゆる超越論的対象は、従って、単純に与えられた現実的対象も、必然的にその究極的同一性の中に非現実的で理念的なものを含まなければならない。この意味でも、フッサールは「構成的意識との関係における、あらゆる種類の対象の理念性」について語っている。フッサールは、「それで、物理的なものを含むあらゆる経験可能な対象の意味において、内在的な時間的個別化によって分離された多様な『精神的(psychischen)』過程、経験すること、そしてまた経験することができること、そして最終的には、あらゆる種類の、たとえ経験しない種類のものであっても、意識することができること、あるいは意識するようになることに対して、ある種の理念性(Idealität)が存在する。それは、それらを構成する多様性との関係において、すべての意図的単位の普遍的理念性である」と言う0762。従って、あらゆる現実はある程度まで理念性を含んでおり、あらゆる現実の客観性は、まさにこの究極的な理念性のゆえに、それ自体において統一でかつ自己同一であると認識できることは明らかである。

20909 より正確に分析すると、この対象の普遍的な理念性は、「構成的(konstitutive)」理念性と「存在論的(ontologische)」理念性に分けられる。前者は、超越的対象が、それを意図し「構成」する多様性との関係において、同一性の極として示す理念性であり、後者は、その多様で変化する「存在論的」性質や部分的要素との関係において、同一性を保つ理念性である。密接な連関があるにもかかわらず、この二種類の理念性は厳密に分けて考えなければならない。現実の対象が同一であることに関連してこの問題を考えるならば、我々は原理的には「存在論的」理念性を扱っていることになるが、それにもかかわらず、対象の「構成的」理念性については、フッサールが「イデーン 純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想(Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie)」で示したように、精密な現象学的な意識分析(Bewußtseinsanalyse)に基づいて、より詳細に論じることが不可欠である。
20910 超越論的現象学は、あらゆる可能な超越論的すなわち客観的対象を前提とするあらゆる可能な行為を「排除(auszuschalten)」あるいは「括弧づけ(einzuklammern)」し、現象学の基本的な場、すなわち「超越論的主観性(transzendentalen Subjektivität)」の場(Feld)に到達するために、まずその本質的な手続きとして「超越論的還元(transzendentale Reduktion)」を行う。そうして初めて、意識(Bewußtseins)の本質的構造を純粋に考え、記述することができるからである。さて、内在領域(Immanenzsphäre)に還元された意識の構造についてのこの純粋な記述は、何かを意図する経験の多様体(Erlebnismannigfaltigkeiten)と、それによって意図される同一性の極(Identitätspol)との間の関係(Verhältnis)が、この領域においても保たれていることを示している。つまり、後者(同一性の極)はある程度まで「内在の中の超越」として自らを提示するのである。よく知られているように、フッサールは、何かに向けられた意図的経験を「ノエシス(Noesis)」と呼び、意図的経験において意図された同じものの相関物を「ノエマ(Noema)」と呼んでいる。(訳者注:フッサールによれば、意識の本質は「指向性」、つまり「――の意識」であることにあるが、その指向の仕組みは、ギリシア語で思考作用をさす「ノエシス」と、思考されたもの(対象)をさす「ノエマ」の両概念によって説明される。日本大百科全書ニッポニカ、山崎庸佑氏)これによれば、純粋意識は本質的に「ノエシス-ノエマ」構造を示す0771。このように、例えば、自己能与の行為としての知覚は、意図し、知覚する経験として、ノエシスを形成し、知覚の行為を通して与えられる「知覚されたもの(Wahrgenommene)」は、そのノエマを構成する。同様に、記憶には必然的にそのノエマの相関物として「記憶されたもの(Erinnerte)」があり、意味には「意味されたもの(Gemeinte)」があり、判断には「判断されたもの(Geurteilte)」がある。このノエシス的なものとノエマ的なものの関係において、ノエシス的なものは同時に、自己同一のものを構成する多様体(Mannigfaltigkeiten)として自らを現し、ノエマ的なものは常に、多様体を統合へと導く統一性を意味する。この意味で、フッサールは「ノエマは単一性の場であり、ノエシスは多様体を『構成』する場である。多様体を『機能的に』統一し、同時に統一性を構成する意識は、実際には、『対象』の同一性がノエマ的な相関関係において与えられる場合には、決して同一性を示さない」と言う0772
20911 ここで解明された純粋意識構造における多様性と同一性の関係(Verhältnis)は、すなわち、ノエシスとノエマの関係は、同時に「現実(Reellem)」と「非現実(Irreellem)」の関係でもある0773。ノエシスは意識の現実的な構成要素であり、ノエマはその性質上、経験の非現実的な契機(Moment)を形成する。私が庭の木を認識するとき、私はその木を、私の外側に存在する客観的で実在する対象として見る。そして、木は超越的な対象としてそこに立っている。私は今、現象学的還元を実行し、木の客観的現実的存在を排除し、この現実性定立を括弧に入れ、無効のままにしておく。そうすれば、私はもはや、木の主観的知覚とそれを超越する客観的な木との関係ではなく、木の「意味(Sinn)」を与え、それを意図する意識行為と、それによって意図される相関物、知覚された木の「意味」との間に内在する関係を持つことになる。この純粋意識の構造分析では、「木」は木の「意味」以外の何ものでもない。意識という意図的行為のノエマ的相関物は、フッサールによって非常に拡大された意味で「意味(Sinn)」と呼ばれ、その「意味(Sinn)」はノエシス的な、意味付与行為によって「与えられる(gegeben;所与)」のである0781。この木のノエマ的な意味は、ノエシス的な意味付与行為を、本質的に非現実的ものとして対峙する。それゆえ、知覚において現実に現れるものは、単にノエシス的な多様体にすぎない。この多様体だけが、経験の現実の構成要素を形成しているのである。対照的に、この知覚におけるノエマ的なもの、すなわち知覚行為によって与えられる木の意味は、「同一性の極(Identitätspol)」を形成するだけでなく、経験の「非現実的な」契機でもある。同一の「ノエマ(Noema)」は、その「同一性」においてだけでなく、独特の「非現実性(Irreellität)」においても、多様な「ノエシス(Noesis)」と対照をなしている0782
20912 意識におけるノエマ性は、今や、多段階構成で、この独特の非現実性を示している。ノエマは一般に、さまざまな「述語的性質(prädikativen Eigenschaften)」から構成されており(訳者注:ノエマの述語的諸規定は、形象そのものに属していないで、純粋意識の領域内で構成されるものにすぎない)、それらはノエマ的なものとしてノエシス的多様体の対極に立ち、すでにその非現実性を示している。従って、例えば、庭で知覚される木の「色」も、現象学的還元の実行によって「括弧」の中に置かれると、ノエマに属する。この色は、それが木の一つで同一のノエマ的性質を形成する限りにおいて、知覚経験の現実的な構成要素ではなく、多様な射映(Abschattungen)の中に自らを現わす「感覚的な色(Empfindungsfarben)」のノエマ的統一点を形成するのである。木の「性質」としての、この同一で本質的に不変の「色(Farbe)」は、絶えず変化し、従って、現実の(reelle)経験要因(Erlebnismoment)として現れる「感覚的な色(Empfindungsfarben)」に還元されることはない。つまり、それは実際には、知覚経験の非現実的な構成要素にノエマ的対象として属している0791。それゆえ、対象のノエマ的性質には、最初の、そして最も低いレベルでの非現実性が当てられる。
20913 対照的に、さまざまなノエマ的性質の統合(Synthese)としての「対象(Gegenstand)」は、ノエマに関連する非現実性をより高いレベルで示す。 対象は、その性質や述語(Prädikate)の合計ではなく、それらの統合的な統一体である。従って、木の「色(Farbe)」「大きさ(Größe)」「形(Gestalt)」などのノエマ的な特性の単なる蓄積だけでは、統一された自己同一の対象、つまりノエ的ななものとしての「木」を作ることはできない。むしろ、「木」ーノエマ的な全体としての木ーはさまざまな特性を「担う(trägt)」「何か(Etwas)」として、より高い段階のノエマ的統一の上に立っているのだ。この「何か(Etwas)」 は、述語の「担い手(Träger)」「接続点(Verknüpfungspunkt)」「中心統一点(zentraler Einheitspunkt)」として理解することができるが、最終的な分析においては「対象(Gegenstand)」に他ならない。(0792)「それは中心的なノエマ的契機(Moment)として自らを分離する。『対象(Gegenstand)』『客体(Objekt)』『自己同一性(Identische)』『可能的述語の規定可能な主語』(あらゆる述語を捨象された純然たるX)は、これらの述語から、より正確には述語のノエマから自らを分離する」のである0793。さて、もしノエマ的述語が、ノエシス的現実との関係において、それ自体が非現実的なものであることをすでに示しているのであれば、対象自体が、そのさまざまな非現実的な述語の統一の中心点として、「ノエマ」の究極的な核心として、この非現実性をより高度に明らかにしていることは、これ以上説明するまでもなく理解できる。こうして、意識の現象学的構造分析は、統一性と自己同一性は「ノエマ的」の側でのみ生じ、従って意識の非現実的契機を形成するという重要な事実を立証する。そして、ノエマ的述語の自己同一性と統一性の最終地点としての対象は、このノエマ的特有の非現実性を、さらに強調された形でより高い段階で示す。
20914 明らかに、ここで我々は、対象の「構成的」理念性の考察から、その「存在論的(ontologischen)」理念性の分析への移行点に到達する。我々が意識の内在的構造分析において、対象の多様なノエマ的性質との関係における究極的な非現実性として解明したことは、原理的には、超越論的対象のさまざまな「存在的(ontischen)」性質との関係における普遍的な理念性と類似している。
20915 ここで、純粋現象学的な意識分析の立場を離れ、「自然な態度(natürlichen Einstellung)」に戻る。今度は、庭の木を、我々と向かい合う客観的に存在する対象として考える。この超越的な対象は、葉の色や枝の形や数といった「存在的(ontischen)」な性質が絶えず変化しているにもかかわらず、自己同一性を保っている。木は、春には鮮やかな花を咲かせ、夏には青々とした葉を茂らせ、秋には豊かな実りをもたらし、冬には葉を落とし荒凉たる姿を我々に見せるが、自己同一性を保つ。存在的多様体におけるこの自己同一性は、木が同一の木として認識されるという目的だけのためには、感覚的知覚(sinnlichen Wahrnehmung)そのものには決して現れず、これらの実際に与えられた性質を超えた統合的な「全体性(Ganzheit)」としての超感覚的直観(übersinnlichen Anschauung)の中にのみ現れる。意識の内在的分析において、最後のノエマ的統一点として確立された「対象」が、そのノエマ的述語よりも根本的に高い非現実性を持っているように、あらゆる超越論的対象もまた、その自己同一の存在の核心において、本質的に理念的な何かを含んでいる。

20916 現実主義や経験主義がすべての「正確な(exakten)」認識の究極的な裏づけを求める「本当の(reale)」対象は、感覚的知覚(sinnlichen Wahrnehmung)では決して完全には明らかにされないということを、私はこのように明らかにしたつもりである。その意味で、山内得立0801もその「現象学叙説」の中で、「外在的事物は、その諸性質の保持者として、すでに複雑な対象である。外在的事物の知覚は、単なる感覚的知覚として完全には解明しがたいものをすでに含んでいる。むしろ、あらゆる事物の知覚は感覚的であると同時に範疇的であると言わなければならないだろう」と主張している0802。たとえ「範疇的」直観(Anschauung)という概念をここまで極端に拡張することが許されないとしても、現実の対象を知覚するという行為は、一般にそのように素朴に信じられているほど単純明快なものでは決してないことを強調する山内の見解には、容易に同意することができる。現実主義者の視点から見れば、社会団体(soziale Verband)の現存在領域を精神的理念性に求め、超感覚的直観(übersinnlichen Anschauung)でそこにその現実的存在性(Wirklichsein)を確立しようとする我々の試みは、おそらく確固とした基盤を欠く空想として非難されるだろう。それに対して、我々は今次のように言うことで、これまで明らかにしてきたことを、断固として前に進めることができよう:実在を単に感覚的に知覚可能な実在と同一視し、あらゆる理念的対象の現実的存在性(Wirklichsein)を最初から不可能なもの、あるいは無意味なものと考えようとするならば、急進的現実論は、必然的に自己否定(Selbstverneinung)に至らざるをえない。というのも、あらゆる現実的対象は、結局のところ、ある理念性によってのみ一様で自己同一のものとして、現実的で客観的な対象として、認識されうるからである。
20917 それゆえ、理念性を欠く現実は、まったく存在しない。その統一性と自己同一性に関して、何らかの超感覚的な自己能与(Selbstgebung)を前提とせずに、真に存在する対象について語ることは決してできない。すでに、すべての真実(Wahrheiten)を経験(Erfahrung)の原初的根拠(Urboden)にまで遡及させるという急進的な要求を持つ現象学的認識批判は、「急進的経験主義」と表現できると述べた。しかし、あらゆる対象の現実的存在性(Wirklichsein)が確認される究極的な経験は、いかなる場合にも単なる感覚的知覚を意味するのではなく、究極的には常に超感覚的なものであり、同時に、存在と真実の問題の現象学的解明の本質は、むしろ「急進的先験主義(radikalen Apriorismus)」として理解されなければならない。

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第十節 理念的対象の自己同一的存在

21001 これまでの議論は、現実的対象と理念的対象の間の厳密な区別を撤廃する道を指し示すものであると考える人もあるかもしれない。一方では、より理念的な対象は常に現実の基盤に対応する現実的対象を持っており、他方では、より現実的な対象がその同一性の中心点に理念的な何かを含んでいるとすれば、これら二つの違いは、おそらく、理念性の程度の相対的な違い、すなわち、究極の現実的多様体(Mannigfaltigkeiten)からの「距離(Entfernung)」の程度の違いに還元されるはずである。しかし、便宜上、また用語の用法上、現実的な対象と理念的な対象との区別は維持し、単純な細部として自らを提示する外的な「もの(Ding)」を「現実的な」対象と呼んでもよい。このように、現実的対象は、それに従属する一つの個別の対象によって実体化されることなく、そのさまざまな従属的「性質」の統一的統合によって直接的に成り立っている。一方、理念的対象とは、その現実的存在(Wirklichsein)が、それに対応する特定の現実的対象によって直接的または間接的に基礎づけられているものである。
21002 もちろん、この区別は、フッサールのように「外的なもの(äußeres Ding)」を現実的対象の例とし、これを「範疇形式」のような最高の理念性と抽象性を持つ客体性(Gegenständlichkeit)と対比させる限り、これ以上説明することなく維持することができる。しかし、この純粋に図式化された現実と理念の対立の領域を離れ、無限に多様で多かれ少なかれ実質的な(sachhaltige)意味形成体(Sinngebilde)が存在する具体的な精神的世界に入れば、現実的対象と理念的対象との区別は、ほとんど相対的な意味でしか認識できないことにすぐに気づく。というのも、一方では、最も具体的な精神的実体でさえも、単なる感覚性(Sinnlichkeit)の中にその完全な形と特異性が与えられることは決してなく、この意味で、それらは明らかに理念的なものだからである。他方、理念的な精神的実体は、より高次の理念的の精神的実体でさえも、常に感覚によって知覚されうるある種の現実との必然的な関連性を持っている。単純な現実から絶対的に独立していることはありえない。具体的な精神的実体においては、現実性と理念性はきわめて微妙な仕方で結びついている。
21003 具体的な精神的対象、例えば私が今書いている机のようなものは、それがある木でできていて、ある形をしているから精神的なものであるだけでなく、この素材と形によって、それが創造された目的のために、特定の有用性(Brauchbarkeit)を持っているからである。明らかに、机のこの有用性は、その外的な構造と密接に連関している。しかし、机を 「机(Tisch)」たらしめている具体的な有用性は、その内的、精神的な 「意味(Sinn)」にのみある。その意味自体は、単に感覚的な(sinnlichen)外見(Äußerlichkeit)には決して現れない。この特定の机は、それ自体が「個体(Individuum)」として存在し、一見すると「現実的な(reale)」客体性を持つように見えるが、だからといって、我々が通常考えているほど現実的ではない。むしろ、机の外的な、あるいはモノのような(Dinghafte)性質は、机の内的な、あるいは意味のある性質と明らかな底礎の連関(Fundierungszusammenhang)がある。机の外形と素材は、有用で使用可能な机そのもの、つまり精神的対象としての机を支えるものである。これは底礎であり、従って最初から理念的存在領域に属している。従って、単純な現実という概念は、精神の世界における「限界概念(Grenzbegriff)」としてしか使用できない。厳密に言えば、単純な現実そのものは精神世界の境界の外にある。精神的なもの全般、従って最も具体的で絶対的に個別的な精神的対象は、たとえその理念性が現実と直接不可分に結びついているとしても、その本質からして理念的な対象なのである。
21004 特定の机のような、最も具体的で絶対的に個別の精神的実体を、単に外的な現実的自然からきっぱりと区別するために、それを「事実性(Faktizität あるいは Tatsächlichkeit)」と呼ぼう。従って、事実性は、自然的現実に最も近い精神的理念性の領域を形成する。従って、事実性とは精神的理念性の最下層であり、自然的現実に直接基礎を置くものである。しかし、事実的対象の存在の究極的な核心は、それ自身の理念的な「意味(Sinn)」にあり、それは決して、それが基づいている現実に完全に還元されることはない。
21005 ある事実的対象の意味ある(sinnhafte)現存在の核心は(Daseinskern)、今やその自己同一の存在を保証している。ある事実的な精神的実体が、その存在論的(ontischen)特性や構成要素の変化や変容にもかかわらず、同一の対象であり続けるとすれば、この自己同一性の究極的な基礎は、問題となっている精神的実体の存在の理念的で意味のある現存在の核心にのみある。特定の机は、その構成部品が改造されたり修理されたりしても、この机の具体的な意味が変更されずに維持される場合に限り、同一の対象であり続ける。
21006 それゆえ、具体的で事実的な精神的実体(Geistesgebilde)の現実的存在性(Wirklichsein)を確認するためには、まず、それが成立している現実性(Realität)への鏡映関係づけ(Rückbeziehung)が必要となる。そして、精神的実体は、超感覚的直観(übersinnlichen Anschauung)においてのみ、つまり、それをそのようなものとして決定する意味の直観においてのみ把握されうるのである。ここで、この精神的実体を支える現実の感覚的(sinnliche)知覚(Wahrnehmung)は、超感覚的(übersinnliche)にそれを把握するために必要な契機を形成する。しかし、この知覚は、対象そのものを超感覚的に知覚するための原因としてのみ機能する。ある精神的実体が明らかにされるこの超感覚的自己能与は、語の非常に拡大された意味での「範疇的(kategoriale)」と呼ぶことができるだろう。しかし、この呼称は最も普遍的で抽象的な理念領域においてのみ有効であるため、ここでは具体的理念的な精神的実体の超感覚的な自己能与(Selbstgebung)を「意味的直観(sinnhafte Anschauung)」と名づけたい。「理解(Verstehen)」とも呼べる意味的直観は、このように、現実の対象の自己能与、すなわち「感覚的(sinnlichen)」知覚(Wahrnehmung)と、純粋に論理的な実体の自己能与(狭義の「範疇的」直観)とのまさしく間に立っている。まさにそれを「意味的(sinnhafte)」直観(Anschauung)と呼ぶことが推奨されるのは、そこで把握されるのは、結局のところ、問題となっている精神的対象(geistiger Gegenstand)の具体的な「意味(Sinn)」に他ならないからである。意味的直観(sinnhafte Anschauung)は、それに対応する感覚的知覚(sinnliche Wahrnehmung)を基礎とする、より高次の行為段階で行われる。具体的な精神的実体は、それに対応するある現実あるいは可能な現実の感覚的知覚を必然的に基盤(Fundament)としながらも、それに特有の意味的直観においてのみ、真に存在する対象として自らを明らかにする。
21007 この底礎の連関(Fundierungszusammenhang)は、単純な現実とそれに対応する理念の間に存在するだけでなく、精神的な事実とその上の高次の理念の間にも、類似した形で存在する。このように、ある種の個々の道具は、関連する「この種の道具(Werkzeug dieser Art)」を実体化するものであり、その道具は、その十分な根拠によって、すでに高い理念性と普遍性の段階に立っている。例えば、我々が時計を見るとき、それは単に一つの個別の時計を見るのではなく、時間を決定するための特定の普遍的な道具、つまり時計「というもの」を見るのである。この「特定の」道具である時計は、それが個々の時計によって基礎づけられている限り、より高い普遍性と理念性を持つ対象である。ちなみに、それは単なる「総称(Gattungsbegriff)」ではなく、個々の模範的な時計によって基盤(Fundament)が形成される現実的存在性(Wirklichsein)をも明らかに持っている。古い時代も「時計」を知っていたと言われる。しかし、厳密に言えば、これは昔からいくつもの個別の時計が存在していたことを意味するのではなく、より原始的な形、例えば「砂時計」の形ではあったが、時間を計測する道具が当時すでに存在していたことを意味する。このように、「時計」という特定の道具は、個々の時計よりも徐々に高くなる理念性と普遍性を持つ精神的対象をすでに形成していたのである。
21008 精神的実体は、特定の道具のように、例示的で究極的な個体を基礎としている限りにおいて普遍的である。しかし、それは範疇的な(kategoriale)形式を持つ最高の普遍性からはかけ離れている。基本的に、ここにはまだ具体的なものがあり、それはその具体的な意味によれば、究極的なものではないにせよ、まだ「個体(Individuum)」として理解することができる。より現実に近いこの具体的な個体性において、この実体は今、より高い理念性と普遍性を持つ具体的で精神的対象が現実に存在する根拠として機能しており、その精神的対象は次に、その実体に固有の行為段階において姿を現すことになる。このようにして、より現実に近い精神的実体と、より普遍的で理念的な精神的対象との間の「底礎の連関」が繰り返され、最終的には精神の世界全体が、具体的な理念的対象からなる、非常に多様で、非常に複雑な、複数の階層に構造化され構築されるのである。あらゆる人文(精神)科学的(geisteswissenschaftliche)の研究にとって、この精神の世界の階層的な構造を明確かつ厳密に理解することは根本的に重要である。
21009 精神の世界の全体構造の解明には、何よりも理念的対象の自己同一性の問題を扱わなければならない。というのも、具体的で理念的な精神的実体は、基礎としても土台としても、その自己同一の、多かれ少なかれ完結した存在においてのみ、明確で独立した客体的存在(Gegenständlichkeitsein)となりうるからである。従って、ここでも、「理念的対象の自己同一の存在」が議論の中心的な問題を形成する。

21010 精神の世界の階層的な構造では、より現実に近い対象が、より上位の(übergeordneten)対象の自己同一の現実的存在性(Wirklichsein)を下支えするようになり、その際、下位の(untergeordnete)対象は、客体化された対象との本質的な「同質性(Homogenität)」において、あるいは、同じ秩序の他の「異質な(heterogenen)」対象との構造的な関連においてのみ、現実の基盤となる役割を果たす。このことから、理念的な精神的実体の基礎となる同質なものと異質なものとの根本的な違いが生じる。厳密に言えば、「同質な(homogener)」多様体(Mannigfaltigkeiten)の土台の上に、ある理念的な対象の現実的存在性を構成することだけが、狭い意味での自己同一性(Identität)に関係するのだとすれば、「異質な(heterogener)」個別性(Einzelheiten)に基づき同じ対象を構成することは、統一性(Einheit)と全体性(Ganzheit)の原理につながる。従って、理念的対象の自己同一性存在(Sein)の問題は、狭い意味での「自己同一性(Identität)」の問題と、その「統一性(Einheit)」の問題に分けられる。
21011 より高い普遍性と理念性を持つ精神的実体は、その典型として機能するあらゆる精神的客体性がその全体においてそれに対応し、その結果、その個別性においてその基盤を構成するという点によって、狭い意味での自己同一性を示す。従って、この場合、ひとつの典型が、対応する理念的な精神的実体を支えている。時には非常に不完全で不正確であることもあるが、それにもかかわらず、その全体的な形では本質的に同質である。理念性のより高い段階にある十分に根拠のある実体の範囲は、この実体を支える典型的客体性の範囲と完全に一致する。この場合においてのみ、「典型(Exemplar)」という言葉は意味を持つ。
21012 このような、意味的(sinnhaft)に理解可能な高次の理念的精神的実体の同質な(homogene)基盤は、原画(Original)の作品とその模写や複製との関係を例にとれば、最もよく理解できる。私は、日本の歌麿の木版画の模写を見るとき、徳川時代のこの特異な画家の真正の作品とは確かに異なるものを見る。より正確に考察すれば、私が見ているのは、芸術作品の単なる「模写」ではなく、究極の個体として、厳密な意味での事実として、原画とも他のあらゆる模写とも多かれ少なかれ異なるものであることがわかる。しかし同時に、歌麿の特異な、芸術的創造の「意味」を理解し、それは、常に自己同一のままである事実の同質な多様性の中に自らを現すのである。もちろん、同質性において一つで同一の芸術作品の基礎をなす事実的多様性の間には、本質的な「類似性(Ähnlichkeit)」がある。しかし、事実的な同質性において自己同一であると理解されるものは、決して単に外形的な類似性に還元されるものではない。事実的な類似性あるいは同質な多様体は、感覚的知覚(sinnlichen Wahrnehmung)の根拠において直接それ自身を示す。他方、これらの多様体における自己同一性は、感覚的現実(sinnliche Realität)に直結した事実性の領域では決して見出すことができない。個々の模写を見ることは、厳密に言えば、原画そのものを見ることさえも、問題の芸術作品の理念的な自己同一の意味を見て楽しむための事実上の機会を提供するにすぎない。それは、作品にまつわる 「意味的(sinnhaften)」直観においてのみ明らかにされる。
21013 植田寿蔵0861は、その機知に富んだ論説「原画と複製0862」の中で、この考えを次のように表現している。「一般に芸術作品の『自己同一性(Identität)』の本質は、結局のところ、当該芸術作品に特有の芸術的意味(Sinn)の無限性(Unendlichkeit)にある。言い換えれば、これこそが『原画であること』の本質なのだ。芸術作品の原典(原画)性とは、それが存在し続けるある時点で示す、同じもののある特定の状態を意味するのではなく、むしろ、そのようなあらゆる時間的状態を超越し、そもそもそのようなものとして決定する全体であり、単なる一時性においては決して、その完全な姿を現さないものなのである。ミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の壁画、レオナルド・ダ・ヴィンチによる「最後の晩餐(das Abendmahls:il Cenacolo)」を原画と呼ぶことができるのは、たとえ現在の状態が制作当時の原画ともはや同一ではないことを明確に示したとしても、原画であるという概念において、この絵画に内在する美的意味の無限性だけを理解するからに他ならない。複製(Nachbildung)を特定の芸術作品の複製たらしめているものもまた、この美的意味の無限性に他ならない。我々が「最後の晩餐」の模写(Kopie)、それも非常に粗い模写を目にするとき、我々はそこに原画とはまったく異なるものを見いだすが、それにもかかわらず、我々はそれを、まさにこのレオナルドの壁画の「模写(Abbildung)」であると、確固たる確信をもって理解するのである。この確信の理由もまた、この絵画作品、すなわちレオナルドの『最後の晩餐』という絵画が持つ特有の意味にあり、それは同時に原画を原画として定義している。しかし、確かに、複製画はこの美的意味を完全に示しているわけではなく、比較的不完全な形でしか見せていない」と。
21014 ここで明らかにされた、それ自体が自己同一であり続け、意味的に直観されうる(sinnhaft anschaubaren)精神的実体と、それに対応する同質な多様体との間の基礎関係(Fundierungsverhältnis)は、理念性のより高い段階でも繰り返すことができる。歌麿の木版画を見るとき、それが原画であれ模写(Abbildung)であれ、この日本の木版画家による個々の特定の作品を見るだけでなく、同時に「歌麿特有の木版画芸術」全体の芸術的な特殊性と個性を見ることになる。この「歌麿特有の木版画芸術」全般の芸術的な特殊性と個性こそ、歌麿の芸術的創作における具体的で普遍的な「意味(Sinn)」であり、それは彼が創作する個々の作品に必然的に現れるが、個々の作品のそれぞれの意味と完全に一致することはない。この高次の理念性の段階から見ると、一つひとつの作品は、歌麿の芸術精神がそれ自体独立した自己同一の実体として見られる標本的な役割を果たす。この版画家の木版画は、ちょうど、彼の作品の一つひとつが、理念性や普遍性という低い段階において、すでに「個(Individuum)」を構成(ausmacht)しているように、その全体性と独特の美において、自己完結した個を形成(bildet)している。
21015 では、この具体的で普遍的な精神的実体の領域で、もう一段上に登ってみよう。そのとき、我々はもはや個々の芸術家の芸術を見るのではなく、特定の時代の特定の人々(Volkes)の芸術精神(künstlerischen Geist)を見るのである。例えば、今日の欧州人が日本の木版画に興味を持った場合、その関心はまず徳川時代の日本美術全般の特異性に奪われ、その後に特定の作家の個々の作品に向けられる。こうして、個々の作品を通して、日本の木版画の精神を統一された独立した実体(Gebilde)として、すなわちそれ自体が自己同一の個体として見ることができるようになるのである。この観点からすると、個々の作家の個々の作品は、この普遍的な芸術精神の従属的な代表として理解することさえできる。こうして「徳川時代の日本の木版画」は、全体として統一された自己同一の精神的実体を形成する。それは、個々の作家の芸術精神とは対照的に、普遍性と理念性の段階を一段引き上げたものとなる。同じように、「希臘(ギリシャ)人の造形芸術(die bildende Kunst)」や「浪漫(ロマン)派の獨逸(ドイツ)音楽」も、その多様な独自性にもかかわらず、紛れもない共通点があるという点で、それぞれが統一された個別の精神的実体であるとみなすことができ、その精神的実体は、そこに属する芸術的個性や創作に立脚している。
21016 精神の世界のあらゆる場所で、具体的理念的な精神的実体について類似した構造分析を行うことができる。高次の理念性を持つ精神的実体の自己同一の存在は、それに従属し、それを支えるさまざまな対象が、その多様性にもかかわらず、ある種の同質性を示し、まさにこの同質性を示すような方法で構成されていることがわかる。時には正確ではないこともあるが、それにもかかわらず、その全体性において一致するような形で構成されていることが、いたるところで見出されるであろう。

21017 この「同質な基礎」とは対照的に、高い段階の理念性の精神的実体は、それに対応する具体的対象が同質な典型(Exemplare)として機能せず、むしろその複数性において本質的な異質性を示し、そして、その全体性におけるこの異質性においてこそ、高い段階の理念性の関連する精神的実体が基礎づけられるのである。この場合、より低い段階の理念性に属する異質な対象は、高い段階の普遍性の個々の精神的実体のさまざまな「部分」を形成し、それとの関係において、高い段階の普遍性は、その本質的なものである「全体(Ganze)」としての自己を明らかにする。既に述べたように、「統一性(Einheit)」と「全体性(Ganzheit)」の原理は、本質的に異質な多様体を通して、本質的に自己同一の理念的対象が構成されることによって明らかになる。精神の世界における構造的全体性は、このように、主として「異質な(heterogenen)基礎」の中に与えられる。
21018 異質な基礎を論じるにあたって、我々は道具(Werkzeug)の存在様式(Seinsart)の構造分析から出発したい。異質な多様体の構造的全体性としての道具の存在様式は、現在、マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger)の精神哲学の嚆矢である「実存論的分析(die existentiale Analytik)」に優れた表現が見られる。(訳者注:実存的体験を基礎として、個々の実存に共通な実存性を、事物の範疇とは異なった実存範疇を通じて解明するのが実存論的分析。日本大百科全書)
21019 ハイデッガーによれば、存在論的な意味での人間である「現存在(Dasein)」が、その本来の実践的な態度において、共にしなければならない「存在者(Seiende)」とは、「もの(Zeug)」である。日常生活には、筆記用具、裁縫道具、工具、車両、計測器など、無限の多様なもの(Zeuge)が存在する。ものの本質的な存在様式は、それが常に全体の中に、つまり本質的な「ものの全体性」の中に存在しているという事実の中に、示されている。ものの存在には常に、そのものがそのものであることができる「もの全体」が含まれている。だからこそ、ものは単なる個別性(Einzelheit)では決して与えられないのである。ハイデッガーは、「ものは、厳密に言えば、決して一つだけで『ある』ことはない(Ein Zeug "ist" strenggenommen nie.)」と言う0891
21020 このような「ものの全体性」としてのもの(あるいは道具)の存在様式は、その究極的な根拠を、もの(道具)自体の本質に、すなわち、そもそももの(道具)をもの(道具)たらしめるもの--その「存在性」に持っている。もの(道具)の本質は、それが「何か~するためにあるもの(道具)」という存在性を示すという事実にあるからである。あらゆるもの(道具)は、有用性(Dienlichkeit)、適合性(Beiträglichkeit)、使いやすさ(Verwendbarkeit)、手ごろさ(Handlichkeit)といった、「~するために(Um-zu)」という独自の存在様式を持っている。そして、こうした「~するために」というさまざまな存在様式が、今や、もの(道具)の全体性としての存在様式を構成しているのである。「『~するために(Um-zu)』という構造には、何かから何かへの参照がある」 その性質上、もの(道具)は他のものと必然的なつながりを持つ。「ものは常に他のものに属する道具的存在(Zeughaftigkeit)である。筆記用具、ペン、インク、紙、下敷き、テーブル、ランプ、家具、窓、ドア、部屋などである。これらの『もの(Dinge)』は、最初はそれ自体で現れることはなく、現実の総体として部屋を満たすために現れる。我々がもっとも身近に出会うものは、たとえ主題的に把握されてはいないとしても、部屋である。我々はこの部屋というものに、「四つの壁に囲まれたあいだ」としての幾何学的な空間という意味ではなく、住む道具として出会っているのである。この部屋のほうから、そなえつけられた「調度」が現れてくるのであり、この調度のうちで、おのおの『個別(einzelne)の』道具が現れてくる。個別の道具に気づく前から、すでに道具立ての全体性が露呈されているのである0892」こうして「もの」は、それが単なる個別性において与えられる前に、統一された全体を形成する。例えば、ラジオ受信機は、「個々の」ものとみなされる前に、ラジオ送信機との必要なつながりにおいてのみ存在する。それゆえ、「もの(Zeug)」は一般的に、全体性の概念であり、それは「ひとつ(einen)」の同質で本質的に自己同一の対象を形成している。その同質で本質的に自己同一の現実的存在性(Wirklichsein)は、無限に多様な機能と異質な形態を持つ個々の具体的なものが、常に同一の全体性の「部分(Teil)」を形成し、他のものとの有機的な構造連関の中で、ものの究極の全体性を形成しているという事実によってのみ成立する。
21021 ここで特にもの(道具)との関係で説明してきた具体的・理念的な精神的実体の異質な基盤は、精神世界においては広く一般的に観察することができる。同質的基礎と同様に、異質的基礎もまた階層的秩序で形成され、後者は常に前者と密接に関連している。この実態を、芸術作品を手がかりにさらに明らかにしよう。
21022 例えば、我々は今、あるコンサートホールで、ある指揮者が指揮する、ベートーベンの「交響曲第五番」を聴いている。我々の外的知覚(äußeren Wahrnehmung)においては、ある時間内にある特定の方法でつなぎ合わされた無数の個々の音や音の組合せが聞こえている。しかし、これらの単純に知覚される多様な音の単なる総和が、「ベートーヴェンの交響曲第五番」と呼ばれる芸術作品そのものを意味するものでは決してないことはまったくもって明らかである。むしろ、こうした多様で外的な聴覚的知覚の中で、我々は数多くの旋律や和声、主題や変奏を耳にするのだが、それらはある意味ですでに、多かれ少なかれ自己完結した音の形成物とみなされており、もはや単なる感覚的現実に属するものではなく、精神的事実の領域に属するものである。これらの異なる旋律と和声、主題と変奏は、まさにその異質性において、独立した部分ではないが、それらが全体として一つの一体となった芸術作品を形成している。
21023 この事実は、交響曲全体と個々の楽章との連関を考慮に入れると、さらに明確になる。一方では、交響曲の個々の楽章は、それ自体が独立した調性構造を形成していて、それぞれに美しさと個性があり、それゆえ、楽章同士は明らかに互いに「異質(heterogen)」である。他方で、この異質性にもかかわらず、あるいはまさに異質性ゆえに、それらは互いに意味を持って連関し、最終的にベートーヴェンの「交響曲第五番」というユニークな音楽芸術を構成している。このように、個々の楽章は、決して同質な「典型(Exemplare)」として統一された交響曲の基礎を形成しているのではなく、まさに不均質な「部分(Teile)」として形成されているのであり、一方、交響曲それ自体は、この部分の不均質性によって初めて、意味ある(sinnhaft)理解可能な「全体(Ganzes)」として姿を現すのである。具体的で理念的な精神的実体の構造的全体性は、異質な基礎の必然的法則によって構成されており、究極的な全体は意味的直観(sinnhaften Anschauung)の上位行為段階においてのみ理解されうる。
21024 この異質な基礎の法則性は、上で説明した同質な基礎と密接に連関している。具体的で理念的な精神的実体の自己同一で統一された現実的存在(Wirklichsein)は、実際、同質的基礎と異質的基礎の出会い(Zusammentreffen)によってのみ可能となる。
21025 我々は今、異質な基盤によって形成された音楽芸術作品としてのベートーベンの交響曲第五番を目の前にしている。しかし、この同じ交響曲が、同じ晩に二つの異なる都市で、二人の異なる指揮者のもと、二つの異なるオーケストラによって、二つの異なる方法で同時に演奏されることがありうる。しかし、同じ交響曲であることに変わりはない。それは今日、東亜細亜でも欧州でも聴くことができる。このようにさまざまな形で現れているにもかかわらず、それは常に同じ交響曲であり、それ自体が自己同一である。しかし、この交響曲の自己同一の存在を支えるこれらの多様な演奏は、もはや統一された芸術作品の異質な構成要素としては現れない。なぜなら、各演奏は、他の演奏とは異なるにもかかわらず、常に、それ自体が自己同一である交響曲の全体を同質な形で提示するからである。我々がここで扱っているのは、もはや構造全体の異質な基礎ではなく、それ自体が同一である精神的実体の同質な基礎である。同質な基礎と異質な基礎は密接に連関しており、具体的理念的な精神世界を階層的に構築するための二つの基本原理を形成している。
21026 一般に、高次の理念性をもつ具体的な精神的実体の自己同一性と統一性は、その事実性、あるいは、現実に近く、その精神的実体を同質的基礎及び異質的基礎の両方で支えるその理念性に基づいている。これにより、高次の理念性を持つ精神的実体(Geistesgebildes)の現実的存在性(Wirklichsein)となる基礎的な(fundierenden)精神的(geistigen)客体性(Gegenständlichkeiten)は、本質的に多様性として現れるが、一方、こうして根拠のある(fundierte)精神的実体は、統一性と自己同一性の必要な極を形成する。というのも、たとえ純粋に同質な基礎を扱っているとしても、その基礎(この場合は典型的基礎)が、同じ精神的実体の別の基礎の現存在(Dasein)と完全に自己同一の現存在を持つことはありえないことは明らかだからである。このように、下位の基礎的行為段階には多様体のみが見出される。理念的対象の自己同一的存在(Sein)は、基礎的多様体によって根拠づけられたより高次の行為段階においてのみ明らかにされる。具体的で理念的な精神的実体は、最終的には、それに対応する意味的直観(sinnhafte Anschauung)の行為においてのみ、統一された自己同一の対象(Gegenstand)として自らを明らかにする。

21027 ここで確認された事実は、社会団体(sozialen Verbandes)の自己同一性存在の問題にも原理的には当てはまるが、もの(道具)や芸術作品と、社会団体のような社会的実体との間には本質的な違いがあるので、これについてはまだ詳細に分析する必要がある0911。社会科学の発展過程で、社会団体の自己同一性は、それを支える社会的事実性に繰り返し求められてきた。この試みは失敗に終わっている。なぜなら、社会団体を同質的かつ異質的に支える事実的領域は、成立する対象の自己同一的存在に比べれば、多様性の場に過ぎないからである。論理的に思考する社会科学者たちは、社会生活を営む人々の単なる事実行動に対象を見出そうとしたため、最終的に、自己同一的に現に存在する社会団体の否定に到達せざるを得なかったのである。これらすべての原因は、これまでの社会科学的認識の視野が基礎的な(fundierenden)多様体に限定されたままであり、根拠のある(fundierte)より高次の行為段階の意味的直観(sinnhafte Anschauung)をその適切な範囲で把握することができなかったことにある。基礎的な多様体から、高次の理念的対象の根拠のある統一性と自己同一性へと視線を根本的に向けることだけが、社会団体の真の独立した現実的存在性(Wirklichsein)を確立し、最終的に証明する可能性を生み出すのである。

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第十一節 理念性の現実の根拠としての現実性               (Realität als Wirklichkeitsboden der Idealität)

21101 真実(Wahrheit)と現実(Wirklichkeit)の問題の現象学的解明は、一般に現実性(Realität)が理念性に必要な「現実の根拠(Wirklichkeitsboden)」を形成していることを立証した。理念的な精神的実体は、現実の適切な基礎の上にのみ、現実に存在する実体として存在することができ、それは究極的には現実の領域内にある。しかし、現実性はつねに理念性の現実的存在性(Wirklichsein)の「根拠(Boden)」を形成しているに過ぎず、いかなる場合でも、当該理念的対象そのものの現実(Wirklichkeit)を意味するものではない。現実性(Realität)に対応する理念的対象の感覚的知覚(sinnliche Wahrnehmung)は、当該理念的対象がそれ自身を現実にあるものとして提示するのに必要な契機としてのみ機能する。この理念的対象は、超感覚的な自己能与の行為においてのみ、すなわち「範疇的(kategorialer)」直観(Anschauung)あるいは「意味的(sinnhafter)」直観のいずれかにおいて、その姿を現す。それゆえ、理念的対象の現実的存在性(Wirklichsein)を確認するためには、常に、感覚的知覚可能な現実性(Realität)において、その適切な現実の根拠を確立することが必要となる。
21102 具体的で理念的な精神的実体の領域の探求において、現実に関する問題についての現象学的議論のこの結果は、今、重要な修正を受ける。我々は、現実性(Realität)が精神的な理念性(Idealität)の基礎であるというフッサールの定立(These)を、単純な現実性だけでなく、より現実に近い理念性もまた、それに対応する高次の理念性との関係において、現実の根拠として機能しうるというような意味で、根本的に拡大された意味ですでに用いた。例えば、事実上の(faktische)客体性としての模写は、原画の理念的で自己同一な意味(Sinn)を支える。一つの交響曲の多様な演奏は、基礎となる一つの同じ音楽芸術作品としての交響曲そのものと並置される。このように、精神の世界は、その性質上、高次の理念性を持つ精神的実体が、自然の現実性の上に直接自らを構成するのではなく、単なる現実よりも何らかの形で優れている精神の事実段階の上に自らを構成する傾向があるという、緩やかな階層構造を示している。従って、具体的で理念的な精神的実体の現実の根拠(Wirklichkeitsboden)は、必ずしも単純で自然な現実性(Realität)の中に求められるわけではない。具体的で理念的な精神的実体の現実性の確証を得るための手続きの本質は、当該理念的対象の現実の根拠を、外的自然という絶対的に実在する領域に見出すことではなく、むしろ精神的事実性の領域に確立することにある。精神の具体的理念的領域に関しては、何よりも次の原則が適用される:事実はより高次の理念を支える。従って、具体的理念的な精神的実体の現実性の確証は、単に知覚可能な(wahrnehmbaren)現実ではなく、事実性の意味的理解の可能な領域において、その適切な現実性の根拠を確立することが必要である。
21103 あらゆる具体的で理念的な精神的実体の現実の根拠を求めなければならない精神的事実性は、物質的現実と直接不可分に結びついている精神世界の「最も低い」領域である。森の中の道、木の幹に描かれた道標、その道を歩く人、道標の主観的に意図された意味に従って理解できるその人の行動や行動などは、精神的事実性の領域に属する客体性(Gegenständlichkeiten)である。それらは精神的な「事実(Tatsachen)」であり、直接的に、物象(Dinghaften)に「具体化され(verkörpert)」あるいは「具現化(verleiblicht)」されているために、「経験的に(empirisch)」「認識可能(erkennbar)」なのである0931。しかし、その性質上、それらは精神的なものであり、それゆえ、多かれ少なかれ、すでに理念的な客体性なのである。なぜなら、それらは、単に単純な知覚可能な物象性(Dinghaftigkeit)において、「道」「道標」「人間」あるいは「人間的な」行為として理解されることは決してありえないし、ありえない限りにおいて、すでに多かれ少なかれ理念的な客体性なのである。それらはそれぞれ精神的(geistige)客体性(Gegenständlichkeit)を形成しているが、それはそれらが具体化されている外的な物象(Dinghafte)が必然的にある「意味(Sinn)」と結びついているからであり、それは独特の意味的直観(sinnhafte Anschauung)においてのみ把握することができる。対照的に、当該物象の感覚的知覚(sinnliche Wahrnehmung)は、この精神的事実性を意味的に(sinnhafte)理解するための契機にすぎない。従って、あらゆる具体的で理念的な精神的実体の基礎となる精神的事実性は、それ自体、「根拠のある(fundierte)」対象領域である。
21104 これまでのところ、我々は記述の統一性のために意図的に無視してきたことであるが、このようにして、すでに「意味的直観可能(sinnhaft anschaubaren)」であり「意味のある(sinnerfüllten)」精神的事実性の領域において、具体的で理念的な精神的実体の現実の根拠を確立しなければならないという事実から、今、きわめて重要な問題が生じている。精神的な事実性が、より高次の精神的な理念性を「基礎づける(fundieren)」べきだという我々の見解は、十中八九は深刻な反論に晒されるだろう。なぜなら、深く考えてみれば、基礎を基礎として決定するものは、結局のところ、基礎そのものの「意味(Sinn)」に他ならないことがすぐに明らかになるからだ。現実に存在する絵画をある芸術作品の模写とするのは、この芸術作品自体の美学的意味である。ある交響曲の演奏は、この交響曲の理念と自己同一の意味が実際の演奏の根底にある場合にのみ可能である。このように、あらゆる基礎づけ(Fundierende)は、後者の基礎として機能するために、基礎づけされたもの(Fundierte)を前提としている。高次の行為段階において意味的直観可能なものこそ、我々が根拠のある(fundierte)ものと名づけたものであり、それが低次の行為段階の対応する客体性を支えているのだとさえ言わなければならないだろう。それでは、これまで我々が解明しようと努めてきた究極の意味である、現実と理念の間の基盤の関係は、完全に逆転しなければならないのではないだろうか?より現実に近い事実性や理念性を、それに対応する高次の理念性の基礎として理解しようとするのであれば、それは循環論法(circulus vitiosus:Zirkelschluss:トートロジー)ではないのか?
21105 しかし、この困難さは、基礎という概念がそれぞれの場合において異なる意味で理解されているという事実からのみ生じている。特に、これまでの議論では、「現実の基礎(Wirklichkeitsfundierung)」という意味(Bedeutung)での基礎のみを扱ってきたことをしっかりと強調しておかなければならない。現実性(Realität)、あるいは現実性により近い理念性(Idealität)、特に精神的な事実性が、高次の理念性を持つ精神的対象の「現実的存在性(Wirklichsein)」の唯一の根拠である。もし、ある芸術作品の事実上の模写(Kopie)や、事実上存在する原典が、理念的で自己同一である芸術的実体の意味を基礎づけると言うのであれば、「基礎づける(Fundierung)」という用語は、当該理念的対象の「現実的存在性(Wirklichseins)」を基礎づけるという意味においてのみ理解されうる。現存在という観点で基礎づけられた理念的対象の意味が、それを裏づけるあらゆる事実性の根底にあるとしても、それに対応する事実的客体性(Gegenständlichkeit)がまったく存在しない場合、この理念的対象の現実的存在性(Wirklichsein)はもはやどこにも認められないことは明らかである。それ自体が自己同一のままである理念的な芸術的実体は、事実的客体性としての原典と、すべての模写やその他の複製物の両方が完全に破壊されれば、実際にはもはや実在しないことになる。例えば、楽譜が完全に失われていたり、物理的に楽譜があったとしても、その音楽的意味がもはや理解されていなかったりするために、交響曲が実際に演奏されることがなく、もはや演奏することもできないのであれば、その交響曲の現実的存在性(Wirklichsein)が認められるとは言えない。現実の基盤に関係する限りにおいて、事実性が、それに対応する高次の理念性の現実の根拠(Wirklichkeitsboden)を構成するという我々の定立(These)は、断固として堅持されなければならない。

21106 この具体的理念的な精神的実体の現実の根拠(Wirklichkeitsbodens)の決定と、より高次の理念性(Idealität)の現実の基盤(Wirklichkeitsfundierung)の解明とに最も密接に連関して、今、最も大きな影響力を持つ新たな問題が出現している。この問題は「意味(Sinn)」、具体的には「意味の形成(Bildung des Sinnes)」に関連しており、この意味は、ある具体的で理念的な精神的実体の現存在の核心を構成し、その結果、この精神的実体に対応し、その現実の基盤(Wirklichkeitsfundament)として機能する「事実的(faktischen)」対象をも決定する。具体的理念的な精神的実体の客観的な「意味の形成(Sinnbildung)」の問題を論じることによって、我々はまず、より高次の精神的実体が、それに対応する事実的な客体性(Gegenständlichkeit)によって根拠づけられているにもかかわらず、なぜ後者の意味的前提条件を形成しうるのかという疑問に対する明確な答えに到達する。
21107 この議論は、まさに精神的事実性の存在構造の分析の続きである。すでに行われた事実的な客体性の構造分析の結果から、単なる物象(Dinghaften)に精神的事実性の特異性を与えているのは、ある種の「意味」に他ならないことが、まさに明らかに理解される。一方で、この意味は、当該物象(Dinghaften)との関係で、これを実際に論じる人間が、特定の「意味形成行為(Akt der Sinnbildung)」を意識的に行うという事実によって、物象と結びつけられる。他方で、それは社会的現存在の歴史的発展過程で、物象との関連においてすでに見出すことができる。例えば、道や道標の意味は、明らかに特定の意味形成行為によって「形成(gebildet)」または「生成(erzeugt)」される。これに対して、人間が人間であるとみなされる意味は、明らかに意識的に行われた意味形成行為の結果ではない。むしろ、「人間(Mensch)」の意味は、人間の身体とのつながりの中に見出される。
21108 精神的事実性を客観的に意味形成する(Sinnbildung)行為は、ここでは通常、自然の物象を人為的に作り変えることを伴う。例えば、人が道を「造る」とき、実際の道具としての道の建設は、明らかに多かれ少なかれ一定の地表の徹底的な改変と平行して行われる。従って、道は、「意味」という点でだけでなく、「物質(Materie)」という点でも、人間によって「形成(Gebildetes)」されたものなのである。しかし、客観的な意味形成行為が、このような人為的な物象の変容を伴うとは限らない。従って、例えば、他の木々よりも高いという特徴を持つ森の中の特定の木は、たとえこの木が人工的な「目印(Kennzeichen)」をつけていないとしても、その木に道標の意味がついているというだけで、その木を道標とみなすことができる。この場合、その木は、実体、あるいは物であるよりも、その意味であって、物象的な基盤においての物ではないのである。
21109 ここで考察されている「意味形成行為(Akt der Sinnbildung)」は、現象学的(phänomenologischen)意識分析(Bewußtseinsanalyse)で解明されている「意味付与行為(Akt der Sinngebung)」と決して混同してはならないことを強調しておかなければならない。というのも、「意味付与行為」は「構成的(konstitutiven)」な意味で理解される自己能与行為(Akt der Selbstgebung)であり、それは何よりも知覚や直観の本来の能与行為を意味するが、「意味形成行為」、すなわち意味の客観的形成行為は、「構成的」な意味で理解されるのではなく、常に厳密に「存在論的(ontologischen)」な意味で理解されなければならないからである。我々が今論じている「意味形成(Sinnbildung)」という行為は、もとから客観的に行われる行為であり、それと同時に、通常、多かれ少なかれ明確に意識され、実際的志向の「目的(Zweck)」によって決定されるものでもある。意味形成の行為を通じて、現実の対象がその自然な状態においてすでにその目的に適していると思われる場合、容易に、現実の対象にある種の実際的な意味が与えられる。しかし通常、このためには多かれ少なかれ大規模な人為的変容(künstliche Umformung)が必要である。なぜなら、物象的現実は、そのような変容(Umformung)を通じてのみ人間の実際的な目的に奉仕できるからである。ある現実の対象が、その自然な形(Gestalt)において、あるいはある変容を通して、ある意味を与えられるとすれば、この対象は、単に現実的な物象性(Dinghaftigkeit)の領域から、精神的な事実性の領域へと上昇し、この点において、すでに理念的な客体性(Gegenständlichkeit)を形成する。この客体性は、意味形成の行為を通じてある種の精神的意味を獲得し、それが精神的な事実性として決定づけられ、当該物象性を感覚的に知覚(sinnliche Wahrnehmung)する機会にのみ、意味的直観(sinnhaft angeschaut)される。
21110 この客観的な意味形成行為の重要性と機能を明確に理解することは、具体的で理念的な精神的実体のあり方を理解する上で一般に比類のない重要性を持っている。というのも、精神的対象一般、すなわち単なる事実的な客体性だけでなく、より高次の理念性の精神的実体をも精神的対象に変える「意味(Sinn)」は、結局のところ、客観的な意味形成の特異な行為によって生み出されるものであり、それは個人によって意識的に行われるか、あるいは歴史の超個人的な発展過程で徐々に、無意識のうちに実現されるものである。この意味で、あらゆる具体的で理念的な対象は、本質的に「形成(Gebildetes)」されたものであり、言葉の最も真の意味での「精神的実体(Geistesgebilde)」なのである。例えば、芸術作品の意味は、まず計画に従って芸術家によって「設計(entworfen)」され、次に、それに対応して人為的に変容された、ある物象的または即物的な基体(Grundlage)の中にその「具体化(Verleiblichung)」を見出す。一方、広い意味でのものとしての「言語(Sprache)」、すなわち精神的交流の手段としての「言語」の意味は、通常、意識的に行われた意味形成行為によってできたものではなく、人類の歴史的発展経過の中で、無意識のうちに共同で行われた意味形成行為(Sinnbildungsaktes)の産物である。具体的で理念的な精神的実体の意味的(sinnhafte)現存在核心(Daseinskern)は、それゆえに意味的見方しかできないが、それは社会的に生きる人間が、意識的個人的に、あるいは無意識的歴史的に行った、客観的意味形成行為の結果に他ならない。
21111 これにより、上述したように、事実と理念との底礎の連関の議論において、円環を描く(循環論法に陥る)ように見える危険性を完全に排除される。具体的で理念的な精神的実体の意味は、それに対応する精神的事実性によってその現実的存在性(Wirklichsein)がまず基礎づけられるが、それにもかかわらず、当該意味形成体(Sinngebilde)の現実の根拠(Wirklichkeitsboden)を表すこの事実性の前提条件を形成することができるのであり、それはただ、この理念的意味が特定の意味形成行為の結果であるからであり、すなわち、その成立において、ちょうど論じた現実の基礎とは直接には何の関係もないからである。理念的意味が当該精神的事実性を条件づけ、決定するこの連関は、底礎の連関とも言える。しかし、その場合、この底礎の連関を「意味的基礎づけ」として、上記の「現実の基礎」から明確に区別する必要がある。このように、理念は事実的対象に対して意味的基礎づけを提供するが、その現実的存在性においては、まさにその逆であり、後者によって基礎づけられるのである。具体的な精神的実体の理念的意味とは、「意味的基礎」における基礎づけを意味するのに対して、「現実的基礎」においては、基礎づけられたものを意味するのである。このような底礎の連関の二つの方向的対立が起こりうるのは、当該理念的意味が、客観的意味形成行為によって現実の基礎とは無関係に生成され、同時に現実的存在性の決定を示すことなく、意味的な仕方でそれに対応する事実性を条件づけるからに他ならない。この結論が循環論法(circulus vitiosus)悪循環に陥ることはなく、むしろ精神世界の全体構造を正しく理解することにつながる。
21112 また、理念的意味は単なる理念的意味として生み出され、今や現実を含まない理念性の領域に存在するということも、これまで述べてきたことから導かれる。まだ画布に定着していない絵画の下書きは、まだ現実的存在性の確定を得てはいないが、すでに存在する芸術的な意味として理解することができる。ベートーヴェンの「交響曲第十番」は、このように、理念的な音楽芸術作品として既に存在し得たが、それは、作曲家の死によって、歴史的・社会的な精神世界において「現実化(Wirklichwerden)」することから、きっぱりと排除されたにすぎない。ドイツ民法典の第一草案(1887年12月)は、発効することなく草案のままであったため、「社会的な」精神的実体として形成されたのは、単なる理念性の領域においてのみであった(第三草庵を基にドイツ民法典が制定され、1900年1月1日から施行となった)。従って、理念的な精神的実体は、現実化することなく、意味を形成するという具体的な行為によって生まれることがある。それは、それに対応する事実性の領域においてそれ自身を「具現化(verleiblicht)」し、あるいは「実現化(verwirklicht)」し、そこに適切な現実の根拠(Wirklichkeitsboden)を得る場合において、またその場合限りにおいて、現実的存在性(Wirklichseins)の決定を獲得する。このように、事実的な対象領域は、究極的には、より高次の理念的な精神的実体がその具体的な現実的存在性を示すための唯一の適切な基盤(Fundament)なのである。

21113 この精神的事実性の領域は、理念的な現実的存在性のあらゆる問題が言及しなければならないものであり、まさにこれまでの経験主義的人文科学、特にいわゆる人文科学に属する社会科学の対象領域である。例えば、マックス・ヴェーバーが社会科学的認識は、意味的に理解されうる人間の社会的行為との関係においてのみ可能であると考えたとすれば、それは社会科学の対象領域が精神的事実性の領域に限定されなければならないと考えたからである。これとは厳密に対照的に、我々にとって精神的事実性とは、人文科学や人文科学に属する社会科学の実際の対象領域が明らかにされ、段階的に分類される「根拠(Boden)」を意味するにすぎない。とはいえ、精神的事実性の領域を精密に探求することもまた、我々にとって重要かつ不可欠なことである。 なぜなら、あらゆる具体的で理念的な精神的実体の現実的存在性の問題は、究極的にはこの領域に還元されなければならないからである。
21114 前章の最後で述べた、ある精神的実体の理念的な存在(Sein)とは、当該理念的な精神的実体が特定の事実性と特定の意味で関係している限りにおいて、同時にその精神的実体の現実的存在性でもある、という主張は、ここでも哲学的な正当性を見出している。この解明は、社会団体の現実的存在性の問題を論じる際の指針でもある。従って、具体的で理念的な精神的実体としての社会団体の現実的存在性(Wirklichseins)は、その現実の根拠(Wirklichkeitsboden)として機能する、それに対応する精神的な事実性(Faktizität)を、社会団体に特有の意味的直観(sinnhafte Anschauung)によって確立することによってのみ確認することができるのである。従って、我々の問題は、社会団体の適切な現実の根拠を構成する精神的事実性とは何かという問いに帰結する。次の章では、この根本的な問いに答える試みに取り組む。

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第三章 社会団体の現実的存在性(Wirklichsein)


第十二節 即物的(sachliche)精神的実体と社会的精神的実体

31201 ある学問の基礎づけの最初の段階で、その対象を概念的に定義するという要求を満たすために、その存在の構造は議論全体の過程でしか解明できないが、我々は、社会団体を「人間相互間(zwischenmenschlich)で形成された統一体(Ganzheit)」と定義した。この定義は、これ以上の根拠づけなく、今に至っている。というのも、これまでの我々の努力は、もともと、理念的対象の現実的存在性(Wirkllchseins)という問題の根本的な解明に向けられてきたからである。我々は今、具体的で理念的な精神的実体という一般的な問題から転じて、社会的存在の具体的な領域に目を向けて、社会団体のあり方を考察し、その徹底した解明に専念することができる。社会団体の存在構造に関するこの議論は、前章で行った理念的対象の現実問題の検討から直接続くものである。従って、社会団体をそのようなものとして認識させる存在論的特性は、まずもって、それが基礎を置いている現実の根拠(Wirklichkeitsbodens)の正確な分析に基づいて決定されなければならない。
31202 そのためにはまず、具体的で理念的な精神的実体の現実の根拠として機能する精神的事実性の中に、二つの基本的類型(Grundtypen)を区別しなければならない。というのも、理念的対象の現実の根拠におけるこの区別のみが、社会団体も属する理念的精神的実体の群(Gruppe)を最終的な境界の基準を我々に与えてくれるからである。
31203 精神的事実性は、まさにその「即物性(Sachlichkeit)」において、高次の理念の現実の根拠として機能することができる。従って、例えば、木材で作られた個々の机や、画布に絵具で描かれた個々の絵画は、その即物性(sachlichen Eigenschaft)において、高次の理念性と普遍性の精神的実体の現実の根拠を形成する。この場合の具体的理念的な精神的実体は、理念性の側面から見ると、事実的な客体性(Gegenständlichkeit)によって成立している。この事実的客観性は、外的あるいは物理的なもの(Ding)と直接結びついており、従って即物的(sachliche)な事実性として自らを示している。高次の理念的な精神的実体としての特定の道具、特定の道具全体性、あるいは特定の芸術的な精神的内容(Geistesgehalt)は、明らかに現実の根拠として一定の即物的事実性を持っている。その結果、この種の具体的理想的な精神的実体を「即物的(sachliche)精神的実体」と呼ぶことができる。例えば、「道具」や「芸術作品」は、即物的精神的実体の典型的な特徴を備えている。
31204 しかし、これとは対照的に、「人間」の行為という形の精神的事実性は、より高次の理念的な精神的実体を支えることができる。この第二の場合、当該具体的理念的な精神的実体は、即物性という事実的根拠の上に形成されるのではなく、意味的に理解可能な人間の「行為(Handlungen)」に基づいて形成されるにすぎない。もちろん、人間の身体的な動きも、単なる外的な出来事として、つまり広い意味で理解される一種の物象性(Dinghaftigkeit)として捉えることができる。しかしここでは、単なる物象性としてではなく、人間の行為そのものとして把握する。そのような人間の行為として、より正確には、主観的に意図された「意味(Sinn)」によって決定され、結果としてこの意味から理解可能な行為としてのみ、人間の身体的な動きは、ここで考察される類型の理念的な精神的実体の現実の根拠として機能する。ある種の慣習や宗教、ある種の法律や経済制度は、そのような精神的実体の例であり、その存在構造によれば、必然的に人間の行為に立脚している。そのため、先に述べたような、即物的事実に直接立脚する理念的な精神的実体とは明らかに対照的である。
31205 この第二の類型の理念的な精神的実体の基礎をなす人間の行為は、今や「社会性(Sozialität)」のあり方を示している。例えば挨拶の習慣は、人間の事実的行為の中に「生きている(lebt)」のであり、それが人間の中に「生きている」限りにおいてのみ現実(wirklich)のものである。その現実的存在性(Wirklichsein)は明らかに、挨拶の主観的意味によって決定され、その過程が挨拶に向けられた人間の行為に基づいている。挨拶の主観的意味は、挨拶という行為の事実的経過を方向づけるものであるが、同時に、本質的に特定の「他者」に向けられている。挨拶はその本質からして「社会的に」決定された意味内容(Sinngehalt)なのである。従って、挨拶のこの意味に向けられた行為、すなわち挨拶行為自体もまた、本質的かつ必然的に他者に向けられた「社会的」行為なのである。すなわち、人間の行為は、社会的行為としてのみ、当該具体的精神的実体、「挨拶の習慣」、の現実の根拠となる。マックス・ヴェーバーの定義:「『社会的』行為とは、行為者が意図した意味に従って、他者の振る舞い(Verhalten)に関連し、その過程で他者に向けられる行為を意味するものとする1021」は、このような社会的行為に無条件に適用される。
31206 これまで述べてきたことから、人間の行為に立脚し、その結果として本当に存在する(wirklich seiender)対象として自らを提示する精神的実体もまた、「社会性(Sozialität)」の本質的な存在のあり方を示さなければならないということが必然的に導かれる。従って、それは必然的にそれ自体を、即物的な(sachlichen)精神的実体とは異なる、「社会的な精神的実体」として示す。というのは、即物的な精神的実体は、外的な物象性によって精神的事実性(Faktizität)に直接基づいているからである。一定の慣習、習慣、宗教、一定の法制度あるいは経済制度など、人間の行為に基礎を置く精神的実体の例はすべて、その性質上、同時に「社会的な」精神的実体でもある。こうして我々は、具体的で理念的な精神的実体一般を、「即物的な精神的実体」と「社会的な精神的実体」という二つの基本的な類型に分類した。

31207 この連関では、「宗教」のような精神的実体もまた、人間の「社会的」行為に現実の根拠を持っているのか、つまり、最終的に「社会的な」精神的実体として本当に理解できるのかという疑念が生じるかもしれない。さりながら、宗教的行為はまぎれもなく社会的な性格を持っている。というのも、行為者が主観的に意図する宗教的な意味、とりわけこの行為に方向性を与える神への信仰は、他の現世的な人間に向けられたものではなく、超自然的な人格としての神に向けられたものだからである。この理由だけで、宗教は社会的行為の構造を持っている。社会的実体(Gebildes)としての宗教の特異な性格は、聖職者と信者、あるいは同じ宗派の信者同士の関係を考えれば、特に明らかになる。というのも、具体的な宗教的実体は、神に対する個々人の純粋に孤立した信仰だけで形成されることはなく、常に、唯一の同じ神に対する他の「世俗的な」人間と共有する信仰のみで形成されるからである。このことは、特定の宗教を社会的な精神的実体と呼ぶことを可能にする。
31208 しかし、よく分析してみると、具体的理念的対象を即物的精神的実体と社会的精神的実体とに分けることから、さまざまな困難が生じる。この区分に対する主な反論は、即物的実体もまた人間の行為に基づいているという事実にあるようだ。例えば、ある道具が道具であるとみなされるのは、人がそれを実際的な生活の中で使う限りにおいて、つまり、その人がその道具を使って、当該道具の特有の有用性や使いやすさという主観的な意味に方向づけられた特定の行為を行う限りにおいてのみである。一度も使われなかったり、まったく役に立たなかったりする道具を、本当に存在する道具と見なすことはできない。それゆえ、あらゆる道具は人間の行為を直接的に示すもので、理念的な精神的実体として、人間の行為によって成り立っているのである、と。
31209 しかし、社会的な精神的実体と即物的な精神的実体を区別するためには、当該精神的対象の現実的存在性(Wirklichseins)の主要な基盤がどこにあるのか、つまり人間の「社会的(sozialen)」行為にあるのかないのかを確定することが不可欠である。道具の現実的存在性は、人間がそれを実用的に使用するという事実の上に成り立つかもしれないが、この道具の使用は必ずしも「社会的」行為である必要はない。主観的な意味において、道具の使用は決して本質的に「他者(Anderen)」に向けられた行為ではないのである。芸術作品もまた、事実的な人間の振る舞い(Verhaltens)、すなわち美的享受に、まぎれもなくその現実の根拠を置いている。美的享受の自己振る舞いは、その本質からして「孤立した」振る舞い(Verhalten)であり、必ずしも「社会的」行為(Handlung)ではない。一方、道具や芸術作品の現実的存在性の主要な基盤は、常に外的なものと直結した即物性(Sachlichkeit)にある。しかし、この基礎となる連関の中で、即物的な事実性と並んで、時に重要な役割を果たす人間の行為は、必ずしも「社会性」の存在様式(Seinsart)を示すものではない。このため、人間の「社会的」行為に立脚する精神的実体である社会的な精神的実体と、同じく人の行為に立脚するが、必ずしも社会的行為を通じてではない即物的な精神的実体との区別を、我々は十分に決定的なものとして維持することができる。
31210 例えば芸術的舞踏のような芸術的実体(Kunstgebilde)を考えれば、状況はさらに複雑になる。この場合、舞踏者の律動的な動作が、「芸術作品(Kunstwerkes)」の唯一の現実の根拠を形成しているとさえ言える。これらの律動的な動作は、間違いなく意味的に理解できる人間の行為である。舞踏者あるいは舞踏女子の主観的な意味によれば、舞踏相手など「他者」に向けられたものとして、舞踏は「社会的」な行為にもなりうる。とはいえ、一般的には芸術作品は即物的な精神的実体として分類せざるを得ないだろう。舞踏者達の律動的な動作は、美的実体である舞踏の基礎を形成するが、それは舞踏者の通常の社会的態度によるものではなく、その動作は純粋に身体的な動作としてのものであり、つまり芸術的観察の対象としての純粋に外的な物象性(Dinghaftigkeit Gegenstand)のみにおけるものであるためである。従って、芸術的舞踏の美的特徴は、究極的には、大理石の彫像の輪郭線の場合のように、主観的に意味づけされた意味とは無関係に、知覚可能な形態と演技者の動作の美しさにのみある。舞踏者の律動的な動作は即物的(sachliche)事実性である。即物的事実性に本質的に立脚する精神的対象として、芸術的舞踏は社会的実体(sozialen Gebilden)と根本的に対立する。
31211 31211 この具体的で理念的な精神的実体の分類において、科学の位置を決定することは最も困難である。この問題の詳細には立ち入らないが、科学的思考はあらゆる場合において「言語(Sprache)」によって支えられているため、一般的には即物的な精神的実体に属すると言いたい。言語、特に口頭表現が、人間が話すという行為と密接に結びついていることは間違いない。それにも関わらず、言語は本質的に、言葉の音や文字の形といった外的な物象性に基づいている。一方、人間がその言語を「話す(spricht)」という事実は、言語の存在様式(Seinsart)にとって付随的な意味しか持たない。例えば、モールス信号の文字列は、誰にも「話されて」いなくても、すでに一定の言語を構成している。この場合、送信機レバーを押し下げるという機械的操作を考えることで、言語と人間の行為との間に必要な連関を主張したいのであれば、まったく同じ意味で、道具と、当該道具を作ったり使ったりする行為など、人間のある種の行為と道具との間に必要な連関を主張しなければならないだろう。むしろ、「言語(Sprache)」を語彙(Wortes)のより広い意味での一種の道具として、つまり即物的実体として捉えることが必要である。従って、言語を原理的基礎とする高次の理念的精神的実体も、即物的精神的実体の中に数え入れなければならない。科学に加えて、「文学(Literatur)」のような重要な芸術的実体も、言語を基礎とすることから、即物的精神的実体に属する。同様に、音楽芸術作品(Tonkunstgebilde;音楽芸術実体)は、楽譜が音楽的精神的内容を表現する技術的手段である限り、楽譜とも相似した(analogen)関係(Verhältnis)にある。
31212 しかし、これらのことは、科学や文学のような、言語に基づく理念的な精神的実体が、人間の社会的行為と結びつかずに実際に存在し得るということを意味するわけではない。言語を通じて固定された科学的概念(Gedankens)や、文学作品の芸術的意味内容(Sinngehaltes)の事実的理解と、この主観的理解に結びついた人間のの事実的行動は、その科学的あるいは文学的精神的実体に必要な現実の根拠を形成する。読まれたことも理解されたこともない科学的概念や文学作品の精神的(gedanklichen)内容は、もちろん、後にその内容が価値ある科学的・芸術的思想として評価される可能性があるとしても、客観的な現実的存在性(Wirklichsein)としては認められにくいだろう。これが、科学体系や芸術作品に対する社会的・歴史的な態度(Bestimmtheit)の基盤であることは明らかである。科学や文学が本質的かつ必然的に「言語」によって支えられているという意味においてのみ、つまり「即物的(sachlichen)」事実性に現実的存在性(Wirklichsein)に主要な基盤を置いているという意味においてのみ、「即物的」精神的実体として「社会的」実体から明確に区別することができるのである。

31213 即物的な精神的実体と社会的な精神的実体の違いは、これまで最も普遍的な議論で明らかにされてきたが、今度は、考察の対象となるすべての具体的・理念的精神実体がその現実的存在性(Wirklichsein)を示す「時間性(Zeitlichkeit)」の面において、最も明確に明らかにされる。正確に言えば、社会的実体は、特定の底礎の連関に従って歴史性の明確な規定を示すのに対し、即物的実体は、その現実的存在性において歴史的・社会的に規定されるとはいえ、社会的実体に比べて現存在(Daseins)のはるかに高度な持続性と安定性を特徴とする。
31214 前章では、あらゆる対象(jeder Gegenstand)は、たとえ単に与えられた外的なものであっても、それに属する性質が多様であるにもかかわらず、基本的にはその自己同一性(Identität)を保持する、ということを詳しく議論した。対象の存在的(ontischen)特性が多様で変化しうるとしても、これらの可能な多様体の自己同一点として、それはやはり一つの同じ対象を形成する。しかし、存在的多様体に対する対象の自己同一的存在は、必然的に一定の限界を持っている。ある木(Baum)は、雷によって部分的に焼かれた後も、自己同一の木であり続けることができる。しかし、この木が山火事によって完全に灰になった場合、もちろん、自己同一の木が存在し続けるということはもはやありえない。我々は、ある対象がその同一性を維持できる多様な性質の可変性の限界を、「連続性の限界(Fortbestandsgrenze)」と名づけたい。すべての現実に存在する具体的な対象が連続性の限界を持っているという事実は、「時間性(Zeitlichkeit)」という必要な存在状態(Seinsverfassung)をも形成している。
31215 自己同一の対象とその多様な特性の間に存在するのとまったく同じ関係(Verhältnis)が、理念的な精神的実体とそれを支える現実の根拠との間にも存在する。住居としての家は、例えば、部分的に改装されたり、「家具」が変更されたりしても、自己同一であることに変わりはない。しかし、全面的に改修された場合や、取り壊して新しく建て変えられた場合は、もとの古い家と自己同一とは見なされなくなる。一般的に、理念的な精神的実体は、それが単純な現実性であれ、精神的事実性であれ、その多様な現実の根拠の変化に直面した場合、その継続的存続には常に一定の連続性の限界がある。
31216 高次の理念性を持つ具体的な精神的実体の連続性の限界と、それによって規定される時間性は、当該精神的実体を支える精神的事実性が本質的に永続的な性格(Charakter)を持つか、より流動的で一時的な性質(Art)を持つかによって、段階的に異なってくる。事実的な精神的実体が比較的大きな永続性を示すことは容易に理解できる。なぜなら、その精神的実体の基礎となる即物的事実性(sachliche Faktizität)は、まさにこの即物性ゆえに本質的に安定した現存在(Dasein)だからである。造形芸術作品や文学作品は、一般的に「準永続的(quasi-ewiges)」な現実的存在性を持っている。というのも、画布や絵具、あるいは紙や文字など、根底にある現実性や事実性は、ある世代数という制限を超越した永続性を自ずと示すからである。
31217 これとは対照的に、社会的実体(sozialen Gebildes)の時間性は、歴史的可変性(Wandelbarkeit)という形で(im Modus)実際に現れる。というのも、社会的実体の現実を支える人間の社会的行動は、本質的に時間的な「順序(Ablauf)」の中でしか起こらないからである。道徳観念や経済体制が、歴史的時間継続において現実の現存在性(wirkliches Dasein)を持つのは、当該道徳観念や経済体制の主観的に意図された意味によって決定される人間の社会的行為の複合体が、たとえ可能性や「偶然性(Chance)」の形で(im Modus)あったとしても、当該社会的な精神的実体の現実の根拠(Wirklichkeitsboden)として機能する限りにおいてのみである。このような社会的実体(sozialen Gebildes)の歴史的可変性が、「流行(Mode:ファッション)」ほど顕著に表れているものはない。
31218 しかし、社会的実体のあり方(Seinsweise)が本質的に歴史的可変性であるがゆえに、社会的実体は、ある即物的事実性の中に自らを「具現化(verkörpern)」し、それによって自らを「強化(verfestigen)」しようとする特異な傾向を示す。例えば、宗教的な信念は、偶像(Götterbildern)や教会建築、その他の芸術作品において、その即物的強化を見出す。ある社会的実体が体現している即物的客体性が存在し続けることは、それに内在する理念的な精神的内容が、社会的に行為する人間の主観的な意味の連関に、より容易かつ恒常的に「接続(Zugang)」できるように、その即物的客体性を強固にする役割を果たすにすぎない。純粋に抽象的な宗教的意味内容(Sinngehalt)よりも、偶像に具現化されたある種の宗教的な信念の方が、信者の主観的な感覚(Sinn)の中でより容易に、より恒常的に「生きる(leben)」ことができる。しかし、もし対応する社会的行為が、この社会的存在の現実的存在性の「主要な基盤」としての特性を失うならば、即物的な事実性や現実性が存在し続けることは、当該社会的実体の保持(Fortbestehen)を決して保証することはできない。かつて社会的精神的実体が体現していた即物性は、かつては本当に存在していた実体の「残骸(Überbleibsel)」として存在しているに過ぎないが、この即物性に付随する意味(Sinn)は、依然として理念的な意味としてだけは十分に明確に理解することができる。
31219 歴史上に、そのような社会的実体の例は無数に含まれている。かつては、特定の人々(Volkes)の社会生活の中で、一見揺るぎない現実的存在性(Wirklichsein)を持っていたものが、後に、生活過程の根本的な変化の結果、現実的存在性を完全に失い、今ではもう、現実性のない単なる理念性の領域に漂う「意味」として、過去の記憶(Überlieferung)の中にだけ存在を留めていることがある。我々はあらゆる場面で、かつて存在したが歴史の過程でその現実的存在性が失われた社会的な精神的実体の物象化(Versachlichungen)に遭遇する。日本古来の騎士道である「武士道(Bushido)」の最も重要な要請のひとつである、親、夫あるいは藩主を殺されたことに対する復讐の義務(仇討ち)という独特のしきたりは、歌舞伎の舞台で演劇として「再現(Reproduktion)」され、現在でも賞賛され、楽しまれているが、そのしきたり自体は今日の日本の社会生活では、もはやまったく現実的存在性を有していない。古代エジプトの宗教は、その特異な祖先崇拝の形式を持ちながら、その現実の現存在を失って久しい。しかし、ギザのピラミッドは、こうした宗教的「思想(Ideen)」の巨大な体現として、今日でも世界有数の名所の一つである。従って、歴史性、というより歴史的可変性は、即物的な精神的実体の「準永続性(Quasi-Ewigkeit)」とは対照的に、社会的実体の存在のあり方(Seinsweise)の最も重要な特徴の一つであることは間違いない。
31220 これに関連して、法の「実定性(Positivität)」の問題も考慮されなければならない。この必要性は、法体系のいわゆる「実定性」とは、本質的に、当該法体系が現在「適用可能な(geltendes)」法として示す「現実(Wirklichkeit)」を意味するという事実から生じる。実定法学の焦点は、通常、「現在の(gegenwärtig)」現実に(wirklich)存在する法制度にのみ当てられているが、このことは、法の実定性の問題が、原理的には、具体的で理念的な社会的精神的実体としての法の歴史的な現実的存在性(Wirklichsein)に関するものであるという事実を変えるものではない。具体的で理念的な精神的実体の「現在の(gegenwärtige)」の現実的実在性は、実際には、その「歴史的」現実的実在性のより具体的な態様(Modus)に他ならないからである。
31221 理論法学の対象は、何よりも法であり、それ自体は理念的精神的実体であるが、単なる理念的実体ではなく、歴史的状況によって条件づけられ決定される現実の実体(wirklich seiende)、すなわち「実定法(positive Recht)」として始めから存在している。理論法学の対象に関するこの存在規定(Seinsbestimmung)に従って、我々は次のように問わねばならない。実定法の現実的存在性(Wirklichkeit)の究極の判断基準(Kriterium)は何か、と。また、その本質的な特殊性において、精神的客体性(Gegenständlichkeiten)の理念的領域のみに位置する実定法は、その理念性にもかかわらず、同時に、どのようにして歴史的現実的存在性を獲得することができるのか、と。明らかに、印刷された法典が存在し続けることや、個々の条項の理念的な意味が単に「存在する(Existenz)」だけでは、決して法体系の現実的存在性や実定性(Positivität)の究極的な基盤を形成することはできない。では、実定法は、絶対的で超歴史的に妥当なものとして提示された「自然法(Naturrecht)」と、フリッツ・シュライアーが造語した表現を使えば、現実理論に欠ける「可能法(möglichen Recht)」と、どのように決定的に異なるのだろうか1081
31222 よく知られているように、ケルゼンの「根本規範(Grundnorm)」論は、まさに法体系の現実的存在性(Wirklichseins)、すなわち「法実定性(Rechtspositivität)」の問題を扱っている。ケルゼンは、その独創的な著作「自然法論と法実証主義の哲学的基礎(Die philosophischen Grundlagen der Naturrechtslehre und des Rechtspositivismus)(1928年)」において、実定法は「仮言的な(hypothetisches)」当為(Sollen)としてしか自らを示さず、常に相対的妥当性(relative Geltung)を有し、その規範性(Normativität)は不可欠な前提条件の下でのみ認められるという事実に、法実定性の基本的事実を認めている。その本質が無条件性、絶対的妥当性(absoluten Geltung)にある自然法とは厳密に対照的に、法体系が前提条件に従っているという事実だけが、その実定性(Positivität)を規定する。ケルゼンは、法体系の実定性に不可欠なこの前提条件を「根本規範(Grundnorm)」と呼んでいる。いわく「自然法の理念が絶対的なものに対応するように、実定法の理念は、その規範の仮説的-相対的妥当性のみに対応する。すなわち、その規範は、法を制定する最高権威を確立する根本規範を前提とするという条件の下でのみ妥当する1091」そして、根本規範は実定法規範を条件づけ、根拠づけをするが、その妥当性自体は「実定法の領域内では根拠がなく、正当化できないままである1092」ので、この実定性の領域に属することはできず、完全にその外側にあり、その上に立っている。従って、それは実定性を持たない。「根本規範は、それ自体が設定された規範ではなく、前提とされた規範であり、それ自体が実定法ではなく、実定法の前提条件でしかない」ケルゼンは、実定法体系は、その理念性にもかかわらず、根本規範に基づいているため実定的かつ現実的なものであるが、法体系のこの実定性と現実性を規定する根本規範は実定的でもなく、現実的でもないと考えた。
31223 しかし、理念的な法体系の現実的存在性如何という問題は、単に実定法がある前提に従うという主張だけでは解決されないことに留意すべきである。この前提を「根本規範(Grundnorm)」と呼称しても、まだそれを実証的(positive)に解明することにはならない。その否定的な特徴は、根本規範が実定法の領域では正当化できないこと、それ自体が実定法ではないこと、それ自体が自立的な(gesetzte)法規範ではないことを教えてくれるにすぎない。しかし、根本規範という概念は、ケルゼンの法理論の議論においてさまざまな積極的(positive)機能を果たしている。例えば、ケルゼンによれば、根本規範は、実定法秩序全体の統一性の最高点を形成するべきであり、その中に統一的な法体系の自己同一性があるべきであり、実定法の解釈的認識(deutenden Erkenntnis)の最終的な出発点であるべき、などなどである。しかし、根本規範のこれらの一見実定的で妥当な特徴や機能は、根本規範が、統一的で、本質的に自己同一であり、意味的に認識可能で、解釈可能な実定法秩序の不可欠の前提条件であるということ以上の何ものでもない。しかし、この解明が実定的に教えてくれるのは、要するに、実定法秩序そのものの機能や性質に過ぎず、これらの機能や性質の必要かつ究極的な前提条件としての根本規範は仮説に設定されているに過ぎないということだ。根本規範は、ケルゼン自身が認めているように、「仮言(Hypothese:もし〜ならば、)」でしかない1101
31224 これに対して、我々はこれまでの哲学的議論を踏まえて、次のように主張したい。法体系は、当該法体系の「意味(Sinn)」、特にその個々の法命題(Rechtssätze)の現在の妥当性(Gültigkeit)の意味が、社会的行為を行う人間によって主観的に意味され、彼らがその行為の事実的経過を常に一定の方向に反復して方向づける場合にのみ、実定的(positiv)かつ現実的(wirklich)でありうる。人間の事実的社会的行為は、当該法体系の意味によって規定され、それを志向するものであり、社会的実体としての実定法の究極の現実の根拠(Wirklichkeitsboden)を形成する。アルフレッド・フェルドロース(Alfred Verdross)がしばしば主張しているように、あらゆる法秩序の「実定性(Positivität)」は、「実際に(tatsächlich)」制定された法行為(Rechtsakte)を通じて、その意味が徐々に実現されていくことにのみ成り立っている1102。裁判官の判決という事実的実行行為(vollzogene Akt)、刑罰の執行や死刑執行、意思に基づく契約の締結、遺言の合意に基づいた法的結果の実現、これらはすべて、実定法の現実の根拠を形成する人間の社会的行為の明白な例である。もし実定法がこのような事実的な現実の根拠を完全に失ってしまえば、当然ながら、当該法体系の現実的な存在は語るに足らない(keine Rede mehr sein)。そうなれば、もはや現在有効な法は存在しないことになるのである。
31225 具体的な法体系の意味によって一定の形で規定され、それを志向する人間の事実的行為は、法の「実現(Verwirklichung)」とも呼ばれる。従って、実定法の「実現」は、まさにその「現実(Wirklichkeit)」の基礎(Fundament)をなすものである。しかし、実定法の現実(Wirklichkeit)とその実現(Verwirklichung)というこの二つの概念が、今日の理論法学の一般的な用語の中で同義に使われれば使われるほど、この二つが決して混同されてはならないということが強調されなければならない。なぜなら、理念的な精神的実体(Geistesgebildes)の「現実的存在性(Wirklichseins)」という意味での実定法の「現実(Wirklichkeit)」は、その事実的な現実の根拠(Wirklichkeitsboden)と決して同一視されてはならないからである。実定法は、高次の精神的理念性の現存在領域(Daseinssphäre)を離れることによって社会的事実性において自らを「実現(verwirklicht)」するが、ここで根本的に問題となる実定法自身の「現実的存在性(Wirklichsein)」とは、実定法がその理念性にもかかわらず理念的な精神的実体として、まさにその特異な理念性において存在するという現実を意味する。
31226 人間の事実的行為におけるその意味の実現(Verwirklichung)において、実定法の現実の根拠(Wirklichkeitsboden)を確認(festzustellen)しようとするこのような試みは、当該法の理念的な「意味(Sinn)」をあらかじめ前提としなければならないという事実において、社会的事実性におけるその「実現(Verwirklichung)」を全く語ることができないために、常に理論的困難を伴う。もちろん、基礎としての(Fundierende)法の事実性(Faktizität)と、それによって基礎づけられた(Fundierten)理念的な法実体(Rechtsgebilde)とを対比させるようとする際に、それは重大な循環論ではないかを問わねばならない。というのも、ここで基礎(Fundierende)と呼ばれるもの、すなわち法の事実性(Faktizität)は、法の事実性を認識するすべての判断が本質的に法実体の理念的な意味の理解に基づいている限り、理念的な法実体の基礎(Fundierte)とは対極にあるもののように思われるからである。しかし、この難点は、「現実的基礎づけ(Wirklichkeitsfundierung)」と「意味的基礎づけ(sinnhaften Fundierung)」の間の方向性の異なる並列性についての前節の議論によって、すでに根本的に解消されている。法の理念的な意味が実現される社会的事実性は、理念と事実の間の意味的な底礎の連関(Fundierungszusammenhang)という観点から事実を見れば、事実の定礎にすぎないことは明らかである。しかし一方で、事実性は、理念的な法的実体を現実に(wirklich)存在する(seiender)対象(Gegenstand)として明らかにすることができる唯一の基盤(Fundament)である。理念(Idealen)の現実的存在性(Wirklichsein)もまた、事実(Faktische)によって法の中に基礎づけられている。現実の基礎(Wirklichkeitsfundierung)に関する限り、法の事実性は基礎となるものであることは間違いなく、逆に理念的な法実体は法の事実性によって基礎づけられる(Fundierte)。従って、人間の事実的行為における意味の実現(Verwirklichung)に、実定法体系の現実の根拠(Wirklichkeitsboden)を見出そうとするのであれば、循環論に陥る危険はない。しかし、当該法体系のこの理念的な意味は、その事実的(faktische)実現(Verwirklichung)を「意味的に」基礎づけるものであり、「立法(Gesetzgebung)」という行為のような、客観的に行われた意味形成行為(Sinnbildungsaktes)の結果に他ならない。

31227 要約すれば(Zusammenfassend)、社会的精神的実体は、その現実的存在性(Wirklichsein)が主として人間の社会的行為に基づくものであり、その「社会性(Sozialität)」とその「歴史性(Geschichtlichkeit)」の両方において、客観的で準恒常的な精神的実体とは異なるということである。この根本的な違いが、社会団体(sozialen Verbandes)の存在様式をより正確に定義している。なぜなら、社会団体が典型的な社会的実体であることは容易に認識されるからである。理念的な精神的実体としての社会団体は、人間の実際の社会的行為に基づいてのみ、現実に存在する認識対象となりうることは明らかである。他の社会的実体と同様、例えば国家(Staat)は、さまざまな即物的(sachlichen)客体性(Gegenständlichkeiten)、国家の場合はその「領土(Gebiet)」や国家を象徴する「国旗(Fahne)」の中に自らを具体化していることは疑いない。しかし、社会団体の現実的存在性の主要な基盤は、常に特定の人間の多かれ少なかれ意味的に方向づけられた社会的行為、とりわけ「構成員(Mitglieder)」の事実的行為にある。この主要な基盤がもはや存在しないのであれば、「領土」や「国旗」は、かつて存在した社会団体の即物的(sachliche)残滓(Überbleibsel)にすぎない。歴史的過去において紛れもない現実的存在性を持っていたローマ帝国は、今日ではもはや存在しない。従って、基本的なあり方において、社会団体は社会性を示すだけでなく、歴史性をも表している。しかし、社会団体とはどのような特殊な社会的実体なのだろうか。どのような特有の特徴が、他の数多くの社会的実体と社会団体を区別しているのだろうか?この問題が次の節の議論の土台となる。

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第十三節 純粋な社会的実体としての社会団体

31301 社会的な精神的実体の全分野(ganzen Gebiet)において、その一般的な存在構造について述べたように、我々は「流行(Mode)」「慣習(Sitte)」「法(Recht)」「宗教(Religion)」「国民経済(Volkswirtschaft)」など、さまざまな「下位分野(Teilregionen)」を区別することができる。これらのさまざまな下位分野を隔てる具体的な違いという、より具体的な問題には立ち入らないが、一見したところ、上に挙げた社会的実体のそれぞれが、それらすべてに共通する「社会性」という特徴に加えられる、独特の「実質的な(sachhaltiges)」契機(Moment)を含んでおり、その結果、当該社会的実体に固有の性格を与えていることがわかる。
31302 例えば法(Recht)は、もちろん何よりもまず社会的実体である。なぜなら、それを支える人間の行為は、その主観的な意味に従って他者と何らかの形で関係しており、従って必然的に「社会的」行為としての性格を持っているからである。しかしながら、これらの社会的行為が同時に「法的(rechtliche)」行為として規定される主観的意味は、決して厳密な社会的意味ではなく、常に、そして必然的に、ある「規範的(normativen)」事実内容(Sachgehalt)と結びついている。裁判官の判決という事実的行為は、それがこの裁判官の主観的意味に従って他者、例えば被告に向けられる限りにおいて、まず第一に社会的行為である。これは、裁判官によるそのような行為が、それ自体としては決して社会的行為ではなく、むしろ、具体的な法的意味、例えば各事件に「適用される」法的判決の意味によって共同決定される社会的行為であることを示している。司法判断の事実的行為の根底にある主観的に意図された意味は、はじめから社会的な意味であり、同時により法的に関連性の高い意味でもある。裁判官の事実的行為が「法的(rechtliches)」行為(Handeln)であると認識されるのは、それが特定の、法的に関連した意味内容(Sinngehalt)を志向しているという事実によってのみである。そして、まさにこの法的条件においてこそ、それはまた、特定の実定法の現実の根拠(Wirklichkeitsboden)として機能し得るのである。
31303 「宗教的」行為としての「祈り(Gebet)」や「経済的」行為としての「事業経営(Betrieb)」も同様である。これらの社会的行為は、それ自体が社会的に方向づけられるだけでなく、常に特定の「実質的な(sachhaltigen)」意味と結びつけられ、それによって共同決定(mitbestimmt)される。それらは単純な(schlicht)社会的行為ではなく、実質的な(sachhaltige)社会的行為なのである。そして、まさにこの「事実性(Sachhaltigkeit)」こそが、「宗教」や「国民経済」のような社会的実体を支えているのである。祈りは「宗教」という独特の社会的実体の基盤であり、それは「社会的に」決定されるからというだけでなく、主観的に意図された宗教的な意味内容(Sinngehalt)によって共同決定される「宗教的(religiöses)」行為(Handeln)として自らを提示するからである。経済上の事業経営を構成する事実的行為が「国民経済」の現実の根拠として機能しうるのは、その根底にある意味内容が、社会的な特性に加えて「経済的」な性格を持っているからに他ならない。従って、宗教的行為としての祈りも、経済的行為としての事業経営も、特定の実質的な特性を持たないような社会的行為とはならない。両者ともに、社会性の普遍的特徴(allgemeinen Merkmalen)に加えて、一定の実質的特徴(sachhaltigen Charakter)を持っている。
31304 ここで原理的に考察されている、ある事実的行為が持つの実質的な特徴とは、今や、当該社会的実体そのものの特定の意味内容の本質的特性に他ならない。ある社会的実体は、それに対応する社会的行為に「意味的(sinnhaften)」基盤を提供し、この意味的な基盤において、その実体に特有のある種の実質的な色彩を与える。一方、現実の基礎(Wirklichkeitsfundierung)においては、これらの実質的に色づけされた行為によって、まさにその逆に基礎づけられる。こうして、この社会的精神的実体(soziale Geistesgebilde)は、意味的に理解可能な理念性において、ある種の「事実性(Sachhaltigkeit)」をすでに示しており、それは決して単なる「社会性(Sozialität)」に還元されることはない。このように、最初からその意味内容(Sinngehalt)に一定の事実性(Sachhaltigkeit)を持ち、その結果、それに対応する社会的行為に基づいて真に存在する対象として現れる社会的実体を、「実質的社会的実体(sachhaltiges soziales Gebilde)」と呼ぶことができる。従って、実質的な社会的実体の本質は、その意味内容が常に単なる社会性以上の何か、ある特徴を含んでいるという事実にある。
31305 ここで考察されている実質的(sachhaltige)社会的実体と、前項で社会的精神的実体の存在のあり方(Seinsweise)と原理的に区別した即物的(sachliche)精神的実体は、常に厳密に分けて考えなければならないことに留意すべきである。「即物性(Sachlichkeit)」と「事実性(Sachhaltigkeit)」という用語は、一般的な哲学用語ではほぼ同義に使われるが、我々は問題の連関によってこれらの用語を使い分けて議論している。即物的な精神的実体をその全領域において社会的な精神的実体と対比しているが、ここでは、精神的対象の「事実性」を考える際に、社会的な精神的実体の「細分化(Unterteilung)」を扱っているに過ぎない。例えば、芸術作品のように「社会性」という本質的な性質が直接的に前面に出てこない即物的な精神的実体と、法体系や特定の宗教のような実質的な「社会的」実体は、このように明らかに、具体的で理念的な客体性(Gegenständlichkeiten)としてまったく異なる二つの範疇に属している。
31306 社会的精神的実体という全体的な領域の中で、実質的な社会的実体の領域をこのように区切ることで、社会団体(sozialen Verbandes)のあり方を最終的に決定することができる。社会団体は間違いなく社会的精神的実体であり、その現実的存在性(Wirklichsein)は人間の社会的行為(soziale Handlungen)に立脚している。しかしながら、これらの社会的行為だけでは、実質的な社会的実体の場合のように、何かしらの実質的意味内容(sachhaltigen Sinngehalt)と必要な関係において社会団体を確立することはできず、単に「社会的」行為としてとどまるのみである。社会団体は、社会的行為によってその現実性(Wirklichkeit)を基礎づけられ、その社会的行為がなんらかの事実性(Sachhaltigkeit)を持っているという事実によってではなく、それを支える人間の行為が、主観的に意図された意味に従って一定の仕方で他者に向けられ、それゆえ本質的に「社会性」の性格を帯びているという事実のみによって、それ自体が真に存在する対象(wirklich seiender Gegenstand)であることを示すのである。従って、社会団体は特異な社会的実体であり、実質的な意味内容を考慮することなく、社会的実体として認識することができる。あらゆる実質的社会的実体は、その意味の物質的内容に、この実体を他のどの実質的社会的実体からも区別する基準を見出す。このように、ある種の実質的な社会的実体としての法(Recht)は、まさにその独特の規範的(normativen)意味内容(Sinngehalt)によって、宗教や国民経済(Volkswirtschaft)といった他の同じように実質的な社会的実体とは異なっている。対照的に、社会団体を社会団体として定義する最終的な特徴は、そのような事実性にあるのではなく、原理的には、単にその意味内容の「社会性」によって、つまり単に対人的に形成された全体として、社会団体として認識されうるという事実にある。従って、社会的行為は、行為者によって主観的に意図された根底にある意味が、純粋に社会的な意味として、ある意味で当該行為の方向性を決定するという事実そのものによって、社会団体の現実の根拠(Wirklichkeitsboden)として機能しうるのである。こうして社会的行為は、その社会性において社会団体の現実的存在性(Wirklichsein)それ自体を確立するのである。
31307 このため、社会団体を「純粋な社会的実体」と表現し、その純粋な社会的性質において、すべての「実質的(sachhaltigen)」社会的実体と明確に対比させることができる。従って、我々は、社会的精神的実体を「実質的社会的実体」と「純粋な社会的実体」という二つの基本的な類型に分類する。第一の類型は、その意味が当該社会的実体に与える特定の特性によって、つまり「社会性」と並んで現れる特定の種類の「事実性(Sachhaltigkeit)」によって、さまざまなサブ類型に細分化される。これとは対照的に、第二の類型は、特定の実質的契機(Moment)との連関を考慮する必要なしに、純粋な社会性においてすでにそのようなものとして認識可能であるからこそ、特定の社会的実体を表しているのである。この第二の類型の社会的実体、純粋な社会的実体、は、社会団体(soziale Verband)に他ならない。
31308 このようにして、あらゆる実質的な社会的実体から、純粋な社会的実体としての社会団体のあり方を概念的に切り離したとしても、このことは決して、社会団体が現実にはあらゆる実質的な社会的実体から孤立して、従って、社会団体を支える社会的行為が、社会的意味によって排他的、かつ、いかなる混合もなしに決定されるということを意味するものではない。社会的行為が何らかの実質的(sachhaltigen)意味によって決定されることなく、純粋に社会的行為として現れるという事実は、むしろ、理念的な事例(Idealfall)として捉えるしかない。実際、社会的行為がその事実的な(faktischen)経過の中で方向づけられる主観的に意図された意味は、常にある具体的な内容と結びついており、純粋な社会性の中で限定されることはない。従って、事実的な社会的行為は、多かれ少なかれ複雑で、社会的に決定された方向性のみで為されるわけではない。それゆえ、一つまたは他の事実的意味によって共同決定される社会的行為に基礎を置く社会的実体は、単に純粋な社会的実体として現実(Aktualität)に自らを示すことはできず、常に同時に、いずれ他の実質的な(sachhaltigen)社会的実体との必要な連関を示さなければならない。まさにここにこそ、社会団体と関連するさまざまな社会的主体との本質的な構造連関が明らかになり、それが「国家(Staates)」や「教会(Kirche)」のような特定の社会団体に特異性を与えているのである。厳密に言えば、国家とはある種の社会団体であり、それはある「法秩序(Rechtsordnung)」と構造連関している。教会とは、「宗教」に構造連関するある種の社会団体に他ならない。この構造連関(Strukturzusammenhang)をここで詳しく説明するまでもなく、純粋な社会的実体としての社会団体は、常に特定の関連する社会的実体との連関において現れるということは、いずれにせよ言えることである。あらゆる実質的(sachhaltigen)契機(Momenten)から完全に切り離すことは、科学的抽象化の中でのみ考えられる。最も純粋な社会団体として正しく認識できる「家族」でさえ、一般的には、その具体的な意味内容に関しては、ある種の宗教的要素や共同生活の規範的規則と切り離せない。
31309 しかし、社会的現実(sozialen Wirklichkeit)の科学的研究においては、一方では純粋な社会的実体(sozialen Gebilde)としての社会団体(sozialen Verband)と、他方では実質的な(sachhaltigen)社会的実体との区別を厳密に維持することができる。というのも、ある特定の社会的精神的実体を、実質的契機(sachhaltigen Momenten)との結びつき(Verbundenheit)にかかわらず、社会団体として認識することを可能にする最終的な基準は、根底にある社会的行為が、その「社会性」それ自体において、当該精神的実体の現実の根拠(Wirklichkeitsboden)を構成しているという事実にのみあるからである。この理由だけで、社会団体が、実質的な意味とは無関係に、純粋にそのようなものとして生じることは、論理的に考えられないことではない。他方、社会的実体に特有の物質的意味内容を抽象化すれば、事実としての実質的な社会的実体を想像することは決してできない。現実の根拠として機能する社会的行為が、ある実質的な意味を志向しているという事実は、社会団体にとって論理的には必要ではないが、現実には常にそうである。しかし、まさにこの事実は、対応する実質的社会的実体の中で、その現存在が客観的に確認可能なるために必要な前提条件を形成する。社会団体が実質的な社会的実体から切り離せないものであっても、それが現実に存在するのであれば、純粋な社会的実体として、実質的な社会的実体から概念的に明確に区別することができる。

31310 ここで、法体系や宗教などの実質的な社会的実体が、論理的・必然的にある社会団体に構造的に連関してして、従って特定の団体形式で現れなければならないか​​どうかという問いが生じる。社会団体のあり方に関する我々のこれまでの考察結果によれば、この問いは一般的に肯定的な答えを求めているようだ。一方では、あらゆる実質的な(sachhaltige)社会的実体が「社会的(sozial)」に方向づけられた行為によって基礎づけられ、他方では、これらの社会的行為が、ある実質的な意味内容と実際に結びついているにもかかわらず、その「社会的」な特性において、すでに社会団体の現実の根拠を形成しうるとすれば、あらゆる実質的な社会的実体は、必然的に社会団体の特性も持つことになる。では、すべての実質的・社会的な実体(Gebilde)は、本質法則的に(wesensgesetzlich)社会団体(sozialen Verbandes)の形態をとるべきなのだろうか?
31311 法体系や宗教の場合、おそらくこの問いには肯定的な答えがあるであろう。国家(Staates)という形をとらない法体系はおよそ存在しないと言えるかもしれない。同様に、宗教が団体的な特性を持たずに存在することはありえないということも否定できないだろう。しかし、社会団体と、それか関連する社会的主体との構造的な結びつき(Verbundenheit)の必要性は、社会的現実の全分野において、無条件に認められるべきものではない。なぜなら、実質的な社会的実体としての「流行(ファッション、Mode)」が、社会団体としても現れるのだとは、誰も主張したくないだろう。従って我々は、実質的な社会的実体が、その現実的存在性(Wirklichsein)が必然的に事実的な「社会的」行為に立脚しているにもかかわらず、あるときは社会団体として現れ、あるときは団体の形態をとらないのはなぜなのかを問い続けなければならない。
31312 ここで我々の前に立ちはだかる困難は、社会団体の存在様式に関する我々の定義(Bestimmung)が、正確さの点で、まだまだ十分とは言えないという事実から生じている。具体的で理念的な精神的実体を、即物的な(sachliche)実体と社会的な実体とに分けることから出発して、我々は社会団体の特徴を、それが「社会的な」行為によって、つまり必ずしも実質的(sachhaltigen)意味への何らかの言及を前提とすることなく成立しているという事実に見出した。こうして、社会団体は純粋に社会的実体でとして現れる。しかし、このことは、どのような形態の社会的行為(soziale Handlungen)であれ、それが「社会的」行為であるというだけで、すでに社会団体の基礎を形成できるということを意味するものではない。むしろ、社会的行為が社会団体の現実の根拠(Wirklichkeitsboden)として機能するためには、依然として詳細に分析する必要があるさまざまな特性を備えているはずである。「流行」のようなある種の実質的な社会的実体は、その存在様式(Seinsart)の必然性(Notwendigkeit)に従って、ある種の「社会的」行為によってすでに成立していても、それにもかかわらず、これらの社会的行為が社会団体の現実の根拠を提供するのにまったく適していないことが明らかであれば、社会団体の形態をとることはできない。従って、我々のさらなる課題は、どのような社会的行為が社会団体の適切な現実の根拠を形成しうるかを正確に見極めることである。
31313 社会団体の適切な現実の根拠として機能する社会的行為の特性の、このように必要で正確な決定は、三つの連続する議論において行われる。まず第一に、社会的行為は、社会団体の底礎の連関(Fundierungszusammenhang)に入ることを可能にするために、一方的な社会的方向性ではなく、相互的な社会的方向性において、考慮されなければならない。ここで、マックス・ヴェーバーが社会的行為について与えた定義を思い出そう。「『社会的』行為とは、行為者が意図する意味に従って、他者の行動(Verhalten)に関連し、かつその経過においてこれに方向づけられている行為と呼ぶべきである」であった。しかし、社会的な現存在(Daseins)の具体的な世界においては、社会的行為は、決して人間の行動の孤立した断片として提示されるわけではなく、むしろ主として「相互関係性(Aufeinander-Bezogenseins)」という構造連関の中に存在する。社会的行為とは、その根底にある意味を通じて他者の行動に関連する行為である。しかし、当該行動が向けられた他者の行動は、社会的行動ではまったくないかも知れない。例えば、ある主体Aが主体Bの行動に社会的に同調しているにもかかわらず、主体Bは主体Aの存在を知らず、またそれに注意を払うこともなく、純粋に美的に芸術作品を楽しんでいるような場合がこれに該当する、他者の非社会的行動に関連するこの特定の社会的行為を、我々は完全に排除しなければならない。そして、我々は、社会的行為を、他者の同様に社会的に決定された行動に向けられている限りにおいて、またその限りにおいてのみ、考慮する。従って、我々はあらゆる社会的行為を断片的な孤立したものとして見るのではなく、常に他の、同じように社会的に決定された人々の行為と必要な連関の中で見ているのである。このような社会的行為の相互関係の典型的な例は、主観的に意図された意味で別の社会的行為が向けられているある社会的行為が、今度はその相手を目指す場合に起こり、最終的に二つの行為が完全な一つに統合されるような場合である。主体Aと主体Bの間の問答関係では、例えば、社会的行為としてのBの「答え」は、Aの「質問」に関連しており、その「質問」は、前者に先立つ社会的行為として、答える準備ができているかもしれないBの行動に関連している。このような、相互に関連し合う人間の複数の社会的行為の構造連関を、我々は「社会関係(soziale Beziehung)」と名づける。社会的行為が社会団体の現実の根拠としての機能を果せるためには、まず第一に、社会関係(sozialen Beziehungen)という特性を持たなければならない。
31314 第二に、さまざまな類型の社会関係の中から、その性質上、社会団体の現実的存在性(Wirklichsein)を実証するのに適した類型の形態を選び出さなければならない。というのも、ある種の社会関係は、社会団体の現実の根拠として機能するには、まったく相応しくないことは、容易に明らかだからである。実際、社会団体の現実的存在性を破壊し、消滅させるような、まさに有害な関係の類型さえある。我々がここで言及するのは、相互に絶対的に否定しあう「戦闘関係」だけである。この「戦闘関係」は、一つの同じ団体の構成員の間に生じる限り、当該社会団体の現実的存在性を維持するためには最初から不適当であり、むしろ逆に、この団体を破滅へと導くものである。その性質上、社会団体の現実の根拠の役割を果たすよう運命づけられている社会関係類型の典型を、我々は「共同社会関係(Vergemeinschaftung)」と名づけることにする。共同体化は、スメントが「統合(Integration)」という言葉で表現しようとした社会過程(sozialen Prozesse)の類型にほぼ対応している。従って、社会団体の現実的存在性(Wirklichseins)の基盤は、もっぱら共同体化し、統合する社会関係にある。
31315 第三に、そして最後に、特定の社会団体の現実的存在性(Wirklichsein)を基礎づける共同体化(vergemeinschaftende)の社会関係は、当該団体の意味の理念的存在(ideale Sein)をすでに前提としており、この意味によって何らかの形でその全般的方向が条件づけられていることを、我々は基本的に認識しなければならない。とりわけ、特定の団体の現実の根拠として機能する共同体化関係は、当該団体に帰属する行為者(Handelnden)の共通の「帰属意識(Zugehörigkeit)」によって、その意味的に理解可能な方向性が決定されなければならない。というのも、共同体化関係は、その本質的な構成において、特定の社会団体への有意義な言及を持たず、無論、この団体の現実的存在性を確立することは決してできないからである。中世におけるドイツ人の共同体化関係は、明らかに古代ローマ帝国とは現実の基礎において明らかに何の関係もなかった。人間の事実的な共同社会関係(Vergemeinschaftung)は、人間相互間(zwischenmenschlichen)関係の全体性としてのこの団体の意味があらかじめ客観的に形成され、ある「意味的(sinnhaft)」仕方で当該共同体化関係(vergemeinschaftenden Beziehung)の根底にある場合にのみ、当該団体の現実の根拠(Wirklichkeitsboden)として機能しうる。その現実の根拠として機能する共同体化関係を有意に支えるこのような団体の意味(Sinn)は、個々人(Einzelnen)による意識的な、あるいは歴史の超個人的な発展の過程で生じる「意味形成の行為(Akt der Sinnbildung)」を通して、すでに存在しているのである。結論として、社会団体の現実的存在性の問題を最終的に明確にするためには、特定の団体の「意味」とそれを支える事実上の(faktischen)社会関係との間の相互条件的な関係(Verhältnis)を詳細に論じなければならない。この議論は必然的に、社会団体の現実的存在性の客観的意味形成との歴史性の認識へと我々を導く。
31316 これらの三つの課題を、一:社会関係の本質的構造の分析、二:社会団体の現実の根拠としての共同体化の決定、三:社会団体の現実的存在性の客観的な意味形成と歴史性の解明、この順序で、次の三つの節で続けて論じる。

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第十四節 社会関係(sozialen Beziehung)の本質的構造

31401 社会関係とは、行為者が意図する主観的意味に従って互いに向けられ、それによって互いに結びついている社会的行為の構造連関した複合体である。一方的な行為である個々人の社会的行為とは対照的に、社会関係はその性質上、多面的な行為である。社会的に行為する主体Aは、ある経験を持っており、その内的行為において、例えば「AはBを崇敬している」というように、別の主体Bに関係している。Aのこの経験は、対応する表出(Ausdruck)を見つける。その結果、Aによる一方的な行為、すなわち崇敬という内的行為の発話や身振りによる表出が生じる。この表出は、主観的に意図された(崇敬の)意味に従って、すでに他者に向けられた社会的行為を構成している。しかし、AからBに一方的に向けられた振る舞い(Verhalte)を表しているにすぎない以上、社会関係(sozialen Beziehung)を形成するには至っていない。しかし、Aのこの一方的な行為は、それが意味に従った表出であるがゆえに、Bに理解(verstanden)され、それによってBの内的経験の中に、Aの崇敬を肯定したり否定したりする、対応する社会的行為を出現させるという目的を持つ。この対応するBの社会経験が、つづいてAに向けられ、応答反応にその表出を見いだし、この応答反応が今度はAに理解される(verstanden)ならば、そのとき初めて、相互に方向づけられた社会的行為の複合体、すなわち社会関係が形成される。
31402 図式的に言えば、社会関係は六つの重要な関連する要素で構成され、それらは一様な系列で組織されている。すなわち、一:Bに向けられたAの社会的行為、二:Aによるこの社会的行為の表出、三:表現されたAの社会的行為をBが理解すること(Verstehen)、四:この理解によって引き起こされるBの社会的行為は、Aの社会的行為に対応し、今度はAに向けられる、五:この対応するBの社会的行為が、応答反応(Antwortreaktion)の形で表出される、六:AによるBの応答反応の理解。このように、社会関係とは、厳密に言えば、表出(Ausdruck)と理解(Verstehen)を通じて互いに向けられる複数の人間の社会的行為の構造的な連関である。
31403 他者に向けられたこれらの人間の経験は、表出と理解による連関が社会関係を形成するが、通常、単なる社会的な意味内容ではなく、ある種の実質的な意味も含んでいる。それらは通常、単に社会的行為としてではなく、「実質的な(sachhaltige)社会的行為(soziale Akte)」として示される。これを説明するための例を挙げよう。 AはBの芸術的才能を崇敬する。この場合、Aの崇敬は芸術的意味内容に満ちた実質的な社会的行為である。Bのほうは、Aが自分Bに向けた崇敬の表現を理解し、Aもまた芸術、特に自分Bの芸術的創造物について正しい理解を持っていることを認識する。このようにして、Bに、対応する経験(例えば喜びと結びついた感謝など)が生じるが、これはAの崇敬と同様、単なる社会的行為ではなく、特定の芸術的意味内容に関連する実質的な(sachhaltiger)社会的行為(sozialer Akt)である。AとBの間の社会関係は、喜びと結びついた感謝に対応するBの社会経験が、Bのある応答反応に表出され、Aがこの応答反応を理解する場合に初めて生まれる。そのために、結果として生じる社会関係もまた、ある種の事実性(Sachhaltigkeit)、この場合は美的あるいは芸術的な色彩、を有しており、したがって単なる社会関係ではなく、「実質的な社会関係」なのである。
31404 この意味内容は、それ自体は社会的なものではなく、社会関係と結びついて実質的な色彩を与えるものであるが、概念だけで把握できるほど明確なものであるとは限らない。通常はむしろ、もっと複雑で多彩な性質を持っている。例えば、契約(Vertrag)はその性質上、社会関係であり、一方では必然的に規範的なもの、特に法的な性質を持つが、物質的利益という経済的目的のような別の実質的な意味内容も持つ。この場合、社会関係としての契約は「法的・経済的」関係を形成する。他方、実質的な意味内容を持たない社会関係、すなわち、実際にただ単に社会関係という場合は、せいぜいどちらとも考えられる程度である。純粋な友情や社交の問題であっても、よく分析すれば、この種の社会関係は常に、純粋に社会的な意味内容ではなく、どちらか一方から決定されていることがわかる。
31405 それでも、科学的思考は原理的に、この社会関係を、現在それに関連づけられている社会的意味をまったく考慮することなく、純粋にそのままとして理解することができる。あらゆる可能な社会関係、あるいは事実的な社会的世界に生じるあらゆる社会関係は、多かれ少なかれ明確に意識された、単純な、あるいは複雑な、ある種の実質的意味内容と常に関連づけられているが、社会関係の構造は、その純粋性において決定され、また、思考上の抽象化によって、それと結びついているそれ自体社会的ではない意味内容を、即座の考慮から排除することによって、そのさまざまな類型で分析することができる。具体的な契約の場合、そこに含まれる法的または経済的な意味内容を完全に無視して、一種の「純粋な(reinen)」社会関係とみなすことができる。我々は、純粋に社会的な意味内容ではなく、関連するものを概念的に完全に排除した後でもなお、そのようなものとして認識できる、複数の人間の社会経験の構造連関を「純粋な(reine)社会関係(soziale Beziehung)」と呼ぶ。この純粋な社的関係は、本質的に思考上の抽象化の結果に他ならないので、実際の社会的現存在の領域において、そのようなものを探し求め、見出すことは決してできない。しかし、我々の社会的世界の科学的研究においては、客観的現実(objektiven Wirklichkeit)の存在構造を社会性という特異性においてのみ解明できるようにするために、必然的にこの純粋概念(reinen Begriff)を形成しなければならない。
31406 この考察は、きわめて重要な認識を我々にもたらす。概念的抽象化によって確立された純粋な社会関係は、社会的世界の契機を形成し、社会的存在にまず社会性という定義を与える。それは、事実性の領域において、社会的世界を社会なるもの(das Soziale)として条件づける。純粋な思考の領域では、この世界が実際に満たされている、単なる社会的意味内容を自由に変化させることができ、なおかつ社会的現存在という客観的世界を常に不変のものとして目の前に置くことができる。このように実質的意味内容が自由に変化するにもかかわらず、社会的世界は決して、社会的世界としての本質(Wesen)を変えない。従って、社会的現存在という側面から見ると、単なる社会的、経済的、宗教的、技術的あるいは美的な意味内容は、「ヒュレー的な(hyletisches)」与件(Datum)にすぎない。(訳者注:物=形相(エイドス)+質料(ヒュレー)とすると、ヒュレーは物の素材を表す)このため、それは社会的世界の「質料(Materie)」と呼ぶことができる。これとは厳密に対照的に、表出と理解を通じて互いに関係し合う大多数の人間の社会経験、つまり純粋な社会関係という、純粋にそのように考えられる構造連関が、思考上において直接の認識の場(Erkenntnisfeld)から排除されるなら、社会性としての本来の意味での社会的世界は、もはやまったく認識されなくなる。一般的に言えば、純粋な社会関係とは、単なる社会的な意味内容ではなく、あらゆる可能性から抽象化された形であり、社会的現存在の本質とみなすことができる。
31407 ここで議論の中心に据えた純粋な社会関係の構造をより明確かつ深く理解するためには、「社会化の形式(Form der Vergesellschaftung)」としての「相互作用(Wechselwirkung)」というジンメル(Simmel)のよく知られた概念と向き合うことが不可欠である。我々がこの必要に迫られているのは、一方では、その歴史的発展における純粋な社会関係の概念が、明らかにジンメルの「相互作用(Wechselwirkung)」の概念に由来しているからであり、他方では、いくつかの重要な点で、ジンメルの概念とは大きく異なっているからである。(訳者注:「ジンメルにおいて、社会は諸個人の相互作用として成立し、個人は社会圏の交差点に成立する。 社会は個人をその構成要素とし、個人は社会的なものをその構成要素とするという対称性が成り立っており、どちらも相手によって自らの内容を満たしている」という解説がある。出典:「ゲオルク・ジンメルの個人と社会」東京大学大学院 高橋幸)

31408 よく知られているように、ジンメルは「相互作用(Wechselwirkung)」という概念を用いて、「社会学(Soziologie)」の方法(Methode)と対象(Gegenstand)を明確に定義しようとした。当時はまだ、社会学が独立した社会科学(Sozialwissenschaft)として存在できるかどうか(Existenzberechtigung)が大いに議論されていたのである。
31409 ジンメルは、社会学を、社会世界の場を包括的に対象として扱う科学として確立することは最初から不可能であると考えた。なぜなら、個々の科学にとって、歴史的・社会的な現象(Erscheinungen)という広大で複雑な領域は、人間の認識能力の限界をはるかに超えた、克服不能な巨大な対象場(Gegenstandsfeld)であるからである。このため、社会的現実(sozialen Wirklichkeit)に対する科学的研究は、まず特定の視線の方向を確立し、次にその方向に沿って、複雑な現象世界の特定の局面を徐々に科学的な観察(Betrachtung)の最前線に持ってくることによってのみ可能となる。文化史学、国民経済学、宗教学、人口学、政治学など、さまざまな社会科学は、このような社会世界を概念的に解剖する過程を通じて、それぞれ独自の指導概念(Leitbegriff)のもとで、すでにその基礎と認識分野(Erkenntnisgebiet)を見出している。それでは、独立した一つの科学としての「社会学」は、こうしたさまざまな、すでに確固たる地位を確立している社会科学の他の分野との関係において、その独立した対象分野(Gegenstandsbereich)をどこに見出すべきなのだろうか?歴史的・社会的世界は、個々の諸科学の協力によってのみ完全に研究されうるのであるから、歴史的・心理学的・規範的社会科学を「一つの大きな鍋に(in einen großen Topf)」すべて注ぎ込み、そこに「社会学というラベル(Etikett)」を貼りつけることは、まったく無意味である1241。それに対して、社会学を新たな独立した科学として確立する唯一可能性のある道は、社会的現存在という共通の対象分野から出発し、他のどの社会科学によってもまだ探求されていない側面、すなわち社会的現存在全体が「社会的なもの」として初めて認識される側面を研究(Untersuchung)の中心に据えることによってのみ切り開かれる。
31410 社会性の最終的な定義を歴史的・社会的な現象(Erscheinungen)の豊かさに与え、社会学の唯一可能な真の対象分野を形成する具体的な側面は、人間相互間の(zwischenmenschliche)「相互作用(Wechselwirkung)」以外にありえないと、ジンメルは言う。なぜなら、最も広い意味での「社会(Gesellschaft)」は、複数の個々人が「相互作用(Wechselwirkung)」に入るところであれば、どこにでも存在するからである。従って、相互作用こそが、「社会」を、これまでその有効なその語の文字通りの意味での、社会たらしめているのだとも言える。相互作用は、人間の衝動(Trieben)から、あるいは特定の目的のために生じる。「性愛的な、宗教的な、あるいは単に社交的な衝動、防御や攻撃の、遊興や営利の、あるいは援助や指導の目的、その他無数のものが、人間を集め、互いのために、あるいは一緒に、あるいは互いに対して行為(Handeln)させ、相手に影響を及ぼし、相手から影響を受けるようにさせる、それが、そうした変化する状態の相互作用である」相互作用は、一般的に、このように、さまざまな人間の経験の契機(Erlebnismomenten)から生じるものであり、その意味内容は、経済的、技術的、芸術的、科学的な契機として、純粋に実質的な意味(Bedeutung)において概念化され、考察が可能になる。しかし、純粋に概念的に言えば、このような実質的な人生の意味は、「社会(Gesellschaft)」という人間の相互的な関係の統一の構成とは何の連関もない。ジンメルは次のように言う。「任意の数の人間も、それぞれの中に、即物的にに決定された、あるいは個々に動いている人生の意味が存在するという事実によって、社会が成り立つのではない。しかしまず、これらの意味内容の活力が相互の影響という形を獲得し、一方から他方へ、直接的にあるいは第三者によって媒介されて、作用が起こるときに初めて、人間の単なる空間的な並置や時間的な連続が、社会となるのである」
31411 その結果、歴史的・社会的世界のこの方法論的分析における相互作用(Wechselwirkung)は、それが自己実現(Selbstverwirklichung)の動的な過程として見られる限り、まさに社会の、あるいは「社会化(Vergesellschaftung)」の純粋な「形式」を形成することになる。この「社会化の形式(Form der Vergesellschaftung)」は、「社会(Gesellschaft)」の中になお見出されうる他のすべての契機(Momenten)とは明らかに対立しており、そのような契機については、単にその「内容(Inhalt)」として「社会化の形式」との関係において理解されなければならない1255。観察可能な歴史的-社会的な現実(Wirklichkeit)の純粋に社会的な側面としての相互作用を強調することは、ジンメルの見解では、同時に、その可能な「内容に関連した(inhaltlichen)」決定事項のすべてを無視して、「社会化の形式」を確立することを意味する。
31412 この方法論的な予備的議論の後、ジンメルは社会学の対象(Gegenstand)と任務(Aufgabe)を確認しようとする。ジンメルにとって社会学とは、「社会化の形式」としての相互作用を実際の対象とする科学となる。社会的現実(sozialen Wirklichkeit)の「内容的な(inhaltlichen)」側面はすべて、すでにさまざまな専門科学に研究分野として引き継がれているのだから、社会学を「社会(Gesellschaft)」の科学として構築することは、他にどのようにして可能であろうか?「社会化の形式」の科学としての社会学は、社会科学において、自然科学における幾何学と同じ役割を果たす。「人間の社会的存在についての学問としての社会学は、他の数えきれない点においても科学的な対象となりうるが、それゆえ、幾何学が物質に関する物理化学的な科学に関係するのと同じように、他の専門的な科学に関係する。幾何学は、一般に質料(Materie)が経験的な物体となる形式を考察するものである。もちろん、その形式は、社会化の形式と同じように、抽象の中にしか存在しない。幾何学も社会学も、その形式の中に表現されている内容や、形式だけを考察している現象全体の探求は、他の科学に任せている1261」従って、ジンメルがこのようにして確立した社会学は、本質的に「形式社会学(formale Soziologie)」であり、その任務は、「社会化の形式」としての相互作用を、「上下関係(Über- und Unterordnung)」や「闘争(Streit)」といったさまざまな形で分析し、記述することである。
31413 ここで手短に述べるように、社会学を構築しようとするジンメルの試みの大きな利点は、この学問(Wissenschaft)の実際の認識分野(Erkenntnisgebiet)を社会的現存在(sozialen Daseins)の一般的世界から概念的に分離することができる方法論的排除(methodische Ausschaltung)を、明確に行ったことであり、ジンメルはその先駆者である。ジンメルが認識したように、社会的世界の存在定義を何よりも構成するもの、すなわち、歴史的・社会的現実において、最も一般的な用語の意味での社会的なものとみなされるのは、複数の人間の相互的な経験に決定し・される人間相互間関係に他ならない。これとは対照的に、この現実の他のすべての実質的な契機(Momente)は、この人間相互間的経験連関においてのみ、社会性の質(Eigenschaft)を獲得することができる。「上下関係(Über- und Unterordnung)」は、例えば、それが政治的、宗教的、軍事的、あるいは経済的な支配関係(Herrschaftsverhältnis)であろうとなかろうと、ある種の社会性を形成している。それに反して、政治や国民経済、法や宗教は、当該対象分野(Gegenstandsgebiet)が最終的に人間の相互的な経験連関の基礎に関係する限りにおいてのみ、「社会的(soziale)」現象(Erscheinung)となりうるのである。社会学自身の対象領域(Gegenstandssphäre)を明確に区分したことは、ジンメルの偉大な功績として永遠に残る。
31414 ジンメルの形式社会学(formale Soziologie)は、それだけでは、その方法論的根拠の画期的な重要性にもかかわらず、新しい学問の基礎を築こうとする試みとしては、不正確で体系的でなく、ある面では矛盾しているとさえ言えるものであった。これらの欠点は、最終的にジンメル自身も認めているが、社会学的調査のこの方向性が、いまだ実りある成果に達するのを妨げている理由である。私の考えでは、形式社会学から発展の可能性を奪ってきたという事実は、主としてジンメルの基本的な方法論的態度の素朴さ(Naivität)に起因するものであり、これからそれを三つの基本的な点で実証する必要がある。

31415 社会学の方法論的基礎に関するジンメルの定式化(Formulierung)に関して、我々が対処しなければならない最初の点は、ジンメルが相互作用(Wechselwirkung)を説明した「社会化の形式(Form der Vergesellschaftung)」という概念に関するものである。というのも、この用語は、それ自体はまったく間違っているわけではないのだが、彼の信奉者の間でさえ、しばしば大きな誤解を生んできたからである。形式社会学の究極の目標は、具体的で無限に多様な社会現象(sozialen Erscheinungen)を最後の残滓に至るまで抽象化し、それによって複数の人間の間のまったく無意味な関係形式(Beziehungsformen)の骨格的枠組みを作成することによって達成できると信じられている。
31416 ジンメルの形式概念(Formbegriffes)をこのように理解した結果は、レオポルド・フォン・ヴィーゼ(Wiese)のいわゆる「関係論(Beziehungslehre)」に最も顕著に表れている。ヴィーゼは、社会学を「厳密な科学(exakte Wissenschaft)」として構築するためには、まず社会現象の質的多様性(qualitativen Mannigfaltigkeiten)を可能な限り単純な量的差異(quantitative Verschiedenheiten)に還元しなければならないと考える1271。「認識の正確さ(Exaktheit der Erkenntnis)」は、一般に、質的なものを量的に還元(Reduktion)する方法が成功すればするほど、大きくなるからである1272。この基本的態度から出発して、ヴィーゼは今、ありとあらゆる人間の相互的な関係を、人間だけでなく、他の生物、さらには空間的関係における無生物でさえも含め、最も単純で最も一般的な二つの類型の関係の対立に還元する。この二つの基本的な類型の関係は、「to相互(Zuinander;向相互)とwith相互(Miteinander;伴相互)の関係」と「out-of相互(Ausinander;脱相互)とwithout相互(Ohneinander;外相互)の関係」の対比によって明らかになる。(訳者注:これらの〇〇inanderは、訳しにくいので、上記のような訳の提案をした。あわせて、次のような例示を付す。Zuinander:お互いに 我々はお互いに良好な関係を持てている。Miteinander:一緒に 子供たちは一緒にサッカーをして遊んでいる。Ausinander:離れて お互いから離れて、喧嘩の仲裁に入る。Ohneinander:お互いの存在なしに 彼らはお互いの存在なしに生きることができない1281)ヴィーゼによれば、この二つの対立する基本的関係を区別することは、最も形式的で、最も一般的で、可能な限り「数学的」な考察の仕方(Betrachtungsweise)を意味し、それによってのみ、具体的・社会的な関係(Verhältnisse)の「形式的なもの(Formale)」を内容の埋め草の中から結晶化させ、「社会化(Vergesellschaftung)」の複雑な過程から真に社会的なもの(Soziale)を科学的考察の前景に位置づけることができる。従って、正確で自立した科学としての社会学は、to相互(Zuinander;向相互)関係とout-of相互(Ausinander;脱相互)関係との間の、この究極的で最も抽象的な差異に基づいて構築されなければならない1282
31417 しかし、人間の社会的現存在を、まさしくその精神に満ちた、意味のある特異性において論じようとする研究者にとって、そのような「正確さ(Exaktheit)」は何の役に立つのだろうか?社会的世界を、二つの石や二つの惑星の間でさえ観察できる種類の関係にまで量的に還元することから、何が生まれるのだろうか?社会的現存在の歪んだ(schiefe)自然化(Naturalisierung)に他ならず、それによって社会学研究の意味は必然的に崩壊する!
31418 私見によれば、ジンメルが創設した「形式(formale)」社会学が、社会学的認識から意味ある内容を奪ってしまうという不幸な展開を遂げた理由は、彼の「形式(Form)」という概念が、内容なき形式という意味に誤って解釈されたことに直接的あるいは間接的にあり、この誤った解釈には、ジンメル自身にも責任の一端がある。ジンメルが相互作用(Wechselwirkung)を「社会化の形式」と表現したのは、社会現象(sozialen Erscheinungen)を、その最も一般的な形式において社会的なもの(Soziale)として定義する契機(Moment)に言及したにすぎず、それは決して、内容を欠いた純粋な形式という意味での「形式(Form)」ではなく、その本質において「内容(Inhalt)」に対立すべき空っぽの(inhaltsleeren)純粋な形式という意味での「形式」ではない。
31419 ここでの形式概念(Formbegriffes)には、明らかに根本的な両義性(Doppelsinnigkeit)がある。ある場合には、形式とは、内容の定義とは対極にある「空っぽの形式(leere Form)」を意味する。それとは逆に、ある対象に関しては、その構成要素(Bestandteile)のうち、純粋に当該対象を定義するものを「形式」として指定することもできる。しかし、この第二の意味での形式とは、決して内容のない空っぽの形式を意味するのではなく、最初から質料的(materiales)であり、少なくとも一定の内容で満たされた実体(Gebilde)を意味する。従って、この第二の意味での対象の形式は、他の対象との関連において、「質料(Materie)」とみなすことができる。例えば、宗教の「形式」としての「絶対依存の感情(schlechthinnige Abhängigkeitsgefühl)」(シュライアマハー Friedrich Schleiermacherによる概念)は、「社会的」対象領域から見れば、社会的現存在のさまざまな実質的「質料(Materien)」のひとつに他ならない。この二つの異なる「形式」の概念の混同を避けるために、二番目の場合で理解した「形式」、つまり「資料的(materiale)」な形式を「本質(Wesen)」、「エイドス(Eidos)」と呼ぶことが望ましい。というのも、そもそも対象をそのようなものとして定義する契機(Moment)、つまり、その契機がなければ、当該対象はもはやそのようなものとして認識できない契機が、この対象の「本質(Wesen)」に他ならない。それは、常に多かれ少なかれ具体的な意味内容において自らを示す本質であるが、まさにこの質料的(materialen)意味内容ゆえに、それが契機として属するある対象をそもそも可能にするのである。この本質はまた、より一般的な場合であれば、その客体性(Gegenständlichkeiten )の特定の「分野(Region)」を区切り、他の対象分野(Gegenstandsgebieten)から明確に分離する。従って、これは「質料的本質(materiale Wesen)」であり、より一般的な場合には、フッサール が言うところの「分野的(regionale)本質」であり、そのようなものとして、第一義的な意味での形式、すなわち、空虚で完全に無内容な形式--「単なる本質形式(bloßen Wesensform)」と厳密に対立する1291
31420 この基本的な議論を振り返ってみると、ジンメルが「相互作用(Wechselwirkung)」を「社会化の形式(Form der Vergesellschaftung)」と表現したとき、「形式(Form)」という用語を、まさに質料的本質の意味での「形式」を意味するものと理解していたことがよくわかる。「相互作用」という概念を確立することによって、ジンメルは要するに、社会性の「分野(Region)」を歴史的・社会的現実の一般的世界から分離する分野的本質(regionale Wesen)を定義しようとしたのである。というのも、社会的現存在の客観的世界は、相互的で人間相互間的な経験連関がその存在の決定の基礎を形成するという事実によって、社会的現存在として最初に決定されるのであり、一方、それに実際に関係する他の実質的構成要素は、自由な可変性の様式にあるにすぎないからである。このことから、相互作用は社会的現存在との関係においてのみ、形式的あるいは抽象的な何かを意味するが、それ自体は決して無意味で空虚な形式として理解されてはならないということも必然的に導かれる。むしろ、社会性(Sozialität)の質料的本質としての相互作用は、ある種の知的抽象化、すなわち「ヒュレー的な与件(hyletisches Daten;質料的与件)」からの抽象化は決して省くことはできないが、必然的にその具体的内容に従って見られ、確認されなければならない。ジンメルの「形式(formale)」社会学は、量的なものに還元された社会的現存在の空虚な骸骨のような学説であってはならない。それはまさに、充足した生活内容に満ちた社会的領域の質料的本質の科学として、ジンメルが構想し構築したものである。幾何学が三次元空間関係の形式の科学であり、その形式は実質的であり、空虚ではないように、社会学も歴史的・社会的現実の空虚な形式の科学では決してない。

31421 このようなジンメルの形式概念の批判的検討と関連して、ジンメルの形式社会学のみならず、従来の経験主義社会学一般がこれまで犯してきた第二の誤りを明らかにしなければならない。根本において、この誤りは、社会学的認識(Erkenntnis)の主要な対象が、常に社会的現存在の感覚的に(sinnliche)知覚可能な(wahrnehmbaren)、あるいは心理学的に説明可能な(erklärbaren)、純粋に事実的な領域にのみ求められているという事実にある。しかし、歴史的・社会的現実(Wirklichkeit)に見出される客体性(Gegenständlichkeiten)は、その究極的な特異性(Eigentümlichkeit)においてのみ、具体的で理念的な精神的実体(ideales Geistesgebilde)として把握されうるのであるから、社会学がその視野を単に経験的に認識可能な社会世界の領域に限定しようとするならば、その実際の認識目標を見失わざるをえない。社会学が今日まで主に取り組んできた社会現象(sozialen Erscheinung)の単なる事実の積み重ねの層は、この科学の真の(wahren)対象がまず現実の(wirkliche)対象として与えられるための根拠(Boden)でしかない。マックス・ヴェーバーの試みは、社会学の対象領域を、一方では人間の社会的行為の事実的な経過へと徹底的にに還元させるが、他方では、しかし、実際の理念的な精神的実体を、単なる「理念型(Idealtypen)」として、研究の「手段(Mittel)」として、社会科学的認識分野の直接的な場から押し出すものであり、従って、社会学の真の対象の「現実の根拠」に固執するだけであった。
31422 ジンメルの場合もまったく同じである。精神世界へのジンメルの深い洞察は、慣習(Sitte)、言語、文化、宗教といった精神的意味内容の「理念的」な思考上の領域と、そうした精神的実体が現実のものとなる具体的な事実的過程とを、概念的に区別することを可能にしたが1301、それでも彼は社会学の方法論的根拠づけにおいて、この科学の対象領域は「相互作用(Wechselwirkung)」の事実的過程に限定されたままであるべきだという見解を堅持した。この対象領域の誤った限定から、ジンメルは社会性の「形式」、すなわち社会的現存在の分野的(regionale)本質を、単なる事実性の領域においてのみ探求し、それを単に「相互作用」として確立しなければならなくなった。相互作用の概念は、まだ我々によってより正確に特定され、社会関係(sozialen Beziehung)の概念として徹底的に再構築される必要があるが、最も一般的な解釈において社会的なものを社会的なものとして定義するものは、人間相互間的で相互的な経験連関(Erlebniszusammenhang)であることを認めなければならない。しかし、これは社会的現存在という単なる事実的な領域にのみ適用される。他方で、単なる事実性の領域よりも根本的に優れている精神世界の具体的・理念的領域を社会学的考察の前景に持ち込むならば、最終的な分析において、社会的現存在の本質は、人間相互間的に形成された全体性(Ganzheit)、すなわち純粋な社会的実体の意味での社会団体(soziale Verband)に他ならないことを容易に理解することができる。厳密には、人間の相互的な経験連関(Erlebniszusammenhang)は、たとえ事実性の領域であっても、社会団体(sozialen Verband)を通じてのみ、意味ある基盤において純粋に社会的なもの形成する(ausmachen)ことができる、とさえ言わなければならない。従って、言葉の最も簡潔な意味において、社会団体(soziale Verband)のみが「真の社会学(Gesellschaftslehre)」の中心的対象を形成することができる。対照的に、相互作用(Wechselwirkung)、ジンメルがその方法論的意味をおそらく最初に正しく理解したのだが、は現実性(Realität)に最も近いものであり、社会学(Soziologie)の真の対象の現実の根拠(Wirklichkeitsbodens)の最下層にある過ぎない。対象分野(Gegenstandsgebietes)を単なる「相互作用」に限定することで、形式社会学は、その最も重要で最も実りある仕事、すなわち社会団体の実際の存在構造を徹底的に研究し解明するという仕事を、最初から放棄せざるを得なかったのである。
31423 社会学の対象分野の決定に関するこの批判的な議論に基づいて、我々はすでに、純粋に社会的なものが二つの異なる層(Schichten)でそれ自身を現すという基本的な事実(Sachverhalt)を理解している。最も一般的な理解では、純粋に社会的なものとは、まさに表出(Ausdruck)と理解(Verstehen)によって結ばれた人間相互間の経験連関(zwischenmenschlichen Erlebniszusammenhang)、つまり、経験の事実的契機を考慮することなく、その意味を把握することができる純粋な社会関係のことである。この第一の意味での純粋に社会的なものとは、その性質上、社会学の事実的対象層(Gegenstandsschicht)を指す。一方、これとは対照的に、言葉の厳密かつ簡潔な意味での純粋な社会的なものとは、人間相互間的に形成された全体性、すなわち純粋な社会的実体としての社会団体であり、それはもちろん、もはや事実の領域には存在せず、しかしそれは、この領域の上位に位置する具体的・理念的対象層においてのみ理解され、確立されるものである。従って、社会的現存在の分野的(regionale)本質は、それが社会性の事実的領域の社会学的研究にのみ関係する限り、純粋な社会関係である。しかし、社会学の対象領域をその多層的な全体として考える限り、それは純粋な社会構造としての社会団体である。社会団体だけが、簡潔な言葉の意味で純粋な社会的なものであり得るのである。それは、事実的領域における純粋な社会的なもの、たとえそれに現実の根拠を見出さなければならないとしても、すなわち純粋な社会関係を「有意義に(sinnhaft)」実体化するからである。社会学の対象分野(Gegenstandsgebiet)として純粋に社会的なものを、歴史的・社会的現象の実質的契機(sachhaltigen Momenten)から概念的に区切ろうとしたジンメルの先駆的な試みは、社会性の事実的な層においてしかこの方法論的な区切りができなかったという事実において、その根本的な不十分さを示さざるをえなかった。

31424 形式社会学(formalen Soziologie)を構築しようとするジンメルの試みにおいて正確さの欠如が明らかになる第三の点は、相互作用(Wechselwirkung)としての社会性の事実的世界の局所的本質の即物的(sachliche)定義に関するものである。そしてこれが、ジンメルの社会学的な基本解釈(Grundauffassung)について我々が議論する実際の理由でもある。というのも、この節では、我々は基本的に社会関係を通した社会団体の現実の基礎(Wirklichkeitsfundierung)に関心を持っているのであって、その基礎としての社会団体の存在の構造が主として考慮されるべき意味的基礎(sinnhafte Fundierung)は、後の議論のための主題として留保されているからである。
31425 しかし、ジンメルの「相互作用(Wechselwirkung)」の概念形成(Begriffsbildung)は、人間相互間の(zwischenmenschlichen)経験連関 (Erlebniszusammenhang)の構成(Konstitution)に関する自然科学的立場の説明として理解される危険をはらんでいる。というのも、「相互作用」という語彙は、その意味からすると、互いに影響を及ぼし、互いに影響を受ける要素がすでに存在していることを必然的に前提としなければならないからである。しかし、相互の(wechselseitiges)作用(Wirken)と因果関係(Bewirktwerden)を通じて「相互作用(Wechselwirkung)」すなわち「社会化の形式」を構成するこれらの要素とは何だろうか?ジンメルは次のように答える:社会的相互作用のこれらの要素は、人間の「心(Seelen;魂)」である。こうして、形式社会学の基礎において中心的な役割を果たす概念である相互作用は、最初から「心的相互作用(seelische Wechselwirkung)」として定義される1331
31426 ここで、ある「心(Seele)」が別の「心」にどのような影響を及ぼし、今度は別の「心」からどのような反作用を受けるのかという疑問が生じる。「心」間には直接的な接触が全くないため、両者の相互作用は必然的に「非心的(nicht-seelischen)」つまり物理的な方法で、とりわけ「身体的な(Körperliche)」動きによって伝達されなければならない。その結果、「心」が他の「心」と相互作用するためには、まずある物理的な動きを実行する必要があり、この物理的な動きが相手の「心」に作用を及ぼす。従って、心的相互作用の理論は、人間の振る舞い(Verhaltens)の基本原理として「心的・物理的因果関係」を仮定する隠れた自然科学的態度に基づいていると言うことができる。それは、あたかも経験の内的な心的要素と外的な物理的な運動や非運動が、原因と結果の関係において互いに関連しているかのように、人間の行動の時間的順序を説明しようとするものである。このように、形式社会学の基本範疇としての「相互作用(Wechselwirkung)」は、その実際の定式化において、心的(seelisch)・身体的(körperlichen)、心的(psychisch)・物理的(physischen)な因果関係(Ursache-Wirkung-Beziehungen)の連鎖として容易に理解することができる。
31427 これとは厳しく対照的に、人間相互間の経験連関(zwischenmenschlichen Erlebniszusammenhang)を「心的・物理的」に説明することは、人間の社会的現存在の実際の構造を根本的に誤解(Mißdeutung)しているということを強調しなければならない。と言うのも、社会一般の局所的本質として確立されるべき、間主観的(intersubjektive)で社会的な関係は、個々の心的・物理的要素に分析される前に、すでに構造的な統一体を形成しており、次に、これらの分解された要素を因果関係の順序で結びつけることができるからである。これに反して、個々の構成要素、例えば、ある主体の内的経験、その表出、他の主体によるこの表出の理解、応答反応などは、この一体性の中で、従属的な契機としてのみそれ自身を提示する。例えば、社会経験とその表出との単純な関係を考察すれば、経験がまずそれ自身を表出するという事実によって形成される限り、この二つはすでに決める・決められる(bestimmend-bestimmten)という構造的関係にあることが明らかになる。従ってこれは、「原因(Ursache)」としての経験と、その「作用(Wirkung)」としての表出とが機械的に配列された因果的な系列(kausale Reihe)では決してない。臼井(うすい)二尚1341が的確に言うように、「精神(Geist)は、その啓示(Offenbarung)の前に、既に完成した状態で外観の背後に隠されている単なる心理的要素ではなく、ある種の必要な自己表現(Selbstäußerung)を通じてのみ、現実のものとなるのである1342
31428 表出と理解の間にも、全く同じ関係が見られる。ここでも、原因としての一方の表出が、作用としての他方の理解を生み出すのではなく、表出する経験がすでに他方の理解を前提としており、この前提に方向づけられるような形で、他方の理解が生まれるのである。なぜなら、ある者の生の表出(Lebensausdruck)には、最初から、他者に理解してもらうという本質的な目的があるからである。この他者は、前者の中に私(Ich)自身を見つけることによって、その者の表出を理解するのだ。この意味での理解とは、ディルタイの深みのある言葉によれば、「汝における我の再発見(ein Wiederfinden des Ich im Du)1343」である。従って、表出(Ausdruck)とは常に、理解されることを求める表出(Ausdruck)なのである。他者の理解なしには、表出もまた表出としての本質的な決定力を失うに違いない。それゆえ、表出と理解は、表出が一方的に理解を決定するという形で相互に関連しているのではなく、むしろ理解によって条件づけられ、同時に決定されるという形で結びついているのである。
31429 経験、表出そして理解の一方的な連関が既に内的な統一を形成しているとすれば、複数の人間の多面的な経験連関(Erlebniszusammenhang)としての社会関係(soziale Beziehung)は、構造的な統一として一層理解されなければならない。社会関係にある人間のあらゆる経験内容は、相互に他者に向けられたものであり、この指向的な方向性において、後者の想定上の(supponierten)経験内容によって最初から条件づけられている。社会関係の一方の極を形成するAの社会経験は、期待(Erwartung)という形ではあるが、既にBの同じように社会的に決定された対応する経験に言及しており、その結果、応答反応という形で同じ経験を表出することにもなる。同時に、Bの応答反応が実際にAの期待する(erwartet)通りに与えられるかどうかは問題ではない。Aの経験は、既に最初からBが期待する応答反応に同調しており、従ってそれによって決定されるのであるから、社会関係の全体構造は、単なる因果関係のそれとはまったく異なる方法で理解されなければならないということになる。社会関係の終着点としてのBの応答反応は、この意味で、その最初の極としてのAの経験内容に、すでに条件として含まれている。Bの応答反応がAの経験内容の表出なしにはありえないように、Aの社会経験もその表出も、Bの応答反応が期待される条件があって初めて生じる。Aの経験、それに対応するBの経験、そしてこれら二つの経験の相互表出と相互理解が一体となって社会関係を形成するのは、それらが独立した契機として互いに因果的な影響を及ぼすからではなく、これらの異なる精神的契機が従属的な構成要素として組み合わされ、構造的な一体となるからに他ならない。従って、社会関係の統一性は、その性質上、構造的なものであり、因果的なものではない。事実的対象領域における純粋社会性の局所的本質は、「心的相互作用(seelische Wechselwirkung )」として理解されるのではなく、単にいくつかの社会経験の構造的に相互接続された関係、すなわち「純粋社会関係(reine soziale Beziehung)」として理解されなければならない。

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第十五節 社会団体(sozialen Verbandes)の現実の根拠(Wirklichkeitsboden)としての共同体化(Vergemeinschaftung)

31501 これまで、社会関係(sozialen Beziehung)の本質的構造について詳しく論じたので、次に、どの社会関係が社会団体の現実の根拠(Wirklichkeitsbodens)の役割を果たしているのかを問わねばならない。なぜなら、社会関係は、社会団体の現実的存在性(Wirklichsein)を、その社会団体そのもの自体が、当該団体(Verbandes)の意味によって、ある仕方で「意味的に(sinnhaft)」成立している限りにおいてのみ、支えることができるからである。ここでは、社会団体を通した社会関係の意味ある基礎についての考察には立ち入らないが、特定の団体の意味によって条件づけられ、その結果、この団体の現実的現存在を見出したこれらの社会関係は、内的に調和する関係として本質的に必要であることを容易に認識することができる。既に述べたように、我々は、このような内部的に調和した社会関係形式の典型(Inbegriff)を、社会団体の現実の根拠として主要な役割を果たしているものとして、「共同体化(Vergemeinschaftung)」と呼んでいる。従って、この節の課題は、主に共同体化する類型の社会関係を分析することにある。
31502 共同体化の本質的な構造を明らかにするためには、まず、社会関係の基本形式(Grundformen)を最も一般的な用語で分析的に説明しなければならない。この社会関係類型の構造分析は、社会団体の適切な現実の根拠を解明するために必要不可欠な範囲においてのみ、ここで行われる。従って、決して網羅的なものでも、詳細なものでもない。
31503 まず初めに、我々は、当該関係を構成の根底にあり、関係にある方向性を与える経験内容に応じて、さまざまな関係の形式を区別したい。この観点から、社会関係は六つの基本類型に分けることができ、そのうちの二つづつは相反している。一:調和関係、二:不調和関係、 三:合理的関係、四:非合理的関係、五:支配関係(Dominationsbeziehung)、六:対等関係(Egalitätsbeziehung)である。
31504 最初の対は「調和(harmonischen)」関係と「不調和(disharmonischen)」関係である。表出と理解を通じて構造連関している社会経験が互いに「肯定的に(bejahend)」同調していれば、社会関係は調和していると言えるはずだ。対照的に、連関する経験が多かれ少なかれお互いを「否定(verneinend)」している場合、その関係は不調和である。不調和な関係の典型的な例は、相手の生命を破壊することを目的とした戦いである。一方、純粋な友情のような真心のこもった愛情関係は、調和のとれた関係の例となりうる。この両極端の間には極端な相反があり、その中で実際の関係はあらゆる程度の「混合形態(Mischformen)」を示すことができる。例えば、「競争(Konkurrenz)」は、競争相手が互いに打ち負かそうとする限り、その本質からして不調和な関係であるが、他方では、競争がもはや奔放な暴力によってではなく、多かれ少なかれ「平和的(friedlichen)」秩序の中で行われるため、一種の調和的な関係でもある。マックス・ヴェーバーは、不調和関係の無限の濃淡を次のように表現している:「相手の命を破壊することを目的とし、戦闘規則へのいかなるコミットメントも拒絶する血なまぐさい戦闘や、慣例的に規定された騎士の戦い(フォントノワの戦いが始まる前のフランス先遣隊の呼びかけ:Messieurs les Anglais, tirez les premiers(イギリスの方々,そちらから先に撃たれよ)から、ルールのある格闘ゲーム(運動競技)まで。例えば女性の寵愛を求めるエロティックな求婚者の規制のない「競争」、市場の秩序に則った取引機会の競争から、規制された芸術的「競争」や「選挙運動」まで、最も多様で切れ目のない移行がある1361」純粋に不調和な関係は、純粋に調和的な関係と同様に「限界状況(Grenzfall;境界線上の例)」である。
31505 二番目の対は、「合理的(rationalen)」な関係と「非合理的(irrationalen)」な関係である。社会関係は、その関係にある人々(Personen)の社会的に同調した経験が、明確な「目的意識(Zweckbewußtsein)」によって決定されるなら合理的である。一方、これらの経験が純粋に感情的に(gefühlsmäßig)関係し合うなら、それは非合理的関係である。この合理的関係と非合理的関係の違いは、マックス・ヴェーバーが定義した社会的行為(sozialen Handelns)の四分類と密接な連関(Zusammenhang)がある。ウェーバーによれば、理念的に言えば、社会的行為には、一「目的合理的(zweckrational)」、二「価値合理的(wertrational)」、三「情緒的(affektuell)」、四「伝統的(traditional)」の四つの型がある。「目的合理的」行為とは、行為者(Handelnde)が外部世界の対象や他者のある行為を期待し、その期待を合理的に追求かつ調整した目的のための『条件(Bedingungen)』または『手段(Mittel)』として利用して、決定する自己の行為である。対照的に、社会的行為が「価値合理的」であるのは、それが「ある特定の自発的振る舞い(Sichverhaltens)の無条件の本質的価値(Eigenwert)」、例えば、行為の結果とは無関係に、倫理的、美的あるいは宗教的価値への意識的な信念に基づいている場合である。社会的行為の他の二つの概念は定義しやすい。社会的行為が「現在の情動(Affekte)や感情状態(Gefühlslagen)」によって決定されるのであれば、それは「情緒的(affektuell)」であり、その決定要因が「定着した(eingelebten)習慣(Gewohnheit)」にあるのであれば、それは「伝統的(traditional)」である1371。さて、一般に、合理的な関係は、ウェーバーの意味での目的合理的行為がその意味において互いに同調し、構造的に相互に接続されているときに生じるのに対し、「非合理的(irrationale)」な関係は、情緒的で伝統的な行為の複合体以外の何ものでもない。一方、価値合理的関係は、ある意味で合理的関係と非合理的関係の合成(Synthese)として生じることは、既に明らかである。
31506 第三の対は、「支配関係(Dominationsbeziehung)」と「対等関係(Egalitätsbeziehung)」である。支配関係の経験連関(Erlebniszusammenhang)は、ある主体の社会的経験が、自らの上位性(Überordnung)を意識しながら他の主体に自らを押しつける一方で、後者の経験内容には、それに対応する下位性(Unterordnung)の意識が含まれるように形成される。従って、支配関係は必然的に「上下関係(Über- und Unterordnung)」からなる。この関係は、社会的相互作用(sozialen Wechselwirkung)の基本的範疇としてジンメルによって正確に分析された1381。経験的に上位の主体が下位の主体に対してその意志を命令(Befehls)という形で表出し、この押しつけられた命令の実行が実際の、あるいは潜在的な物理的力(physische Gewalt)や精神的力(geistige Macht)によって保証される場合、支配関係は「支配(Herrschaft)」である。さらに、支配が「政治的(politisches)」関係(Verhältnis)として現れるのは、被支配者である「大衆(Massen)」に対して支配者の命令を確実に実行するための現実的あるいは潜在的な暴力(Gewalt)が「執行機関(Erzwingungsstab)」として組織されるときである。支配関係とは対照的に、対等関係とは、社会的に関係する二つの主体が「立場の対等性(Gleichheit der Stellung)」を意識し、従って意図された意味において対等(gleichgeordnet)である、という関係の形式である。支配関係も対等関係も、実際には合理的にも非合理的にも、調和的にも不調和的にも構成されうる。例えば、「奴隷制(Sklaverei)」は、支配者(Herrschende)が恣意的な強制によって、純粋に目的合理的(zweckrational)に自らの利益(Nutzen)のために、被支配者(Beherrschten)の労働力(Arbeitskraft)を搾取するという、支配関係(Herrschaftsbeziehung)の結果として生じるのである。

31507 社会的に関連する主体の経験内容(Erlebnisgehalt)に基づく先ほどの分類とは対照的に、ある主体の経験内容がありのままに表出され、それが表出されたとおりに他方の主体に理解されるかどうかによって、社会関係の形式をさらに分類することができる。この分類の第二の基準は、もはや「内的な(inneren)」経験内容に関わるものではなく、社会的に関連する経験が、表出と理解を通じて「外的に(außerlich)」どのような方法で(auf die Art und Weise)連関しているかに関わる。この観点から、社会関係はもうひとつの対概念の助けを借りて分類することができ、その概念を明確に把握することは、社会性の世界を解明する上で最も重要である。
31508 主体Aと主体Bの間の社会関係は、図式的に言えば、第一に、Bに向けられたAの社会経験が実際に(aktuell)Bに表出され、第二に、このAの表出がBによって現実に(wirklich)理解され、第三に、表出されたAの社会経験に対応するBの経験が、同じように社会的に決定され、逆にAに向けられ、Aに向けられた実際の応答反応にその表出を順次見いだし、最後にこのBの応答反応がAによって現実に理解されるという、完全な構造的統一体を形成する。このような経験連関(Erlebniszusammenhang)の実際の構成においては、一方では、Aの経験内容がそのままBに単純に表出され、それが表出されたとおり正確にに理解されることが可能であり、他方では、それに対応するBの社会的経験内容が、同じように単純にAに表出され、無条件に(rückhaltlos)Aに理解されることが可能である。他方、AとBの間の社会関係は、表出と理解によって結ばれた経験連関のさまざまな要素が、ある種の屈折(Beugung)や偏向(Ablenkung)をこうむるという形をとることもある。この偏向は、意図的な(absichtlich)場合も偶発的な(zufällige)場合もある。いずれにせよ、このような場合の表出は、もはや真の経験内容に単純な形で対応するものではなく、また、理解(Verstehen)はもはや表出された経験内容そのものの理解(Verständnis)ではない。前者の関係形態では、社会経験は単純に接続され、互いに直接関係しているのに対し、後者の関係形態では、経験連関はその表出と理解において意図的または偶発的に転用される。従って、この相反する二つの関係の形態は、「直接的な(direkte)」関係、または「偏向した(abgelenkte)」関係と言える。
31509 従って、先に示した六つの社会関係の基本形式(一:調和関係、二:不調和関係、 三:合理的関係、四:非合理的関係、五:支配関係、六:対等関係)に、同じように相反する二つの関係形式、七 直接関係、八 偏向関係(abgelenkte Beziehung)を加えなければならない。直接関係は、社会関係の最も単純な形態である。対照的に、偏向関係には複雑な構造があり、より詳細に分析する必要がある。
31510 社会関係の偏向(Ablenkung)や屈曲(Beugung)は、経験とその表出、あるいは表出とその理解との連関(Zusammenhang)から始まる。最初の例は、Aの経験内容が単純に表出されるのではなく、何らかの仕方で変形されて表出される場合に生じる。ここで「誤謬表出」が設定されるわけだが、これには二つの形態がある:主体Aは「無意識に(unbewußt)」、つまり「誤り(Irrtum)」や「無知(Unwissenheit)」によって、自分の表現を誤って定式化したもの、あるいはAは「意図的に(absichtlich)」誤った、つまり相手を欺くための表出を選択したもので、どちらの場合も、主体Aの表出は偽りとなる。さらに、この後者の形式では、誤謬表出は「嘘(Lüge)」になる。嘘が「奸計(Arglist;詐欺)」になるのは、相手を欺くために虚偽の表出を行い、その欺瞞(Täuschung)によって、嘘つきにとって有益な結果を相手が約束するような方法で、相手がその意志を表明するよう誘導する場合である。従って、奸計(Arglist;詐欺)とは、意図的(willentlich)誤謬表出であり、その偽りの表出から生じる欺瞞によって他の相手に判断させ、表出者が事前に合理的に設定した目的の達成を促進するような行為をとらせるという期待に基づくものである。例えば、Aが自分の金メッキの時計は金時計だと言ったとしても、それはまだ詐欺(Arglist)にはあたらない。しかし、Aがこの虚偽の言明(Aussage)をすることで、金メッキの時計を本物の金時計の価格で購入するよう相手を勧誘することを「目的合理的に(zweckrational)」意図的にした(beabsichtigt)場合には、明らかにそのようなこと(詐欺)になる。従って、意図的な(absichtlich)偏向した表出としての詐欺は、常に表出者側の目的に対する合理的な考察に基づいている。
31511 表出と理解の乖離を「誤解(Mißverständnis)」と呼ぶ。例えば、Aが単純な称賛(Bewunderung)の表出としてBを「褒める(Lob)」ことを、Bが「お世辞(Schmeichelei)」としか理解しないのは誤解である。社会関係の阻害要因としての誤解(Mißverständnis)は、表出されたものに対する単なる「誤解(Unverstandenheit;理解不足)」とは全く異なるものである。なぜなら、単なる誤解(理解不足)があれば、社会関係はまったく成立しないからだ。もしBが、自分に向けられたAの親しみの表現を無意識の振る舞い(Verhalten)として、あるいは単なる反射的な動作(Reflexionstätigkeit)として理解するなら、ここには正しい意味での「理解(Verstehen)」は存在しない。もちろん、ここからAとBの間に社会関係は生まれない。これとは対照的に、誤解している人Bが、Aの表出を自分に向けられた経験内容の意味ある解釈可能な表出として理解し、それに対してBがある応答をする限りにおいて、誤解(Mißverständnis)といえども、社会関係の構成要素(Bestandteil)を形成する。ただし、ここには社会関係があるが、この社会関係は偏向(abgelenkte)している。なぜなら、Bの理解がAの表出の真の意味に対応していないからである。従って、「意図的な(absichtliches)」誤解というものは存在しない。「意図的な誤解(absichtlich mißverstehen)」とは、「背景(Hintergrunde)」にある表出の意味を正しく理解することを意味するからだ。
31512 今や偏向した(abgelenkte)関係は、AからBへの表出・理解連関だけでなく、BからAへの折り返しの応答連関でも成り立っている。従って、Bの応答反応もまた、その経験内容との関連において、偏向、すなわち誤った定式化がなされる可能性がある。また、この応答反応に対するAの理解には、さらなる誤解の可能性がある。しかし、社会関係の完全に偏向した構成は、AとBの互いに向けられた表出が意図的に(absichtlich)、すなわち目的合理的に(zweckrational)偏向されたときにのみ生じ、その際に、両者は、多かれ少なかれ、相手の「内的な(innerlich)」思いや意図を明確に理解し、それによって構成される関係(Beziehung)は、全体として、真の隠された経験連関(Erlebniszusammenhang)と、不誠実な偽善的な社会関係(sozialen Verhältnisses)という独特の(eigentümlich)二重構造を持つことになる。このような特定の偏向された(abgelenkte)関係は、互いに向けられた二つの誤った表出から成るが、厳密に言えば、誤解の契機(Moment)を含まない。この場合は、互いに意図による偏向した関係として形成されるものであり、両者の一方が他方の隠れた意図を認識しない一方的な意図で偏向した関係とは異なる。その場合、次のようになる:AはBを敵(Feind)とみなしているが、敵意(Feindseligkeit)を単純かつ露骨に表出することは、Aが合理的と考えている目的にとって有利でないと考えているため、内なる憎悪(Haß)を友情の表出の下に隠している。Bは、この友好的なAの表出をAの真の友好の単純な表現と解釈し、感謝の形で応答する。ここで、社会関係が意図的に曲げられているのは、AからBへの一方的な連関に関してだけで、BからAへの連関には意図的な(absichtliche)屈曲(Beugung)は見られない。しかし、もしBがAの自分に対する態度の敵対的な(feindlichen)性格をはっきりと把握し、Aに対して内心の憎悪を抱きつつも、便宜的理由(Zweckmäßigkeitsgründen)からAに対しては礼儀正しくふるまうとしたら、そのとき初めて、隠された真に不調和な経験連関と、単に外見上意図的に調和された連関とが、同じ複雑な関係の過程の中で合理的に統合されるという、相互に意識的に偏向した関係が生じる。
31513 隠された不調和な関係(Verhältnisses)と、開かれた合理的に調和された連関(Zusammenhanges)という二重構造で必然的に示される、この互いに意識的に偏向させる関係(Beziehung)を、我々は「社会化(Vergesellschaftung)」と呼んでいる1411。(このように社会化とは、合理的、偏向的、調和的な関係(Beziehung)の特定の組合わせとして構成される具体的な社会関係(soziale Beziehung)である。社会化は、意図や偏向によって作られた「前景の(vordere)」層が調和的な連関を示す限りにおいて、一種の調和的な関係である一方、その隠れた「背景」には常に、多かれ少なかれ、不調和な経験連関が含まれている。
31514 このような目的合理的かつ偏向的に構成された調和的関係、すなわち、社会化、とは対照的に、別の具体的な形式の調和的関係が、一方では非合理的(irrational)あるいは価値合理的な形式の関係との、他方では単純あるいは直接的な形式の関係との直接的な繋がり(Verbindung)によって形成されるようになった。我々はこの具体的で調和的な関係の第二形式を「共同体化(Vergemeinschaftung)」と呼んでいる。共同体化の本質は、合理的な考察の結果としてだけでなく、非合理的あるいは価値合理的な経験の中心において、関係する人間が最初から調和的に結びついているという事実にある。共同体化は、人為的に(künstlich)作り出された関係ではなく、本来の調和的関係なのである。このように、合理的・分断的・調和的関係としての社会化と、非合理的(価値合理的)・直接的・調和的関係としての共同体化は、社会的繋がり(Verbindung)の二つの基本的な種類を形成している。このきわめて重要な一対の概念は、フェルディナント・テンニエス(Ferdinand Tönnies)の「共同体(Gemeinschaft)」と「社会(Gesellschaft)」1421という社会的繋がりの形式の区別に従って、マックス・ヴェーバーによってすでに明確に解明されていたが1422、社会関係の議論を通じて初めて、純粋に体系的な構造分析を受けることになる。

31515 「共同体化(Vergemeinschaftung)」と「社会化(Vergesellschaftung)」という二つの具体的で調和的な関係は、まさに社会関係形式であり、社会団体(sozialen Verbandes)の現実的存在性(Wirklichseins)の問題に関して特に重要な意味を持つ。だがしかし、我々は当面は社会化と社会団体の間の関係をを注意の外に置いておくこととしたい。なぜなら、この関係は、社会団体の客観的意味形成の問題と結びついてのみ、その全範囲で理解できるからである。他方で、共同体化はその本質上、社会団体の現実の根拠として機能しうるものであることは自明である。マックス・ヴェーバーが言うように、社会関係(soziale Beziehung)は、「社会的行為者の態度が、個々の場合においても、平均的した場合においても、純粋な類型の場合においても、関与者(Beteiligten)の主体的に(subjektiv)感じられる(感情的な、あるいは伝統的な)一体性(Zusammengehörigkeit)に基づいているならば、そしてその限りにおいて」共同体化(Vergemeinschaftung)と表現される。(1423)そして、まさにこの主体的に感じられる一体性の中にこそ、社会団体の現実の根拠を形成しうるのは、何よりも共同体化であるという事実の究極の理由がある。
31516 一般に、共同体化する関係の主要な契機を構成する非合理で調和的な志向性(Intentionalität)は、主体と客体の根本的な対立を経験的に廃絶させ、その結果、志向する(intendierendem)主体(Subjekt)と志向される(intendiertem)対象(Gegenstand)の「一体化(Einigkeit)」の内的経験を生じさせる。例えば、濃密な宗教体験では神との「一体化(einig)」を感じ、芸術作品との深い美的感受でも「一体化」を感じる。これはアレクサンダー・プフェンダー(Alexander Pfänder)が「態度の心理学(Zur Psychologie der Gesinnungen)」の中で「内的一体化(innere Einigung)」として詳細に説明した独特の経験を生む1431。本質的には、これは正真正銘の「一体感(Einsfühlung)」以外の何ものでもない。マックス・シェラー(Max Scheler)がその知的著作「同情の本質と諸形式(Wesen und Formen der Sympathie)」で詳細に分析したのは、その構造と機能である1432。このような内的な一体化体験は、先ほど見たように、人間以外の対象や即物的な(sachliche)対象との関係でも生じうる1433。しかし、特定の人間が対象物と一体化するという経験は、それが別の人間に向けられ、その人間が内的意識の中で最初の人間との一体感を感じるときにのみ、社会団体の現実の根拠として機能する共同体化関係の基礎を形成する。この場合、自我(Ich)と非自我(Nicht-Ich)は最初から区別されていない。人は他者を「他者(Anderen)」として理解する前に、「我々(Wir)」として感じるのである1434。いわゆる 「団体経験(Wir-Erlebnis)」あるいは「一体性(Zusammengehörigkeit)の意識」がここで生まれ、それが共同体的関係の中で自己を客観化し、社会団体の現実の根拠として機能するのに十分なほど成熟するのである。
31517 複数の主体間の相互関係(Aufeinanderbeziehung)を通じて達成される合意が、社会団体(sozialen Verbandes)、とりわけ 「共同体的(gemeinschaftlichen)」団体(Verbandes)の最終的な基礎を形成するという事実は、とりわけゲルダ・ヴァルター(Gerda Walther)の繊細な研究「社会的共同体の存在論について(Zur Ontologie der sozialen Gemeinschaften)」において、優れた方法で明らかにされている。また、プフェンダーの態度分析(Gesinnungen Analyse)に基づき、ヴァルターは内的結束を「共同体の本質的な構成要素(Wesenskonstituens der Gemeinschaft)」としている。共同体の基礎(Grundlage)となる合意(Einigung)は、必ずしも他の人間との合意である必要はない。というのも、人間以外のあらゆる客体(Gegenständlichkeiten)との合意も社会的共同体を「基礎づける(fundieren)」ことができるが、それは、この合意が今度は他の人間との合意を基礎づけるという条件があってこそだからである。「他の人間との合意では確かに可能であるが、人間以外の客体との合意は、共同体を基礎づけるのには十分ではない。むしろ、この目的のためには、他の人間との合意が常にそれに基づいて構築されなければならない1441」もし、ある主体が他の主体と一体化し、他の主体が「応答(erwidert)」することで、両者の間に志向的で相互的な結びつき(Verbundenheit)が生まれるなら、そのとき初めて、「共同体化(Vergemeinschaftung)」が共同体の真の基礎として現れるのである。ヴァルターは次のように言った。「共同体の基礎、内的精神的基礎は、一人の主体が他のすべての主体との間で合意し、それらの間で相互作用するだけでなく、各主体が他のすべての主体との間で合意すること、すなわち全体的『相互的合意』を必要とする。『相互的合意』は、一人の主体から見れば、相互的な統一合意として経験される」と1442
31518 ちなみに、「主観的(subjektiver)」な経験状態としての相互合意(wechselseitigen Einigung)や同一帰属意識(Bewußtsein der Zusammengehörigkeit)は、決して社会団体の「客観的(objektiven)」な統一性(Einheit)や全体性(Ganzheit)と同一視されてはならないことをしっかりと強調しなければならない。共同体化という客観化された様式(Modus)において、相互合意の経験は、もっぱらその「根拠(Boden)」として社会団体の現実的存在性(Wirklichsein)を確立する。この特殊性だけで、主観的な基礎(Grundlage)が相互合意の経験にある共同体化は、社会団体の現実的存在性の事実的根拠を構成するが、社会団体自体は、理念的な精神的実体(Geistesgebilde)として、結局のところ、高次の秩序に対する自らの「意味的直観(sinnhafte Anschauung)」の中でしか姿を現さない。他方で、社会団体自体の統一性と全体性を、主観的同一帰属意識に、あるいはその対象化、すなわち共同体化的(vergemeinschaftende)関係に求めるとすれば、それは理念的対象とその単なる現実の根拠との重大な混同をもたらすに違いない。従って、こうした議論はすべて、社会団体の現実の根拠の分析にすぎないことを決して忘れてはならない。
31519 これは、最も一般的な言葉で言えば、内的に統一され調和のとれた関係としての共同体化が、社会団体の現実的存在性を主として実際に支えるということを認めるものである。理念的な精神的実体として、社会団体は、それに対応する共同体化が適切な現実の根拠を形成する限りにおいてのみ、現実的存在性を実証することができる。従って、社会団体の現実的存在性は、それをそれに対応する事実的共同性化の根拠へと還元することによって確認することができ、その理解は、現実的でありながら理念的に同一な精神的実体として、当該団体を意味あるものとして理解するための前提条件を生み出すだけである。

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第十六節 社会団体の客観的意味形成とその現実的存在性(Wirklichseins)の歴史性(Geschichtlichkeit)

31601 社会団体と共同体化の間の定礎の連関(Fundierungszusammenhang)は、すでに上述したとおりであるが、より正確かつ結論的に解明される必要がある。
31602 これまで詳しく述べてきたように、社会団体は、共同体化関係(vergemeinschaftenden Beziehung)に基づいてのみ、真に存在する対象としてそれ自体を明らかにすることができる。従って、社会団体の現実的存在性は、その現実の根拠としての役割を果たす共同体化(Vergemeinschaftung)の存在(Vorhandensein)に必然的に基づいている。しかし逆に、複数の人間が互いに共同体化の関係にあるとき、社会団体が常に本当に存在するとは言えない。社会団体の現実的存在性が必然的に共同体化の存在(Bestehen)を前提とするということだけでは、すべての共同体化が常に必然的に社会団体の実在(wirkliche Dasein)を指し示しているということを意味するものではない。だからこそ、純粋な社会的実体(soziale Gebilde)としての社会団体は、「それに対応する(ihm entsprechende)」共同体化がその現実の根拠を形成する限りにおいてのみ、実在しうるのである、とすでに述べた。しかし、この「対応(Entsprechung)」の関係(Relation)、すなわち共同体化と、それによって基礎づけられた団体との関係とは、何を意味するのであろうか。
31603 明らかに、この対応関係の究極的な基礎は、一方では当該団体の存在の核心を構成し、他方では、その現実の根拠として機能する共同体化の事実的構成を条件づけ、決定するという意味(Sinn)において見出されなければならない。従って、この共同体化は、その意味的決定において、それが設立する社会団体に「対応する」だけである。というのも、理念的な精神的実体として、社会団体は、そのような社会関係によってのみ成立しうるからであり、その社会関係の事実的構成は、当該団体の意味によって既に一定の形で条件づけられているのである。厳密に言えば(Genau genommen)、社会団体は、関与者(Beteiligte)が多かれ少なかれ明確に意識され、相互合意のもとに当該団体による意味的決定において、すでに団結している、ある特定の共同体化によってのみ、設立される。内的に調和のとれた、共同体的な社会関係が、必ずしも団体の現実的存在性の根拠となるわけではなく、その本質的な構成が、この団体によって何らかの形で意味的に決定される場合にのみ、その根拠となるのである。そして、社会団体の適切な現実の根拠(Wirklichkeitsbodens)を決定する最終的な基準(Kriterium)は、まさに、当該団体を通じて特定の団体の現実的存在性(Wirklichsein)を支える共同体化(Vergemeinschaftung)の意味的な確実性(Bestimmtheit)にある。
31604 従って、団体の意味(Sinn)が、その現実の根拠となる共同体化の関係をどのような形で条件づけ、決定するのかを、何よりも問わねばならない。この疑問が生じるのは、複数の人間が当該団体の意味を通じて意味的な確実性の下で互いに共同体的な関係にある場合でも、社会団体が常に現実にそこに在るとは言えないからである。例えば、理想郷(ユートピア)的な(utopische)社会全体(soziale Ganzheit)を構築するという理想主義的な努力の中で、複数の人間が互いに密接に結びつき、それによって親密な共同体化を形成する場合、この共同体化は明らかに理想郷的な団体形式(Verbandsform)の意図する、あるいは想像される意味によって条件づけられ、決定される。しかしこれは、ここで単に理念(Idee)として提示された、あるいは熱望された団体(Verband)、すなわち「理想郷」がすでに現実に在るという意味ではない。「理想郷(ユートピア)」は、たとえ一定数の狂信的な人間がこの理想郷という共通の理念(Idee)で共同体化(vergemeinschaftende)して結ばれていたとしても、常に非現実的で、単に架空の意味形成体(Sinngebilde)である。それに対して、ある社会団体のその現実の適切な根拠として機能する共同体化は、この共同体化関係に立つ複数の人間が、当該団体への共通の「帰属(Zugehörigkeit)」を合理的(rational)または情緒的(gefühlsmäßig)に認識し、まさにこの意識を通じて互いに密接に結びついているような形で、この団体の意味によって決定されなければならない。従って、社会団体(sozialer Verband)は、複数の人間が共にこの団体に帰属していることを自覚し、内的に調和した共同体化関係(vergemeinschaftende Beziehung)にある場合にのみ現実に在る。この正確な定式化においてのみ、社会団体の現実の根拠の問題が完全に解明されるのである。

31605 さて、このようにして社会団体の現実的存在性の分析に最終的で明確な規定を与えたところであるが、根本的に重要な理論的難題に突き当たる。もし共同体化が、その意味によって社会関係としてすでに決定されている場合にのみ、社会団体の現実的存在性を確立しうるとすれば、このことは必然的に、この団体の意味が、それを支える共同体化とは無関係に、すでに客観的に存在していることを前提とする。一方では、社会団体は、対応する事実的な共同体化がその基盤を形成する前に、すでに意味形成体(Sinngebilde)として存在していなければならない。他方、社会団体というものは、ある共同体化の中で、複数の人間がそれへの共通の帰属(Zugehörigkeit)意識(Bewußtsein)を持つことによって、初めて現実に在ることになる。共同体化は社会団体の基礎づけるものであるが、その団体の基礎としての機能は、社会団体に与えられた意味によって条件づけられる。これまでのことから、基礎づけられたものは、その後に設立するものの存在を遡及的に前提としていることは明らかである。
31606 この難題は、一般に、実定法の現実性の問題(Wirklichkeitsproblem)との関係で、最終章の最後で原理的に行われる、理念と事実の間の意味的基礎(sinnhaften Fundierung)と現実の基礎(Wirklichkeitsfundierung)の二重の関係の議論によって完全に解消される。ここでも、この二種類の底礎の連関(Fundierungszusammenhang)は明確に区別されなければならない。現実の基礎(Wirklichkeitsfundierung)との関連においてのみ、事実的な共同体化は社会団体を基礎づける。一方、意味的基礎との関連においては、共同体化は当該団体の意味の基礎として理解されなければならない。ここでもまた、見かけ上の循環論法が生じるのは、これまでのところ、原則として社会団体の現実性の問題(Wirklichkeitsproblem)だけを考察し、一方で、その意味のある基礎の問題は、ここで特定の団体が持つ意味の客観的な形成という問題が必然的に先行しなければならないのだが、まだ全く考慮されていない。当初から、我々は単純に団体の意味の理念的存在を仮定し、すでに意味として客観的に存在するこの団体が、どのような条件下で歴史的・社会的世界に本当に存在しうるかの問題の分析にすぐに取りかかった。徹底的に経験主義的な態度を取る社会科学者であっても、統一され自己同一の(identischer)社会団体が単なる「意味(Sinn)」として存在し、実際に行為する人間によって、本当に存在するものとして想像されたり信じられたりすることを疑うことはないだろう。そのような人物は、すでに意味として存在しているこの対象--「社会団体」の現実的存在性(Wirklichsein)を、この対象は「経験的(empirischen)」、すなわち「事実的(faktischen)」現実(Wirklichkeit)には客観的な相関関係(Korrelat)を持たないからとして、絶対的に否定したいだけだろう。その一方で、我々は、このあらかじめ与えられた意味形成体(Sinngebilde)、すなわち人間の行為と許容の単なる複合体には決して還元されえない団体の理念的意味、は、それが対応する共同体化社会関係の上に成立しているならば、その理念性において、同時に、現実に存在する客観性とみなすことができることを確かめた。団体(Verbandes)の意味のこの「所与性」を前提とする限り、その意味によって決定される共同体化関係の中に特定の団体の現実的存在性の基礎を求めるとき、我々は決して循環論法に陥ることはない。
31607 今、我々は、社会団体の理念的意味の客観的形成の問題を正確に分析し、これと必要な関連で、社会団体の現実的存在性をその究極的基礎に至るまで解明する任務を負っている。

31608 あらゆる具体的・理念的な意味形成体と同様に、社会団体の意味は一般に、客観的な意味形成の具体的行為を通じて「生じる(entsteht)」。最も緊密な共同体化であっても、そこに参加する複数の人間が客観的な意味形成行為(Sinnbildung)を実行することによってのみ、社会団体の成立につながるのである。複数の人間が、自分たちが一緒に帰属していることをしっかりと認識し、相互につながりを感じて一つのまとまり(Einheit)を形成しているという事実だけでは、社会団体の成立には十分ではない。多かれ少なかれ合理的に(rational)、多かれ少なかれ情緒的に(gefühlsmäßig)、複数の人間が客観的な意味形成行為を行い、その意味的行為によって生まれた団体に共同で帰属することによって、初めて社会団体が成立する。芸術家協会(Verein)、学生同盟(Bund)、秘密政治結社(geheime politische Gesellschaft)などは、関与者自身の共同体化関係から直接生まれるのではなく、当該社会的全体の意味を形成する関与者の共同行為の結果にすぎない。異なる性別の二人が結合しても、社会的全体性(sozialen Ganzheit)の最も単純な形式としての「結婚(Ehe)」はまだ生まれない。結婚の成立には常に一定の形式が必要であり、そこでは夫婦の結びつきの意味形成行為、つまり正式な結婚の合意が伝統的に具体化されている。従って、社会団体の意味形成行為は、客観的に発生する行為であり、通常は多かれ少なかれ客観的に認知された外的定式(äußeren Formel)と結びつけられている。厳粛な形式を守りながら同志が血を混ぜる血盟の儀式から、新国家(neuen Staates)や「国際連盟(Völkerbunde)」の厳粛な「創設(Begründung)」に至るまで、象徴的行為の形式には無限の多様性(Mannigfaltigkeit)がある。
31609 しかし、社会団体の意味形成行為は、必ずしも関係する個人が意識的に行う行為である必要はない。むしろ、社会的現存在(sozialen Daseins)の具体的な世界では、多数の人間(Menge Menschen)やさまざまな事物的(dinghaften)基礎との結びつきの中で、その意味が予め与えられている数多くの団体の形式を見出すことができる。例えば、トーテム氏族(Totem-Sippe)あるいは他の原始的な人間集団や、「国民(Volk)」あるいは 「国家(Nation)」は、客観的な意味形成体としては考えられるが、意識的に行われた意味形成行為の結果として理解されることは明らかにない。このような場合、当該団体の意味形成行為は、むしろ人類史(Menschengeschichte)の超個人的な(überindividuellen)発展の過程で無意識(unbewußt)のうちに行われてきたのであり、それによって、揺るぎない先所与性(Vorgegebenheit)において団体の意味は当初から信じられ、伝統的に受け継がれてきたのである。しかし、人間の社会性(menschlichen Sozialität)の世界が目的合理性に向かう傾向が強ければ強いほど、社会団体の客観的な意味形成行為は、明確な意識をもって、特に個々人(Einzelpersonen)の側で意図的に目的を考慮しながら行われるようになる。特に近代的な(modernen)社会的現存在の形式(Formen)においては、社会団体の意味の新たな創造は、ほとんど必ずと言っていいほど、複数の個人によって意識的かつ組織的に行われる客観的な意味形成行為の結果である。
31610 社会団体の客観的意味形成に関するこの議論の後、我々は「社会化(Vergesellschaftung)」と社会団体の間の特異な連関(Zusammenhang)を完全に明らかにすることができる。
31611 上述したように、我々は、社会団体の現実の根拠を検討する際に、「社会化(vergesellschaftende)」する社会関係を意図的に無視してきたのは、純粋な形式での「社会化」は、決して社会団体の真の現実的存在性を基礎づけることができないからである。なぜなら、「社会化(Vergesellschaftung)」とは、具体的で調和のとれた社会関係の典型的な形式であり、「共同体化(Vergemeinschaftung)」とは厳密に対照的に、各関与者の目的の合理的な考慮が常に決定的な役割を果たすからである。社会化という社会的な世界では、すべてが個々人の利益という基準で測られ、判断される。社会化の調和的な繋がり(Verbindung)は、決して内的で元からあるものではなく、すなわち、定在する(daseiende)一体化(Einigung)ではなく、意識的で意図的な偏向(Ablenkung)によって、本質的傾向から不調和へ外的に生み出されるだけの、人為的に(künstlich)作り出された結びつきであり、それ自体が目的とは決して見なされず、目的(Zweck)を達成するための手段(Mittel)としてのみ見なされる。個々人の身体的(physischen)または経済的(ökonomischen)な力(Macht)を結集することによって、害をもたらす紛争を回避または最小限に抑えたり、共通の利点を得たりすることは、元々利己的な個々の人間が、生来の独善的な性格にもかかわらず、合理的かつ意図的に偏向した調和のとれた結びつきの状態を作り出そうとする決定的な(entscheidende)目的であることが特に多い。その結果、社会化の世界は真の統一体というよりは、独立した個々人の単なる外形的な(äußerliche)連関(Zusammensetzung)となってしまう。このように、社会化の構造分析は、この社会関係が、その性質上、社会団体の適切な現実の根拠として機能するには不適当であることを容易に示す。
31612 社会化と社会団体の関係を、団体の形成やその客観的意味という問題群(Problemkonstellation)の中で論じるなら、状況(Sachlage)は異なる。というのも、団体の客観的な意味形成は、純粋にそのようなものとして実行されうる特定の行為であり、当該団体の現実的存在性を必ずしも伴わないからである。だからこそ、社会化の世界でも、共同体化の世界と同じように、そのような行為の実行が可能なのである。自己中心的な態度をとる人間は、合理的かつ偏向的に社会化という関係の中にいるが、一般に、この調和した関係(Verhältnis)を常にきちんと維持するだけでなく、まさにこの目的のために、自分たちより優れた社会的な全体性(Ganzheit)を創造し(schaffen)、そこに共に帰属する必要性を認識している。それは、社会化の(vergesellschaftenden)関係(Beziehung)の形成が原理的に指向している目標(Ziel)も、原則として、全ての個々人を包含する全体性を確立し、この全体性が支配者の権力(Herrschermacht)をもって、そこに属する個別性(Einzelheiten)行為(Handlungen)と活動(Tätigkeiten)を規制し(regelt)、命令する(ordnet)ことによってのみ、完全に達成されうるからである。この問題は、誰よりもトマス・ホッブズ(Thomas Hobbes)による自然法的(naturrechtliche)「社会契約説(Vertragstheorie des Staates)」によって、すでに基本的に解明されている。「万人の万人に対する闘争(bellum omnium contra omnes;ラテン語、ホッブズの『市民論(De Cive)より)」の状態から絶対主義的な政治形態が形成されるという仮説は、極端に誇張された形ではあるが、社会団体の客観的な意味形成行為が、社会化にも基づいて行われる可能性を原理的に示している。
31613 それに、これは単なる可能性ではない。むしろ、社会団体の客観的な意味形成行為は、通常、共同体化に基づいてより、はるかに明確な意識と形式をもって、社会化に基づいて行われると言える。非合理的(irrational)に構成された共同体化(Vergemeinschaftung)の世界では、社会的全体性(Ganzheit)という概念(Idee)は、伝統的に与えられたものとして見られることが多く、意識的に行われる意味形成行為によって形成される必要はない。これとは対照的に、社会的現存在(sozialen Daseins)の社会化(vergesellschaftenden)構成(Konstitution)における社会的全体性(Ganzheit)の意味は、何よりも目的合理的に(zweckrational)設計され、そして計画に基づいて(planmäßig)実施された客観的な意味形成の結果である。従って、社会化する(vergesellschaftende)社会関係(soziale Beziehung)を通じて生まれる社会団体(soziale Verband)は、その理念的意味において、すでに体系的に組織化された構造を示しており、そのようなことは、共同体化(Vergemeinschaftung)から生まれた団体の場合、超個人的な(überindividuellen)歴史的発展の結果としてのみ可能となる。例えば、「株式会社(Aktiengesellschaft)」は、その本質上、典型的な社会化関係の事実的基礎(Grundlage)の上に存在し、その組織、株主(Aktionäre)の権利(Rechte)と義務(Pflichten)、その機関の活動(Tätigkeit)と権限(Kompetenz)などに関するさまざまな規定の確立に基づいている。これとは対照的に、共同体的な基盤の上に築かれた最も重要な種類の団体である「家族(Familie)」は、一般的にそのような発達した内部組織を持たない。従って、社会化は、社会団体の客観的意味形成という問題に関しては、共同体化よりもはるかに重要なものであると考えなければならない。
31614 社会団体の現実的存在性(Wirklichseins)という問題は、それが歴史の超個人的発展過程において理念的な意味形成体として見出されるか、あるいはそれが意識的に行われる意味形成行為の中で生成されるときにのみ生じる。この問題の連関では、共同体化と社会化の重要性の関係はまさに逆転しているように見える。すでに示したように、団体の適切な現実の根拠(Wirklichkeitsboden)として機能しうる具体的で調和的な関係の形式は、もっぱら(einzig und allein)共同体化(Vergemeinschaftung)である。社会団体は、そこに属する人間が一体性(Zusammengehörigkeit)の意識を持って共同体化関係にある限りにおいてのみ、現実的存在性(Wirklichsein)を持ち得る。一方では、共同体化による社会団体の現実の基礎(Wirklichkeitsfundierung)は、そこに属する複数の人間が、そのさまざまな特徴と多様な働きにおいて、全体として一つの同じ団体を構成する限りにおいて、異質な(heterogen)ものである。他方で、同質的(homogen)であるのは、前述のような異質な団体(Verbandes)の基礎(Fundierung)が、そこに属する個々人の絶え間ない入れ替わりにもかかわらず、また組織の部分的な改変にもかかわらず、何世代にもわたって同一または類似の方法で繰り返し継承され、その結果、それ自体、自己同一の団体としての当該団体の現実的存在性(Wirklichsein)が維持されるからである。社会団体の統一的で自己同一の現実的存在性(Wirklichsein)は、そこに属する複数の人間の間の内部的に調和した共同体化した関係を通じて、異質でもあり同質でもある基盤が築かれた結果に他ならない。主体的に意図された意味に従って、ひとつの同じ団体に帰属する複数の人間の共同体化は、概念(Idea)としてすでに存在している当該団体の唯一の真に適切な現実の根拠であり、常にそうあり続ける。
31615 これとはまったく対照的に、社会化(Vergesellschaftung)そのものは、社会団体の真の現実的存在性を確立することはできない。団体の成立(Zustandekommen)には常に社会化が主要な役割を果たすが、その結果生まれる団体は、共同体化的な(vergemeinschaftende)現実の根拠(Wirklichkeitsboden)を欠く限り、真に存在する対象(Gegenstand)を形成することはできない。その結果、純粋な社会化に基づく社会団体は、単なる「架空の(fingierte)」統一体、「単なる理念的な」意味形成体に留まらざるをえない:言い換えれば、まだ現実的存在性(Wirklichseins)を獲得できていない。互いに社会化の関係に立つ人間は、特定の目的のために自分たちが構成した社会団体は、それが自分たちの利益にとって有利であるからこそ、存在するものとして受け入れられなければならないという明確な意識を持っている。それゆえ、人(man)は、目的合理的に構成された社会団体が、この団体の意味が形成された特定の目的に関係する限りにおいてのみ、あたかも本当にそこにあるかのように振る舞う。法的には、このような団体は正式な「権利能力(Rechtsfähigkeit:法的能力)」を与えられ、「法人(juristische Person)」として扱われる。しかし、我々は最初から、存在するものとしては架空の(fingierte)この団体が、客観的な生活連関(Lebenszusammenhang)の中では現実の(wirkliche)客体性(Gegenständlichkeit)を形成しないことを知っている。こうして、法人格(juristischen Person oder)の「擬制説(Fiktionstheorie)」や社会的全体性の「名目論的(nominalistische)」理論は、純粋な社会化の上に形成された社会団体の本質的な存在様式を、完全に明瞭に示している。
31616 しかし、実際の社会性(Sozialität)の世界では、社会化の基礎の上に形成された団体は、ある程度の現実的実在性を示すものであり、なぜなら、共通の帰属であることを自覚している構成員は、単なる社会化の関係において、完全に純粋であり続けることはできないからである。人間の具体的な社会的現存在においては、「純粋な」社会化も「純粋な」共同体化も、「どっちつかずの問題(Grenzfälle)」としてしか考えられない。厳密に言えば、実際に形成されている具体的で調和的な関係は、常に共同体化と社会化のある種の「混成形式(Mischform)」である。その結果、実際に存在する団体の客観的な存在(Sein)は、ある一定数の人間がその団体に実際に共通の「帰属(Zugehörigkeit)」関係(Verhältnis)にある限り、純粋に理念的な「擬制(Fiktion)」ではありえない。ある意味では、構成員間の社会関係(soziale Beziehung)が共同体化の契機(Moment)を含んでいる限り、それはほとんど目立たないとしても、すでにこの点において「本物(wirklich)」なのである。従って、実際の社会化も、ある程度は社会団体の現実的存在性を支えることができるが、それは特定の共同体化との結びつき(Verbundenheit)においてのみである。詳細に分析すると、共同体化は、社会団体の適切な現実の根拠(Wirklichkeitsboden)として機能しうる唯一の関係形式(Beziehungsform)である。

31617 社会団体の存在様式(Seinsart)を研究することは、究極的には、その現実の決定(Wirklichkeitsbestimmung)における二つの不可欠な特性、すなわち、その現実的存在性(Wirklichseins)の「相対性(Relativität)」と「歴史性(Geschichtlichkeit)」を明らかにするはずである。
31618 社会団体の現実的存在性は、その性質上、相対的な概念である。一方では、社会団体は、それに意味ある形で対応する共同体化がその現実の根拠として機能する限りにおいてのみ、真に存在しうるのであり、他方では、共同体化がその概念的純粋性において現実に現れることは決してないのであれば、これに立脚する団体自体の現実的存在性は、決して純粋な絶対性ではありえず、常に相対性のみにすぎない。従って、社会団体は、その基礎をなす具体的な社会関係が優位な共同体化の方法で構成されていれば、一般に、より大きな程度で現実の(wirklich)ものとなり、社会化の契機がその現実の根拠の創設において優位な位置を占めていれば、より小さな程度で現実の(wirklich)ものとなる。最も強固な共同体化の基礎(Grundlage)の上に立つ社会団体は、従って、最高の真の現実的存在性を示す。しかし、その現実の根拠として機能する事実的な社会関係が社会化という性格を帯びれば帯びるほど、その現実性は次第に失われていくに違いない。逆に、合理的な目的のために作られた団体も、その根底にある社会的関係が真に共同体化的な構成された関係へと変化すれば、真の、より高度な現実的存在性を示す原理的な可能性を持つ。これはすでに、社会団体の現実的存在性が歴史的に変化しやすいことを示している。
31619 しかし、社会団体の現実的存在性の歴史性は、特に、当該団体の意味が、意味形成(Sinnbildung)という肯定的な(positiven)行為によって、かつて生み出された後、意味廃止(Sinnaufhebung)という否定的な(negativen)行為によって破壊されうるという事実から生じる。例えば、何らかの理由で夫婦が「別離(getrennt)」した場合、その「結婚(Ehe)」はもはや本物ではない。「国家(Staat)」は、他の国家に併合され、完全に独立性を失うと消滅する。別離した夫婦が、場合によっては、内的結びつき(innerer Verbundenheit)の関係にとどまることもある; 併合された(annektierten)国家(Staates)の構成員(Angehörigen)は、依然として「国民(Volk)」として現実の社会的全体を形成することがおそらくできる。しかし、このような場合、かつて存在した社会的全体性の意味(Sinn)がすでに消滅しているため、同じ家族、同じ国家が現実に存在し続けていることを、もはや認識することはできない、というのも、ここで考慮されている人間は、もはや、共同体化の関係において、当該社会団体、すなわち、家族、国家に帰属する共通の構成員としての意識に立つことができないからである。こうして、夫婦が別離した結婚や併合された国家は、それ自体を「単なる理念的な意味」へと変容させ、現実を離れた純粋な理念性(Idealität)の領域において、単なる意味形成体として存在する。そして、社会団体は、現実的存在性の支え(Bestimmung)を失った後も、このようにして純粋な理念(Idealität)の領域で現実を離れた存在を保っているからこそ、その発生、発展、全盛期、終焉の「歴史(Historie)」を辿ることもできるのである。しかし我々は、この団体が現実の(wirklicher)団体としてはもはや存在しないことを最初から知っている。現実の対象として、あらゆる社会団体には「始まり(Anfang)」と「終わり(Ende)」があり、それは必然的に「歴史(Geschichte)」を持っている。従って、具体的理念的対象としての社会団体は、歴史性の様式においてのみ実際に存在しうるのである。

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第四章 社会団体の内部構造


第十七節 社会団体における普遍(Das Allgemeine)と個別(das Einzelne)

41701 社会団体(soziale Verband)は、人間相互間(zwischenmenschlich)に形成された全体性(Ganzheit)であり、純粋な社会的精神的実体(soziale Geistesgebilde)として、理念的対象領域(idealen Gegenstandssphäre)に位置しながらも、その理念性(Idealität)にもかかわらず、同時に、当該団体に帰属する人間の共同体化的関係に基礎を置いている限りにおいて、歴史的な現実的存在性(Wirklichsein)を示す。この一般的な定義(allgemeinen Definition)は、社会団体の現実的存在性(Wirklichsein)に関するこれまでの議論を要約したものである。
41702 我々のさらなる課題(Aufgabe)は、社会団体の存在のあり方を具体的な形で詳しく調べることである。この課題には、分析的な(analytische)ものと総合的な(synthetische)ものがある。社会団体は、その「内的(inneren)」存在の決定において複雑な構造を示すので、その存在様式(Seinsart)をまず分析的に究明しなければならない。社会団体における「普遍(Allgemeine)」と「個別(Einzelne)」の内的関係については、社会団体の基本的な三つの類型を区別する必要があり、これらを「共同社会団体(Gemeinschaft)」「利益社会団体(Gesellschaft)」および「協成社会団体(Körperschaft)」と呼ぶ。他方、総合的方法で解決すべき第二の課題は、社会団体の性質を、概念的な(begrifflichen)孤立(Isoliertheit)の中でではなく、他の社会的実体(sozialen Gebilden)との具体的な連関の中で叙述することである。科学的抽象化の方法によって、我々は「純粋な(reine)」社会的実体としての社会団体を、「実質的な(sachhaltigen)」社会的実体から概念的に区別した。しかし、これは決して、現在の社会性(Sozialität)の世界における社会団体が、常に実質的な(sachhaltigen)契機(Moment)なしに現れることを意味するものではない。むしろ、現在のあらゆる団体は、一つあるいは複数の関連する社会的実体と密接な構造連関を持ち、まさにその連関の中で特定の特性(Eigentümlichkeit)を示している。従って、既に示したように、このような団体は、ある法秩序(Rechtsordnung)と密接に関係していると認められれば「国家(Staat)」であり、「宗教(Religion)」と構造連関していれば「教会(Kirche)」である。
41703 本章では、社会団体の存在のあり方に関する分析的究明に取り組み、次章では、第二の総合的研究に専心する。

41704 社会的全体(soziale Ganzheit)として、社会団体はそれを構成する個々の個人と対する関係において本質的に「普遍(Allgemeine)」である。それは、そこに帰属する個々人の単なる総和でもなければ、これらの個々人の「意味的理解可能な(sinnhaft verstehbaren)」社会的行為の複合体でもなく、むしろ、これらの個々人の一体性と、共同体的な方法で互いに向けられた行為の複合体によって、その現実が同質的かつ異質的に(homogen und heterogen)基礎づけられた総合的な全体性(Ganzheit)なのである。意味的直観(sinnhafte Anschauung)でしか把握できないこの全体性は、それゆえ、存在の本質的な存在規定(Seinsbestimmung)を失うことなくして、個々人(einzelnen Individuen)とその行為の単なる集合体に還元されることはない。このように、「道具全体性(Zeugganzheit)」が個々の道具との関係において一般的な存在であり、「交響曲(Symphonie)」が個々の主題や変奏、リズムやハーモニーとの関係において総合的な全体性であるように、社会団体は人間相互間で形成された全体性なのである。シュパン(Othmar Spann)の「普遍主義的(universalistische)」社会学(Gesellschaftslehre)は、「社会(Gesellschaft)」が本質的に「精神的で行為的な全体性」であると認識している点で、社会団体の内部構造に対する深い洞察を示している1561
41705 その構成員の一人一人は、今や「個々人(Einzelnes)」の一人として「普遍(Allgemeinen)」としての社会団体に帰属している。個々人は社会的全体の「部分」を形成し、部分として必然的に他の部分と「連関(zusammen)」する。このように、社会団体における個々人の存在は、本質的に「他者(Anderen)」の存在を前提としている。そこでは、個々人の存在は、シュパンの定式(Formulierung)によれば、「他者における存在を通しての自己存在(Selbstsein )」である1562.。ハイデッガーが「共同世界(Mitwelt)」と「共同存在(Mitdasein)」について述べていることは、社会団体の全体的構造にも当てはまる:「現存在の世界は共同世界である。(Die Welt des Daseins ist Mitwelt.)内存在とは、他者たちとの共同存在である。(Das In-Sein ist Mitsein mit Anderen.)他者たちの世界内部的なそのものの存在は、共同現存在である。(Das innerweltliche Ansichsein dieser ist Mitdasein.)1563
41706 従って、社会団体の内的構造を分析するには、何よりも「普遍(Allgemeinen)」と「個別(Einzelnen)」の関係(Verhältnis)に取り組まなければならない。まず第一に、社会団体は、その特有の(spezifischen)存在の中心を普遍(Allgemeinen)に置いている。従って、団体の「現存在の核心(Daseinskern)」は、団体に帰属する個々人の中にあるのではなく、まさにその個々人の対極にある普遍的なもの、つまり社会的全体そのものにある。そして、第二に、社会団体は、理念的な精神的実体としてのみ独立した現存在を持つことができるので、その現存在の核心である普遍的なものも、本質的に理念的存在の領域で把握されなければならない。従って、「普遍的な(Allgemeinen)」ものには、社会団体の「理念的な核心(Idealitätskern)」も含まれている。第三に、理念の核心として、普遍は、多様に変化する個々の構成員との関係において、団体の「自己同一性の極(Identitätspol)」を形成する。もし社会団体が、そこに帰属する個々人の出入りに影響されることなく、何世代にもわたって同一で変わらないのであれば、このような超個人的な持続性の理由は、自己同一性の中核である普遍性(Allgemeine)が、団体の自己同一性を維持するために不可欠であるという事実にのみある。
41707 さらに、社会団体においては、普遍(Allgemeine)は個別(Einzelnen)よりも本質的に「優位(übergeordnet)」であり、したがって普遍と個々人は互いに「支配と従属(Über- und Unterordnung)」の関係(Verhältnis)にある。そしてここに、社会関係の基本形式の分析で明らかになった第三の概念対(Begriffspaar)1571、すなわち、「支配関係(Dominationsbeziehung)」と「対等関係(Egalitätsbeziehung)」の対比として原理的に適用されていることがわかる。この概念対は、社会団体の現実の根拠についての我々の議論では使用されなかったが、それは、そこで考察された二つの具体的で調和的な関係形式(Beziehungsformen)、すなわち「共同体化」と「社会化」は、支配関係と対等関係の対比を参照することなく概念的に確認することができたからである。なぜなら、共同体化とは「非合理的(価値合理的(wertrational))・直接的・調和的」な関係に他ならず、社会化とは「合理的・偏向的(abgelenkt)・調和的」な関係に他ならないからである。しかし、これら二つの具体的で調和的な関係形式は、対等関係と同様に、支配関係にもつながりうる。共同体化と社会化は、支配と従属(Über- und Unterordnung)という形式で現われうるが、同等秩序(Gleichordnung)という形式でも起こりうる。つまり、共同体化する支配、社会化する支配、合理的・偏向的な同等関係(Gleichheitsverhältnis)、非合理的・直接的な同等関係がある。従って、共同体化と社会化の概念構築においては、対象となる具体的・調和的関係が、支配関係(Dominationsbeziehung)であるか対等関係(Egalitätsbeziehung)であるかはまったく重要ではない。
41708 対照的に、支配関係の概念は、社会団体の内的構造を分析する上で大きな役割を果たす。社会的に生きる個々人(Einzelindividuen)にとって、社会団体とは、決して自分たちと同等のものを意味するのではなく、まさに、物質的にも、あるいは単に形式的にも、個々人を支配する普遍なものを意味する。普遍なものと個々人との間の内的な関係(innere Verhältnis)に関して、社会団体の存在のあり方は、このように「統治(Herrschaft)」の関係において具現化される。「統治者(Herrschende)」としての普遍者(Allgemeine)は、「被支配者(Beherrschten)」としての個々人と対峙する。統治者としての普遍者は同時に「司令官(Befehlenden)」の地位を占めることになる。社会団体では、普遍者が命令し、個々人はその命令(Befehl)に従う。普遍者と個々人の間の統治関係(Herrschaftsverhältnis)は、その本質において命令連関(Befehlszusammenhang)として我々に突きつけられる。しかし、統治者の命令の実行は、物理的な力(Gewalt)または精神的な力(Macht)によってのみ保証されるため、統治者・普遍者としての社会団体は、必然的に権力の行使(Machtausübung)を伴い、この権力の行使の中心として自らを示す。社会団体では、普遍者がその権力(Macht)によって個々人を支配し、まさにこの権力の行使が社会団体の内部秩序を維持する。社会的秩序の維持は、とりわけ社会的全体の手に委ねられる。「統治(Herrschaft)」「命令(Befehl)」「権力の行使(Machtausübung)」「社会的秩序の維持(Aufrechterhaltung der sozialen Ordnung)」は、主として社会団体の普遍の機能である。たとえ「民主的(demokratischen)」な統治形式(Herrschaftsform)で「国民(Volk)」が統治するとしても、それは個々の人間の単なる集合体としてではなく、厳密に言えば、その特別な形式における普遍者として統治するのである。
41709 社会団体における普遍と個別の間のこの統治関係(Herrschaftsverhältnis)は、社会性の事実的世界において必要な修正を受ける。普遍としての社会団体は、現実において直接的な行為能力を持たないので、統治的な権力の行使、ひいては内的秩序を維持する任務(Aufgabe)は、その性質上、それ自体が社会団体の機能であるが、事実的社会生活においては、必然的に特定の個々人によって遂行されなければならない。そのうえ、これらの個々人は、同じ団体に帰属する他の個々人に対して、もはや単なる個人(Einzelne)の立場からではなく、むしろ団体の名の下に、まさに統治力(Herrschaft)を行使するのである。この機能において、これらの個人(Einzelpersonen)は社会団体を「代表(vertreten)」し、すなわち社会的全体の「代表(Vertreter)」として振る舞う(benehmen)。ここでもまた、非常に重要な新しい概念、すなわち「機関(Organes)」という概念が浮かび上がってくる。その究極的な意味(Bedeutung)は、団体の内的構造を分析することによってのみ正しく理解することができる。社会的普遍(sozialen Allgemeinen)の名の下に統治機能を執行する個人は、社会団体の機関を形成している。この意味(Sinne)で、「機関行為(Organhandlung)」はもはや個人の行為ではなく、社会的全体性そのものの行為に他ならない。もちろん、団体の機関としての個人の行為がすべて機関行為(Organhandlung)というわけではなく、当該機関の「権限(Kompetenz)」の範囲内にある場合にのみ機関行為となる。権限外であるなら、それは個人の私的な行為にすぎない。従って、機関行為の本質は、社会的普遍の立場からでなければ明確に理解することはできない1591(この注はすぐに参照すべき)
41710 複雑で(komplizierten)、大規模で(umfangreichen)かつ体系的に(systematisch)に組織化された団体では、機関と機関行為も統一された形で体系化されている。機関のこの組織的な統一体は、言葉の広い意味では、「政府(Regierung)」と言うことができる。政府がとる機関行為の典型は「行政(Verwaltung)」と呼ばれる1592。従って、マックス・ヴェーバーによれば、政府は「行政幹部(Verwaltungsstab)」と表現することもできる1593。政府や行政幹部は、行政を効果的に遂行し、社会秩序を維持するために、中央集権的な政治権力(politische Macht)を自らの手に握るようになった。だからこそ、政府(Regierung)もまた社会的権力(sozialen Macht)の事実的中心を形成しているのである。社会秩序を維持する機能は、それを保証するために、ある程度の強制力(Zwangsausübung)を保持しなければならなくなった。特に、それは、複雑に階層化された(geschichteten)団体における強制力の「独占的な(monopolisierte)」行使(Ausübung)を前提としており、それは当該団体の機関としての政府の最も重要な機能のひとつを構成している。これによれば、政府(Regierung)は行政幹部(Verwaltungsstab)だけでなく、「強制執行機構(Zwangsapparates)」あるいは「執行幹部(Erzwingungsstabes)」の性格を持つ1601
41711 機関(Organe)に代表される普遍的なものは、全体性の形態(Ganzheitsgestalt)におけるの社会団体そのものである。そして、人間相互間に形成された全体性(Ganzheit)としての社会団体は、本質的に、精神的実体(Geistesgebilde)の理念的領域においてのみ固有の(eigenes)現存在を持つのであるから、社会団体における普遍と個々人の関係もまた、理念的な関係(Verhältnis)として理解されなければならない。普遍(Allgemeinen)と個々人(Einzelnen)の間のこの理念的な関係は、その全体的な形態における社会団体そのものと同様に、歴史的な現実的存在性(Wirklichsein)である。団体(Verband)自体が現実であるか、相対的に現実であるか、またはもはや現実ではないのか、に応じて、それが、現実的な関係(Verhältnis)であるか、多かれ少なかれ現実的な関係であるか、もはや現実的ではない関係となる。普遍と個々人との関係が純粋にそのように存在し得る限りにおいて、社会団体がもはや現実のものではない場合、それは名目上のみ有効な単なる架空の関係となる。これこそが、社会団体の機関行為の特有の「ごまかし(Unechtheit)」を可能にしているのだ。団体を代表して機関が行う行為は、その本質上、管理(verwaltende)、命令(befehlende)、強制(erzwingende)、すなわち統治行為(herrschende Handlungen)である。このような統治行為(Herrschaftshandlungen)は、団体がその現実的存在性を高度に維持している限り団体の行為であり、団体の機能として従事する個々人の行為ではない。しかし、もし団体がその歴史上の変容の中で、現実的存在性(Wirklichseins)の目的をほぼ失ってしまうのであれば、機関行為もまた、団体行為としての性格を簡単に失ってしまうだろう。この場合、機構行為はもはや団体の現実の統治機能とはなりえず、むしろますます個々人の行為になっていく。そうなると、「名目上」の団体の統治(Herrschaft)があるだけで、本質的には、「権力のある者(Machthabenden)」が「無力な者(Machtlosen)」を統治しているにすぎない。現在権力を握っている者たちが「擬似政府(Pseudo-Regierung)」を形成している。政治的実践の観点からすれば、政治権力(politischen Macht)の乱用(Mißbrauch)、専制政治(Tyrannei)、独断的暴力(willkürliche Gewalt)は、原理的には、社会団体の現実的存在性や、真に団体内の普遍と個別との間の現実的な関係を「貧しく(Verarmung)」することから生じる、「擬似政府(Pseudo-Regierung)」の典型的な形式である。
41712 これまで我々は、普遍と個別の関係を、社会団体とそれを構成する個々人との間の統治関係とみなしてきた。高次の社会団体とその下部団体との間にも、まったく同じ関係が見られる。社会団体は、その機関行為を通じて、他の団体と社会関係を結ぶことができ、機関を通じて自らの「意志(Willen)」を表明し、他の団体の「意志表出(Willensausdruck)」を「理解(verstehen)」し、契約を結び、共闘関係(Kampfbeziehung)に入ることができる。従って、複数の社会団体間でも、個々人の間と同じような社会関係(sozialen Beziehungen)を築くことができる。さらに、複数の社会団体は、互いに「共同体化(Vergemeinschaftung)」あるいは「社会化(Vergesellschaftung)」することができる。共同体化あるいは社会化の関係に基づき、二つ以上の社会団体が互いに合意し、より上位の社会的全体を作り上げ、共にそこに属することができる。これにより、その構成団体を「部分(Teile)」とする新しい社会団体の意味(Sinn)が生まれる。この新しく形成された団体は、その下位団体(Teilverbände)が共通の帰属という「意識(Bewußtsein)」を通じて多かれ少なかれ互いに共同体としてつながっている限りにおいて、現実的存在性を得る。しかし、上位の団体がいくつかの下位の団体をその部分として含む社会的全体の複雑な構成は、逆の形でも生じうる。単純に構成された団体は、それ自身の内部で意味の形成行為を行うことができ、それに従属するいくつかの下位団体に細分化することができる。この場合、元の団体は、新たに生まれたいくつかの下位団体に対して最終的な上位の全体性として立つことになる。
41713 従って、支配関係(Dominationsbeziehung)の概念は、こうして社会団体そのものの関係に適用される。統治者(Herrscher)である上位団体は、被統治者としての下位団体(untergeordneten Teilverbänden)と対峙し、下位団体を統治し(regiert)管理する(verwaltet)。このような複数の社会団体間の上下関係(Über- und Unterordnung)は、例えば、国家(Staat)と個々の自治体(Gemeinden)との関係や、連邦国家(Bundesstaat)とその構成諸国(Gliedstaaten)との関係にも見られる。この上下関係は、普遍として機能する上部社会団体が圧倒的な現実的存在性を有し、従って、現実的な権力行使を通じて、それに個々の下部団体を支配するという形で現れることもあるが、後者は架空の存在にすぎないということもある;あるいは逆に、上部団体が理念的な意味においてのみ、あるいは名目上においてのみ、統治的(herrschende)・支配的(regierende)な地位を占めているという意味で、個々の下部団体は、より高い現実的存在性の中にあることができる。従って、このようにして形成された団体(Verbände)は、中央集権的か分権的な構成のいずれかを持つことになる。これが「連邦国家(Bundesstaat)」と「国家連合(Staatenbund)」の違いの基準でもある。連邦国家と国家連合、これら二つの基本的な国家連合(Staatenverbindungen)形式は、第一の場合、上位の国家団体としての連合(Bund)自体が同時に優位な現実的存在性を示すのに対し、第二の場合、現実的存在性の中心は依然として形式的に下位の個々の団体にあるという点で、最終的に互いに異なる。

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第十八節 社会団体の全体性構造の三つの基本類型

41801 本第四章の序節では、社会団体の現存在の核心はその本質において「普遍(Allgemeinen)」そのものにあり、社会団体の「普遍」は結果として、その理念性の核心と自己同一性の核心の両方を構成していることを述べた。しかし、この事実は社会団体の内的存在のあり方(Seinsweise)の普遍(allgemeines)原則であるため、その固定化は、異なる類型の社会団体を区別するにはまだ不十分である。対照的に、現実的存在性の問題は、社会団体の全体性構造を三つの基本類型に分解することを可能にする最終的な基準を提供する。その理由は、社会団体の現実的存在性は相対的で、徐々に段階を踏んでいく概念であり、それゆえ、その全体構造において常に一様な現実的存在性の度合いを示すわけではないからである。むしろこれは、ある中心点に凝縮されており、その位置は場合によって異なる。従って、一方では、社会団体の現実的存在性(Wirklichseins)の中心を形成しているのはまさに普遍(Allgemeine)であり、他方では、実際の意味で現実の存在を有すると考えられる個々人(Einzelnen)だけである。さらに、社会団体は、普遍(Allgemeine)の中だけに存在するのでもなく、個々人(Einzelnen)の中だけに存在するのでもなく、まさに両者の中に、そしてそれらの相互の必要な関係(Beziehung)の中に存在するであろう。つまり、社会団体の現存在の核心(Daseinskern)は常に普遍の中にしかないが、その「現実の核心(Wirklichkeitskern)」は、普遍の中にも、個人の中にも同様に、あるいはその両方に見出すことができる。前述したように、社会団体を「共同社会団体(Gemeinschaft)」「利益社会団体(Gesellschaft)」および「協成社会団体(Körperschaft)」に三区分することは、その現実の中心(Wirklichkeitszentrums)を移動する三つの可能性から生じる。
41802 第一に、社会団体が共同社会団体(Gemeinschaft)」であるのは、その現実の核心がもっぱら普遍にある場合、つまり厳密に言えば、普遍だけが本当にそこに存在し、個人は独立してそこに存在するのではなく、現実には、全体の一部としてのみ存在する場合である。第二に、社会団体が「利益社会団体(Gesellschaft)」であるのは、その現実的存在性の中心が個人にある場合、またその限りにおいてであり、すなわち、普遍が、真に実在する全体性としてそこにあるのではなく、単に想像上(Gedachtes)の、あるいは架空(Fingiertes)の存在としてそこにある場合である。こうして「共同社会団体(Gemeinschaft)」と「利益社会団体(Gesellschaft)」は鋭い対照をなす。第三に、普遍と個別が同じ現実の中で一体となっているとき、社会団体は自らを「協成社会団体(Körperschaft)」として提示する。社会団体が全体として現実であることができるのは、「協成社会団体(Körperschaft)」としてのみである;そうして初めて、完全に現実的な理念的精神的実体(Geistesgebilde)が形成される。従って、協成社会団体(Körperschaft)は、共同社会団体と利益社会団体(Gesellschaft)の「統合(Synthese)」である。
41803 解釈論史的考察という点では、この社会団体の全体的構造の基本的な類型の解明は、テンニエス(Tönnies)の「共同社会と利益社会(Gemeinschaft und Gesellschaft)」論と密接な関係があり、問題の事実的な扱いだけでなく、用語の面でも我々の研究に決定的な影響を及ぼした。しかし、この理論はいくつかの本質的な点において概念的に不正確であるため、社会団体の構造分析の意味を明確に理解できるようにするためには、この理論を批判しなければならない。さらに、団体についての我々の類型形成(typenbildenden)分析は、ヘーゲル(Hegel)の思弁哲学体系における「客観的精神(objektiven Geistes)」の弁証法的(dialektische)解明に基づいている。というのも、社会団体を「共同社会団体(Gemeinschaft)」「利益社会団体(Gesellschaft)」および「協成社会団体(Körperschaft)」に三分類することは、ヘーゲルが「家族(Familie)」「市民社会(bürgerliche Gesellschaft)」「国家(Staat)」と表現した「人倫的実体(sittlichen Substanz)」の三つの基本類型にほぼ一致するからである。しかし、ヘーゲルの人倫的実体の考え方は、その「思弁的(spekulativen)」性格だけでなく、その事実的(sachlichen)意味や内容においても、社会団体の内部構成(innere Konstitution)に関する純粋に科学的な分析とは本質的に異なる要素を含んでいることに留意しなければならない。従って、この連関でヘーゲルの社会哲学に批判的な注意を払う必要がある。こうして、テンニエスとヘーゲルとの議論は、社会団体の内的構造分析への道を開くことになる。

41804 テンニエスの「共同社会と利益社会」の考え方は、自然的な一体性と機械的な(mechanischen)結びつき(Verbundenheit)、特に、実際の分離から便宜的に形成される連結性、の本質的な対比から生じる「人間の意志(menschlichen Willen)」の「肯定的な」、すなわち「結びつく」関係を論じることを全体的な目標としている、論考の初めに、テンニエスは彼の理論の一般的な方向性を次のように説明している:「人間の意志は互いに幾重もの関係の中にある。全てのそのような関係はそれぞれ相互作用(gegenseitige Wirkung)であり、一方によって行われたり与えたりして、他方は苦しめられたり受け入れたりする。しかし、これらの作用は、肯定的または否定的に(bejahende oder verneinende)、もう一方の意志(Willens)や身体(Leibes)を維持(Erhaltung)する傾向があるか、破壊(Zerstörung)する傾向があるかのいずれかである。この理論はもっぱらその調査対象に関する相互(gegenseitiger)肯定(Bejahung)の関係(Verhältnisse)に向けられるであろう」と1641。その意味で、共同社会と利益社会(Gemeinschaft und Gesellschaft)の理論は、当初から、具体的で調和のとれた社会「関係(Beziehung)」を探求する目的で立ち上げられたものである。
41805 「利益社会(Gesellschaft)」を形成するさまざまな人間は、「共同社会(Gemeinschaft)」でと同じように平和的に暮らし、共に住む。しかし、利益社会は、本来の結びつき(Verbundenheit)を持たず、あるいは、あらゆる結びつきにもかかわらず本質的な分離を含んでいるという点で、共同社会とははっきりとした対照をなしているが、共同社会では、分離(Trennung )の可能性があるにしても、互いに暮らしている人間は本質的に結びついている1642。共同社会の典型的な類型は、母と子、夫と妻、兄弟と姉妹といった家族の複数の構成員が生活を営む、相互の深い理解に基づく絆(Verbundenheit)と団結(Einigkeit)である。共同社会においては、敵意(Feindseligkeit)さえも本質的な分離(Trennung)を意味するものではなく、むしろ常に内なる信頼(Trautheit)と愛(Liebe)に基づいている1643。これとは対照的に、商業的な「交換関係(Tauschverhältnisse)」に利益社会の典型的な例を見出すことができる。そこでは、各人が自分の利益のためだけに努力し、自分の利己的な(eigennützigen)目的を促進する範囲においてのみ、他者の現存在を肯定する。ここでは、各人は外部の慣習(Konvention)を通じてのみ他の人々と接触する。この慣習の前でも外でも、利益社会を構成する人間は隠れた敵意(Feindschaft)を持って互いに対峙したり、あるいは潜在的な闘争を仕掛けたりしているのであり、それに対して「多くの契約や平和条約と同じように、全ての意志の合意(Einigungen der Willen)」は理解することができる1644。だから、利益社会が、そこに関わる人間の間に本質的な(wesensmäßigen)隔たり(Trennung)と敵意(Feindschaft)があるにもかかわらず、その外形的な構造に従って平和的(friedliches)共存(Zusammenleben)を示しているとすれば、その究極的な理由は、もっぱら、関係者が便宜的な計算によって内なる敵意を意図的に隠し、表向きは互いに好意的に振る舞っているという事実にある。
41806 テンニエスは、「本質意志(Wesenwillen)」と「自由意志(Kürwillen)」という彼の理論を通して、共同社会と利益社会のこの対比を内側からさらに説明しようとしている。テンニエスにとって、社会関係(soziale Verhältnis)とは、それが社会学の対象である限りにおいて、最初から人間の「意志(Willen)」の結びつき(verbindendes)の関係(Verhältnis)を意味する。テンニエスによれば、共同社会(Gemeinschaft)と利益社会(Gesellschaft)が、人間の意志による肯定的な(bejahende)関係として生じる限り、両者に違いはない。しかし、共同社会を構成する意志と利益社会の根底にある意志は、互いに原理的に異なるものであるため、それによって決定される社会的連関もまた、先に述べたような対比の中で形成される。この二つの異なる類型の人間の意志(Willens)の違いは、意志(Willens)と思考(Denken)の関係(Verhältnis)から生じる。意志は思考の参加を通じてのみ、人間の意志となることができるからだ。一般に、思考を含む人間の意志と、思考に含まれる意志とを区別することができる1651。前者は自然になって、思考を伴う意志であり、後者は思考によってのみ作られる意志である1652。テンニエスの独自の呼称によれば、前者は「本質意志」であり、後者は「自由意志(Kürwille)」である1653
41807 人間の意志は今、二つの対象を「目的」と「手段」の関係で概念的に(gedanklich)結びつけている。これに関連して、先に述べた二種類の意志の違いが再び明らかになる:本質意志においては、目的と手段は、手段が目的によって肯定されるだけでなく、目的が手段によっても肯定されるという包括的な関係にある。例えば、純粋に芸術的な創造においては、創造的な仕事(Tätigkeit)は、それが生み出す芸術作品のためだけでなく、その仕事自体に意味(Bedeutung)を持ち、それが芸術作品の価値を決定する。対照的に、自由意志(Kürwillen)における目的と手段は本質的に排他的な(ausschließenden)関係(Verhältnis)にあり、手段は目的の手段としてのみ肯定されうるが、手段それ自体では決して肯定されない。つまり、自分の所有物からあるものを失うことは、たとえそれ自体が否定的な意味しか持たないとしても、それが別の、さらに重要なものを得るために必要な手段であるという特別な条件のもとでは肯定されうることになる。例えば、Aという主体が、自由意志(Kürwille)で、自分の所有物aを失うことを、Bの所有物bを得るための可能な手段と考え、Bもまたbの対価としてaを得たいと考える場合、AとBの間で交換が行われる可能性がある。自由意志に基づいて初めて、交換は可能となる。自由意志が支配的な位置を占める社会的な世界は、必然的に「誰もが商人である」状態にある1661。それは、まったく財産(Eigentum)を持たない人間が、自らの肉体的な(körperliche)「労働力(Arbeitskraft)」を「生きる手段(Mittel zum Leben)」として売らなければならない世界である。こうして、自由意志(Kürwille)が利益社会(Gesellschaft)の基礎を形成する一方で、共同社会(Gemeinschaft)の究極的な原理は本質意志(Wesenwillen)にある。「これらすべてから、いかに本質意志は共同社会自身の中に条件を持ち込むことがわかるが、自由意志は利益社会を生み出すのだ」と、テンニエスは言う。1662
41808 この簡単な説明ですでに、テンニエスの共同社会と利益社会に関する理論が、社会団体の構造分析を直接の目的としているのではなく、むしろ「社会関係の類型(sozialen Beziehungstypen)」の間の根本的な対比(Gegensatzes)の明確化を念頭に置いていることを示している。しかし、社会関係(sozialen Beziehung)の分析に関する限り、彼の理論は、互いに対置された具体的で調和的な関係、つまり「共同体化(Vergemeinschaftung)」と「社会化(Vergesellschaftung)」に還元され、そこで最終的な概念的決定を見出さなければならない。というのも、テンニエスの理解する共同社会(Gemeinschaft)とは、非合理的に、あるいはせいぜい価値合理的(wertrational)に構成された、直接的な調和的関係、「共同体化(Vergemeinschaftung)」、以外の何ものでもないからである。一方、彼の利益社会の概念は、その本質において、目的合理的で偏向した調和的関係(zweckrational-abgelenkt-harmonischen)、「社会化(Vergesellschaftung)」のそれと合致している。
41809 しかし、テンニエスにとって、共同社会と利益社会との対比(Gegensatz)は、単に社会関係の中での対比を意味するだけではなく、同時に社会的全体性の内部での対比、つまり社会団体の内部での対比をも意味する。テンニエスによれば、積極的(positive)で肯定的(bejahende)な関係(Verhältnis)はすべて「多数派(Mehrheit)における統一(Einheit)、あるいは統一における多数派」を意味する。この共同社会的あるいは利益社会的な関係は、その結びつき方によって、「内的にも外的にも一様に活動する存在」という特異な人間集団を形成する1663。一般的に、多様体(Mannigfaltigkeiten)を部分として形成される統一された全体には、二つの種類がある。後者がまず前者から生じるという点で、統一性(Einheit)が多重性(Vielheit)の前に存在しうるか、それとも多重性が単一性に先行しうるかのどちらかである。後者の場合、統一性は多重性から「形成された(Gebildete)」ものとしてのみ存在しうる。知覚可能な(wahrnehmbaren)自然においては、第一の類型の統一性は「有機体(Organismus)」の本質を形成し、第二の類型の統一性は無機的な「集合体(Aggregates)」の特徴である。第一の例では、統一性は「現実的」であり、それは「即時対自的なそれ自体におけるもの(das Ding an und für sich selber)」であり、第二の例では、それは「理念的」であり、それは人間の思考によって条件づけられ、それは単に「観念(Vorstellung)」や「概念(Begriff)」として形成された全体性(Ganzheit)である1671
41810 もちろん、同じことが人間の個々の多重性から構成される社会的全体性にも当てはまる。従って、社会的統一性は個人に先行することもあれば、個々人(Einzelpersonen)によって概念的に(gedanklich)構成されることもある。社会的全体は、部分より先に存在するか、あるいは、最初に部分から構成されるかのどちらかである。テンニエスは、最初の種類のすべての実体を「共同社会(Gemeinschaft)」、それ以外のすべての実体を「利益社会(Gesellschaft)」と呼んだ1672。それゆえ、複数の人間の集まりは、「現実的で有機的な生命体(Leben)」としても、「理念的で機械的な形成体(Bildung)」としても理解することができる。前者は共同社会の本質であり、後者は利益社会の概念である1673。要約すると、テンニエスはこう言う:「共同社会(Gemeinschaft)とは永続的で現実的な共同生活であり、利益社会(Gesellschaft)とは一時的(vorübergehendes)で見かけ上の(scheinbares)ものにすぎない。そして、共同社会そのものは生きる有機体として理解され、利益社会は機械的な集合体(Aggregat)であり人工物(Artefakt)であると理解されるのは、これに従ってである」と1674
41811 従って、テンニエスにおいては「共同社会(Gemeinschaft)」と「利益社会(Gesellschaft)」という概念は明らかに曖昧である。一方では、この一対の概念は、調和のとれた社会「関係(Beziehungen)」の二つの基本的な類型の対比、つまり我々の用語で言えば「共同体化(Vergemeinschaftung)」と「社会化(Vergesellschaftung)」の対比を示し、他方では、我々が確立した厳密で明確な意味での「共同社会」と「利益社会」という、相反する二つの類型の社会「団体」を示している。テンニエスの独創的な研究では、社会団体(sozialem Verband)と社会関係(sozialer Beziehung)の二つの概念的区別はまだ十分に明確になっていない。今、我々に課せられているのは、社会理論研究の二つの異なる対象分野としての社会団体と社会関係を最初から明確に区別し、共同社会と利益社会を二類型の「団体(Verbandes)」として排他的に(ausschließlich)論じることである。というのも、共同体化と共同社会、社会化と利益社会は、互いに定礎の連関があるものの、存在という意味(daseinsmäßig)では異なる領域に属しているため、この二つの概念は常に明確に区別しておかなければならないからだ。共同体化と社会化は、関係類型(Beziehungstypen)として、より現実(Realität)に近い社会性(Sozialität)という事実的世界に属するのに対し、共同社会と利益社会は、団体類型として、高次の精神的実体(Geistesgebilde)という理念領域に属する。
41812 「団体(Verbandes)」の構造分析として、テンニエスの論考ではさらに不正確である。団体類型(Verbandstypen)としての共同社会と利益社会の違いは、共同社会が「現実的で有機的な生命体」であり、利益社会が「理念的で機械的な形成体」であるという言い方では決して科学的に(wissenschaftlich )正確に説明することはできない。つまり初めから、この違いは、共同社会が「現実的」な実体であり、利益社会が「理念的」な実体であるという事実にあるのではなく、我々はすでに、共同社会(Gemeinschaft)も利益社会(Gesellschaft)も、その理念性においてのみ、統一された自己同一の社会団体(sozialer Verband)として存在しうることを正確に知っているのだから、普遍的なものとしての共同社会が、その理念性にもかかわらず、まぎれもない現実的存在性を示すのに対して、利益社会は、図式的に言えば、理念的な、単に想像された、あるいは架空の全体性にすぎないという事実にのみあるのである。しかし、テンニエスの理論は、特に、二つの団体類型の合成形態、すなわち「協成社会団体(Körperschaft)1681;要即参照」を正しく認識していないため、不完全である。テンニエスにとって、共同社会から利益社会への歴史的変遷(geschichtlicher Übergang)としての共同社会と利益社会の対比は、人間の共存(Zusammenlebens)の不変の宿命(Schicksal)をも意味する。これとは対照的に、我々の社会団体の構造分析によって、協成社会団体(Körperschaft)においては、同じ理論的根拠に基づいて、第三の類型の社会的全体構造を他の二つの類型と並べることができることが原理的に明らかになる。テンニエスの理論が深遠であるだけに、社会団体の理論としては、その紛れもない素朴さ(Naivität)を否定することはできない。

41813 対照的に、ヘーゲルの「人倫的実体(sittlichen Substanz)」論の大きな利点は、社会的全体性の構成に関する三つの可能性を基本原理としている点にある。
41814 ヘーゲルにとって、そして我々にとっても、この三分類は普遍と個別の関係を指している。ヘーゲルの思弁哲学(spekulativen Philosophie)の体系では、人倫的実体は、本質的に、我々の言う意味での社会団体に対応し、「客観的(objektiven)」精神(Geistes)、「客観的」意志(Willens)の領域に属する。それゆえ、人倫的実体はその本質上、普遍的なものである。その実質的な決定が「自由(Freiheit)」を構成する意志は、それ自身を決定とする限りにおいて客観的である1691。衝動(Trieben)、欲望(Begierden)あるいは傾向(Neigungen)といった個々の意志の偶発的な表現から解放され、実質的な生命(Leben)、すなわち「真理(Wahrheit)」に還元されたとき、それは普遍的なものとなる1692。「その中ですべての限定性(Beschränkung)と特殊性(besondere Einzelnheit)が取り消されるから」それは普遍的なものでになる1693。この客観的で普遍的な意志は、「抽象法(das abstrakte Recht)」「道徳性(die Moralität)」「人倫性(die Sittlichkeit)」という三つの段階を経て発展していく。自由意志の普遍性の即自対自(an und für sich)は、人倫性(Sittlichkeit)の段階において「具体的」で「必要」であるにすぎない。これとは対照的に、抽象法(abstrakte Recht)としての意志は単に「直接的(unmittelbar)」であり、道徳性(Moralität)としての意志は、普遍的なものとの関係において、自分自身を主観的な特殊性に反映させることさえある。人倫性(Sittlichkeit)は、「それ自体として普遍的存在における」自由意志の理念なのである1694
41815 しかし一方で、存在の普遍的な定義に到達したこの客観的な意志、すなわち人倫性(Sittlichkeit)は、個別の契機も含んでいる。普遍性(Allgemeinheit)と特殊性(Besonderheit)の要素を同時に含むのが意志の本質である。「意志とは、次の二つの契機(Momente)、特殊性と個別性の統一体である。特殊性(Besonderheit)はそれ自体に反映され、こうして普遍性(Allgemeinheit)へと導かれ、個別性(Einzelnheit)は(以下は尾高の原文には含まれていない)自我(Ich)の自己決定(Selbstbestimmung)である1695」従って、それ自体の(an und für sich;即自対自的の)自由意志の真の具体的な現存在形式、すなわち人倫的実体(sittliche Substanz)は、本質的かつ必然的に、普遍(Allgemeinen)と個別(Einzelnen)という二つの契機からなる。人倫的実体性(sittlichen Substantialität)においては、「不動の普遍性(unbewegte Allgemeine)」が個々人の活動(Tätigkeiten)の動く目的として機能する一方で、個々人はまた、自らの特殊性(Besonderheit)に対する権利も有しており、それは人倫においては個人が実際に自分自身の本質、つまり内なる普遍性を持っているという事実にある。個々人の権利は、個々人が人倫的現実(sittlichen Wirklichkeit)に属するという事実によって満たされる。一般意志と特殊意志(allgemeinen und besonderen Willens)の自己同一性は、こうして人倫的実体の中に形成される。人倫における普遍と個別の同一性は、人間における義務(Pflicht)と権利(Recht)の一体性にも表れている;人倫によって、人間は義務を持っている限りにおいて権利を持ち、権利を持っている限りにおいて義務を持つ1701
41816 人倫的実体に関する一見非常に実践的な理論は、今や社会団体の現存在的構造に関する深い分析へとつながっている。人倫的実体は、「家族(Familie)」「市民社会(bürgerlichen Gesellschaft)」「国家(Staates)」という三つの基本形式に見ることができる。社会団体論の観点からは、この三分割の最終的な基準は、上に示した人倫の二つの契機、すなわち普遍的なものと個別的なものとの間の異なる連関(Zusammenhang)にのみある。
41817 一番目の形式である家族は、直接的あるいは自然的な人倫的精神(sittliche Geist)である。それは愛によって結ばれた統一体であり、そこでは個々人はそれ自体独立した人(Person)としてではなく、この統一体の「構成員(Mitglied)」としてのみ存在する1702。従って、家族は、その本質的な目的としての統一性、普遍性が、個人の個別性(Einzelheiten)とは本当に真に対立する社会団体であることを明らかにするが、個人の個別性は単に従属する部分として存在するだけであり、したがって真の現実の個別性として存在するわけではない。この家族の統一性・一体性(Einheit)は、何よりもまず結婚(Ehe)によって生じる。結婚とは、結婚という人倫的な(sittlichen)結びつき(Bande)に対する厳粛な(feierliche)同意の表明と、それに対応する世俗的(weltlichen)役場(Gemeinde)や教会(Kirche)などの一定の権威によるこの結びつきの承認(Anerkennung)と確認(Bestätigung)によって、つまり結婚の意味形成(Sinnbildung)の公的行為を通じて、成立する1703。結婚、ひいては家族のの客観的出発点は、「両人格(Personen)の自由な同意(Einwilligung)、詳しくいえば、自分たちの自然的で個別的な人格性を一体性において放棄して一人格を成そうとすることの同意である。この一体性は、自然的で個別的な人格性という点からすれば一つの自己制限(Selbstbeschränkung)であるが、しかし夫婦はこの一体性において夫婦の実質的な自己意識(Selbstbewußtseyn)を獲得するのであるから、まさにこのゆえにこの一体性は解放(Befreiung)である1704」一方で、たとえ「客観的(objektiven)」で厳粛な意味形成行為によって結婚が成立したとしても、その現実の究極的な基礎は、当事者たちの「主観的(subjektiven)」な感情生活(Gefühlsleben)にしかないから、結婚は本質的にその現存在の偶然性を示さざるをえない。「結婚への強制力がないのと同じように、不都合(widrigen)で敵対的(feindseligen)な態度(Gesinnungen)や行為(Handlungen)が生じた場合に当事者をつなぎとめることのできる純粋に法的な積極的な拘束力は、ほとんどない1711」従って、家族の第一の基礎としての結婚は、結婚の意味形成によって結ばれた者同士が、内的に調和した共同体化(vergemeinschaftenden)関係(Beziehung)にある限りにおいて、またその限りにおいてのみ、現実のものとなる。この共同体化が結婚という現実の根拠(Wirklichkeitsboden)としてもはや存在しなくなったとき、そして意味形成の当初の行為が形式的かつ公的な効力を失ったとき、かつて存在した結婚の「解消」が起こる。
41818 人倫的実体(sittlichen Substanz)の直接的な形式である家族は、その後、差異の段階、つまり市民社会(bürgerliche Gesellschaft;ブルジョア社会)に移行する。従って、社会団体は、普遍性(Allgemeinheit)に関係しながらも、特殊性(Besonderheit)の決定を獲得する。当初、市民社会では「人倫の喪失」が起こるが、それでも人倫は「見かけ上(scheinend)」存在する。市民社会はこうして「人倫の見かけの世界」を形成する1712。その結果、市民社会の第一原理を形成するのは「具体的な人(konkrete Person)」であり、その人は利己的な欲求を追求するために、他の同じく具体的な人と形式的に結びつき、それらとともに「普遍性(Allgemeinheit)の形式」を作り出す。この意味で、普遍性という形式は、市民社会の第二原理を形成している1713。なぜなら、さまざまな欲求(Bedürfnisse)は、複数の人間(Menschen)が一緒に暮らし、分業(Arbeitsteilung)して初めて満たされるからだ。ヘーゲルの言葉を借りれば、「労働と、欲求の充足の、このような依存性(Abhängigkeit)と互恵性(Gegenseitigkeit)において、主観的利己心(subjective Selbstsucht) は、全ての他者の欲求を満足させるための寄与に転化する;すなわち、弁証法的(dialektische)運動(Bewegung)としての普遍による特殊の媒介に転化し、各自が自分のために獲得し、生産し、享受することによって、他者の享受のために生産し、獲得するのである1714
41819 形式的普遍を媒介とする複数の個々人の間の連関(Zusammenhang)には、市民社会の秩序を維持し、個々人の偶然(Zufälligkeit)や恣意(Willkür)による危険から個々人の権利を守ることを求められる外部組織が必要である。この外的な組織は、法律、裁判所、警察にその典型的な表現が見られる1721。そこに、市民社会と、自然な愛に基づく本質的に組織化されていない家族との明白な対比がある。市民社会では、個々人は、絶対的に独立した現存在であり、公的な権利(Recht)と公的な義務(Pflicht)を持つ結果、「市民社会の息子(Sohn der bürgerlichen Gesellschaft)」である1722。市民社会は、自らを第二の類型の社会団体として自らを提示する。そこでは、個々人だけが具体的で真の現存在を示し、個々人の間を媒介する普遍的なものは、形式的で見かけ上の(scheinbare)存在にすぎない。
41820 しかし、この分断の世界には既に、人倫的実体(sittlichen Substanz)をさらに発展させるための胚芽(Keim)が含まれている。なぜなら、市民社会における普遍的なものは、特定の目的と利益を保護し確保するための外的な秩序(Ordnung)と取り決め(Veranstaltung)として、つまり、個々人の目的のための手段としてのみ決定されるが、それにもかかわらず、それ自体を個々人の意志と活動の目的・対象としようとする必要な傾向を示すからである。このようにして、当初は単に外面的で形式的だった普遍性が、内面化・実質化の道を歩み、「職業団体(Korporation)」という形で公然と姿を現すのである。これが、ヘーゲルが、市民社会に基礎を置く家族と並んで、職業団体(Korporation)を国家の第二の人倫的根幹(sittliche Wurzel)とみなす理由である1723
41821 これらの根幹(Wurzeln)が完全な(vollen)発展を遂げるとき、つまり国家が人倫的実体の第三段階として自らを実現するとき、普遍的なものもまた完全な(vollständige)現実(Wirklichkeit)と真実(Wahrheit)を獲得する。このように普遍的なものの現実(Wirklichkeit)が完全かつ具体的に形成される中で、個々人はもはや、家族における場合のように、単に家族の従属的な部分を形成するのではなく、今や明確な自己意識をもって、すなわち自らの知識(Wissen)と意志(Wollen)をもって、普遍的なものの真の現存在を究極目的として認識し、そのために働くのである1724。国家(Staat)においては、普遍も個々人も、本当に孤独で孤立しているわけではない。むしろ、国家は、現実の普遍性と、同様に現実の個々人の総合的な統一体であり、前者は後者を通じて、後者もまた前者を通じて、最高の自己完成を達成することができる。「国家(Staat)とは、人倫的理念(sittlichen Idee)の現実性(Wirklichkeit)であり、人倫的精神(sittliche Geist)とは、公然たる自明の実体的意志(substantielle Wille)であり、それは自らを考え、自らを知り、自らの知る所を、知る限りにおいて完成するのである1731」「国家は自己の普遍性(Allgemeinheit)に高められた特殊的自意識に於て、国家が有するところの実体的意志の現実性として存し、即自対自的に(an und für sich)理性的(Vernünftige)なるものである1732」それは具体的な自由の現実性であり、普遍的で客観的な意志は、まさに特定の意志、すなわち現実的で有機的な精神、の自由な独立性において自由であり、その現実性は、まず内部の国法(Staatsrecht)において、次に外部の国法において、そして最後に世界史(Weltgeschichte)において具体化される1733

41822 ヘーゲルの人倫的実体論は、それに付随する形而上学的(metaphysischer)思弁(Spekulationen)の契機(Momente)を排除し、単に社会的全体性(sozialen Ganzheit)の存在論的(ontologische)構造分析とみなす限りにおいて、社会団体の三つの可能な基本形式の本質的構成を明確に示す。問題の理解と事実の分析において、社会団体論として、この学問分野でかつて達成されたことのない深みの段階に達している。
41823 しかし、ヘーゲルが人倫的実体を、家族(Familie)、市民社会(bürgerliche Gesellschaft)、国家(Staat)に三分類したのは、社会団体の「内的」構造だけでなく、「実質的(sachhaltigen)」社会的実体(sozialen Gebilden)との「外的」連関にも言及していることを強調しておかなければならない。というのも、社会団体を、その内部構造、すなわち、普遍と個々人との間の純粋に内在的な関係(Verhältnis)の、このことは、我々の対象の存在の構造を正確に研究する上で最も重要であるが、観点からのみ考えるならば、「家族」と「市民社会」との間にも、「市民社会」と「国家」との間にも、まだいかなる差異も認めることができないからである。厳密に言えば、例えば、家族と国家の違いは、「純粋な」社会的実体としての団体と「実質的な(sachhaltigen)」社会的実体との「外的な」連関(Zusammenhang)の中でしか理解できない。国家と家族を決定的に区別するものは、当該団体の「内部(inneren)」構造にあるのではなく、それと特定の統一的に組織された法秩序(Rechtsordnung)との間の「外部(äußeren)」構造的連関にのみある。国家が、家族や教会といった他の類型の団体と明確に区別できるのは、必然的に法体系と結びついた団体としてだけである。
41824 しかしながら、現在の家族や国家は、市民社会と同じように「分裂(Entzweiung)」している可能性がある。ヘーゲルの時代における「近代国家(Der moderne Staat)」は、「具体的自由の現実」として、現実に存在する普遍と同様に現実に存在する個々人との理念的な統合(Synthese)として理解することができる。しかし、国家が常にそのような総合的で調和のとれた構造を示していると考えるのは明らかに間違っている。ヘーゲルが、純粋に団体自体の内部における普遍と個々人のさまざまな結びつき(Verbindung)から生じる団体の三つの類型を、家族、市民社会、国家と呼んだのは、もちろん単に用語の問題(Frage)にすぎない。しかし、ヘーゲルがこれらの名称によって、家族、市民社会(原著では Gesellschaft)、国家という通常理解される事実内容をも意味している以上、ヘーゲルの概念(Begriffe)の残念な(unglückliche)もつれ(Verwicklung)は明らかにならざるを得ない。実践的な観点から見ると、ヘーゲルの国家理念論(Staatsidealismus)は、まさにこの「国家(Staat)」という概念の曖昧さゆえに、完全に誤解を招くものである。というのも、社会生活の実践的な「理念(Idee)」として確立されるべきものは、もっぱら、真に現実の普遍(Allgemeinen)と同様に現実に存在する個々人(Einzelnen)(すなわち、我々の意味での「協成社会団体(Körperschaft)」)との間の総合的な連関の社会的状態であり、政治的・法的な組織としての国家は、しばしば、この社会的な「理念(Idee)」に少しも対応していないからである。
41825 このように、社会団体の内部構造の理論的分析としての人倫的実体(sittlichen Substanz)に関するヘーゲルの議論が、まだ完全な概念的純粋性と一貫性をもって遂行されていないことは明らかである。ヘーゲルは、団体の内的構成を普遍と個々人との内在的(immanente)関係(Verhältnis)に限定して解明する代わりに、実質的な(sachhaltigen)社会的実体と団体の外的連関の原則をその研究に取り入れたが、その結果、用語だけでなく、研究結果そのものの科学的内容にも明らかに混乱をもたらした。従って、社会団体を家族、市民社会、国家に三分類することは、団体の「内部構造(inneren Struktur)」の区分としては維持しがたい。ヘーゲルが独創的な方法で最初に分析した団体の三類型を、事実的な要素の混在を一切排除し、普遍と個々人の間の内在的な関係においてのみ考慮するならば、団体の内部構成の純粋な構造分析の結果として、「共同社会団体(Gemeinschaft)」、「利益社会団体(Gesellschaft)」および「協成社会団体(Körperschaft)」への区分が得られる。

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第十九節 第一類型:共同社会団体(Gemeinschaft)

41901 共同社会団体(Gemeinschaft)とは、社会団体の一種であり、そこでは普遍が個々人に比べ支配的な現実的存在性を示し、個々人は全体の一部としての依存的な存在にすぎない。
41902 この類型の団体は、「原始的な(primitiven)」社会的現存在、例えば「トーテム氏族(Totem-Sippe)」の中で最も頻繁に見られる。そこでは、共同社会団体(Gemeinschaft)の全構成員が、氏族の名の下に、「血盟(Gemeinsamkeit des Blutes)」と、全員に内在する「精霊(heiligen Geist)」への信仰を通じて、互いに密接に結びついている。このような団体類型では、真に実在するのは氏族(Sippe)そのものであり、個々の氏族構成員は、氏族の真の全体性の背後にある漠然とした取るに足らない存在でしかない。原始的な意識にとって、全体としての氏族だけが真の自我(Ich)を形成しており、「身体(Leibes)」の境界線によって区別される個々人(Einzelpersonen)は、独立した自我の中心(Ich-Zentren)として考えたり感じたりすることはない。これは、原始的な社会性の世界に蔓延している「血の復讐(Blutrache)」の究極の理由でもある。ある氏族の構成員がよそ者に殺された場合、同じ氏族の他の構成員は、別人のものではなく自分自身の一部が侵害されたように感じ、そのために侵害者に復讐するのである。血の復讐の本来の姿は、他の誰かのための復讐ではなく、自分自身の受けた仕打ちに対する復讐なのだ。この社会的全体性の構成から、原始的な共同社会団体の現存在は、個々人の「個性(Individualität)」があまり発達していないという事実によって特徴づけられる。個々人は共同社会団体全体との関係において従属的な存在でしかないため、通常、他の構成員と区別できるような特別な特徴は持っていない。それゆえ、内部構成の「同質性(Homogenität)」は共同社会団体の重要な特性(Merkmal)であり、それは共同社会団体の現実の核心(Wirklichkeitskern)がもっぱら普遍にあるという事実からも見て取れる。
41903 共同社会団体のこの構造分析においては、共同社会団体の生活の関与者が「主観的に(subjektiv)」意味し、信じていることと、科学的研究において「客観的(objektiver)」事実(Sachverhalt)として確立されるべきものとを区別することに細心の注意を払わなければならない。共同社会団体に属する個々人(Einzelpersonen)が、その「主観的意味」に従って、団体の第一義的かつ絶対的な現実的存在性(Wirklichsein)を固く確信しており、自分自身の現存在を相対的で、実在する取るに足らないもの(Unbedeutendes)としか感じていないことは明白な事実である。しかし、社会生活の中で実践的に行為している人間のこの主観的な感覚(Gefühl)は、それ自体、社会団体の判断基準を提供するものではない。それは、客観的な事実に照らしても、彼らが感情的に信じていても、相対的な現実しか持っていないからである。共同社会団体(Gemeinschaft)における普遍(Allgemeine)が、個々人との関係において優位を占めているという事実は、おそらくこれらの個々人の「主観的な(subjektiven)」意味連関(Sinnzusammenhang)の中で立証されうる。しかし、決して、これらの事実が客観的、事実的な意味で、つまり社会科学の観点からもそのように認識されることを意味するものではない。従って、普遍としての共同社会団体は、その構成員(Angehörigen)間の内的で調和のとれた共同体的(vergemeinschaftende)関係(Beziehungen)によって成り立っている限りにおいて、間違いなく客観的な現実的存在性(Wirklichsein)を示すことができると言えるであろう。しかし、個々人(Einzelpersonen)の現実的実在性(Wirklichsein)は、その身体的・精神的な存在決定によって科学的認識の真の対象を形成する限り、疑いようもないように思われる。ではどのような方法で、客観的な(objektiven)事実(Sachverhalt)と主観的な(subjektiven)「意味性(Gemeintheit)」とを明確に区別した場合、それにもかかわらず、客観的かつ具体的な(gegenständlichen)連関(Zusammenhang)における共同社会団体の普遍が、個人との関係において優位な現実的存在性性を示すと主張できるだろうか。社会団体の存在構造に関する科学的な議論において、共同社会団体における個々人が相対的に現実的(wirklich)か、あるいは非現実的(unwirklich)かを、どのような方法で立証することができるだろうか?
41904 この困難は、個々人は単に現実に存在し、人間の「身体(Leib)」とまったく同じように「外的」世界に存在するという偏見(Vorurteil)が蔓延していることから生じている。対照的に、ギールケ(Gierke)は「肉眼で個々人の人格を見ることができるというのは重大な誤りである1761」と正しく言っている。精神科学の対象としての「個々人(Einzelperson)」は、あらゆる精神的客体性(geistige Gegenständlichkeit)と同様に、ある種の理念性においてのみ、従って究極的には意味的直観(sinnhaften Anschauung)によってのみ理解可能である。また、「個々人(Einzelperson)」は、社会団体のような高次の精神的実体と比較して初めて、感覚的知覚可能な(sinnlich wahrnehmbaren)現実に比較的近く、低次の理念的対象であると言うことができる。なぜなら、個々人はその実存的(existenzielle)具現化(Verkörperung)を直接的に人間の体の中に見出すが、社会団体は、複数の個々人の社会的行為と社会関係に基づいた段階でしか存在し得ないからである。
41905 精神的な対象である人間としての人は、その基礎が人間の「身体(Leib)」だけにあると信じてはならない。むしろ、身体の実在が「自己意識(Selbstbewußtsein)」、すなわち「自我(Ich)」の意識によって、「非自我(Nicht-Ich)」の世界から明確かつ意味的に区別されている場合にのみ、人間としての人は実在するのである。このような個人としての自我の自己意識が欠如している場合、つまり、自我・意識が個々人の身体的現存在の境界を越えて、時間的・空間的な超個人性の領域にまで拡張されている場合、独立した自我中心としての「個々人(Einzelperson)」は、決して普遍と同じ程度には現実的存在性を示さないことを認めなければならない。この場合、個々人の現実的存在性(Wirklichsein)は、客観的かつ具体的な(gegenständlichen)連関(Zusammenhang)においてさえ、真に現存在する社会的全体性の背後に隠されたままである。一般的に(Im allgemeinen)、個々人の真の(echte)現実的存在性は、その主観的な自己意識に基づいていると言わなければならない。従って、個々人は、基礎となるもの、すなわち当該の個人の自己意識が明確であるか不明確であるか、発達しているか未発達であるかによって、根拠のあるあらゆる対象と同じように、現実的であることも、ほとんど現実的でないこともありうるのである。その結果、社会性の原始的な共同社会団体的世界における普遍は、その中で社会的に行為する人間にとってだけでなく、社会科学者にとっても、個々人と比較して圧倒的に現実的存在性を示し、これは、一方では、普遍が内的に調和した共同体化の関係を通じて真に存在するものとして基礎づけられているからであり、他方では、個々人は、個性と自己意識の未発達な状況のために、現実的存在性の程度が低いものとしてしか存在しないからである、と正しく断言することができる。
41906 従って、共同社会団体(Gemeinschaft)とは、個々人が「無私(selbstloser)」の依存関係において互いに内的につながり合い、単一の真に存在する普遍性(Allgemeinheit)に属している、その類型の社会団体である。共同社会団体の基礎となる社会関係(soziale Beziehung)は、図式的に言えば、純粋な共同体化(Vergemeinschaftung)である。それゆえ、共同社会団体と共同体化は、必然的に底礎の連関(Fundierungszusammenhang)の中にある;共同社会団体は基礎づけられる(Fundierte)ものであり、共同体化は基礎となる(Fundierende)ものである。しかし、存在という意味では異なる理念領域に属するこの二つの社会的な客体性(Gegenständlichkeiten)の関係(Verhältnis)は、決して単なる一方的な底礎の連関ではない。というのは、共同社会団体の構成員間のあらゆる共同体化関係は、必然的に共同社会団体の現実的存在性を下支えするものではあるが、逆にそれ自体、共同社会団体の普遍性によって本質的に、また意味的に、条件づけられ、決定されるものだからである。共同社会団体の構成員は、個々人として互いに愛し合い、親しみ合っていて、内的に調和した共同体化関係にあるだけではなく、最初から一つの同じ社会的存在の構成員であり、その社会的全体性は自分たちよりも絶対的に上位のものだからである。こうして、構成員の共同体化関係が、一方では共同社会団体(Gemeinschaft)の真の存在の基礎を形成し、他方では、構成員が最初から一つの同じ共同社会団体に属し、同じ全体の従属的な部分を形成しているという事実が、共に属するという絆を再び強固なものにしている。従って、共同社会団体と共同体化は、一方的な関係ではなく、相互的な、決定され、決定する(bestimmend-bestimmten)連関にある。
41907 共同社会団体がその一部としての構成員の共同体化関係の内面化(Verinnerlichung)を条件づけ、決定するという事実は、今や必然的に、意味形成(Sinnbildung)の先行行為を通じて、それが個々の構成員の存在が、社会的普遍として、決定されていることを前提としている。しかるに、共同社会団体(Gemeinschaft)は、通常、個々人が意識的に計画し実行する行為によっては形成されないという特殊性を持っている。むしろ、人は生まれてから死ぬまで、共同社会団体として存在する一つの同じ団体に属しているのであり、この団体に属することは、伝統の力によって太古の昔から不変のものとして、個々人が信じ、受け入れてきたことなのである。共同社会団体(gemeinschaftlichen Verbandes)の起源については、伝統(Überlieferung)あるいは伝説(Sage)からしか知ることができない。こうして共同社会団体(Gemeinschaft)の現存在(Dasein)は、何よりも「既にそこに在る(Schon-da-seins)」という形(Modus)で現れる。共同社会団体とは、ある点でのみ普遍とされる社会団体ではなく、人生のあらゆる局面において個々人を包含するものである。構成員は、その全人格において共同社会団体的な全体に属し、また構成員は、この全体が、個々人によって恣意的に(durch Willkür)、あるいは便宜的な理由(Zweckmäßigkeitsgrund)で作られた形成体(Gebilde)ではなく、古来より自然に生まれ、歴史となったものであることを、最初から知っている。
41908 ヘーゲルが示したように、新しい社会的単位の形成としての厳かな結婚(Eheschließung)は例外(Ausnahme)のようだ。しかし、結婚という行為(Akt)が厳密な意味で常に新しい共同社会団体(Gemeinschaft)を生み出すかどうかは大いに疑問である。現代の社会性の世界では、結婚は多くの場合、独立性を維持し続ける二人の男女の身体的・精神的同居の「形式上の始まり」を意味するだけで、以前の結婚が形成したような顕著な形のでの、新規の社会的全体性の確立を意味しない。家族の社会化(vergesellschaftende)傾向は、現代の社会生活の本質的な特徴の一つとさえ言われている。これとは対照的に、家族が共同社会団体の類型の一つとして主要な役割を果たしていた社会的現存在の初期段階でも、結婚は、実際には「新しい」団体を生み出す意味形成行為(Sinnbildungsakt)ではなかった。例えば、大家族制度や氏族において、それはすでに存在する共同社会団体内での出来事(Ereignis)「族内〈同族〉結婚(Endogamie)」、あるいは二つの異なる共同社会団体の間で起こる出来事(Geschehnis)「族外〈異族〉結婚(Exogamie)」のいずれかを意味する。二つ目の場合も、新しい共同社会団体の形成が問題なのではなく、すでに存在している二つの家族や氏族の間に親族関係(Verwandtschaftsverhältnisses)が形成されたに過ぎない。従って、結婚が常に、いや、原則としてさえも、新しい共同社会団体の形成を伴うものではないことは明らかである。
41909 そして、まさに共同社会団体(Gemeinschaft)が、細部云々以前にすでに具体的かつ純粋に存在していた全体性であるがゆえに、共同社会団体は、それ自体、超個人的な尊厳(Würde)において本質的に必要であることを示し、それに対して個々人は、自らの現存在を単に相対的なもの(Relatives)、一時的なもの(Vorübergehendes)、劣ったもの(Minderwertiges)としてみなさざるをえない。共同社会団体の構成員にとって、共同社会団体こそが唯一の本当に価値あるものであり、そのためには自分の利益、何ぞの場合には自らの命さえも進んで犠牲にしなければならないものである。共同社会団体的現存在の重要な特徴である「犠牲を厭わないこと(Opferbereitschaft)」は、このように、唯一の真の現実としての共同社会団体における普遍(Allgemeine)が、同時に人間の現存在の「価値中心(Wertzentrum)」を形成するという事実から生じる。
41910 元々から存在する唯一の真の価値ある普遍(Allgemeine)としての共同社会団体(Gemeinschaft)が、個々人を支配し(beherrscht)、規制する。価値の中心(Wertzentrum)である普遍は、今や権力(Macht)の中心、支配者(Herrschende)として登場する。共同社会団体においても、支配は、一家の父親(Familienvater)や一族の長(Sippenoberhaupt)など、伝統的に指名された特定の個々人(Einzelpersonen)によって行なわれる。しかし、共同社会団体における個々人は相対的な現実的存在性(Wirklichsein)の中にしか存在しないのだから、このような支配(Herrschaft)は共同社会団体的、歴史的全体の真の支配を意味するのであって、単なる個々人の支配ではない。支配者機能(Herrscherfunktion)において、個々人は単なる全体の「代表(Vertreter)」や「機関(Organe)」ではなく、実際にはその「化身(Verkörperungen;体現者)」なのである。その結果、支配を行う個々人もまた、社会的全体性の尊厳(Würde)を共有することになる。従って、支配者である個々人の尊厳は、常に共同社会団体全体の尊厳に基づいている。対照的に、被支配者の個々人は、共同社会団体という組織の貴重な現存在に鑑み、自ずと内在する「畏敬の念(Ehrfurcht)」をもって支配者の命令に従う。共同社会団体における支配関係(Herrschaftsverhältnis)は、恐怖(Furcht)に満ちた強制(Zwang)への服従(Gehorsam)よりも、尊厳への畏敬の念に基づいている。従って、共同社会団体の中では、支配は非合理的で直接的な共同社会団体主義的関係(Beziehung)の形式をとる。

41911 たとえここで、共同社会団体の「内部(innere)」の構造を原理的に扱っているとしても、実質的な(sachhaltigen)社会形成体(sozialen Gebilden)の「外部(äußeren)」の連関(Zusammenhang)における共同体の構成(Konstitution)を短く説明することは不可欠である。というのも、ある類型の社会団体(sozialen Verbandes)として、共同社会団体は、それに対応する形で実質的(sachhaltigen)契機(Momenten)と結びついていなければならないからである。この意味で、社会団体の内部構造の特徴は、歴史的・社会的現実の具体的な世界における外部の連関において、その鏡像(Spiegelbild)として反映する。
41912 共同社会団体(Gemeinschaft)における社会生活(sozialen Lebens)の内的共通性(innere Gemeinsamkeit)は、まず経済生活(Wirtschaftsleben)において明らかになる。人間の欲求(Bedürfnisse)がまだ自然で、あまり分化していない状態にある共同社会団体では、生活の基本的な経済形式は農業(Ackerbau)である。その結果、共同社会団体は必然的に「土地(Land)」と「家(Haus")」という即物的(sachlichen)基礎に基づくことになる。というのも、共同社会団体の生活の物質的な基盤となっている土地(Boden)は、何世代にもわたって継続される協力(Zusammenarbeit)によってのみ、十分な有益性(Nützlichkeit)と有用性(Brauchbarkeit)を高めることができるからである。テンニエスはこの状況を次のように説明している:「始めは、ただ壊れかけた畑(Acker)だけがある。そこに人間は、自らの労働によって、未来の植物の種を蒔き、過去の果実を実らせる。地に自分の足をつけ、畑は歴代の所有物となる。そしてその場所は、常に若い人間の力そのものと結びついて、たとえ徐々にであったとしても、経験を積み重ね、その土地は無尽蔵(unerschöpflicher)宝(Schatz)となる。その結果、賢明な対応(Behandlung)、保護(Schonung)、育成(Pflege)が生まれるのである。そして、畑(Acker)があれば、家屋(Haus)は不動のものになる:人間(Menschen)や動物(Tieren)や物(Sachen)のように動かせるものから、土地のように動かせないものになるのだ1801」また、畑や家屋は歴史的・伝統的に直接的に共同社会団体の全体に属するものであり、その性質上、個人による排他的な享受(Genuß)や使用(Gebrauch)を許さないため、「共有財産(Gemeineigentum)」は共有の所有権(Besitzes)の基本的な形式である。従って、「共同社会団体の生活とは相互の(gegenseitiger)所有(Besitz)と享受であり、共有財(gemeinsamer Güter)の所有と享受である1802
41913 しかし、共同社会団体の性格は、宗教との外的な連関においてさらに明確になる。このことは、共同社会団体が最初から社会性の世界を意味しており、そこでは合理的に考えられたものではなく、非合理(irrational)に感じられ、信じられたものが決定的な意味をもつという事実からもすでに理解できる。このようにして、唯一真に存在する普遍が、超自然的な「神性(Gottheit)」へと変容し、社会的全体性の尊厳が神の尊厳の中に具体的な視覚化を見出すのである1803。通常の場合、普遍の神格化(Vergöttlichung)は祖先(Vorfahren)への崇拝(Verehrung)に具体的な表現を見出す。これが、「祖先崇拝(Ahnenkultus)」が共同社会団体の宗教の典型的な形式である理由である。神の尊厳(Würde)は、今や共同社会団体の中で支配的な地位を占める個々人(Einzelnen)によって担われ、それによって彼らはもはや単に社会的普遍の体現者(Verkörperung;化身)として支配権を行使するのではなく、同時に神の意志の「地上の(irdische)」仲介者(Vermittler)として支配権を行使するのである。従って、支配者の命令に対する配下(Untergebenen)の服従(Gehorsam)には、神とその意志に対する畏敬の念も含まれる。こうして、支配機能の宗教的色彩と支配者の人格の神聖さは、社会的現存在の共同社会団体的構造の本質的な特徴として現れる。
41914 最後に、共同社会団体(Gemeinschaft)と法(Recht)の関係(Verhältnis)について考える。
41915 詳しくは後述するが、法(Recht)と呼ばれる社会構造は、「社会規範(sozialen Normen)」と「強制規範(Zwangsnormen)」という根本的に異なる二つの類型に分けられる1811。社会規範(sozialen Normen)とは、社会的に行為をする人間に対して、特定の行為(Tun)や不作為(Unterlassen)を規定する(vorschreiben)法規範(Rechtsnormen)のことである。社会規範は、社会的に行為をする「個々人(Einzelpersonen)」の振る舞い(Verhalten)を直接対象とする。社会生活に参加する人間は、社会規範の規則(Vorschriften)を尊重し、それに従って行為をすべきであることを自ら知っている。そうしないと罰せられる(bestraft)からではなく、単にそのように振る舞う(verhalten)ことが宿命(Bestimmung)だからである。対照的に、強制規範(Zwangsnormen)とは、その性質上、ある社会規範の妥当性を前提とし、通常、その前提となる社会規範が侵害された場合にのみ強制される法規範(Rechtsnormen)のことである。ある個人がある社会規範に違反した場合、強制規範が発効し、それによってこの社会規範に違反に対応する特定の強制行為(Zwangsaktes;違反行為)の実行を規制する。従って、強制規範の任務は、乱れた社会秩序(gestörte soziale Ordnung)を復旧させるために、社会規範の違反に対して社会一般(soziale Allgemein)がどのように反応すべきかを決定することである。社会規範が、社会生活を営む個々人に直接向けられたものであるのとは対照的に、それに対応する強制規範は、もはや個々人に向けられたものではなく、強制執行(Zwangsvollstreckung)を任務とする社会団体の諸機関に向けられたものである。これを前述では「執行機関(Erzwingungsstab)」と呼んだ。したがって、強制規範の体系は、必然的に強制執行機構(Zwangsapparates)の外部組織と結びついている。
41916 共同社会団体(Gemeinschaft)の本質上、その法秩序は原則的に社会規範の体系として、すなわち「共同体化の法」1821として現れる。共同社会団体における社会生活は、最初から内的結びつき(inneren Verbundenheit)という形式で営まれるからである。共同社会団体の構成員の共同生活(Zusammenleben)を構成する社会関係(sozialen Beziehungen)は、本質的に共同体化関係(vergemeinschaftende Beziehungen)である。共同社会団体の個々人は、伝統的な尊厳と神聖な力を体現する、自分たちの上に立つ歴史的全体性(geschichtlichen Ganzheit)に、共に(gemeinsamen)属しているという揺るぎない(unerschüttelichen)自覚(Bewußtsein)の中で共に(miteinander)生きている。社会的全体性への服従(Gehorsam)は、便宜を図るためではなく、先祖から受け継いだ信頼(Vertrauen)と、何世代にもわたって培ってきた畏敬の念(Ehrfurcht)に基づいている。この社会性の世界では、個人の外的振る舞いの規則(Regeln)は、社会的全体性の規則として、あるいは神の意志の規則として尊重され、従われる。共同社会団体を基本的に特徴づける、圧倒的に現実的で絶対的に価値ある普遍(Allgemeinen)と、相対的に現実的で、劣位で、はかない個々人との関係(Verhältnis)は、共同社会団体の法秩序の維持にも反映されており、その究極的な保証(Garantie)は、社会的全体性に対する個個々人の服従と畏敬の念にある。
41917 これはまた、共同社会団体における強制規範が通常、原始的で組織化されていないことを必然的に意味する。共同社会団体の個々人は、先祖や頭領(Oberhauptes)の規則にそのまま従うことを望み、また互いに平和的な(friedlichen)一体関係にあるため、たとえ第一義的秩序に違反した場合には非常に厳しい罰(Strafe)が科されることがあるとしても、強制規範を体系的に組織化する必要は最初からない。だからこそ、何よりも「共同体化の法(Recht der Vergemeinschaftung)」である共同社会団体の法秩序は、同時に、強制秩序とそれに付随する強制組織(Zwangsapparates)の体系的発展を伴わないという事実によって特徴づけられるのである。

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第二十節 第二類型:利益社会団体(Gesellschaft)

42001 共同社会団体(Gemeinschaft)においては、個々人(Einzelne)がその中に真の存在を見出す前に、普遍(Allgemeine)が唯一の真の現存在として、すでに歴史的に与えられている。こうして普遍は、論理的にだけでなく、実際にも個々人に先行する。共同社会団体が全体として個々人の現存在を決定するのであって、個々人が共同社会団体の全体性を決定するのではない。シュパンの普遍主義的な見解は、社会団体の共同社会団体的な構成にも無条件に適用される:「全体は第一義的なものであり、個々人はいわば(gleichsam)その構成要素(Bestandteil)としてのみ、その構成員(Glied)としてのみ存在するのであり、従って、派生的なもの(Abgeleitete)である1831」社会的全体の優位性を論理的あるいは遺伝学的に正当化しようとする、社会団体の現実的存在性に関する伝統的な教義(Lehren)は、「共同社会団体(Gemeinschaft)」の存在構造という問題が問われる限り、本質的な事実(Sachverhalt)を明らかにしている。
42002 しかし、(シュパンの)この見解の一面性(Einseitigkeit)は、社会的全体性(sozialen Ganzheit)の共同社会団体的な構成にのみ言及しているという事実にこそ表れている。しかし、共同社会団体という概念は、一般的な社会団体の概念と決して同じではなく、その三つの基本的な類型のうちの一つに過ぎず、特にこれから論じる「利益社会団体(Gesellschaft)」という類型は、その本質的な構成という点で、共同社会団体と厳密な対比をなしている。というのも、利益社会団体(Gesellschaft)とは、厳密に言えば、個々人だけが真に実在する社会団体の一類型であり、普遍(Allgemeine)は、もはやほとんど実在せず、ただ「想像上の(gedachte)」全体として存在しているにすぎないからである。確かに、利益社会団体が普遍あるいは全体を意味する限りにおいて、また個々人が結果的にこの全体性の「部分(Teil)」を形成する限りにおいて、利益社会団体がその構成員との関係において形式論理的な卵と鶏の関係(Prius; Ovumne prius extiterit an gallīna? どちらが先か?)を持っていることを否定することはできない。なぜなら、ある部分(Teil)は、それを部分として決定する全体性(Ganzheit)がまったくなしには、考えられないからである。しかし利益社会団体(Gesellschaft)においては、このような全体の優位性(Primat)は、単に想像上の(gedachter)架空の(fingierter)優位性にすぎない:純粋に論理的な関係は、現実における適切な相関関係を欠いているのである。そう、利益社会団体とは「想像された(gedachte)」全体であるだけでなく、個々人(Einzelnen)によって「作られた(gemachte)」全体(Ganze)でもあることがよく(häufig)みられる。このような場合、それは個々人(Einzelnen)の存在以前にすでに歴史的に存在していた団体(Verband)ではなく、独立して存在する現存在としての個々人(Individuen)によって詳細に合理的に設計され、体系的に(planmäßig)構築された(aufgebaute)全体性(Ganzheit)なのである。利益社会団体の現存在は、個々人がすでに存在し、社会的全体性の理念的意味を客観的に形成しているからこそ可能なのである。もちろん、そのような利益社会団体の現存在が、個々人が存在するための真の前提条件(Voraussetzung)では決してない;むしろ逆に、それは利益社会団体的全体が成立するための前提(Bedingung)なのである。この明白な事実内容(Tatbestandes)にもかかわらず、現実的(realistische)団体論が、社会的全体の真の優位性を主張したいだけなのだとすれば、この一方的な主張の理由は、純粋に理論的でない、つまり倫理的あるいは政治的な方向性をもった何らかの実践的立場のために、その視野を共同社会団体(Gemeinschaft)の領域に限定しているという事実にしか見いだせない。
42003 図式的に言えば、利益社会団体(Gesellschaft)とは「作られたもの(Gemachte)」であり、「形成されたもの(Gebildete)」である。純粋に利益社会団体的(gesellschaftlich)に構成された団体の意味は、個々人によって設計され、形成されたに過ぎない。これは、「株式会社(Aktiengesellschaft)」の設立(Begründung)に見られるように、計画的な意味形成(Sinnbildung)行為によって生まれる。ある意味形成行為(Sinnbildungsakt)によって利益社会団体的団体が設立されると、個々人は自らをその部分として、その構成員として定義することによって、今や創り出された全体性(Ganzheit)に従属する。しかし、利益社会団体的団体が設立されるということに特有なのはは、その設立という行為が、特定の目的を達成するために必要な手段として、個々人によって計画され、実行されるということである。この意味で、利益社会団体的団体は常に「特定目的団体(Zweckverband)」である。
42004 その結果として、利益社会団体(Gesellschaft)における普遍(Allgemeinen)と個々人(Einzelnen)の関係(Verhältnis)は、この目的(Zweckes)の及ぶ範囲(Bereich)内でのみ存在することになる。団体が設立された当該目的が直接的または間接的に自らのためである場合に限り、個々人は利益社会団体的団体に服従し、この団体を全体としてみなす。この目的追求の枠外では、利益社会団体(Gesellschaft)は、その構成員(Mitglieder)にとってまったく無関心で無関係なものでもある。従って、例えば、株主(Aktionär)にとって、株式会社(Aktiengesellschaft)は、投下資本に対する現在のあるいは将来可能な(aktuellen oder möglichen)収益(Ertrag)に関連してそれを見る限りにおいてのみ、自分自身をその部分として構成する全体性を意味する。利益社会団体の構成員は通常、その現存在の全体性(Totalität)において社会的全体に属しているのではなく、利益社会団体が設立された特定の目的の範囲内においてのみ属している。利益社会団体的団体の現存在がその目的を完全に達成したとき、あるいはその手段としての意義を失ったとき、構成員は、通常あらかじめ形式的に決定された手続きを経て、過去に客観的に形成された社会的全体性の意味を廃止することができる。こうして利益社会団体は客観的現存在を失う。ある目的のための手段として利益社会団体を設立することができるのと同様に、便宜上の理由(Zweckmäßigkeitsgründen)で利益社会団体を解散させることができる。
42005 このように、利益社会団体の事実的基盤は社会化(Vergesellschaftung)にあり、それと同様に共同社会団体のそれは本質的に共同体化(Vergemeinschaftung)にあることがわかる。利益社会団体的団体に帰属する個々人は、合理的に偏向した(abgelenkten)、ただ外見上は調和のとれた経験連関(Erlebniszusammenhang)の中にいる。構成員同士、お互いを「敵対相手(Gegner)」と見なすこともある。しかし、ある目的を追求するためには、構成員間の平和的な(friedliche)結びつき(Verbindung)がより有利で、それが当該利益社会団体そのものの設立を促すのであり、実際、こうして設立された利益社会団体的全体は、構成員同士が公然と対立していれば、もはやそのようなものとして存在し得ないのだから、構成員は最初から、実際には敵対関係(gegnerische Verhältnis)にある構成員間の関係を、偏向(ablenkend)によって調和させ、外見上は平和的な共存状態を維持せざるを得ない。しかし、利益社会団体(Gesellschaft)の根底にある社会化(Vergesellschaftung)は、常に闘争関係(Kampfbeziehung)を伴うわけではない。また、互いに調和的でも不調和でもない、つまりまさに互いに無関心な複数の人間が、純粋に形式的な結びつきを持ち、それによって新たな利益社会団体的全体性を形成することもありうる。より高い利益(Gewinn)が資本の集中によってのみ達成される現代の資本主義経済体系では、ある一つの大企業(Großbetrieb)に対して、何人もの人間がそれぞれの小さな寄与(Beitrag)を一緒にしているが、他のあらゆる点では互いに無関心である。そのような利益社会団体の構成員間の関係(Verhältnis)もまた、社会化(Vergesellschaftung)と表現することができるのは、それは調和のとれた関係(Beziehung)を表すものであり、偏向(ablenkend)したものではないにせよ、目的合理的に「生成された(erzeugte)」ものであることは明らかだからだ。
42006 利益社会団体が社会化という事実上の基礎の上に成立しているという事実から、利益社会団体における普遍(Allgemeine)は、それを構成する個々の要素よりも原理的に現実性が低いということが必然的に導かれる。利益社会団体的全体とは、図式的に言えば、理念的な意味形成体にすぎない。社会団体(sozialen Verbandes)の「擬制説(Fiktionstheorie)」は、利益社会団体という存在構造だけを考慮に入れる限りにおいて正しい。しかし、現在存在する利益社会団体はすべて、ある程度の現実的存在性を示している。というのも、利益社会団体が基盤としている関係(Beziehung)は、共同体化の契機ももたらさないほど、純粋な社会化として現れることはないからである。従って、「生成された」全体としての現在の利益社会団体は、たとえほとんど気づかれないことが多いとしても、現実的存在性であるという決定を持ってそこに存在している。これとは対照的に、社会化という連関の中で利益社会団体の一員である個々人は、この言葉の最も純粋な意味において、最高度に実在している。従って、利益社会団体においては、個々人が現実の究極的な中心を形成している。
42007 従って、利益社会団体は必然的に「原子論的」構造を持つ。利益社会団体で決定的に重要なのは個人(Individuen)の利益であり、個人の繁栄(Wohlstand)と栄華(Gedeihen)が利益社会団体的現存在の究極の目標(Ziel)である。もちろん、利益社会団体に帰属する人も、「共通の(gemeinsamen)」利益についても語る。しかし、ここで言っているのは社会的全体性の本当の利益そのものを意味するのではなく、単に複数の個々人の利益の「総和(Summe)」なのである。利益社会団体(Gesellschaft)は究極的には個々人のためにある。ある社会的全体としての利益社会団体の存在は、究極的には個々人の利益によって正当化(Rechtfertigung)される。利益社会団体では、個々人が現実的存在性の中心であると同時に、社会的価値の中心でもある。現実的存在性の中心と価値の中心は、利益社会団体(Gesellschaft)と共同社会団体(Gemeinschaft)において正反対の位置を占めている。

42008 利益社会団体的団体の存在の正当性(Seinsberechtigung)の究極的な根拠である個々人の利益は、「欲求の充足(Erfüllung der Bedürfnisse)」において実現される。このような個々人の欲求は、無限の過程で増殖し、洗練されていく。なぜなら、人間の欲求(Bedürfnis)は常に、その充足(Befriedigung)のために何らかの手段(Mittel)を必要とするからである。この手段は、もともと特定の目的を達成するために設計され、使用されるものであるが、その性質上、多かれ少なかれ独立した欲求の対象(Ziel)となる傾向がある。例えば、狩猟(Jagd)は、かつてはもっぱら食糧に対する直接的な欲求を満たす手段として行われていたが、後に独立した娯楽の欲求(Unterhaltungs-bedürfnisses)を満たす手段となった;衣服(Kleidung)は、当初は主に暑さ(Hitze)や寒さ(Kälte)から身体を守る具体的な手段であったが、今日では多くの抽象的で洗練された欲求の相対的に独立した対象となった。ヴィルヘルム・ヴント(Wilhelm Wundt)は、彼の「目的の異義性の原理(Prinzip der Heterogonie der Zwecke)」において、この手段の、抽象的あるいは相対的に独立した自己目的(Selbstzwecke)への必然的な変換を説明しようとした1861。ヘーゲルがすでに示したように、「特殊化されたもろもろの欲求に対する手段も、また総じてこれらの欲求を満足させる方法も、同じく部分化され多様化され、こうして部分化され多様化された手段と方法は、それらはそれらでまた、相対的目的や抽象的欲求となる(訳者注:大藪敏宏富山国際大学教授による訳)1862」従って、「欲求の体系(das System der Bedürfnisse)」は、社会的現存在の利益社会団体的構造という必然的連関の中で詳細に考察され、議論されなければならない1863
42009 現在、人間の欲求の増大(Vervielfältigung)は、利益社会団体における個々人の個性(Individualität)と自意識(Selbstbewußtseins)の極度な発達(Entwicklung)を引き起こし、それが個々人(Einzelpersonen)の支配的な現実的存在性(Wirklichseins)の究極の根拠、つまり利益社会団体的団体自身の特異な構造の究極の根拠を形成している。今や増大した欲求を満たすには、専門化した個々人の共同作業(Zusammenarbeit)が必要だからである。ヘーゲルによれば、労働(Arbeit)とは「もろもろの特殊化された欲求を満たすのに適した、同じく特殊化された手段を作製し獲得する媒介作用(Vermittelung)」である1871。この労働もまた、利益社会団体の中でますます専門化されていくに違いない。というのも、この労働が満たすべき欲求(Bedürfnisse)は、それ自体が無限に分化していくからだ。このような労働を一人の力(Kraft)や能力(Fähigkeit)でこなすことは不可能であるため、一方では、それぞれが特定の種類の労働を目的とするさまざまな職業や専門職の発展が必要とされ、他方では、これらの専門的な労働技能(Arbeitsfähigkeiten)の相補的な組織化、すなわち分業(Arbeitsteilung)が必要とされる1872。もちろん、個々人の労働者(Arbeitskraft)の間にこのような補完的なつながりが存在することは、すでに共同社会団体(Gemeinschaft)で認められる。共同社会団体(Gemeinschaft)内では、原則的に、そのように連携する労働者だけで、質的に似たような仕事(Tätigkeiten)が行われる。従って、共同社会団体の構成員は、基本的に同質の労働を行う。つまり、基本的に「量的に(quantitativ)」労働力を増大させるだけである。ただし、例えば、男女(Mann und Weib)が家庭生活において、自然の理にかなって差別化された力(Kräften)と能力(Fähigkeiten)を持って共に働くような、ある種の単純な場合は例外である。従って、共同社会団体的な分業は、分業と呼ぶことができるとしても、「同質的な分業(homogene Arbeitsteilung)」である。これとは対照的に、利益社会団体における分業はもともと異質なものであり、実際には、いくつかの「質的に(qualitativ)」異なる労働内容(Arbeitsleistungen)の相補的な組み合わせである。従って、利益社会団体的共同作業に参加する個人は、常に自らの労働に特化した能力を持っていなければならず、それは同時に当該個人の「個性(Individualität)」を構成する。そして、この個性の中で、利益社会団体的生活を営むすべての個々人は、自分自身の存在において、他の人間から明確に区別された自我の中心(Ich-Zentrum)を形成しているという明確な「自己意識(Selbstbewußtsein)」を得る。異質な分業の発展は、個々人の個性と自己意識の発展と条件的に関連しており、その結果、利益社会団体的団体の本質的構造を決定する。
42010 特殊化された個別仕事の組み合わせは、基本的に個々人の欲求を満たすことを目的としている。結局のところ、その狙い(Ziel)は、たとえ外見的には共通のように見えても、個々人の収益(Gewinn)と享受(Genuß)にある。個々人が互いに協力し合い、専門的な能力(Fähigkeit)や熟練(Geschicklichkeit)を通じて、相手に欠けているものを提供する。個々人は一緒に働くが、それぞれが自分の楽しみ(Genuß)のために働く。そのため、たとえ共同で稼いだとしても、収益(Gewinn)は個々人に分配される。従って、利益社会団体的団体の基本的な経済原則は、共同労働(Gemeinsame Arbeit)と、それによる個々人の収益の増大である。そしてその都度、収益が費用を上回れば、この余剰(Überschuß)は既にあるものに加えられ、特定の個々人の「資産(Vermögens)」の形成に寄与する。こうして個々人の資産が構成され、特定の個々人の独占的な享受に奉仕する。利益社会団体の原子論的構造は、「私有財産(Privateigentum)」という具体的な経済的局面に反映される。

42011 利益社会団体は、利己的な(selbstsüchtiger)個々人の団結的関係(verbindende Beziehung)の上に成り立っているが、それが個々人の利己的な(eigennützigen)目的のために必要不可欠な手段(Mittel)であるという意味(Sinn)を失った瞬間に、その関係はすぐに公然たる闘争(Kampf)に変わりうる。たとえ合理的な内省(Reflexion)に立つ個々人が、他の構成員との調和的な結びつきは常に自分の利益(Nutzen und Gewinn)のために維持されなければならないことをきちんとわきまえていたとしても、あらゆる利益社会団体的団体は、目的合理的かつ偏向して(ablenkend)確立された人間相互関係の調和が破壊され、公然たる、直接的には非合理的な不調和状態がもたらされる危険性(Gefahr)を常にはらんでいる。なぜなら、利益社会団体によって可能になる複数の人間の調和した結びつきと共同作業は、利益(Gewinn)と損失(Verlust)が等しく分配されることを完全に保証することは決してできないからである。平等な分配が不可能(Unmöglichkeit)であるため、満足できないでいる個々人の間で紛争(Streitigkeiten)が起こる。従って、利益社会団体の結束(Einheit)を維持するためには、個々人の主観的な目的適合的考量(Zweckmäßigkeitserwägung;都合)に加え、外部からのしっかりとした(feste)支援(Stützen)が必要不可欠なのである。
42012 利益社会団体の統一・結束を維持するためのこのような外的支援の最も重要な形式のひとつが、物質的な力(materielle Gewalt)による支配(Herrschaft)である。強力な支配組織(Herrschaftsorganisation)のない利益社会団体は、必然的に自己解体(Selbstauflösung)を招き、極端な場合には「万人の万人に対する闘争(bellum omnium contra omnes)」の状態になるというのは、客観的事実に反する独断的な仮説ではない。支配権力(Herrschaftsgewalt)の外部組織(äußeren Organisation)の発展(Entwicklung)は、単に個々人から構成されるのではなく、いくつかの下部団体(Teilverbänden)から構成される利益社会団体においては特に必要である。例えば、部族(Stämme)のようないくつかの小さな団体が、何らかの理由で、多くの場合は軍事征服によって、より広範な団体に合併された場合、元の団体は通常、直ちに団体としての性格を失うことはなく、新しい上位の社会的実体の下で、下位の団体として、あるいは少なくとも別の形(Klassen)で残ることができる。これらの下部団体(Teilverbände)は通常、その起源において「共同社会団体」的性格を持ち、新しい団体が形成された後もその性格を維持するが、現在それらの間に生じている関係(Verhältnis)は、典型的な社会化(vergesellschaftende)関係を表しているため、こうして形成された包括的な(umfassende)団体は、「複数の共同社会団体(Gemeinschaften)からなる利益社会団体(Gesellschaft)」の独特の構造を示している。このような複雑な形式の利益社会団体(Gesellschaft)は、その自己保存のために、必然的に外部に組織された支配体系と、それに対応する強力な「警察組織(Polizeiapparat)」を必要とする。なぜなら、下部団体の内的で自発的な関係(Beziehung)では、全体の統一の維持を決して保証できないからである。日本の「徳川時代」の封建制度(Feudalsystem)は、複数の共同社会団体的下部団体からなる、物質的支配権力と秘密警察組織によって維持された、利益社会団体的統一の典型的な例を示している。
42013 利益社会団体の全体性(Ganzheit)に必要不可欠なもうひとつの柱は、「強制秩序(Zwangsordnung)」としての「法体系(Rechtssystem)」にある。個々人の自発的な「社会規範(sozialen Normen)」の遵守によってその維持(Aufrechterhaltung)が保証される共同社会団体的秩序とはまったく対照的に、利益社会団体的秩序は必然的に強制規範の体系を発展させる。本来は、利益社会団体(Gesellschaft)の秩序(Ordnung)は上記のようなものとして維持されるべきではなく、平和的共存(friedliche Zusammensein)こそ、利益社会団体そのものが形成された目的のために不可欠な(unerläßliches)手段(Mittel)である。従って、利益社会団体の社会規範(sozialen Normen)の最も重要な原則は、構成員の平和的結びつきを外的(äußerlichen)かつ機械的(mechanischen)に維持すること、ひいては団体の社会的統一を維持することにのみある。この利益社会団体の社会規範の原則は、個々人がその調和的な結びつきと平和的共生(friedliche Zusammenlebens)の維持を規定するものであるが、この原則が誰かある個人によって侵害された場合、そして、利益社会団体的統一体(Ganzheit)の構成員が互いに公然かつ直接的な紛争関係(Streitverhältnis)に陥った場合、利益社会団体的統一体(Ganze)は、社会的分断(Zerstückelung)の危険(Gefahr)を回避し、平和的関係(friedlichen Beziehungen)を回復するために介入(einegreift)する。この利益社会団体的統一体の法的干渉(rechtliche Einmengung)は通常、まず裁判所の判決(gerichtlichen Entscheidung)という形で行われ、次に判決(gefällten Urteiles)の強制執行(zwangsmäßigen Durchsetzung)という形で行われる。利益社会団体的強制法の全体的な機能の狙い(Ziel)は、個々人の利益を保護し、その欲求(Bedürfnisbefriedigung; Befriedigung der Bedürfnisse;欲望の充足)が満たされるようにすることであることに留意すべきである。従って、強制秩序全体の任務は、最終的には利益社会団体的団体そのものの存在目的(Daseinszweck)によって条件づけられ、決定される。利益社会団体的法秩序の体系全体の最終的な基準(Kriterium)は、「個々人の利益(Interesse der Einzelnen)」である。
42014 利益社会団体的強制秩序の中で発展した最も崇高な法的主体は「裁判所(Gericht)」である。利益社会団体の法的機能において、もっぱら団体の機関として役割を演じる裁判官(Richter)は、紛争を調査し、その結果、社会的全体の名において、目の前の事実に一定の強制的な結果(Zwangsfolgen)を結びつけることによって、最終的な決定を下す。従って、裁判制度の発展は、強制執行機構(Zwangsapparates)である執行幹部(Erzwingungsstabes)の発展とともにあった。しかし、人間の欲求は無限に分化し、それを満たそうとする努力(Bestrebungen)は、当然のことながら、常に新たな紛争の機会(Streitgelegenheiten)を生み出すので、利益社会団体全体(gesellschaftliche Ganze)もまた、司法機関の機能を通じて常にこれに対応し、失われた秩序を常に回復しなければならない。この社会的全体の干渉(Einmengungen)の繰り返しによって、判決(Entscheidung)の規範が定式化(Formalisierung)される。このような意思決定規範の定式化は、司法判断の確定条件として重要であるだけでなく、個々人の恣意性(Willkür)から、社会的全体の機関としての役割を果たす仲裁裁判所の客観性を、個々人の恣意性(Willkür)から、守るためにも必要不可欠である。オイゲン・エールリッヒ(Eugen Ehrlich)は次のように述べた:「意思決定規範の根拠となる普遍命題を含んでおり、それによって、問題の事案だけでなく、あらゆる同類の(gleichen)、あるいはあらゆる類似の(gleichartigen)事案に適用されるべき真実であると主張する1901」意思決定規範は、文書化された記録として固定された形をとり、その総体(Inbegriff)として「法律(Gesetz)」を構成する。従って、裁判所(ericht)と法律(Gesetz)は、利益社会団体の強制秩序(Zwangsordnung)に不可欠な二つの最も重要な法的主体(rechtlichen Gebilde)である。

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第二十一節 第三類型:協成社会団体(Körperschaft)

42101 共同社会団体(Gemeinschaft)では、現実の中心(Wirklichkeitszentrum )は排他的に(ausschließlich)普遍(Allgemeinen)にあり、利益社会団体(Gesellschaft)では排他的に個々人(Einzelnen:あるいは、個別)にある。第三類型は、この二つの極端な団体類型(Verbandstypen)の総合(synthetische)形式の「協成社会団体(Körperschaft)」として生まれる。
42102 協成社会団体(Körperschaft)とは、普遍と個々人が等しく同じように一つにして同一の団体の構成契機(Konstitutionsmomente)である社会団体(sozialen Verbandes)のことである。協成社会団体(Körperschaft)は「総合(Synthese)」であり、共同社会団体(Gemeinschaft)と利益社会団体(Gesellschaft)の単なる混合形式(Mischform)ではない。協成社会団体的に構成された団体では、普遍は個々人を通してのみ存在する。しかし、個々人はそれ自体、個々人でもなく、完全に依存した部分でもなく、発達した自己意識においてこそ、社会的全体の不可欠な構成員(Glieder)なのである。普遍(Allgemeine)は、個々人(Einzelnen)においてのみ意識されるものであり、個々人だけが普遍の中に真の自己完成(Selbstvollendung)を見出すのである。ここで、真に存在する個々人なしに社会的全体性が真なる現存在はなく、真に存在する普遍なしに個々人の真なる現存在は同様にあり得ない。従って、協成社会団体(Körperschaft)においては、普遍が個々人に先行することも、その逆もない。むしろこの二つは、「同根源的(gleichursprünglich;起源が等しい)」である。協成社会団体が現実(wirklich)であるのは、普遍が個々人を通して現実であるからであり、個々人もまた普遍を通して現実であるからである。協成社会団体的団体の現実的存在性の究極の中心は、普遍と個々人の単なる複合体(Zusammensetzung)にあるのではなく、両者の必要不可欠な依存関係(Abhängigkeit)と相互補完関係(wechselseitigen Ergänzung)にある。
42103 このような普遍と個々人の相関関係(korrelative Verhältnis)は、多かれ少なかれ、協成社会団体的現存在のあらゆるところに現れている。第一に、協成社会団体の価値の中心は、もはや普遍でも個々人でもなく、自立した社会的全体とそれを構成する個々人との調和のとれた連関(Zusammenhang)にこそある。第二に、協成社会団体的支配(körperschaftliche Herrschaft)は、個人の現存在をないがしろにする絶対主義(Absolutismus)や、統治権力を断片化して個々人の手に委ねる自由主義(Liberalismus)にはならず、権力(Macht)と実力(Gewalt)の行使(Ausübung)にもかかわらず、全体の繁栄と個々人の利益の調和だけを念頭に置いた統治(Regierung)・管理(Verwaltung)の形式を採用する。第三に、協成社会団体における法(Recht)と正義(Gerechtigkeit)もまた、その最終的な出発点は、普遍の現存在と個々人の現存在との間の調和のとれた連関にある。経済財の所有は、この状態を正確に反映したものである。協成社会団体においては、財産(Besitz)は個々人の所有であるが、個々人はその財貨(Güter)を自分自身のためだけに使用・利用するのではなく、その財貨は、まさにその物質的存在を通じて協成社会団体の全体性の現存在と繁栄のために必要な基礎を形成することを目的としている。この意味で、「所有権は、義務を伴う(Eigentum verpflichtet;訳者注;ワイマール憲法153条3項)」という原則が協成社会団体においては適用される。
42104 協成社会団体的に構成された社会性(Sozialität)の世界の決定的な特徴(Merkmal)は、ここでの社会的現存在の究極的な価値が、もはやそのような人間(Menschlichen)の現存在にあるのではなく、人間の歴史的・社会的な共存(Zusammensein)によって生み出され、しかもその個々人的・社会的現存在の直接的な領域を超越した即物的(sachlichen)精神的実体(Geistesgebilden)にあるという事実に示されている。他の団体類型では、最後の価値基準は、社会的普遍または個々人の「人間性(Menschlichkeit)」に直接関係する。従って、我々は、共同社会団体的価値の中心を団体自体の客観的で普遍な現存在の中に見出すことができる。それゆえ、客観的かつ普遍的ではあるが、それにもかかわらず、それは「人間性」の直接の決定に左右される。共同社会団体的団体の伝統的で超個人的な現存在は、常に何か人間的なものの現存在として評価されている。ここで真に価値があるのは個人(individuelle)ではなく、人間の普遍的な現存在、つまり家族や氏族(Sippe)である。たとえ共同社会団体的生活において、社会団体の代わりに神が最高の崇拝の対象を形成することが多いとしても、神は通常、人間(Menschen)に類似した(analoge)人格(Persönlichkeit)として提示されるため、価値の中心は明らかに人間の身近な領域にとどまる。社会的現存在の価値中心のこの「人間性(Menschlichkeit)」は、利益社会団体(Gesellschaft)で前面に出てくる。利益社会団体的現存在の究極の意味(Bedeutung)は、個人としての(individuellen)人間(Menschen)そのものにあるからだ。利益社会団体的(gesellschaftlichen)団体(Verband)では、結局のところ、すべてが個々人の利益の観点から見られている。個人(Individuums)の繁栄と至福が利益社会団体的価値判断の最高原理(Werturteils)を形成する。これとは対照的に、協成社会団体における人間の現存在の究極的な価値を決定するのは、もはや人間(Mensch)そのものではなく、超人間的あるいは超社会的な意味(Bedeutung)を持つ即物的な(sachlichen)精神的実体(Geistesgebilde)である。この意味で、協成社会団体における価値は、人間性や社会性の直接的な領域を「超越」している。このように協成社会団体は、人間的・社会的現存在を突破する「価値の超越(Transzendenz des Wertes)」によって特徴づけられる。
42105 ここで、協成社会団体的団体の価値の中心を形成する二つの重要な即物的な(achliche)精神的実体(Geistesgebilde)、すなわち芸術(Kunst)と科学(Wissenschaft)を考えることができる。もちろん、芸術や科学も、一般的に、人間の共存(Zusammensein)なしには成り立たない。その意味で、この二つの精神的実体は社会的かつ人間的に決定される。しかし、その起源(Entstehung)と発展(Entwicklung)、そして現実的存在性(Wirklichsein)が、人間の共存(Zusammensein)と共同作業(Zusammenwirken)に負っているとしても、個々人の、あるいは社会的な人間の活動(Tun)や知識(Wissen)とは独立した(unabhängig)「形成されたGebildetes」ものとして、すでに「準恒久的(quasi-ewiges)」な現存在となっているのが、これらのものの特徴である。これは、これらの即物的実体(sachlichen Gebilde)を、人間の社会的行為に基づく社会的な精神的実体と区別するものである。即物的精神的実体、その創造(Schöpfung)と発展(Entwicklung)、が、今や協成社会団体の現存在の究極的価値を決定している。共同社会団体(Gemeinschaft)では、個々人は社会的全体のために自分の利益や、止むを得ない場合には自分の命をも犠牲にせざるを得ず、実際に自ら進んでそうするのだが、協成社会団体(Körperschaft)では、そのような犠牲は社会的全体のために直接払われるのではなく、自分自身の意思で芸術や科学のために払われるのである。共同社会団体(Gemeinschaft)では芸術、特に科学は露骨に権力のために(zu bloßen Machtzwecken)使われることが多いが、協成社会団体(Körperschaft)では、芸術や科学それ自体が目的(Selbstzweck)である。さまざまな社会制度は、直接的にも間接的にも、この最高の目的を達成するための手段としての機能のみを持つ。従って、協成社会団体(Körperschaft)にあるものはすべて、社会的で客観的な精神(Geistes)の維持(Erhaltung)とさらなる発展(Weiterbildung)の観点から判断される。芸術や科学を純粋な意味での「文化(Kultur)」と表現するならば、協成社会団体(Körperschaft)の究極的な存在目的を決定するものは文化、あるいは文化的価値(Kulturwert)である。このように、協成社会団体(Körperschaft)の本質は「文化団体(Kulturverband)」を形成しているという事実に表れている。
42106 従って、芸術家協会や科学者協会を協成社会団体的団体のひな型(Muster)として考えることもできる。しかし、この二つだけでは、協成社会団体について正しく理解することはできない。というのも、このような類型の団体は、もはや純粋な形の協成社会団体的要素を含まないことや、さまざまな要素が混在しているという事実を別にすれば、真に協成社会団体団体の構成員が、その人格と存在の全体性をもって協成社会団体的全体に属しているのとは対照的に、その構成員は、もともと当該芸術的または科学的目的との関係においてのみ構成されているからである。さらに、真の協成社会団体は、芸術家協会や学術団体(Verbandes von Gelehrten)の範囲をはるかに超えるだろう。個々人だけでなく、複数の下部団体で構成されている場合は特にそうである。このような包括的(umfassenden)で複雑な形式の協成社会団体的団体では、決定的な要因は常に究極的で包括的な普遍(Allgemeine)であることに変わりはない。従って、構成する下部団体(Teilverbände)は本質的に、究極的な普遍総体の現存在目的によって条件づけられ、決定される。従って、それらもまた、協成社会団体の形式を持つ。この場合、協成社会団体は「複数の協成社会団体からなる協成社会団体」として登場する。
42107 協成社会団体的団体の現存在を支える社会関係(soziale Beziehung)は、その主な特徴において「共同体化(Vergemeinschaftung)」である。しかるに、協成社会団体の現実の根拠(Wirklichkeitsboden)として機能するこの共同体化(Vergemeinschaftung)は、共同社会団体(Gemeinschaft)を支える共同タイ体化とは異なり、協成社会団体は主として「価値合理的な(wertrational)」、直接的に調和した関係として形成されるのに対し、共同社会団体は原則として「非合理的な(irrational)」、すなわち情緒的(affektuell)あるいは伝統的な色彩を帯びている。協成社会団体を構成する個々人は、内なる結びつき(Verbundenheit)の中で共に生きており、その行為(Handlungen)や態度(Gesinnungen)は、客観的精神の無条件の価値を明確に意識的に信じることによって基本的に決定される。そう、協成社会団体を構成する個々人は最終的に、自からの共存(Zusammenseins)の目的(Ziel)を、客観的な文化的内容(Kulturgehaltes)のさらなる発展(Weiterbildung)に置いており、すべての努力はこの目的(Ziel)に向けられている。この価値合理的に決定された共同体化(Vergemeinschaftung)は、今や、それによって構成される協成社会団体的団体の真の現実的存在性を支えている。しかし、それでも個々人の存在が現実性を失うことはなく、これが協成社会団体の構造が共同社会団体の構造と本質的に異なる点である。逆に、協成社会団体における個人の(individuelle)現存在は、他の個々人(Einzelnen)との結びつきが緊密であればあるほど、またそれによって協成社会団体的全体の底礎の連関(Fundierungszusammenhang)に参加していればいるほど、自らの現実的存在性(Wirklichsein)をよりはっきりと明らかにする。というのも、文化的価値、とりわけ芸術的創造(Schöpfung)を生み出し、さらに発展させるには、その性質上、より深い個性(Individualität)ととりわけ専門化された活動(Tätigkeit)が求められるからだ。個性と自己意識(Selbstbewußtseins)の発達(Entwicklung)は、共同社会団体と同様に協成社会団体においても必要不可欠である。こうして協成社会団体は、明確な自己意識を持ち、さまざまな方向に特化した個性(Persönlichkeit)を持つ複数の人間が、現実に真にそこに存在する、社会性(Sozialität)の特異な(eigentümliche)世界を表している。こうした専門化された個性(Individualitäten)があるからこそ、必然的に補完的で共同社会団体的な連関に立ち、真の全体としての協成社会団体的団体を形成しているのである。
42108 協成社会団体の設立(Zustandekommen)に関する限り、ここに最も大きな違いが現れる。また、例えば芸術家協会(Künstlerbundes)や科学研究者協会(Vereines von wissenschaftlichen Forschern)の設立(Begründung)のように、この目的のためにあらかじめ決められた特別な意味形成行為(Akt der Sinnbildung)を通じて、計画的に協成社会団体的団体を設立することもできる。しかし、より多くの場合、すでに存在していた別の類型の団体が、歴史的な発展の過程で協成社会団体に変化するというのも事実である。この協成社会団体の歴史的な出現(Zustandekommens)は、二つのプロセスで起こりうる。共同社会団体(Gemeinschaft)が協成社会団体へと自然に発展していく場合と、利益社会団体(Gesellschaft)的普遍が真に存在する協成社会団体的全体へと深化していく場合である。従って、協成社会団体は、それに先立つ複数の個々人によって計画的に実行された意味形成行為の産物(Erzeugnis)であることもあるが、それ以上に多くの場合、超個人的な歴史的発展の結果(Ergebnis)である。

42109 ここで注目すべきは、これまで分析した三つの基本的類型の社会団体(sozialen Verbandes)は、いずれも、概念的に純粋に閉じられた(abgeschlossener)団体として登場することはないということである;言い換えれば、純粋に共同社会団体的な、純粋に利益社会団体的な、あるいは純粋に協成社会団体的な団体で、そこに他の類型の団体の要素(Moment)がひとつも加わっていないものは、現在ところ存在しない。これまで考察してきたさまざまな類型の純粋な社会関係(sozialen Beziehung)が、概念的に抽象化されたものでのみ考えられるように、現在存在するあらゆる団体は、これら三つの団体類型の混合形式(Mischform)、あるいは中間的類型(Zwischentypus)に他ならない。そして、特にその際立った特徴(auszeichnende Merkmal)に焦点を当てることで、三つの基本類型のうち、その一つの類型名を特定の団体に適用する。 42110 また、具体的な団体は、その歴史の中で、その特有の内部構造の多くの(manche)変容を遂げることも明確にしておかなければならない。一般に社会団体(sozialen Verbandes)の現実的存在性(Wirklichsein)が本質的に相対的で歴史的な概念(Begriff)であるのと同様に、団体の内部構造のあらゆる類型もまた、歴史の中では必然的に相対的で変化しやすい(wandelbar)。ヘーゲルによって弁証法的に(dialektisch)解明され、その後テンニエスによってある程度(zum Teil)社会学的に追求された、共同社会団体(Gemeinschaft)から利益社会団体(Gesellschaft)へ、そして協成社会団体(Körperschaft)へと発展していく団体類型の道筋は、人間の社会性の変容の最も普遍的な特徴(Züge)を示しているが、しかし、決して固定した規則性(Gesetzmäßigkeit)として理解されてはならないことは認めなければならない。この制限を常に念頭に置きながら、我々は共同社会団体(Gemeinschaft)が団体の生命の第一段階であると言うことができる。この段階では、利益社会団体(Gesellschaft)の段階を経て発展するか、あるいは直接的に、第三の、そして最後の団体類型である協成社会団体(Körperschaft)へと発展する。この協成社会団体は今、自らを利益社会団体に戻すことができる;しかし、協成社会団体も利益社会団体も、共同社会団体の原始的な構成(Konstitution)に戻ることはできない。
42111 しかし、現在の団体形式としての協成社会団体(Körperschaft)は、今日(執筆:1932年)では、非常に未発達に見える傾向にあることを、我々はもちろん念頭に置かなければならない。芸術家協会(Künstlerbünden)や科学者協会(Vereinen von wissenschaftlichen Forschern)のような、偽りの協成社会団体的構成の団体を除けば、近代的な団体類型は主に利益社会団体(Gesellschaft)の特徴を示している。真に協成社会団体的な構造を持つ社会団体(sozialer Verband)が客観的かつ本当に(wirklich)存在しえた、そして実際に存在した人間の現存在の状態を、我々は過去の歴史において時折見出すだけである。例えば、ドイツ観念論(Idealismus)の最盛期、「文化国家の理念(Idee des Kulturstaates)」がある程度現実味を帯びていた時代には、国家はそれに見合った高度な協成社会団体的構造を持っていた。エドゥアルト・ガンス(Eduard Gans)によって編集されたヘーゲルの法哲学講義の補遺には、この理念的な国家形態(Idealform des Staates)について次のような記述がある:「新しい国家の本質は、普遍性(Allgemeine)は特殊性(Besonderheit)の完全な自由と個々人の福祉(Wohlergehen)とに結びついていること、家族と市民社会(bürgerlichen Gesellschaft)の利益は国家を形成するために総合しなければならないこと、しかし、目的の普遍性は、その権利を保持しなければならないという特殊性の知識と意志なしには進行しないということである。従って、普遍性は活性化されなければならないが、他方で主観性(Subjektivität)は完全かつ生き生きと展開されなければならない1961」当時の「近代的(modernen)」国家の本質(Wesens)に関するこの記述は、確かにいくつかの点で「事実の理念化(Idealisierung des Faktischen)」である面もあるが、当時、社会団体の協成社会団体構成(Konstitution)への強い傾向があったことは否定できない。
42112 しかし、国家(Staat)はその後、歴史的・利益社会団体的現存在の究極的目標(Ziel)を自らの内部に移し、その姿勢を通じて文化的価値を創造・発展させるという根本的な課題を次第にないがしろにしていったため、協成社会団体的特異性(Eigentümlichkeit)を失い、自らを再び利益社会団体的構造へと変質させていった。我々が生きている現代の社会性の世界は、特異な(eigentümliches)図式(Bild)を示している。つまり、内部が利益社会団体的に構成されているいくつかの国家が、社会化(Vergesellschaftung)の連関(Zusammenhang)の中で、自己中心的な立場に固執しながら、共に立っている、という図式である。しかし、先の世界大戦以降、国家間の共同体化の(vergemeinschaftenden)関係(Verhältnisses)を築こうとする努力が、まぎれもなく行われてきた。この最新の傾向の中に、協成社会団体的に構成され、単一に組織化された「世界団体(Weltverbande)」の構築の萌芽を見ることができるのか、それともこれが世界の完全な崩壊(Zusammenbruch)への一時的な慰めの(tröstliches)序曲にすぎないのか、それは、未来の人類史だけが答えを与えてくれる問題である。(訳者注;国際連盟は、1920年に既に設立され、1926年9月8日にヴァイマル共和政下のドイツ国が国際連盟に加盟しており、ドイツ語ではVölkerbundというので、Weltverbandとは別の団体として使い分けられていると思われる)

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第五章 社会団体の実質的な(sachhaltigen)社会的実体(sozialen Gebilden)との外的連関


第二十二節 社会的実体の構造連関(Strukturzusammenhang)

52201 社会団体論の基礎を構築する試みにおいて、我々はまず、対象物をそれに付随する事実的契機(sachhaltigen Momenten)から概念的に分離し、次に、この分離された状態における対象物の存在様式(Seinsart)に注目した。前章で行った社会団体の内部構造の分析は、この分析的思考過程の最終的な部分(Glied)である。法(Recht)あるいは宗教(Religion)のような、社会団体と関連する事実的な実体に言及して社会団体を説明することもあるが、それは主として、社会団体の内部構造のさまざまな類型の特殊性を際立たせることを目的としている。これまでのところ、我々の議論は基本的に「純粋な社会性(reinen Sozialität)」という科学的技法上の(wissenschaftstechnisch)限定された範囲内で行われてきた。
52202 この分析的調査方法は、主にジンメル(Simmel)の「形式社会学(formalen Soziologie)」の手法に負うところが大きい。「社会化の形式(Form der Vergesellschaftung)」というジンメルの概念は、曖昧で誤解を招きやすい面もあるが、社会学(Soziologie)の対象範囲(Gegenstandsbereich)としての社会分野(Region des Sozialen)を、他の社会科学の(Sozialwissenschaften)対象分野(Gegenstandsgebieten)と明確に区別できる境界線を最初に設定したのは(訳者注:Region、Gebietenを「分野」、Sphäreはより広い「領域」と区別して訳している)、間違いなく彼の大きな功績である。ジンメルの「社会化の形式」という概念を、一方では現象学的意味での分野的存在(regionales Wesen)として解釈し、他方では因果的に決定された精神的「相互作用(Wechselwirkung)」ではなく、複数の人間の互いに向けられた社会経験(sozialer Erlebnisse)の構造連関として理解することによって、我々は前述の「純粋な社会関係(reinen sozialen Beziehung)」という概念に到達したのである。ちなみに、社会関係が属する社会性の単なる事実的領域(faktischen Sphäre)の上に、我々はより高次の理念的対象を見出し、そこで初めて、人間相互間に形成された全体性(Ganzheit)としての社会団体(sozialen Verbandes)の独立した現存在を確立したのである。しかしこの点で、我々はジンメルの社会学的見解から基本的に逸脱している。とはいえ、我々はジンメルの形式社会学の方法論的基本原理を、ある重要な点において採用して、その主要な特徴において保持しているが、それはすなわち、社会学的認識は、純粋に社会的な範囲(Bereich)から事実性(Sachhaltigen)を科学的技法(wissenschaftstechnische)で排除することによってのみ、まったく可能になるという基本原理である。社会化(Vergesellschaftung)の「質料(Materie)」とその「形式(Form)」を方法論的に分離するというジンメルの基本的な考え方は、徹底的に特定された形で、これまでの議論の指針のひとつとなった。
52203 しかしながら、ここで強調しておかなければならないのは、我々にとってこの社会科学的(sozialwissenschaftlichen)調査の分析手続きは目的(Zweck)のための単なる手段であるのに対して、ジンメルはそれを社会学的(soziologischer)調査の最終的な目標(Ziel)とみなしているということである。ジンメルは最終的に、社会学の対象を他の社会科学の対象から切り離すという任務を自らに課したが、それによって彼は方法論的に、科学的技法の観点からのみ切り離すことができる、さまざまな対象分野の間の実際かつ本来の連関(Zusammenhang)をほとんど考慮しなかった。これとは対照的に、我々の研究の最終的目的(letzte Zweck)は、社会性の純粋な分野を、実質的な(sachhaltigen)精神形成体(Geistesgebilden)から概念的に分離するだけでなく、まさにそれらとの生きた連関において論じ、記述することである。「現実科学(Wirklichkeitswissenschaft)」としての社会学の究極の課題は、社会的なものと実質的なものとの連関を総合的に論じることによってのみ、完全に達成されるからである。
52204 もちろん、社会的現実全体の特定の下位分野(Teilgebietes)を概念的に強調することは、あらゆる社会科学にとって不可欠な方法であるが、この現実の莫大な内容を全体として把握し、そのさまざまな形(Gestalten)を個別の科学(Einzelwissenschaft)の中で探求することは、絶対に不可能である。この点で、ディルタイ(Dilthey)はジンメルと完全に一致している。ディルタイは言う:「個別の科学はすべて、歴史的・社会的現実から部分的な内容を抽出する作為によってのみ生まれる1981」しかし、あらゆる人文科学や社会科学の認識が向けられるこの歴史的・社会的現実は、さまざまな社会的実体や実質的実体(sachlicher Gebilde)の集合体としてその全体を現すのではなく、その諸側面や諸相(verschiedenen Seiten und Phasen)をまず概念的に分離して考えなければならないのではあるが、最初から具体的な全体性(Ganzheit)を形成している。それゆえに、概念的に孤立した部分的要素の分析的議論だけで満足しようとするならば、社会科学がその対象の完全な解明(Aufklärung)を達成することは決してできないのである。むしろ、社会科学(Sozialwissenschaften)の本質的な任務は、その対象の概念的な解剖が行われた後、現実の中で我々に向き合う社会的現実の分離された部分的な要素の相互連関(wechselseitigen Zusammenhang)を総合的な考察(Betrachtungsweise)で解明することでなければならない。だからこそ、ジンメルの分析手法の使用は、我々の議論のための最初の準備段階にすぎないのであり、最終的には、歴史的・社会的現実を、その具体的で生きた連関の中で、分析的に得られたばかりの視点から理解することに、社会理論的調査の目標があると考えるのである。
52205 従って、我々は今、社会団体論の基礎づけとなる分析的な道筋を離れ、社会団体が他の、とりわけ歴史的・社会的現実の実質的な(sachhaltigen)構成要素(Bestandteilen)とどのような総合的な連関を持っているかに目を向けなければならない。とりわけ、社会的現実の下位分野(Teilgebiete)が互いに「構造的に」結びついている具体的な連関の本質(Wesen)、すなわち社会的実体の「構造連関」の本質を徹底的に解明する必要がある。我々の研究(Untersuchung)では、構造連関(Strukturzusammenhanges)という概念をしばしば用いてきたが、これまでのところ、その意味(Bedeutung)と範囲(Tragweite)についての徹底的な説明は省いてきた。この「構造(Struktur)」という考え方(Gedanke)、つまり精神世界はその本質において、概念的に区別可能な構成要素が内的に結びついた全体として理解されなければならないという考え方は、ウィルヘルム・ディルタイによって初めて把握され、人文科学(geisteswissenschaftlichen)のすべての研究の基礎として確立された。こうして、社会団体論の具体的な問題についての議論は、ジンメルの形式社会学の分析的手法の助けを借りて始まったが、最後に、ディルタイの構造論(Strukturlehre)の総合的研究手法(synthetischen Betrachtungsweise)の助けを借りて結論づけることとなる。

52206 ディルタイの構造概念(Begriff der Struktur)は、何よりもまず、彼の「記述心理学(beschreibenden Psychologie)」の基本原則の一つであり、その本質は、伝統的な「説明心理学(erklärenden Psychologie)」との厳密な対比においてのみ解明される。
52207 説明心理学の特徴は、内的精神生活の科学という性格を主張しながらも、自然科学から取り入れた因果律(Prinzip der Kausalität)ですべての精神(seelischen)現象(Erscheinungen)を理解できるようにしようとしていることである。一般に、説明科学(erklärende Wissenschaft)とは、ある分野の現象を因果関係(Kausalzusammenhängen)という観点から理解するために、明確に定義された限られた数の要素を用いるものである。従って自然科学は、その性質上、常に説明科学として構成されていおり、例えば物理学のように、自然界を、明確に定義された「原子(Atome)」の機械的運動の複合体として因果的に説明しようとするものである。因果的説明の手続きは、自然科学の使命を果たすために絶対不可欠であるのは、自然の真の姿は、我々が直接手に入れることはできず、それは我々に「外的に(äußerlich)」与えられるのみだからである。その結果、自然科学者は常に、まずいくつかの「仮言(Hypothesen)」を立て、その仮説の助けを借りて、自然事象(Naturerscheinungen)を、ある種の不可逆的要素の因果的な作用(Wirkungen)と反作用(Gegenwirkungen)の連続として結びつける必要に迫られる。だからこそ、自然もまた、科学的説明に対して、その要素の連関として自らを提示するのである。しかし、この因果連関としての自然界の連関は、仮説によって「構築された(konstruierter)」連関にすぎない。したがって自然科学は、その本質からして「構成的科学(konstruktive Wissenschaft)」なのである。
52208 伝統的な心理学は現在、その基本原理を説明的・構成的自然科学の手法(Verfahren)から得ている。精神生活(Geistesleben)の研究においては、とりわけ最も単純な精神的要素(seelische Elemente)のいくつかを確立し、次に因果律によってこれらの精神的要素を結びつけることで、精神生活全体を機械的に構築し説明することができる。「心理学も、物理学や化学が物質世界(Körperwelt)を説明するのとまったく同じように、精神世界(seelischen Welt)の構成をその要素(Bestandteilen)、力(Kräften)、法則(Gesetzen)に従って説明したいと考えている2001」このため、ディルタイは説明心理学(erklärende Psychologie)を「構成的心理学(konstruktive Psychologie)」とも呼んでいる。
52209 この伝統的で自然科学志向の心理学の根本的な誤りは、その対象である人間の精神生活(Seelenlebens)を、議論の余地のない証拠によって我々に直接与えられているにもかかわらず、我々には間接的にしか到達できない対象を調査するのに適した方法によってしか捉えようとしないという事実にあることは明らかである。自然界とは明らかに対照的に、精神の世界はその直接的な形において、最初から必要な一体性(Einheit)を形成している。自然事象(Naturerscheinungen)の連関(Zusammenhang)は、自然科学的な手続きを通じてのみ構築される連関である。それとは対照的に、精神生活の連関は、最初から我々の経験に直接、本来的に「与えられ(gegeben)」ている。我々に直接与えられている精神的現実は、生きている(lebendige)全体性(Ganzheit)であり、内省的に分析された精神活動(seelischen Tätigkeiten)の段階は、同じ全体性の異なる側面を形成しているにすぎない。厳密に言えば、精神(Geist)はさまざまな構成要素(Bestandteile)に分解される前に、その構成要素の「構造的(strukturellen)」連関で与えられる。つまり、「因果連関(Kausalzusammenhang)」が自然界の原理であるのに対し、「構造連関(Strukturzusammenhang)」は精神の世界(Geisteswelt)の原理なのだ。それにもかかわらず、説明心理学が自然科学的方法を使って精神生活(Seelenleben)を探求しようとするならば、その結果は精神的なものの不幸な自然化(Naturalisierung)でしかない。
52210 記述心理学は、精神生活(geistigen Lebens)の本来の構造連関(Strukturzusammenhang)を、我々に与えられたまま、あるいは我々が自身の中で経験したままに、記述するという任務(Aufgabe)を自らに課している。この心理学は、「全ての進化した人間の精神生活(Seelenleben)において、一様に生じる構成要素(Bestandteile)と連関(Zusammenhänge)を、付加されたり推測されたりすることなく、経験された単一の連関の中でどのように結びついているかを記述する(Darstellung)」ことを試みている2011。精神生活(Geistesleben)は、この必然的な構造連関の中に現れ、その構成要素は科学の方法によってのみ分解して説明することができる統一された全体(Ganze)を最初から表している。その結果、記述心理学は必然的に分析的(analysierenden)あるいは解剖的(zergliedernden;分析的)な道を最初にたどらなければならない。従って、記述心理学は「分析的心理学(zergliedernde Psychologie)」でもある。記述心理学の基本的な手順は、仮説を媒介とした構築(Konstruktion)ではなく、もともと与えられた全体性から行われる分析(Zergliederung;解剖)である。「この心理学は、それゆえ、もともと、そして常に生活(Leben)そのものとして与えられている連関の記述と分析(Analysis)である2012
52211 従って、人文科学的(geisteswissenschaftliche)心理学が原則として用いる記述の手法(Verfahren)は、必然的に分析(Analyse)あるいは解剖的分析(Zergliederung)の手順を伴う。「分析とは、あらゆる場所の複雑な現実を解剖分析することである。分析によって、現実の中で接続されて構成要素が分離される2013」従って、ディルタイは説明心理学の主な特徴を、その総合的(synthetischen)あるいは構成的(konstruktiven)な筋道(Gang)にあると見ている2014。しかし、ディルタイの記述心理学の最終的な目標(Ziel)を、生活全体の単なる分析(Analyse)や解剖的分析(Zergliederung)に求めるのは大きな誤解である。なぜなら記述されるべきものは、間違いなく真の「生の統一体(Lebenseinheit)」だからである。従って、記述心理学の任務(Aufgabe)は、単なる解剖的分析(Zergliederung)にあるのではなく、精神の構造連関そのものを提示することにある。ディルタイはこうも言う:「この構造を把握することによって、記述心理学は、心的系列(psychischen Reihen)を全体に接続する連関を明らかにする。この全体が生(Leben)である2021。この生きた全体を構成要素に解剖的分析をしなければならないのは、このような全体を科学的に理解し説明する手段が他にないからである。解剖的分析の手法(Verfahren)が意味(Bedeutung)と正当性(Berechtigung)を持つのは、科学的技法(wissenschaftstechnisch)で解剖的分析された構成要素がもともと互いに結びついている生きた連関を明らかにするために必要な方法である限りにおいてのみである。
52212 ディルタイにとっても、分析は構造的に連関した精神的現実(geistigen Wirklichkeit)の総合的解明(synthetischen Aufklärung)の準備段階にすぎない。社会団体(sozialen Verbandes)の具体的な存在様式(Seinsart)を論じる際に、ジンメルの形式社会学(formalen Soziologie)の絶対的(schlechthin)分析的方法に対抗して、まさにディルタイに倣い、総合的な調査方法を追求したいと考えるのは、ディルタイの心理学の基本的考え方(Grundauffassung)、とりわけ彼の構造論(Strukturlehre)の本質(Wesentliche)を、単純な分析や解剖的分析ではなく、まさに「総合的(synthetischen)」な考察の仕方(Betrachtungsweise)の中に見出すからに他ならない。
52213 しかし、ディルタイの記述心理学の最大の利点は、その最初から、「進化した(entwickelte)」精神生活(Geistesleben)をその対象として解明するという目標を追求している点にある。説明心理学(erklärende Psychologie)が普通は「初歩的(elementaren)」な心理現象(psychischen Erscheinungen)の扱い、特にその「実験的(experimentellen)」な扱いに関心を寄せるのに対し、記述心理学(beschreibende Psychologie)は、人間の複雑な精神生活(Seelenleben)をその生の一体性において明確に理解することを目指している。実際、ディルタイにとって記述心理学とは、人間の複雑な内面生活(Innenleben)の科学であるだけでなく、同時に、歴史的・社会的現実の中で対象化された客観化された(objektivierten)精神(Geist)を対象とするすべての人文科学の基礎科学を意味する。歴史的・社会的現実のように複雑な対象分野(Gegenstandsgebiet)は、記述心理学(beschreibende Psychologie)が扱う解剖的分析的記述の方法を通じてのみ解明されるからである。従って、社会的・歴史的現実の人文科学的研究においては、まず対象を、それが構成する個々の「目的体系(Zwecksysteme)」に分解しなければならない。経済生活(Wirtschaftsleben)、法(Recht)、宗教(Religion)などがそのような目的体系(Zwecksysteme)を形成しているが、現在では、その同種性ゆえに、それらの相互関係を解剖的分析(Zergliederung)を行うことができる。この社会的目的体系の連関は、要するに、当該社会生活の中で相互作用する人間の精神的な連関に他ならない。主観的な精神生活(Seelenlebens)の精神的連関(geistige Zusammenhang)は、社会的・歴史的現存在という客観化された精神生活(objektivierte Geistesleben)に移される。従って、社会的目的体系の連関は、究極的には「心理的(psychologischer)」なものである。それは、主観的な精神生活(Seelenlebens)の心理的連関と同じように、構造連関(strukturellen Zusammenhang)を形成する。その結果、人文科学はその基礎として記述心理学を必要とする。記述心理学は、「精神生活(Seelenlebens)の力強い現実全体(ganze mächtige Wirklichkeit)を記述し、可能な限り分析(Analysis)する2031」ものであり、一般社会科学の基礎科学である。
52214 このように、構造連関という概念は、ディルタイによる記述心理学の基礎づけの主要な目的のひとつをなす論究(Erörterung)であり、人文社会科学の全分野においてきわめて重要な応用がある。とりわけ、構造論(Strukturlehre)はすべての人文科学(Geisteswissenschaften)の基礎なのである2032。従って、社会的・歴史的な現存在の人文科学研究は、常に構造連関の観点から行われなければならない。

52215 ディルタイが 「人文科学(Geisteswissenschaften;精神科学)」の概念を実際に何と解釈しているのか、それを見極めるのは我々次第だ。ディルタイによれば、人文科学とは一般に「人間性(Menschheit)」を対象とする科学である。人文科学の本質は、ここでもまた自然科学とははっきりと対照的な形で明らかにされている。人間性(Menschheit)は、感覚的知覚(sinnliche Wahrnehmung)において把握できる限りにおいて、我々にとって物理的事実を意味する。従って、この段階では、人間性は自然科学的認識にしか到達できない。例えば、人間の肉体の自然科学として生理学(Physiologie)を正しく構築することもできる。人間(Menschliche)を単に自然なもの(etwas Natürliches)とみなし、自然科学の対象として扱うのであれば、ただ人間が人間(Menschlichkeit)としての究極の意味(letzten Sinn)を失うだけのことになる。単なる肉体的現存在である人間は、他の生物と根本的な区別(Unterschied)はない。それに対して、人間性(Menschlichkeit)の本質は、まさに内的に「経験(erlebt)」するという事実にある。従って、人間(Menschlichen)を理解することは、最初は「経験する(Erleben)」ことによって可能となる。しかし、内的に経験されたことは外的に表現され、それはさまざまな生の表現(Lebensäußerungen)において「表出(Ausdruck)」になる。さらに、表出(Ausdruck)そのものには、他者に理解されるという本質的な目的がある。生の表現(Lebensäußerungen)を通して表出(ausgedrückte)される人間の経験は、「理解(Verstehen)」という必要不可欠な相関関係(Korrelat)を持っている。経験(Erleben)、表出(usdruck)、理解(Verstehen)のこの相関的連関(korrelative Zusammenhang)こそが、人間性(Menschheit)を単に人間性として理解することを可能にしているのだ。この連関においてのみ、自己自身の人間性だけでなく、他者の人間性も科学的認識(Erkenntnis)の対象となり得るのである。
52216 経験(Erleben)、表出(Ausdruck)、理解(Verstehen)の連関(Zusammenhang)は、明らかに精神の世界(Welt des Geistes)特有のものである。だからこそ、それを直截に「精神的連関(geistigen Zusammenhang)」と言えるのである。従って、人間性(Menschheit)は、この精神的連関の中で明らかにされるとき、そしてそのときにのみ、人文科学(Geisteswissenschaften)の対象となるのである。「経験、表出、理解の連関が、人文科学の対象として人間性を存在させる固有の手法(Verfahren)なのである2041」従って人文科学とは、生活(Leben)、表出、理解の連関における人間性を啓発し、記述する科学である。「ある科学分野が人文科学に属するのは、その対象が、生活、表出、理解の連関に基づいた行動を通じて我々に到達できるようになる場合だけである2042
52217 もしある科学が、その対象を生活、表出、理解の連関の中で理解する(begreift)とき、このように人文科学として理解されるのであれば、人文科学は人間の内的精神生活の科学にとどまり続けることがあってはならない。むしろ、その対象領域(Gegenstandssphäre)は歴史的、社会的現実の全分野(ganze Gebiet)を包含しなければならない。この現実の中で外的に知覚可能な(wahrnehmbaren)事実(Tatbestände)は、その単なる外在性(Äußerlichkeit)において、おそらく自然科学的認識の対象にもなりうるが、それが生活の対象化(Lebensobjektivationen)として、一度経験した、あるいは何度でも経験できる人間の精神活動の表出として、すなわち人間的なもの、意味のあるものとして理解される限りにおいて、人文科学の対象である。人文科学の実際の分野(Gebiet)は、外的なものだとさえ言える。「音楽を形成する音も、絵画を描くキャンバスも、正義が執行される法廷も、刑罰が下される刑務所も、本質的にはその素材(Material)でしかない2051。しかし、あらゆる精神科学的な営み(Operation)の特異性(Eigentümlichkeit)は、この外的な素材を単にそのようなものとして扱うことでは決してなく、この素材が精神的活動(geistigen Tätigkeiten)を通じて獲得した「意味(Sinn)」とのみ関係しているという事実にある。
52218 従って、人文科学が記述し、解剖的分析をしようとする精神は、主観的に経験できる精神だけでなく、外的な素材において客観化され、それゆえに内部から理解できる精神でもある。それは、「モンテスキューが『法の精神(vom Geist der Gesetze)』について、ヘーゲルが『客観的精神(objektiven Geist)』について、あるいはイェーリングが『ローマ法の精神(Geist des römischen Rechts)』について語った」意味での客観的精神である2053。ディルタイ自身、客観的精神の真の意味について次のような美しい解明をしている:「個々人の間に存在する共通性(Gemeinsamkeit)が、意味世界(Sinneswelt)においてそれ自身を客観化した多様な形式(Formen)を、私は客観的精神と理解している。この客観的精神において、過去(Vergangenheit)は我々にとって永久不変の現在(Gegenwart)である。その領域は、生活様式、交流(Verkehrs)形式から、社会が形成してきた目的の連関、そして慣習、法、国家、宗教、芸術、科学、哲学にまで及ぶ。天才の作品はまた、ある時代とその状況における思想、心理的生活そして理想の共通性(Gemeinsamkeit)を表しているからだ。この客観的精神の世界から、我々の自己は幼児期から栄養を受ける。それはまた、他者への理解や他者の生の発現(Lebensäußerung)が行われる媒体でもある。精神が自らを対象化したすべてのものには、我と汝に共通する何かが含まれているからである2054
52219 人文科学の対象である客観的な精神は、主観的な精神と同じように、そのさまざまな構成要素(Bestandteile)の構造連関の中で必然的にその本質(Wesen)を現す。このように、構造連関は人文科学全般の基本原則を構成している。主観的な精神生活(Seelenlebens)のさまざまな構成要素が、構造的に連関したした全体性(Ganzheit)の成員(Glieder)としてのみ存在するように、経済生活、法、宗教といった客観的精神のあらゆる体系は、自己中心的な統一体を形成しており、その本質的な構成(Konstitution)は、構造連関の原理によってのみ解明できる。「個々人と同じように、あらゆる文化体系、あらゆる共同体(Gemeinschaft)は、それ自身の中に中心点(Mittelpunkt)を持っている2061
52220 この構造的に連関した客観的精神は、今や「理解(Verstehens)」の手法(Verfahren)を通じて、つまり我々の用語で言えば、意味的直観(sinnhafte Anschauung)の手順を通じて、我々が把握することができる。自我の主観的経験(Erlebnisses)の構造連関は、我々一人ひとりが直接把握することができるが、過去に客観化され、歴史的に固定化された精神は、外的な記号(Zeichen)によってのみ意味づけられ、理解することができる。理解(Verstehen)とは、外部から与えられた記号から、内的なもの(Innerliche)、意味(Sinn)、その表現(Äußerung)を認識する(erkennen)過程(Vorgang)である。(2062)従って、理解は、歴史的・社会的現実の人文科学研究(Erforschung)の基本的な方法(Methode)を形成する。客観的な人文科学(Geisteswissenschaft;精神科学)の任務(Aufgabe)は、究極的には、歴史的・社会的現実の中に客観化された精神(Geist)を、理解の手法(Verfahren)を通じて、必要不可欠な構造連関の中で理解し、記述することにある。
52221 しかし結局のところ、構造連関とは、客観的精神の個々の体系だけでなく、歴史的・社会的現実がその具体的全体性(Totalität)において明らかにされる、必要不可欠な存在規定(Seinsbestimmung)として理解されなければならない。特定の宗教や慣習(Sitte)、特定の法体系や経済体系(Wirtschaftssystem)など、客観的精神の諸体系は、それ自体を「中心とした(zentrierten)」統一性のみに現れるのではなく、それらが一体となって、さらに広範で、同じように構造的に構成された全体性を形成し、その従属的あるいは比較的独立した構成要素がそれらを構成しているのである。特定の文化的特徴に満ちた時代(Zeitalters)の精神生活、あるいは特定の政治体制に組織された人々の精神生活を観察するとき、この事実(Sachverhalt)が明確に理解できる。というのも、このように明確に識別可能な(feststellbaren)民族精神(Volksgeist)や現代精神(Zeitgeist)があれば、さまざまな社会的生活領域が決して機械的な共存関係にあるのではなく、むしろ互いに依存し合う必要な関係(Abhängigkeitsverhältnisse)にあることにすぐに気づくからだ。従って、例えば「ギリシアの民族精神(Volksgeist)」や「ロマン主義の時代精神」は、明らかに、芸術、哲学、宗教、法学、経済学といった、異なる、同じような意味で何らかの特異な「色彩を帯びた(gefarbter)」下位分野(Teilgebiete)の単なる集積ではなく、概念的に(begrifflich)区別可能な(unterscheidbaren)多様な(mannigfaltigen)精神形成体(Geistesgebilde)が互いに構造連関した、一様に(einheitlich)構造化された(gegliederte)全体(Ganzheit)であることが最初から証明されている(erweist sich)。
52222 このような統一された現代精神(Zeitgeist)や民族精神(Volksgeist)のさまざまな下位分野(Teilgebieten)の間には、本質的な相互関係(Wechselbeziehung)がある。この相互関係(Wechselbeziehung)は、例えば、広く浸透している社会的見解(sozialer Anschauungen)の変化(Änderung)が、しばしばそれに対応する政治体制の変化を伴うという事実に表れる一方、新しく創られた政治組織は、それに対応する政治思想(Ideologie)の強化を伴う。しかし、このような社会的下位分野(sozialen Teilgebiete)の相関関係は、ある下位分野の変化を「原因(Ursache)」として、他の下位分野の変化をその「作用(Wirkung)」として決定するような、単なる因果連関(Kausalzusammenhang)として理解されてはならない。異なる現象(Erscheinungen)間の因果関係は、「原因」または「作用」として機能する各事実が、最初から独立した現存在であり、他の事実の現存在とは独立して決定できることを前提としている。他方、歴史的・社会的世界のさまざまな下位分野(Teilgebieten)は、実際には作用(Wirkung)と反作用(Gegenwirkung)の因果関係に立つことはできない。なぜなら、先ほど見てきたように、それらの本質は、同じ客観的現実の異なる側面(Seiten)や局面(Phasen)を形成しているにすぎないからである。
52223 従って、精神的現存在の概念的に区別可能な構成要素(Bestandteile)は、互いに因果関係にあるのではなく、構造的に関連(Verhältnisse)しており、その結果、共に生の全体性を構成するという構造論(Strukturlehre)の原則は、全体としての歴史的・社会的現実の研究においても厳格に支持されなければならない。

52224 ディルタイの構造論のこの基本的考え方から振り返ってみると、歴史的・社会的現実の一般的な構造連関における社会団体(sozialen Verbandes)の具体的な存在様式(Seinsart)を明らかにする必要性が、今さら説明するまでもなく理解できる。純粋な社会性とは、社会関係(soziale Beziehung)と社会団体(soziale Verband)を主要な型とするものであり、概念的に孤立して存在することはなく、常に他の客観的な精神的実体(Geistesgebilden)との生きた連関(lebendigen Zusammenhang)の中にのみ存在する。しかし、社会的現存在の世界についての総合的な議論においては、純粋な社会性の領域(Sphäre)が、我々の分析的調査において純粋な社会的なものから概念的に切り離された「実質的な(sachhaltigen)」社会的実体(sozialen Gebilden)と、構造的に接続された連関が、とりわけはっきりと浮かび上がってくる。従って、「純粋な(reine)」社会的実体(soziale Gebilde)としての社会団体(soziale Verband)は、「宗教」や「慣習(Sitte)」、「法体系」や「経済体系」といった「実質的な(sachhaltigen)」社会的実体との構造連関の中で、まず具体的に理解され、直感的に(anschaulich)記述されなければならない。というのも、社会団体がその真の姿を現すのは、実質的な社会的実体との構造連関においてのみだからである。
52225 社会団体と実質的な社会的実体との構造連関は、歴史的・社会的現実の全体的な存在構造の内在的原理(immanentes Prinzip)である限り、今や「内的(innerer)」なものである。しかし、純粋に社会的現存在という限定的な視点から見れば、それは「外的(äußerer)」なものと言いうる。従って、我々の目の前にある課題(Aufgabe)は、第一に社会的現実の 「総合的(synthetische)」探求(Erforschung)であり、第二に社会団体と実質的な(sachhaltigen)社会的実体との 「外的(äußeren)」連関の探求として理解することができる。その意味で、一方で社会団体のこれまでの「分析的(analytischen)」研究と、他方ではその「内的(inneren)」構造の議論と、明らかに対立する。
52226 最後に、構造連関は決して人文科学的社会科学の唯一の基本原理として理解されるべきではないことに留意すべきである。というのも、歴史的に発展し変化していく動的な段階において、客観化された精神の世界を探求しようとするならば、構造連関の原則が決定的な(ausschlaggebende)役割(Rolle)を果たすことはありえないからである。このためディルタイは、構造連関に加えて、人文科学の第二の基本概念として「作用連関(Wirkungszusammenhanges)」を設けた2081。精神世界における「作用連関(Wirkungszusammenhanges)」の認識(Anerkennung)は、人文科学研究に自然科学的な因果概念(Kausalbegriffes)を再び持ち込むことになるのではないか、という疑問を持つ人もいるかもしれない。しかし、精神的な作用連関が自然的な因果連関(Kausalzusammenhang)とは根本的に異なるのは、後者が精神世界を、時間的な連続性はあるにせよ、原理的には「価値生成(Werterzeugung)」と「目的追求(Zweckverfolgung)」の過程において叙述している点である。機械的な因果連関(Kausalzusammenhang)とはまったく対照的に、作用連関(Wirkungszusammenhanges)は精神的発展の「内在的(immanent)・目的論的(teleologischen)性格」を示している。なぜなら、個人と、個々人が共同作業をする(zusammenwirken)社会団体は、精神生活のさまざまな価値(Werte)と財貨(Güter)を創造し、この絶え間ない創造活動の歴史的過程の「担い手(Träger)」であることを示すからである。従って、その有効性(Wirksamkeit)はいかなる場合も、自然事象に基づく(prädiziert)因果的・機械的な(kausal-mechanische)有効性を意味するものではない。(2082)比喩的に言えば、歴史的・社会的現実という具体的な世界において、二つの基本原則が交差している: 同時的な(Gleichzeitigseins)水平方向では、この世界は構造連関の原理によって、経時的な(Nacheinanderseins)垂直方向では、作用連関の原理によってよって秩序づけられているのである。
52227 その結果、歴史的・社会的現実を、構造連関という静的な形だけでなく、歴史的作用連関という動的な過程においても理解し解明することが、人文科学の究極の使命(Aufgabe)となる。人文科学の基礎を築こうとした後期のディルタイが重視したのは、作用連関の原則であったとさえ言える。ディルタイ は「精神科学における歴史的世界の構成(Aufbau der geschichtlichen Welt in den Geisteswissenschaften)」の次のように述べている:「全体としての歴史的世界、作用連関としての全体、価値付与(wertgebend)、目的設定(zwecksetzend)としての作用連関、要するに創造、次にこの全体を全体そのものから理解すること、最後に、価値(Werte)と目的(Zwecke)が時代(Zeitaltern)、出来事(Epochen)、世界史(Universalgeschichte)にその中心をもつこと、これらは、目指すべき人文科学の連関が構想されなければならない視点(Gesichtspunkte)である2091
52228 しかし、我々は「体系的な(systematischen)」人文科学は、その静的で全体的な構造に従って、精神の歴史的・社会的世界を考察することを原則としなければならないという方法論的な基本概念を維持したいと思う。一方、この同じ世界を歴史的作用連関の中で記述する任務(Aufgabe)は、「歴史的(historischen)」人文科学(訳者注:歴史学)に委ねられる。非歴史的で体系的な精神科学として社会団体論を構築しようとする限り、「構造連関」の概念は、それでもなお、我々の対象の具体的かつ総合的な研究の最終的な基本原理を形成しなければならない。もちろん、社会団体の構造を明確に叙述するためには、その時間的・歴史的作用連関の中で社会団体を考える必要があることもある。

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第二十三節 社会的構造連関における法の優位性(Vorrang)

52301 歴史的・社会的現実のさまざまな下位分野(Teilgebiete)は、一般に、あたかも各分野(Gebiet)が最初から互いに独立して存在し、後になって初めてそれらの間の因果的作用連関が生じたものであるかのようには、客観的世界においては与えられない。むしろ、これらの下位分野(Teilgebiete)は最初から必要な構造連関にあり、従って全体として社会的現存在(soziale Dasein)を形成している。同じように、ひとつの具体的・理念的な精神的実体(Geistesgebilde)は、比較的独立した統一体(Einheit)、比較的・普遍的な個人(Individuum)としてこの現実の中に存在し、さまざまな下位要素(Teilelemente)の構造連関の中に自らを示す。そのような精神的実体は統一された全体として形成され、その構成要素(Bestandteile)は概念的分析と解剖的分析によってのみ区別される。だからこそ、人は、特定の意味内容(Sinngehalt)との関連で、それをどのように捉え、理解するかに応じて、同じ精神的実体に異なる特性を帰すことができる。例えば、「交換(Tausch)」のような具体的な契約(Vertrag)は、それが法的な当為連関(Soll-Zusammenhang)の事実内容(Tatbestand)を構成する限り、一方では法的実体(rechtliches Gebilde)である。しかし他方、経済的(ökonomischen)目的という観点から見れば、それは経済的(wirtschaftliches)実体である。同時に、これは、具体的な現実における交換が、単に純粋に法的な実体でも、排他的な経済的実体でもないことを意味する。従って我々は、交換契約を、法的なものと経済的なものが構造連関する社会的実体としてとらえている。
52302 あらゆる具体的な社会的な精神的実体(soziale Geistesgebilde)は、その任意の(beliebigen)実質的(sachhaltigen)性格にもかかわらず、同時に社会関係(sozialen Beziehung)や社会団体(sozialen Verbandes)の構造を示すという事実によってのみ、概念的に「社会的(soziales)」であると特徴づけられる。例えば、前述した法的経済的な実体として考えた交換契約(Tauschvertrag)は、必然的にある種の調和のとれた社会関係(sozialen Beziehung)を前提としている。社会的な観点から見れば、契約とは、表出(Ausdruck)と理解(Verstehen)によって結ばれた、契約当事者間の多かれ少なかれ肯定的な経験連関(Erlebniszusammenhang)に他ならない。従って、純粋な社会性の契機(Moment)は、あらゆる具体的な社会的実体の中に、必要かつ本質的な構成要素として常に含まれており、いくつかの実質的な(sachhaltigen)契機と構造連関している。こうして、社会的実体の下位要素の構造連関は、何よりも純粋な社会性の連関として、特定の実質的な(sachhaltigen)契機(Momenten)を伴って現れる。この意味で、純粋な社会性は「社会的(sozialen)」構造連関のまさに中心を形成している。
52303 従って、「社会的」精神的実体に関する総合的研究の目標(Ziel)は、まず第一に、実質的対象の「社会構造(sozialen Struktur)」を明らかにすることである。特定の時代の特定の国民(Volkes)の法、宗教、国民経済(Volkswirtschaft)は、必然的にその国民とその時代に特有の社会性の構成と関係しており、それゆえに特有の社会構造を示す。
52304 純粋に社会的なもの(Sozialem)と実質的なもの(Sachhaltigem)との間の構造連関は、精神世界の本質的な存在決定(Seinsbestimmung)に従って、二つの異なる層で実証することができる。ローマ法、カトリック宗教、近代資本主義経済体系など、具体的な形をとった実質的な社会的実体は、その精神的理念性の結果として、統一された、本質的に同一の実体にすぎず、それゆえ、それはその本質において、理念的現存在領域(idealen Daseinssphäre)に属し、この理念的な現存在領域においては、まず社会と構造連関している。この領域における社会的なものは、原理的には団体(Verbandes)という形式で現れるので、社会的なものと実質的なものとの間に存在する構造連関は、一方では社会的な団体、他方では実質的な社会的精神的実体との間の連関として理解されなければならない。つまり、ローマ法はローマの国家組織と、カトリック信仰(Bekenntnis)はカトリック教会(Kirche)と、現代(moderne)資本主義は現在の複雑な国家形態および国家間関係と、必然的に連関している。それゆえ、具体的・理念的な現存在領域(Daseinssphäre)における社会団体(sozialen Verbänden)と実質的な精神的実体(Geistesgebilden)との間の構造連関を議論することは、社会的現存在の構造論の最初で第一番の最も重要な使命である。
52305 しかし第二に、精神的事実性(geistigen Faktizität)の領域における社会的なもの、すなわち社会関係としての社会的なものは、この領域で「実現(verwirklichten)」される実質的な意味内容(Sinngehalten)と構造連関している。詳細に前述したように、特定の社会関係(soziale Beziehung)は、実際には単なる純粋な社会関係として現れることはなく、むしろ、それは常に何らかの実質的な意味(Sinn)によって決定され、その過程でその意味に向かって方向づけられる。このような実質的に決定され、方向づけられた社会関係は、実質的な関連する事実の意味形成体(Sinngebildes)や精神的実体(Geistesgebildes)の「現実化(Verwirklichungen)」ともみなすことができる。例えばローマ法は、理念的・規範的な精神的実体として、この法体系の主体的(subjektiv)意味によって決定されるローマ人の社会的行為(Handlungen)や社会関係の中で実現(verwirklicht)」され、そしてドイツに受容された後はドイツ人のそうした社会的行為や社会関係の中で、繰り返し実現されてきた。現在の経済生活は、現代資本主義の「理念(Idee)」が依然として今日の経済生活を支配し決定している限りにおいて、現代資本主義の「理念」の「実現(Verwirklichung)」である。その結果、人間の具体的な行為と関係のこの事実的領域は、そこで、ある事実的社会的実体が実現されるのだが、社会と当該実質的精神的実体との構造的な出会いの場とみなすこともできる。従って、社会構造論は、社会(Sozialem)と実質(Sachhaltigem)の構造連関を、高次の理念性(Idealität)という精神的な領域だけでなく、精神的な事実性(Faktizität)というより低次の領域においても正確に論じ、記述しなければならない。
52306 しかし、一般的に実質的な社会的実体の社会構造や、特に社会団体とこれらとの構造連関を詳細に分析しようとすれば、社会団体論の基礎づけの範囲を超えることになる。従って、我々は、純粋な社会的現存在については、最も重要な実質的社会的実体のひとつである「法(Recht)」との構造的な連関においてのみ論じることに限定しなければならない。この制限が正当化されるのは、社会性と法の連関が最も理解しやすいからであり、実際、純粋に社会的な世界は、現実にはほぼ例外なく法的なものと結びついているからである。社会性と法との間のこの不可欠な連関は、社会的現存在が常に一定(einer gewissen Form)の法的規制を必要とするという事実から単純に帰結する。社会的な共存(Zusammensein)が法によって規制され、組織化されているという事実は、人間があらゆる種類の経済的な共同作業(Zusammenarbeit)に従事したり、あるいは特定の文化的目標を共に追求したりすることを可能にしている。従って、社会的現存在の総合的研究においては、法の社会的構造の解明にとりわけ重点を置かなければならない。この意味で、法は一般的な社会的な構造連関の中で、紛れもない「優位性(Vorrang)」を持っている。
52307 7 ルドルフ・シュタムラー(Rudolf Stammler)は、社会的現実の一般的な世界を研究する上での法の優位性を、断固たる態度と信念をもって主張した。そこで、我々は、シュタムラーの社会哲学的な思考過程に従って、これらの事実(Sachverhalt)をより詳細に検討し、明らかにしたい。

52308 シュタムラーが社会哲学理論全体の出発点として選んだ中心的問題は、社会生活の本質に関する問題である。しかし、シュタムラーは、現実全体から「社会的」と言える部分的要素だけを選び出し、それらの部分的要素に共通する特徴(Merkmale)を統一的に分類して、社会生活の概念(Begriff)を形成することは根本的に間違っている、と言う。それは、現実全体から「社会的」要素を分離することが可能となるのは、必然的に、我々が社会的なものの本質について、最初からすでに一定の解釈(Auffassung)を持っていることを前提としているからである。帰納法(induktiven Methode)によって対象の本質を見出そうとする試みは、一般にこの誤り(Fehler)を避けることはできない。従って、対象の本質を正しく見極めようとするならば、帰納法を全否定し、「批判的内観法(Methode der kritischen Selbstbesinnung)」に頼らざるを得ない。この批判的方法は、すでに経験的に与えられている対象の意識内容(Bewußtseinsgehalt)から出発し、その後、この意識内容の契機(Momentes)を明確に強調することにつながるが、それがなければ、当該対象の表象(Vorstellung)は我々の意識の中で完全に消えることになる。カントの批判哲学の用語法によれば、ある対象をそのようなものとして認識することを可能にするこの契機は「形式(Form)」であり、この対象の他の任意の(zufälligen )構成要素は「質料(Stoff)」と呼ばれる。言い換えれば、形式(Form)は同じ対象の「条件づけ(Bedingende)」であり、質料(Stoff)は同じ対象の「条件づけられ(Bedingte)」なのである。従って、社会生活の本質もまた、批判的内観の手法(Verfahren)によって明確に確立されなければならない。その際、社会生活が社会生活として認識されることを可能にする条件づけの形式は、必然的に同じ条件づけられの質料から明確に区別される2131
52309 この考察に基づいて、シュタムラーは次のような問いを投げかける:「人間の社会生活という概念が、科学的研究(Betrachtung)の固有の(eigener)対象として決定される確固たる(feste)特徴(Merkmal)とは何か?2132」シュタムラーは、人間の社会的な共存(Zusammenlebens)という表象(Vorstellung)は、単に複数の人間が時間的・空間的に隣り合って存在するという事実以上の、異なる何かを意味することは間違いない、と言う。では、人間の社会的共存を、個々人の単なる並存(Nebeneinandersein)と決定的に区別する契機(Moment)とは何だろうか?この問題に関して、上述で明らかにした批判的内観(kritische Selbstbesinnung)を行うならば、「人間に由来する交流(Verkehrs)と共存(Miteinanderlebens)の規制」が、人間の社会的現存在の本質的な特徴を形成していることがわかる、とシュタムラーは考えた2133。人間の振る舞い(Verhaltens)の外的規制は、社会的現存在という概念を決定的に形成できる最後の論理的基準である。複数の人間が無秩序に一緒にいるだけでは、真に社会的なものとは決して理解されないからだ。その結果、社会生活(sozialen Lebens)の概念が明確に、「社会生活とは、外的に規制された人間の共存(Zusammenleben)である」と定義された2141
52310 外的規制と社会生活の関係(Verhältnis)は、もちろん純粋に論理的な意味、つまり条件づけ(Bedingende)と条件づけられ(Bedingte)の関係で理解される。外部規制は社会生活の条件づけであり、それだけが後者の概念(訳者注:条件づけられ)を論理的に可能にするからである。しかし、上記は、外的規制が、時間的に(zeitlich)先行する、あるいは因果的に(kausal)決定する、人間の共存(Zusammenlebens)の「原因(Ursache)」であることを意味するものでは決してない。従って、条件づけ(Bedingenden)とは対照的に、まさに条件づけられ(Bedingte)として、社会生活の質料(Stoff)として現れる契機(Moment)を見つけるというさらなる課題(Aufgabe)が生じる。シュタムラーは今、この社会生活の質料(Stoff)を「欲望充足(Bedürfnisbefriedigung)を目的とした人間の共同作業(Zusammenwirken)」や「社会経済(Sozialwirtschaft)」として理解しようとしているが、それは、必然的に外的規制の条件に服するものであり、社会生活という観念(Vorstellung)を、それとの論理的関連においてのみ物質的に可能にするものである。このように、社会生活とは、条件づけ(bedingende)形式(Form)としての外的規制が、条件づけられ(bedingten)質料(Stoff)としての人間の経済的共同作業を統一的に組織し、構成するという事実から、厳密に論理的な意味で生じる実体(Gebilde)なのである2142

52311 よく知られているように、シュタムラーはこの結論によって、経済が社会存在の構造とその変化の究極の基礎を形成するという唯物史観(materialistische Geschichtsauffassung)を決定的に論破しようとした。シュタムラーがその目標に到達したか否かの問題には立ち入らないが2143、彼が法的なものと社会的なものとの間に必要な連関を、まぎれもなく明確に確立したことは評価されるべきだろう。というのも、シュタムラーが社会生活の条件づけ(bedingende)形式(Form)として確立しようとした人間の振る舞い(Verhaltens)の外的規制は、本質的には広い意味での法に他ならないからである。社会組織の構造に対するシュタムラーの深い洞察は、法がなければ人間の連関が原理的に不可能であることを見事に示している。
52312 しかし、法的なものは社会的なものの「条件づけ形式(die bedingende Form)」であり、その結果、法的なものを理解する(Begreifen)ことがすべての社会科学的な認識(Erkenntnis)の究極的な基礎となる、というシュタムラーの主張には同意できない。というのも、シュタムラーが批判的内観(kritischen Selbstbesinnung)の中で、ある対象の条件づけ(Bedingende)と同じ対象の条件づけられ(Bedingten)とを区別しようとしたのは、まさにその契機であり、その契機がなければ、当該対象をそのようなものとして観念する(Vorstellung)ことは、もはやまったく不可能だからである。従って、シュタムラーの意味でのこの条件づけの契機は、その理由を考えれば、この対象をそのようなものとして決定する物質的な「本質(Wesen)」に他ならない。いわゆる批判的内観の方法によって、その基本的な考え方(Grundgedanken)をカント哲学から取り入れたシュタムラーは、実際、無意識的かつ不正確ではあったが、フッサールの現象学的研究で提案された「映像的還元(eidetischen Reduktion)」の方法を実行した。フリッツ・シュライアー(Fritz Schreier)が正しく指摘しているように、この点で、シュタムラーの方法は現象学的なものから遠く離れてはいない2151。このような理由から、シュタムラーが正しく選択した道によって達成した結果であっても、我々の観点からは決して満足のいくものではないと言わざるを得ない。これまで、社会的現存在の本質、すなわち、そもそも社会的なものを社会的なものとして決定するものは、精神的事実性の領域においては、純粋にそのような表出(Ausdruck)と理解(Verstehen)を通じて互いに向けられる複数の人間の経験の構造的に結びついた連関、すなわち純粋な社会関係(soziale Beziehung)であり、一方、より高次の具体的・理念的な精神的実体(Geistesgebilde)の領域においては、究極的には、「純粋な社会的実体(soziale Gebilde)」としての存在を概念的に決定する社会団体(soziale Verband)以外の何ものでもありえないことを詳しく論じてきた。その一方で、法はもはや社会生活の本質、条件づけ形式とみなされるべきではない。むしろ、経済と同じように、純粋な社会性との連関においてのみ社会的なものとして自らを示すことができるような、実質的な(sachhaltige)部分分野(Teilregion)としてのみ理解されなければならない。社会性という観点から見れば、法は「条件づけ」形式ではなく、社会生活のさまざまな「条件づけられ」質料(Stoffe)の一つにすぎない。
52313 法は、それが「社会的実体」であるがゆえに、純粋に社会的であるという論理的条件に従う。しかし、このことは、現実の社会生活が法なしに発生し、それ自体を維持しうることを決して意味するものではない。むしろ、実際の社会性の世界としての社会生活は、人間の外的振る舞いに対する法的規制なしにはまったく不可能であることを、シュタムラーとともに強調しなければならない。しかし、この不可能性はもはや「論理的(logische)」なものではなく、「現実的(aktuelle)」なものにすぎない。シュタムラーは、規制のない社会生活という現実の不可能性を、法による論理的な条件づけられ(Bedingtheit)と結びつけた。その結果、そもそも社会科学的認識を可能にするのは、外的規制を理解することであるという結論にシュタムラーは至らざるを得なかった。もし今、我々が、シュタムラーが誤って論理的・認識理論的なものとして考えていたこの事実を、単に客観的(objektiven)・具体的な(gegenstandlichen)連関(Zusammenhang)で理解するならば、具体的な(konkreten)社会的現存在における現実の法の優位性(Vorrang)は、まぎれもなく明瞭に我々の前に姿を現す。法的規制は、人間の共存の現状を表している。なぜなら、人間の共存は「秩序(Ordnung)」の中でしか不可能であり、秩序の維持は「法的(rechtlicher)」規制の形式でのみ可能だからである2161
52314 シュタムラーの社会哲学的基本概念に従って、社会的現存在におけるその現実の優先性が明らかになった法的規制は、二重の点で純粋に社会的なものと構造連関(Strukturzusammenhang)にある。何よりもまず第一に、法(Recht)は、理念的・規範的精神的実体としての実際の存在様式(Seinsart)において、すなわち社会団体(sozialem Verband)としての存在形式(Seinsform)において、社会と構造関連している。この結果、「国家の(staatlichen)」法制度(Rechtsordnung)と「国家の」団体との間に必要な 連関が生じる。というのも、特定の、統一的に組織された法制度と構造連関にある団体は「国家(Staat)」と呼ばれ、従ってその法は「国法(staatliche Recht)」と呼ばれるからである。第二に、法的なものと社会的なものとの構造連関は、法的なものが、まさにこの事実的な社会性の領域において、その必要な「実現(Verwirklichung)」を見出す限りにおいて、社会的な行為と社会関係の事実的な領域において明らかになる。ここに、我々は、法的な意味内容とある種の社会関係の連関、すなわち、「規制するもの(Regelnde)」としての法的なものと、「規制されるもの(Geregelten)」としての社会的なものが対立する連関、を見ることができる。この問題連関(Problemzusammenhang)では、それは主に事実上の現存在領域で表現される法の社会構造であり、それは結局のところ、「共同体化(Vergemeinschaftung)の法(Recht)」と「社会化(Vergesellschaftung)の法」の明確な対立に還元される。
52315 続く二つの節では、法と社会との構造連関を、最も一般的な用語で(in den allgemeinsten Zügen)論じる(erörtern)。まず、事実的領域における法の社会的構造について考察し(betrachten)、その後で初めて国家と法の構造関連について探求する(erforschen)。法(Recht)と国家(Staat)の連関(Zusammenhang)を明確に理解(verstehen)できるようになるためには、主として事実上の法現象(Rechtserscheinungen)を分析することによって「法の二重構造(Doppelstruktur)」に関する認識(Erkenntnis)を得なければならないからこそ、このような順序が適切なのである。

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第二十四節 法の社会的構造

52401 広い意味で、法とは、社会的連関における人間の外的振る舞い(äußeren Verhaltens)を規範的に規制するものである。規範的な規制として、法は「当為(Sollens:かくあるべき)」という判断(Urteil)の中に自らを表現する。ケルゼンが法理論に関するすべての議論の中で繰り返し断固として強調しているように、法は本質的に、当為命題(Soll-Satzes)という形式で姿を現すのである。このような当為判断(Soll-Urteils)の表出形式において、法は今や人間の外的振る舞い(Verhalten)を規制している。しかも、人間の振る舞いは、他から孤立してではなく、社会的連関の中でこそ、法によって規制されるのである。例えば「物権法(Sachenrecht)」の問題であっても、法的規制の目的物(Objekt)は結局のところ人間の「社会的(soziale)」振る舞い(Verhalten)である。単なる外形的な「所有権(Eigentum)」は、ある物(Sache)に対する人間によるある種の(eine bestimmte Art)支配(Herrschaft)のように見えるが、それはまさに、人間と物(Ding)との間の単純な関係(Verhältnis)ではなく、本質的には(im Grunde genommen)、人間による物(Sache)の支配(Beherrschung)を機会に(anläßlich)考えられる特定の「人間相互間の(zwischenmenschliche)」関係(Beziehung)であるがゆえに、法的事実(rechtlicher Sachverhalt)なのである。人間の社会的振る舞いがその背景にない場合、確かに物(Dinges)の自然な流用(Zueignung)と使用(Benutzung)は考えられるが、物(Sache)に対する、文化的・精神的な意味(Sinne)、特に法的な意味では、処分の自由(Verfügungsfreiheit)は考えられない。従って、法によって規制されるのは、究極的には人間の間の社会関係(soziale Beziehungen)に他ならない。
52402 しかし、規制される側の社会関係(sozialen Beziehungen)は、規制者としての法と構造連関にあるが、複数の個々人(Einzelpersonen)間だけでなく、社会団体(sozialem Verband)と個々人の間、あるいは複数の団体(Verbänden)同士の間にも存在する。というのも、社会団体は、団体構成員(Verbandsorgan)として活動する個々人の行為を通じて、他の個々人や社会団体とさまざまな社会関係(soziale Beziehungen)を結ぶことができるからだ。このことはまず第一に、単なる個々人の社会関係を規制する法と、ある機関の行為を媒介とする団体の社会的振る舞いを規制の対象とする法との違いにつながる。この違いが、一般的に使われる「公法(öffentliches Recht)」と「私法(privates Recht)」という区分の根底にある。
52403 しかし、特定の団体やその機関(Organe)の社会的行為を規定する法の有効性が、当該団体自身によって、より正確にはこの団体の「執行幹部(Erzwingungsstab)」によって直接保証されているかどうかは、何よりも明確にされなければならない。当該法が公法(öffentliches Recht)と言えるのは、最初の(すなわち、直接保証されている)場合だけである。他方、法的規制の有効性を保証する団体が法人(juristischen Person)そのものではなく、その法人より基本的に上位にある団体、「国家(Staat)」のような団体、である限り、法人の機関(Organe)の行為は私法上の(privatrechtlichen)規制の対象となる。法の構造論(Strukturlehre)から見れば、公法が持つ決定的な特徴は、それが機関の行為を媒介とする社会団体の社会的振る舞い(Verhalten)を規制し、それによってその振る舞いを法的に規制される団体が、同時にこの規制の有効性と執行を保証するという事実にある。従って、ある法人が「独断的に(selbstherrlich)」その機関の行為を規制する基準を設定した場合、こうして生まれた法的関係は、たとえ独断的な法学では私法的な関係とみなされるとしても、その本質において「公法的」な構造を持つことになる。この場合、関連規則(betreffenden Bestimmungen)によってその振る舞いまたは団体の行為が規制されている団体は、これらの規則(Bestimmungen)を有効なものとして設定し、その有効性を保証している団体と一致する。

52404 法は、個々人や社会団体の間の関係(Beziehungen)を規制するものであり、従って、第一義的に、また本来的に「社会秩序(soziale Ordnung)」を生み出すものである。従って、法によって規制される社会関係(sozialen Beziehungen)は「秩序ある(geordnete)」関係である。秩序ある関係として、法的に規制された社会関係は、必然的に多かれ少なかれ調和のとれた関係の形式をとる。この状況(Sachverhalt)を法的規制の面から見るならば、法の本質的な機能は、特定の個々人や社会団体の社会関係を「統一的(verbindend)」に構成し、「調和的(harmonisch)」に進行させるための一定の境界(Grenze)を示すことであるとも言える。その結果、法的規制と社会関係との構造連関(Strukturzusammenhang)は、主として法的規制と「調和のとれた(harmonischen)」社会関係の間の連関(Zusammenhang)として現れる。
52405 シュタムラーはまた、法の本質を「統一意志(verbindendes Wollen)」として確立しようとしているときにも、この連関を示唆している。シュタムラーのよく知られた法の定義(Begriffsbestimmung)は「不可侵で(unverletzbar)、自己本意な(selbstherrlich)統一意志2191」であり、そこにおいて、決定的な役割を果たしているのは間違いなく「統一意志」という考え方である。統一意志として、法は本質的に複数の「接続された(verbundenen)」意志と対立する。「統一(verbindendes)」意志でない個別意志(Einzelwollen)は全て、基本的に自己の目的を実現することを目的(Zweck)としており、その目的自体は他の個別意志が追求する目的とは直接的には何の関係もない。ある目的(Zweckes)の実現(Verwirklichung)は、他の目的を実現する手段(Mittel)とは当然異なる手段によってのみ行われる。ある個別意志(Einzelwollen)の目的(Zweck)が他の意志の手段(Mittel)となり、後者の目的が前者によって必要な手段とみなされるような形で、いくつかの個別意志の目的追求(Zweckverfolgungen)の間に相補的な関係が存在するならば、そのときに限り、これら両方の個別意志が「繋がり(Verbindung)」の連関に入る可能性が存在することになる。しかし、この 「繋がり」は、補完関係(ergänzendes Verhältnis)にある個別意図そのものから直接生まれるものではない。なぜなら、個別意志は自己の目的を追求するだけで、他の意志そのものとの「繋がり」を追求するものではないからである。その結果、複数の個別意志の社会的な繋がりを実現(Zustandekommen)するためには、必然的に、目的と手段の連関おいて個別意志を互いに「結びつける」ことのみを目的とする、新しい、まったく異なる意志類型(Wollenstypus)の作用(Einwirkung)が必要となる。シュタムラーはこの特定の類型の人間の意志を「統一(verbindende)」意志と呼んでいる。「統一意志とは、複数の意志を互いの手段として決定するものである2192」シュタムラーによれば、法とはある種の統一意志に他ならず、「自己本意性(Selbstherrlichkeit)」と「不可侵性(Unverletzbarkeit)」という特徴(Kennzeichen)によって、より詳細に定義される。
52406 もちろん、法を一種の「意思(Wollens)」として理解しようとするシュタムラーの試みは、法の定義(Begriffsbestimmung)としては完全に失敗している。なぜなら、法とは、シュタムラー自身が別の連関(Zusammenhang)で想定しているように、本質的に規制的なもの、すなわち規範的なものであり、その本質的な性質は、理念的・精神的現存在という「客観的(objektiven)」連関においてのみ決定されうるものであるのに対して、「意志(Wollen)」は、従って「統一的(verbindende)」でもあるのだが、結局のところ、個々の人間(Einzelmenschen)の「主観的(subjektiven)」動因(Triebkraft)においてのみ、その執行(Durchsetzung)の理由(Grund)を見出すからである。シュタムラーの法の定義(Begriffsbestimmung)は、あまりに一方的な目的合理的(zweckrational)なものであるにもかかわらず、その規制によって影響を受ける複数の人間の「結びつき(Verbundenheit)」との相関関係(korrelativen Verhältnis)において、法的規制の本質を明らかにしたという事実に、その利点(Vorzug)を見出さなければならない。規制要素としての法は、「繋がった(verbundenen)」、つまり多かれ少なかれ「調和的に(harmonisch)」構成された社会関係の中に、とりわけ規制されるもの(das Geregelte)を見出す。従って、社会的なものは、実際の構造連関における法的規制と主に関連している。
52407 しかしこれは、法がその規制機能の対象(Objekt)を、「不調和な(disharmonischen)」関係形式(Beziehungsformen)において、見出すことができないということを意味しない。それどころか、法的規制の本質は、不調和な関係にまで規制機能を拡大し、しかもその関係に一定の調和のとれた構成(Konstitution)を規定することにある。この意味で、そしてこの意味においてのみ、法によって規制される関係(Beziehungen)は常に、そして必然的に調和的な関係である。例えば、「戦闘規則(Kampfregel)」は、広義には一種の法的規制として理解することができ、戦闘関係にある人間に、人道的見地から許可されていない戦闘手段(Kampfmittel)の使用などを継続してはならないという、一定の境界(Grenze)を示すものである。この法的に確立された境界の中で行われる戦闘関係(Kampfbeziehung)は、戦闘規則によって規制されている限りにおいて「調和的(harmonisch)」である。だからといって、究極的に壊滅的な(vernichtenden)戦闘関係に構造連関する法的規則はまったく存在し得ない。
52408 もう一方の極端な見方をすれば、心の通った(herzliche)好意関係(Zuneigungsbeziehung)であっても、実際には不調和(Disharmonisierung)や不一致(Zwiespalt)の誘因(Anlaß)を完全に排除することはできないため、一定の法的規制を必要とする。すなわち、すでに構成された内的・調和的関係を維持するために、ある種の外的規制が必要となる。この場合も、法的規制の目的(Ziel)は、ともかくも不調和に向かう傾向のある社会関係に一定の制限(Grenze)を課すことであり、その制限は現在の関係の構成(Konstitution)を超えてはならない。この結果、当該規則が、必要とされる(erforderten )調和や許容される(erlaubten)不調和の境界を、理念的・調和的関係形式に比べて広く(weiter)設定するか狭く(enger)設定するかによって、さまざまな法的規制の形式を分類する(einordnen)ことができ、ある種の階層(Rangordnung)が生まれる。さまざまな類型の法的規制の際立った特徴は、これらの規制によって影響を受ける社会関係の構造の違いにあるため、まさにこの法的規制の階層において法の「社会構造」が明らかになる。

52409 このような法的規制の社会構造を論じる場合、これまで分析した具体的・調和的な社会関係の二つの基本形式に対応する「共同体化(Vergemeinschaftung)の法」と「社会化(Vergesellschaftung)の法」という二つの類型を明確に区別するこが現在最も重要である。
52410 この二つの具体的・調和的な社会関係の形態の基本的な違いは、共同体化の調和的な結びつき(Verbindung)が、内的に決定され、非合理的に形成された好意(Zuneigung)で成り立っているのに対し、社会化は常に、目的合理的な(zweckrationalen)考慮から外的に、そして偏向して(ablenkend)構成された繋がり(Verbindung)として自らを提示するという事実にある。だからこそ、社会化の繋がりは、外的には完全に調和的に構成されているように見えるが、本質的にはベールに包まれ(verhüllter)隠れされた(verborgener)矛盾(Gegensatz)の上に成り立っているのである。しかし、調和のとれた関係(Beziehung)として、共同体化と社会化はともに法的規制と相関関係(korrelativen Verhältnis)にある。従って、規則のない(regellosen)「無法(rechtsfreien)」状態の現実では、共同体化も社会化も起こりえない。なぜなら、共同体化の世界でさえ、とかく部分的あるいは全体的な不調和に向かう傾向があり、法的規制がなければ、最終的に分裂(Spaltung)に至るであろう。この意味で、共同体化の調和のとれた状態とは、規制され(geregelte)秩序づけられた(geordnete)調和でもある。法的な観点から、「共同体化の法(Recht der Vergemeinschaftung)」と「社会化の法(Recht der Vergesellschaftung)」はそれぞれ、現在の社会関係が調和的に規制され秩序づけされるべき一定の境界(Grenze)を定義している。この点で、「共同体化の法」と「社会化の法」の違いは、後者が前者に比べて、法的に規制された社会性(Sozialit)の領域内で、不調和な関係をはるかに複雑に定式化できるという事実にある。
52411 現代世界の社会性の法は、今や基本的に「社会化の法」の構造を示している。資本主義経済体制(kapitalistischen Wirtschaftssystems)が極度に発達(Entwicklun)し、競争が限りなく高度化され、増大するとともに、社会組織が個別化(Individualisierung)する傾向も並行しているため、社会秩序(sozialen Ordnung)が「共同体化の法(Rechtes der Vergemeinschaftung)」の状態にとどまることは不可能である。発展の歴史から見れば、近代の法体系の構造は、事実上、「共同体化の法」から「社会化の法」への移行(Überganges)の最終的な結果である。この移行は、ヘンリー・メイン(Henry Maine)がその機知に富んだ著作「古代法(Ancient Law)」の中で、「身分(Status)から契約(Contract)へ」という定式(Formel)ですでに明確に認識していた。ヘンリー・メインに続いてテンニエス(Tönnies)もこう言う:「身分から契約への動きにおいて、我々は生活と法の並行(Parallele)を認識する」2221と。
52412 しかし、厳密に言えば、この定式はここで検討している状況を正しく表現しているわけではない。というのも、近代法には「家族法(Familienrechtes)」の分野で身分関係(Statusverhältnisses)に関する広範な規定(Bestimmungen)がある一方で、法の原始的な状態において、権利義務関係を法的に確立する意志の合意としての「契約(Vertrag)」が、すでに非常に重要な社会的機能を果たしていたことも明らかだからである2222。原始的な状態の法と発展段階の法との根本的な違いは、むしろ前者がその全領域、すなわち契約法においても「共同体化(vergemeinschaftende)」構造を示すのに対し、後者は「身分(Status)」の問題である法の領域においても「社会化(vergesellschaftende)」構造を示すことである。こうして契約法(Vertragsrecht)は、契約の締結が当事者の全体的個人的地位(gesamtpersönlichen Stellung)の変化(Änderung)を伴う原始的な形式である「友愛契約(Verbrüderungsvertrages)」や古ゲルマン語の「忠誠契約(Treudienstvertrages)」から、その性質上、特定の合理的目的との関係においてのみ有効な、表面的(oberflächliche)で一時的な(vorübergehende)意志の合意(Willensvereinbarung)である近代的な契約形式(Vertragsform)へと発展してきた。この意味で、マックス・ヴェーバーが「身分契約(Status·Kontrakte)から目的契約(Zweck-Kontrakte)へ」という定式で表現した原則(Grundsatz)は、従来のメインの定式よりも、より真実性(Wahrhaftigkeit)と正確性(Exaktheit)を保持している2223
52413 このように、近代法体系の社会化傾向(vergesellschaftende Tendenz)は、契約法(Vertragsrechtes)の大規模な発展において最も顕著である。なぜなら、契約法の分野(Gebiet)ほど、社会関係(soziale Beziehung)が法と密接に結びついているものは、法体系全体を見渡しても他にない。従って、契約においては、社会関係の近代的形式の社会化傾向は、近代法の同じ傾向と完全に相関している。一方で、社会関係の社会化形式が発展するのは、法的規制、とりわけ契約法上の規制が、人間相互間の関係(zwischenmenschlichen Verhältnisses)の不調和化が激化し続ける傾向をある程度抑制し、現在の関係を必然的に合理的かつ偏向的に(ablenkend)調和された形で現出させるからに他ならない。他方、契約法の発展は、社会的世界の社会化構造が常に、法的に決められた許容される不調和の限度を超える傾向があり、その結果、社会的現存在の構成全体を絶えず危険にさらしている事実によって必然的に条件づけられる。社会的・法的なこの社会化傾向の最も極端な帰結は、「階級闘争(Klassenkampfes)」の激化と相関する「労働契約(Arbeitsvertrages)」の最近の進展に見られる。
52414 従って、近代の契約の本質的な特徴は、内的な対立(Gegensatz)と外的繋がり(Verbindung)から偏向した(ablenkend)二重の関係として現れるという事実にある。その性質上、当事者(Beteiligten)が合意(Willensübereinstimmung)していることを前提とする限り、それは肯定的で調和のとれた関係である。しかし、この調和のとれた繋がり(Verbindung)の背後には、しばしば個々人間の厳しい利害の衝突(Interessengegensatz)があり、各個々人は、この繋がりが自分の利益の増加か、差し迫った損害(Schadens)の軽減のどちらかが約束される限りにおいてのみ、互いの繋がりを承認する。「社会化の法」においては、この矛盾(Gegensatz)は、それが「隠された(verborgener)」矛盾である限り、許容される(erlaubten)不調和の境界内に見出される。従って、この矛盾は、社会的現存在の平和的(friedliche)組織を直接的に危うくするものではないため、法的に認められた矛盾である。しかし、この「隠された(verborgene)」矛盾が、紛争関係(Streitverhältnisses)を拡大させることによって法的に許容される不調和の限度を超え、多かれ少なかれ 「開かれた(offenen)」闘争(Kampf)に発展した場合、当該法体系は、秩序に反するこの不調和を排除(beseitigen)または抑制(unterdrücken)しようとする。例えば、ドイツの民法(bürgerliche Recht)では、「故意の欺瞞(arglistige Täuschung)」や不法な「脅迫(Drohung)」によって誘導された意思表示(Willenserklärung)の場合には、異議申し立て(Anfechtung)の可能性が認められている。(2231)近代契約法の体系全体は、社会秩序を公然たる紛争(offenen Streit)から守り、契約の社会的機能の正常な遂行を確保するために、個々の利害が偏向した調和になるような対立状態(Gegensätzlichkeit)を、その潜在性(Potenzialität)あるいは隠蔽性(Verborgenheit)のうちに維持することを基本的な目的としているとさえ言える。

52415 このような法の社会構造分析から、法体系の特異な(eigenartige)二重構造に関する極めて重要な洞察(Einsicht)が得られる。
52416 一般に法は社会関係を規制し、それによって社会秩序を生み出す。しかし、このような法的規制にもかかわらず、社会関係が一定の限度を超えて不調和に構成され、それによって社会秩序が実際に破壊された場合、法はその単純で(einfachen)元々持つ(ursprünglichen)機能においては、破壊された秩序(Ordnung)を回復し、社会生活(soziale Leben)を調和のとれた状態に戻すことはもはやできない。従って法は、社会関係を単純かつ積極的に秩序づける本来の機能に加え、永続的に調和のとれた社会的現存在を維持できるよう、失われた秩序を回復するという使命(Aufgabe)を自らに課さなければならない。失われた秩序を回復するというこの第二の機能は、元の調和された状態への侵害者(Verletzer)や破壊者(Zerstörer)に対する「強制力の行使(Zwangsausübung)」においてのみ有効になる。「血の復讐(Blutrache)」と「賠償金(Buße)」、「刑罰(Strafe)」と「処刑(Exekution)」は、この法的強制(rechtlichen Zwangsausübung)の典型的な形式である。
52417 社会秩序の維持(Aufrechterhaltung)に関連する法のこの二つの機能は、実はもはや同じ一つの法形式(Rechtsform)が持つ二つの異なる機能ではない。むしろ、我々は、根本的に異なる二つの種類の法の機能の違いを認識しなければならず、両者の区別は、「共同体化の法」と「社会化の法」の区別とは別の問題の次元に属している。というのも、本来まず、社会生活を営む人間の関係を規制し、それによって社会秩序を作り出す法は、失われた秩序を強制力の行使によって回復することを求められる法とは、その機能だけでなく本質的な構造においても根本的に異なっているからである。第一の類型の法は、最初から、人間を繋ぎ、調和的に共存(Zusammenseins)させる法であり、これによって生み出される社会秩序は、オイゲン・エールリッヒ(Eugen Ehrlich)が言うように、その性質上「平和秩序(Friedensordnung")」である。(2241)これとは対照的に、第二の類型の法は、もともとの平和秩序が公然たる紛争関係によって乱された場合にのみ発効する。この第二の類型の法の本質的な任務(Aufgabe)は、強制手段(Zwangsmitteln)の行使(Ausübung)によって、個々人間の紛争(Streitigkeiten)を裁定し(entscheiden)、解決する(beseitigen)ことである。だからこそ、この第二の類型の法秩序は、多かれ少なかれ体系的に組織された強制機構(Zwangsapparat)を必然的に伴うのである。要するに、それは「強制秩序(Zwangsordnung)」なのである。対照的に、第一類型の、本来の法秩序は、狭義の「社会秩序(soziale Ordnung)」と呼ぶことができる。
52418 狭義の社会秩序を維持する法と、その本質からして強制秩序である法との根本的な違いは、規範的規制としての二種類の法が、社会的行為の主体の二つの根本的に異なる階層にその「宛先(Adressaten)」を持つという事実の中に、最も明確に表れている。法規範(Rechtsnorm)は一般に、社会的行為の主体が一定の(in bestimmter Weise)振る舞い(Verhaltens)をとるべきことを規定する。しかし、社会秩序としての法が、直接的には個々(Einzelnen)の社会的行為、すなわち個々人(Einzelpersonen)の行為(Verhaltens)か、あるいは個として現存在する団体の行為に対処するのに対して、強制秩序としての法は、原則として、社会的全体の機関(Organe)として行為する人の社会的行為、実際、究極的には社会的全体の行為そのものを規範的に規定することを目的としている。強制秩序としての法は、主要な(primären)社会秩序が侵害されたり破壊されたりした場合に、失われた秩序を回復するために、社会全体のある機関が特定の対応を示すべきことを規定する。この対応(Reagieren)は、何よりも強制の執行、つまり刑罰(Strafe)か処刑(Exekution)のどちらかで起こる。このように、強制秩序としての法は、本質的に強制執行(Zwangsvollstreckung)を規制し、強制執行は基本的に社会全体の任務(Aufgabe)であるため、この規制機能において、法は必然的に特定一定の機関の行為を規定する。たとえ原始的な社会的現存在において、血の復讐という形式の強制の実行が個々人の手に委ねられていたとしても、厳密に言えば、これらの個々人はもはや単なる個々人としてではなく、すでに社会全体の機関(Organe)として機能している。社会全体またはその機関の行動規則(Verhaltensregel:振る舞い規則)としての強制秩序の法は、個々人の社会的振る舞い(sozialen Verhaltens)に対する規範的規則としての社会秩序としての法とは本質的に異なる。
52419 法はその性質上、二重構造を持っていることが、今でははっきりと理解されている。しかし同時に、ここで説明した法の二重構造(Doppelstruktur des Rechtes)と、上で説明した「法の社会構造(sozialen Struktur des Rechtes)」との違いを注意深く区別しなければならない。なぜなら、法の社会構造による区別(Unterscheidung)は、個々人と個々の団体との間の統一的で(verbindende)調和的な(harmonische)関係(Beziehung)を第一義的(primär)かつ本来的(ursprünglich)に規制する一つの法類型の「細分化(Unterteilung)」に過ぎなかったが、法形式を「社会秩序としての法」と「強制秩序としての法」に分けることは、まさに法そのものの本質的機能の違いを意味する。これらの法の二つの基本形式の違いは非常に大きく、また本質的なものであるため、これらを同じように法と呼ぶことには抵抗があるかもしれない。広い意味においてのみ、社会秩序としての法と強制秩序としての法の両方を、この共通の用語の下に包含することができる。これに対して、社会構造によって区別される二種類の法、すなわち「共同体化の法(Recht der Vergemeinschaftung"」と「社会化の法(Recht der Vergesellschaftung)」は、社会的現存在の調和のとれた秩序を維持することが直接かつ第一義的に求められているため、いずれも「社会秩序としての法(Recht als sozialer Ordnung)」に属する。
52420 しかし、社会秩序としてのこの二つの類型の法は、強制秩序としての法と別々の形で連関していることに留意すべきである。「社会化の法」はその性質上、強制秩序としての高度に発達した法体系を必要とするが、「共同体化の法」にはそれは当てはまらないことは容易に理解できる。「隠された(verborgene)」紛争が常に「公然たる(offenen)」不調和へと向かう社会化の世界(Welt der Vergesellschaftung)では、繰り返し危険にさらされ侵害される社会秩序を維持・回復するために、強固かつ有機的に構築された強制規範(Zwangsnormen)の体系が必要となる。「社会化の法」は、社会化という社会世界を支配する法的な観念体系(Ideologie)の具体化として、それ自体、社会関係を一定の調和のとれた繋がりの境界内に保つのに適した、特定の基本原則を定めている。例えば、契約の自由(Vertragsfreiheit)と私有財産の不可侵(Unverletzlichkeit des Privateigentums)という原則(Grundsätze)は、十九世紀の社会化の社会秩序を構成する二つの典型的な原則(Prinzipien)であった。この社会化的に構成された社会秩序が、隠された紛争関係の出現によって撹乱された場合、そのとき初めて、現在の強制執行を伴う強制秩序としての法が機能し、撹乱された秩序を偏向的に(ablenkend)調和された状態に戻すのである。社会化の秩序(vergesellschaftende Ordnung)が強制秩序(Zwangsordnung)としての法に必ず先行するのはこのためである。強制秩序に先行し、その成立を条件づけるこの社会秩序は、共同体化の社会秩序でもありうる。なぜなら、共同体化の秩序も紛争関係によって混乱する可能性があるからである。統一的に体系化された強制秩序の発展のみが、社会秩序の高度に社会化された構成(Konstitution)の必然的な相関関係として理解できる。

52421 ここで行われたさまざまな次元での法の構造分析、すなわち一方では、社会秩序としての法の細分化(Unterteilung)としての法の社会構造の分析から生じる「共同体化の法」と「社会化の法」との区別(Unterscheidung)、 他方では、法の二重構造の一般的分析から導き出される「社会秩序としての法」と「強制秩序としての法」との間のさらなる区別、の結果は、法の理論的研究と法制史一般にとって極めて重要な意味を持つ。この結果は、理論法学(theoretischen Rechtswissenschaft)の将来の発展にとって好ましい結果を約束するという事実は別として、この科学分野(Wissenschaftsgebiet)に特有の、法の性質と機能に関するさまざまな擬似問題(Scheinprobleme)や無用な論争(nutzlose Streitigkeiten)を排除するものである2271。しかし、ここでは、社会との関係においてのみ、とりわけ社会団体論の基礎づけという観点からのみ、法を探求することに限定せざるを得ないので、純粋に法理論的な(rechtstheoretischen)問題にはこれ以上詳しく立ち入らずに、これらの結果に基づいて、国家(Staat)と法(Recht)との連関(Zusammenhang)について直接的に論じる(erörtern)ことにする。

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第二十五節 国家と法(Der Staat und das Recht)

52501 前の段落で述べた法の二重構造については、さらに詳細な解明が必要である。というのも、本章の中心的な問題を形成し、その中で国家概念(Begriff des Staates)がその最終的な定式化に到達する、社会団体(sozialem Verband)と法(Recht)との間の必然的な連関(Zusammenhang)は、法の二重構造(Doppelstruktur)を正確に分析することによってのみ解明されるからである。
52502 筆者の考えでは、この課題を首尾よく解決する方法(Weg)は、「法命題(Rechtssatzes)」の論理的構成を分析することによって、強制秩序(Zwangsordnung)としての法と社会秩序(sozialer Ordnung)としての法の必然的な(notwendige)関係(Verhältnis)を明らかにすることである。この方法(Weg)は、法の社会構造を分析するために我々が用いた方法(Verfahren)とは根本的に異なる(grundverschieden)。社会構造分析では、当初、法は社会秩序の規範的規制であることが示され、強制秩序としての法の機能は、社会秩序違反(Verletzung)の必然的な「帰結(Folge)」としてのみ考えられていた。これとは対照的に、我々は今、強制秩序としての法の分析から出発し、強制規範の有効性のために必要な「前提条件(Voraussetzung)」として、社会規範の総体(Inbegriff)としての法を確立しようとしている。というのも、法命題(Rechtssatz)はその性質上、強制秩序としての法の具体的な発出形式(Ausdrucksform)だからである。
52503 ケルゼンが創設した「純粋法学(Reine Rechtslehre)」ほど、純粋かつ体系的に法の本質を法命題形式(Rechtssatzform)で探求した理論は他にない。この学派(Schule)の法理論的研究全体は、ケルゼンが最初の主要著作である「国法学の主要問題(Hauptproblemen der Staatsrechtslehre)」においてその基礎を築いた「法命題論(Rechtssatzlehre)」に基づいて展開されている。ケルゼンによれば、自然の合法性(Gesetzlichkeit)が因果律(Kausalgesetzen)という形式で必然的に定式化されるのとは厳密に対照的に、法の合法性は「当為(Sollens:べき)」の合法性として法命題の中に表出される。この観点からは、法は法命題の体系として現れ、まさにこの理由から純粋法学の核心問題(Kernproblem)を形成する2281。法の二重構造の問題を完全に明らかにするために、我々はケルゼンとともに法命題の論理的分析の道を歩みたい。

52504 法命題とは、「仮言的判断(hypothetischen Urteils)」という形式をとった当為判断である。そこでは、ある構成要件(Tatbestand)が「条件(Bedingung)」として、別の構成要件が「法的帰結(Rechtsfolge)」として、当為連関(Soll-Zusammenhan)で結びつけられているのに対し、自然法則(Naturgesetz)では、ある事実(Sachverhalt)が「原因(Ursache)」として、別の事実が「作用(Wirkung)」として、因果連関(Kausalzusammenhang)で結びつけられている2282。従って、根本的に異なる二つの命題形式を厳密に区別しなければならない。「(第一)aであれば、bでなければならない(soll):(第二)aであれば、bである(ist)」第一の文は法律(Rechtsgesetzes)の基本形であり、二番目の文は自然法則(Naturgesetzes)の基本形である。この違いは、法的条件(Rechtsbedingung)は法的帰結(Rechtsfolge)の「原因(Ursache)」ではなく、法的帰結は法的条件の「作用(Wirkung)」ではないことを意味する。法的帰結は、自然的必然性(naturnotwendig)ではなく、法的必然性(rechtsnotwendig)によってのみ、自然ではなく、法によって法的条件として事実に課される。「窃盗する者は、自然法則(Naturgesetzlichkeit)の観点からは必ずしも処罰されないし、おそらく実際の出来事の現実に向けられたこの考察の観点からはまったく処罰されない。しかし法的には、そのものは処罰されるべき(soll)である。すなわち窃盗罪(Diebstahlstatbestand)は法的必然性のみにより刑罰(Strafe)と結びつく2291」しかし、だからといって、法律(Rechtsgesetz)における構成要件(Tatbestände)の当為接続(Soll-Verbindung:意図的繋がり)が必要ないということにはならない。ただし、原因(Ursache)と作用(Wirkung)の因果接続(kausale Verbindung)と同じように必要なものではあるが、まったく異なるものなのである。自然法則が、例外を許さない必然性によって原因と作用を結びつけるのに対して、法律(Rechtsgesetz)は、条件づけ(bedingenden)構成要件(Tatbestandes)と条件づけられ(bedingten:偶発的)構成要件を、同等に厳格な「当為(Sollens:あるべき)」によって統合する2292
52505 規範的な当為連関(Soll-Zusammenhanges)の構造をさらに分析すると、法命題(Rechtssatz)は必然的に独特の二重構成(Doppelkonstitution)を持つことがわかる。特定の法命題が、窃盗罪は強制行為(Zwangsakt)である刑罰を必然的に受けると定めている場合、この宣告(Satz)は暗黙のうちに、人は盗みをしてはいけないという一義的な規範を前提としている。この一次規範(primäre Norm)もまた、間違いなく純粋な当為規範(Soll-Norm)である。社会生活に参加する人間は、実際にそのように振る舞うか、あるいは今後そのように振る舞うかどうかを問われることなく、ある特定の方法で振る舞うべき(soll)ことを定めるものである。とはいえ、法命題が違法な構成要件の存在を前提とし、この構成要件に一定の法的帰結(Rechtsfolge)を仮定の形式で条件付き構成要件として結びつけるのに対し、一次規範的法命題は個人に対して一定の行動を直接規定するという点で、実際の法命題とは異なる。従って、通常の場合、法命題には、特定の一次的な規範が先行しており、これが何らかの形で違反されているという必要条件(notwendigen Bedingung)が適用される。フェリックス・カウフマン(Felix Kaufmann)は、法命題のこの二重構成(Doppelkonstitution)を明確に強調して、「全ての法命題は、一次規範の当為主体(Soll-Subjekt)が二次規範(sekundären Norm)の要求する行動の『目標点(Zielpunkt)』となるような形で、二重規範(Doppelnorm)として構成される。『純粋に単純な』法命題とは、『主体Aは振る舞い(Verhalten)V1を示すべきであり、そうしない場合は振る舞いV2を主体Aに適用すべきである』というものである」と述べている2301
52506 しかし、第二の二次規範の形成は、「違反(Verletzung)」によってではなく、第一の規範の「遵守(Befolgung)」によってこそ引き起こされるという可能性もある。例えば、法命題は、法主体(Rechtssubjekt)が常に規則に従って(vorschriftsmäßig)振る舞えば、生命(Lebens)、財産(Eigentums)、自由(Freiheit)の安全(Sicherheit)が保証されるべきと定めるような形で構成することができる。しかし、この場合でも、条件付きの二次規範を条件付きの一次規範の論理的な位置に戻し、それに三次規範を結びつけることは可能であり、それはその「違反(Verletzung)」によってのみ条件づけられる。この事実(Sachverhalt)は例を挙げて説明しなければならない。最初の、一次の条件付きの規範は次のようなものである:社会生活を営む人間は、常に規則に従って振る舞うべきである。この一次規範を「遵守(Befolgung)」するためには、二次規範を構成する必要がある:公務員(öffentlichen Beamten)は、国民(Subjektes)が規則に従って振る舞う限り、国民の生命、財産、自由の安全を確保すべきである。しかし、公務員の「積極的(positive)」な振る舞いを対象とするこの二次規範は、公務員が「違反(verletzt)」した場合には、三次規範の条件として機能する:公務員が、規則に従って振る舞う国民の生命、財産、自由の安全を確保する義務を果たさなかった場合、その公務員は罰せられるべきである。その結果、必然的に相互に連関する三つの規範命題の系列ができあがる。このうち、二次規範は、一方では一次規範の「遵守」を条件とするが、他方では、その二次規範の「違反」が三次規範の効力を引き起こすのである。
52507 このような相互に連関する法命題(Rechtssätze)の繋がりは、最初の一次の条件付き規範の違反があった場合にも存在しうる。例えば、(一)人は盗みを働いてはならない。(二)人が盗みを働いた場合、公務員は一定の刑罰(Strafe)を執行すべきである、(三)当該公務員が刑罰を執行する義務(Pflicht)を果たさない場合、当該公務員も罰せられるべきである、という三つの必然的に連関する規範命題(normativen Sätze)の序列(Reihenfolge)が得られる。複雑な法命題定式化のこの序列(Reihenfolge)は、さらにさまざまな方向に追求することができる。しかし、序列の最後には常に強制力の行使(Zwangsausübung)の契機(Moment)があり、その条件は直前の規範の「違反(Verletzung)」にある。この意味で、法命題は最終的に、一次規範(primären Norm)に反する振る舞いを条件付の構成要件(Tatbestand)として、当為連関におけるその法的帰結としての一定の強制行為(Zwangsakt)、すなわち刑罰や処刑、と結びつけていると想定することができる。
52508 ここで問題となるのは、法は常に、強制行為(Zwangsakt)を不可欠な(unentbehrlichen)構成要素(Bestandteil)として含む、そのような法命題(Rechtssätze)の総体(Inbegriff)としてのみ理解されなければならないのか、ということである。というのも、一次規範(primäre Norm)は、その違反が強制規範としての現実の法命題の出現の前提条件となるものであり、日常的・科学的な言語の慣用(Sprachgebrauch)に従えば、それだけで「法規範(Rechtsnorm)」と表現されるべきものだからである。
52509 この連関(Zusammenhang)で指摘しなければならないのは、ケルゼンは、我々が「一次(primäre)」規範と呼んできた、実際の法命題の構成を決定する(bedingende:条件付き)規範を「二次(sekundäre)」規範と呼んでいることである。ケルゼンにとって、強制行為が必然的に法的帰結として含まれる法命題のみが、第一義的(primäre)かつ本質的な(eigentliche)法規範とみなされるが、一方、この強制規範を条件づける(bedingende)規範は、強制行為の具体的な最終的帰結(letzten Folge)があるからこそ法規範と呼ぶことができるのであって、第二義的で相対的に独立した法規範にすぎない。例えば、必然的に連関する二つの当為命題(Soll-Sätze)を考えてみよう。契約者は常に契約に従って(vertragsmäßi)振る舞うべきである(一)、しかし、もし契約者が契約に従って振る舞わない場合は、契約相手の要求に応じて強制執行がなされるべきである(二)。この例では、ケルゼンにとって、執行をもたらすこの第二の規範は、一次の独立した法規範であり、第一の規範は単なる二次の法規範を意味する2311。 この用語法は、ケルゼンの法理論的考察の重心が常に、強制行為(Zwangsakt)を必然的な法的帰結(Rechtsfolge)として伴う実際の法命題にある限りにおいて、正当化される。それに対して、より一般的な観点からこの関係(Verhältnis)を逆転させ、最初の規範を「法規範(Rechtsnorm)」と呼ぶこともできる。というのも、日常的な(alltäglichen)社会生活では、法命題に先立つ一次規範に従って行為すれば、人はすでに合法的に(rechtmäßig)振る舞っているからである。一方、強制帰結(Zwangsfolge)を伴う法命題は、社会的現存在とより限定的な構造連関を有している。従って、社会構造論の観点からは、法的帰結として強制行為を伴う法命題のみを「法(das Recht)」とすることには特に疑問がある。
52510 法命題構造のこの分析は、必然的に、法の概念は本質的に曖昧である、すなわち「法(Recht)」と呼ばれる形成体(Gebilde)には基本的に異なる二つの意味(Bedeutungen)がある、という根本的な確信(Überzeugung)に我々を導く。一方、法とは、社会生活を営む個々人に対して、ある特定の(in einer gewissen Weise)振る舞いをする(verhalten)べきことを直接的かつ一般的に指示する(vorschreibt)社会規範(soziale Norm)を意味する。社会生活における一般的な規則(Vorschriften)、例えば、「人は盗んではならない」あるいは「人は契約に従って振る舞うべきである」などは、こうした社会規範の明確な例である。社会規範は、その有効性を直接的に保証するものを、強制力の行使(Zwangsausübung)の中に見出すのではなく、まさに人々(Volkes)の多かれ少なかれ明確に意識された「正義感(Rechtsgefühl)」の中に見出すのである。
52511 一方、これとはまったく対照的に、法とは、仮定に基づいた判断(Urteil)の中で本質的に表出される(ausdrückt)法命題を意味する。純粋法学(reinen Rechtslehre)が最初に明確に示したように、法命題とは、典型的な事例において、社会規範に反する振る舞いが条件づけ構成要件(bedingender Tatbestand)であり、条件づけられ構成要件(bedingtem Tatbestand)としての強制行為(Zwangsakt)と結びつけられる特定の当為連関(Soll-Zusammenhang)の中で、まさに法的帰結(Rechtsfolge)として現れる規範である。通常、社会規範の違反(Verletzung)、そして特別な場合には逆にその遵守(Befolgung)が、法命題が効力を発揮するための条件(Bedingung)である。しかし、法命題は、必然的かつ例外なく、特定の社会規範の一次的有効性(primäre Geltung)を前提とする。社会規範に違反した場合、法命題が機能する。この機能を通じて、法命題は個々人の振る舞いを決定し規制するのではなく、まさに公的機関が強制行為(Zwangsakt)を行うが、その目的は一次的な社会秩序の維持(erhalten)または回復(wiederherzustellen)にある。従って、その性質上、法命題は、まさに社会団体の機関に向けられたものであり、究極的には社会全体としての団体に向けられたものである。法命題は、社会団体の諸機関、あるいは社会全体そのものの規範であり、その基本原理(Grundprinzip)は、いわゆる正義(Gerechtigkeit)の思想(Idee)に直接見出されるものではなく、むしろ一次的な社会秩序の機械的な(mechanischen)維持(Aufrechterhaltung)と回復にある。従って、社会全体の振る舞いに関する法規範としての法命題は、個々人の振る舞いに関する法規範としての社会規範と、明確に対比されなければならない。
52512 このように、法命題の構造を分析することで、法の社会構造に関する議論とまったく同じ結論に達した。あちこちで、法は社会秩序としての法と強制秩序としての法という独特の二重構造でその姿を現す。結局のところ、社会規範(soziale Norm)とは社会秩序(sozialer Ordnung)としての法の基本形式(Grundform)に他ならず、法命題(Rechtssatz)とは強制秩序(Zwangsordnung)としての法の典型的表出(typische Ausdruck)に他ならない。
52513 社会規範の総体(Inbegriff)として、法は個々人の社会的振る舞いを規制し、それによって一次的かつ本来の(ursprüngliche)社会秩序を維持する。しかし、法命題(Rechtssätze)の典型である法は、侵害された社会秩序を強制力の行使(Zwangsausübung)によって回復することを目的としている。従って、侵害された社会秩序を回復する機能を持つ強制秩序としての法は、何よりも司法判断(richterlichen Entscheidung)と下された司法判断の強制執行(zwangsmäßigen Durchsetzung)につながる。このように、オイゲン・エールリッヒ(Eugen Ehrlich)が発展の歴史に関する詳細な研究の中で正しく認識しているように、法命題は当初、「決定規範(Entscheidungsnormen)」として定式化された2331。レオン・デュギー(Léon Duguit)の用語によれば、それは「構築的あるいは技術的な規制(Regeln)」であり、司法行為(Gerichtsakte)による一次的社会秩序の侵害に対する必要な対抗措置(Gegenwirkung)を確保することを任務としている2332。この意味で、末弘厳太郎2333が明瞭に示しているように、法命題(Rechtssätze)は「司法規範(die gerichtlichen Normen)」であり、司法機関(Justizorgane)の振る舞いを規制することを意図している2334。決定規範(Entscheidungsnormen)や司法規範(gerichtliche Normen)として、法命題(Rechtssätze)は、「法律(Gesetz)」に成文化(Kodifizierung)されることで完全な発展を遂げる。発展したローマ法や近代法の大部分は、司法上の(gerichtlichen)強制規範(Zwangsnormen)という意味での法命題(Rechtssätzen)で構成されているが、成分化された社会規範(soziale Normen)はごくわずかしかなく、むしろ、ほとんどの場合、成文化されずに、単に「前提(voraussetzen)」としているに過ぎない。巨大な法律体系(System der Gesetze)と、不可分に結びついた裁判所と強制執行機構(Zwangsapparates)全般の組織は、このように全体として、強制秩序としての法を完璧に表出している。
52514 このことから、強制秩序としての法は、その性質上、公法(öffentlichen Rechtes)の構造を持つのに対し、社会秩序としての法は、私法の(privatrechtlichen)構造の中で最初から形成されるということが、これ以上説明するまでもなく導かれる。強制秩序としての法は公法である。なぜなら、一方では、社会全体またはその機関の振る舞いを原則的に規制し、他方では、この社会全体そのものにその実際の強制執行(Zwangsvollstreckung)において、その執行の最終的な保証(Garantie)を見出すからである。対照的に、社会秩序としての法は、社会的行為を行う個々人のみを対象としているため、基本的に(grundsätzlich)私法(Privatrecht)である。よく知られているように、ケルゼンは公法と私法の違いをまったく否定しているが、彼の観点からはそれなりの理由がある。なぜなら、彼は強制秩序としての法しか法として認めておらず、このことは基本的に公法の構造に反映されているからである2341。この論理的な考え方では、ケルゼンは、しかし、法のもう一つの同じように広範な領域、すなわち、私法において構成される社会秩序としての法を、法理論研究の領域から完全に追放しなければならなかった。他方、社会秩序としての法を法の一類型として理解し、これを法学(Rechtswissenschaft)の課題として認識するのであれば、公法と私法の伝統的な区別を維持する必要性を認識しなければならない。

52515 法の二重構造に関するこの議論全体から、「社会団体(sozialen Verband)」と最も密接な連関にあるのは、まさに強制秩序としての法であることがようやく明らかになった。というのも、強制秩序としての法が直接的に社会団体の諸機関の振る舞い、つまり最終的には団体そのものに向けられるのに対し、社会秩序としての法は本質的に個々人の社会的行為を規制することに限定されるからである。従って、社会秩序としての法は、主に個々人の間の社会「関係(Beziehungen)」と必然的な連関にあるが、社会団体(sozialen Verband)とはそれほど密接(eng)かつ直接に(unmittelbar)は連関していないと言わざるを得ない。一方、強制秩序としての法は、一次的な社会秩序に対する実際のあるいは起こりうる侵害を契機として(anläßlich)として発展し、その体系的に発展した形式(Form)において、社会全体の対応する体系的に分化した機関の行為を規制する。こうして、強制秩序と強制装置としての法の体系全体が、複雑に階層化された社会団体の構成と必然的に並行して形成される。この必要な連関(Zusammenhang)において、一方では、強制秩序としての法は、社会団体(sozialen Verbandes)自体の振る舞い(Verhalte)を規制し、それによって当該団体(Verbandes)内の社会秩序の維持と回復を保証し(gewährleistet)、他方、団体は、その発達した司法制度・強制装置(Gerichts- und Zwangsapparat)をもって、強制秩序としての法にその有効性(Gültigkeit)の最終的な保証(Garantie)を与える。
52516 従って、「国家(Staat)」とは、結局のところ、強制秩序として体系化された法と構造連関し、この法を執行するための独自の決定・執行機構(Entscheidungs- und Vollstreckungsapparat)を持つ、複雑に組織化された団体に他ならない。しかし、強制秩序としての法(Recht)の総体(Inbegriff)を「法律(Gesetz)」と呼ぶのだから、国家(Staat)は法律的(gesetzlich)に組織化された団体であり、法律(Gesetz)は国家によって体系化された強制秩序としての法(Recht)であるとも言える。(訳者注:基本的に、Recht=法、Gesetz=法律、と訳す)
52517 当為連関(Soll-Zusammenhanges)の最後の要素における強制規範としての法命題(Rechtssatz)が強制行為(Zwangsaktes)の「執行者(Vollstrecker)」としての社会団体そのものを概念的に含み、従って、強制秩序がその究極的な統一性において「国家(Staates)」の概念と一致するという事実は、ケルゼンによってすでに「帰属(Zurechnung)」と「法的意志(juristischen Willens)」の理論において表現されている。
52518 ケルゼンは、法命題の論理的分析を通じて、法命題が、一次規範に反する振る舞いを条件づけ(bedingenden)構成要件(Tatbestand)とし、ある強制行為と条件づけられ(bedingtem)構成要件として、すなわち法的帰結(Rechtsfolge)として、当為の連関に基づきで結びつけることを示す。ケルゼンは現在、条件づけ(bedingenden)構成要件(Tatbestand)と強制行為との特定の結びつき(Verknüpfung)を「帰属(Zurechnung)」と呼んでいる2351。この帰属の概念によって、ケルゼンは「法的意志」の問題の最終的な解明を試みる。ケルゼンによれば、純粋に法的な意味での意志(Wille)とは、帰属連関(Zurechnungszusammenhang)が「人間の中に(im Innern des Menschen)」求める「終点(Endpunkt)」に他ならない2352。その帰属は、条件づけ構成要件と、法的結果すなわち強制行為の二つの異なる方向に辿ることができる。条件付き構成要件の方向性に従って帰属の線をたどっていくと、ある終点に行き着く。それは通常、個々人の意思であるが、公務員の不正行為であれば国家機関の意思であることもある。これとは対照的に、法的帰結(Rechtsfolge)である強制行為の方向に従って帰属の線を追求すれば、常に、そして必然的に、最初は国家機関の意志の中に位置する帰属に到達するが、最終的には一点、すなわちいわゆる「国家の意志(Staatswillen)」を指し示す帰属の終点に戻る。ケルゼンが言うように、「すべての帰属(Zurechnungslinien)の線は、いかなる自然主体(physischen Subjektes)の外側にもある共通の点に集結される。このような帰属(Zurechnung)が生ずる個人(Individuen)は国家機関(Staatsorgane)であり、機関行為と認定された構成要件(Tatbestanden)から発せられるすべての帰属線の集合点(gemeinsame Treffpunkt)は国家の意志(Staatswille)である2361」ケルゼンの法理論体系の主な特徴は、人間の振る舞いの強制秩序としての法が、その統一的な全体性において国家と同一視されるというものであるが、それは法命題論(Rechtssatzlehre)に基づく構造(Aufbau)によってあらかじめ決められている。
52519 しかし、我々はここで、国家と法の単純な同一性に関心を抱いているのではなく、強制秩序としての法は、本質的に、国家法(訳者注:国内法)であり、社会的全体としての国家は、その振る舞い(Verhalten)において法によって決定され、規制される、一方、法は、国家の強制執行の中に、その執行の究極的な保証を有するという事実に関心を抱いている。国家と法は同一(identisch)ではないが、互いに密接不可分な構造連関(Strukturzusammenhang)にある。強制規範の体系がなければ、国家は、国家のない法(das Gesetz ohne den Staat)と同様に、基本的に考えられない。これら二つの精神的実体(geistigen Gebilde)、すなわち国家と法、の連関は非常に緊密で直接的なものであり、一方は他方の助けがあって初めて概念的に成立できる。国家の概念が法の概念を不可欠な前提条件とするのか、それとも法の概念が国家の概念の論理的前提を形成するのかという伝統的な問題は、あらかじめ解決不可能(unlösbar)であるとされている。というのも、この二つの概念は同じ源泉に由来し(entstehen gleichursprünglich)、厳密に相関関係にあるからである。国家や法の形式論理的な卵と鶏の関係(Prius)の問題は、擬似問題(Scheinproblem;みせかけの問題)である。
52520 社会団体としての国家と規範体系としての法を構造連関の中で研究しようとするこの試み(Versuch)に対して、これまたケルゼンが強く批判した「両面理論(Zweiseitentheorie)」であるとの反論があるだろう。というのも、我々は社会団体をそれ自体理念的な精神的実体として理解し、社会的団体論の基礎には「両面理論(Zweiseitentheorie)」に引き戻される危険がまったく含まれていないことを、本書の序文で上記で明らかにしたところであり、この団体の意味が実現される事実的な生活過程をもはや団体そのものとは見なさず、単にその「現実の根拠(Wirklichkeitsboden)」と見なすからである2362。一方で、ここでは新たな問題群の中で「両面理論」への回帰に対する懸念が生じている。というのも、ディルタイの構造理論に基づけば、我々は、構造連関している客観的実体は同時に存在しなければならないため、国家と法はある意味で、存在する同一の客観的実体の「二つの側面」を構成し、同時に精神的な全体性を形成しなければならないことを認識しなければならないからである。しかし、国家と法の関係についての我々の見解(Auffassung)は、ケルゼンの方法論的批判(methodische Kritik)が向けられたいわゆる両面理論とは本質的にまったく異なるものである。これは、認識論的(erkenntnistheoretisch)に非常に素朴な(naiven)主張(Behauptung)である。「それによると、国家は、因果的に決定された存在世界に存在する自然な社会的現実であるが、他方では法的存在(Rechtswesen)、法人(juristische Person)であり、従って、因果科学的社会理論(kausalwissenschaftlichen Soziallehre)と規範的法理論(normativen Rechtslehre)という、方法論的にまったく異なる二つの思考過程の対象になる2371」ケルゼンはこれを、「一つの同じ認識対象(Erkenntnisgegenstand)が、因果的な(kausale)存在観(Seins-Betrachtung)と規範的な(normative)当為観(Soll-Betrachtung)のように、前提的にまったく異なる二つの認識の方向性によって決定されることはありえない」という原則で的確に批判している2372。国家(Staat)を単なる自然の領域に追いやろうとするこの両面理論(Zweiseitentheorie)とはまったく対照的に、我々は、国家の現存在領域(Daseinssphäre)を、理念的であると同時に現実的な精神の世界における社会団体(sozialen Verbandes)として認識し、それを実定的な法秩序(Rechtsordnung)と最も密接に連関させながら探求したいと考えている。両方の対象は、理念的でありながら現実の精神的実体として、一つの対象圏に属し、従って最終的分析においては同じ哲学的基礎の上に構築された科学群、すなわち人文科学の社会科学を形成する。

52521 国家は、強制秩序としての統一法体系と構造的に連関する具体的な類型の団体であり、その結果、必然的に司法制度・強制装置(Gerichts- und Zwangsapparat)の発展した組織を伴う。このことから、国家は何よりもまず、「社会(Gesellschaft)」の構造を持つことがわかる。なぜなら、強制秩序としての法は、必然的に「社会化の法(Recht der Vergesellschaftung)」と相関的な(korrelativem)連関(Zusammenhang)で発展するからである。特定の団体における社会関係形式(sozialen Beziehungsformen)が社会化されればされるほど、法は強制的な秩序として、より体系的(systematischer)かつ有機的(organischer)に形成される。従って、社会化の社会秩序は必然的に、現在侵害されている秩序を回復するか、少なくとも侵害の可能性を防止する機能を持つ強制規範の体系化(Systematisierung)を伴う。社会の発展形式(entwickelte Form)は、社会化の基盤の上に、また社会化秩序(vergesellschaftenden Ordnung)の基盤の上に形成されるものであり、従って、強制秩序としての組織された法と本質的に構造連関していなければならない。この社会は本質的に同時に国家でもある。この事実は、ある団体、例えばある部族(Stamm)が戦争(Kriege)で他の部族を破り、勝利した団体の構成員と敗れた団体の構成員が、支配(herrschender)階級と被支配(beherrschter)階級(Klasse)の対立(Gegensatzes)は維持されたままであっても、同じ、より広範な団体の中で生き続けるようになったときに、特に明らかになる。このようにして設立された団体は、一般に、極めて強力な社会構造をも持ち、この社会化する(vergesellschaftende)社会秩序は、本質的に、強制秩序と強制装置としての高度に発達した法体系を必要とすることは、容易に明らかである。この意味で、フランツ・オッペンハイマー(Franz Oppenheimer)が国家の成立(Entstehung)を、より強い(stärkeren)団体(Verband)によるより弱い(schwächeren)団体の軍事征服(kriegerischen Eroberung)と抑圧(Unterdrückung)の進化的(entwicklungsgeschichtliche)結果(Ergebnis)であると説明するのは、まったく正しい2381
52522 対照的に、「共同体(Gemeinschaft)」はその本質的な存在様式(Seinsart)に従い、国家という形式で現れることはできない。というのも、「共同体化の法(Recht der Vergemeinschaftung)」は、その社会構造そのものが「社会化の法(Recht der Vergesellschaftung)」と対立するものであり、強制秩序として統一的に組織された法体系を伴わないという事実によって本質的に特徴づけられるからである。もちろん、共同体であっても、一次的な社会秩序が侵犯され、破壊される一定の危険性は常にある。共同体において、実際の秩序侵犯があれば、当該共同社会団体(gemeinschaftlichen Verbandes;自治会)の「機関(Organ)」として首長や長老会が介入し、司法判断(richterliche Entscheidungen)を下したり、強制行為を行ったりする。社会秩序を侵犯する者に対する共同体全体の介入(Intervention)は、時には利益社会団体的団体(gesellschaftlichen Verbandes)の組織的強制力の行使(Zwangsausübung)よりもはるかに厳しいものでさえある。それでもなお、共同体における強制規則(Zwangsregeln)と強制力の行使(Zwangsausübungen)は、その性質上、非常に原始的で非体系的な状態にとどまっている、というのも、社会性の共同体世界における犯罪や抗争は、通常、非常に公然と起こり、しかも偶にしか起こらないので、危機に瀕した秩序を回復するには、その都度の支配者(Herrschers)の決定(Entscheidung)と強制執行(Zwangsvollstreckung)で十分だからである。従って、共同体(Gemeinschaft)は当初から国家以前の(vorstaatlichen)状態にとどまることを宿命づけられていたのである。
52523 共同体(Gemeinschaft)や社会(Gesellschaft)の合成形式としての「協成社会団体(Körperschaft)」が「国家(Staat)」でもありうるかどうかというさらなる問い(Frage)には、一般的に肯定的に(bejahend)答えなければならない。協成社会団体(Körperschaft)は、社会関係(sozialen Beziehungen)の価値合理性(Wertrationalität)と、人間的・社会的なものを超えた価値の超越性によって特徴づけられるとはいえ、社会秩序侵犯の可能性が最初から排除されるような、社会的現存在の理想郷的(utopischen)状態を意味するものではない。複雑で広範な協成社会団体(Körperschaft)において、それでも団体(Verband)は、統一的に組織された強制秩序(Zwangsordnung)と必要不可欠な構造連関にある。特に、上位団体としていくつかの下位団体を含み、結果として「団体の団体(Körperschaft aus Körperschaften)」という構造を持つような協成社会団体(Körperschaft)を考える場合、そうでなければならない。一般的に、複雑な階層を持つ協成社会団体(Körperschaft)は、国家(Staates)の形式で現れる。
52524 人間の社会性の歴史の中で、国家(Staat)が協成社会団体(Körperschaft)という形式で、つまり文字通りの意味での「文化国家(Kulturstaat)」として、本当に真の姿を現した例も時折見られる。もちろん、一般的に受け入れられている国家の形式が、特に現代においては、本質的に「社会的に(gesellschaftlich)」構成されたものであることは認めなければならない。国家は強制秩序として統一的に組織された法と構造連関する団体の一類型であり、国家は従って共同体(Gemeinschaft)の形式ではありえない。その性質上、国家は社会(Gesellschaft)として、あるいは協成社会団体(Körperschaft)として形成されるが、歴史的・社会的現存在の現実においては、社会自体の内部構造を示すことが最も多い。

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第二十六節 世界団体(Weltverbandes)の理念と国際実定法(positive Völkerrecht)

52601 今日、人間の社会的現存在は転換期を迎えており、その転換の重大さ(vollen Ausmaß)はいまだ十分には把握できていない。いずれにせよ、人類全体がより緊密で強固な結合(Zusammenschluß)へと向かっていることは確かである。このように、一方では、以前は厳格に自己完結した社会団体(sozialer Verband)として人間生活領域の大部分を包含し統治してきた国家(Staat)が、その機能を、法の制定(Setzung)と適用(Anwendung)、社会秩序(sozialen Ordnung)の安全(Sicherheit)の保障(Gewährleistung)など、自らの活動領域に限定する傾向が強まっている。他方で、国籍(Staatsangehörigkeit)の境界を越えて、人間は様々な生活連関(Lebenszusammenhängen)の中で、より親密で、より広い繋がりを形成する傾向がある。世界市場(Weltmarktes)の組織化、国際交通(Weltverkehres)全体の体系化、国際的な科学団体の設立などは、国境を越えて(über- und außerstaatlichen)人間を結びつけるこの傾向をすでに十分に裏づけている。国家(Staat)や国民(Volk)が究極かつ最高の社会的統一体(Ganzheit)であるという考え方は、人間の社会性の客観的事実がこのように激変していることを前にしては、到底維持することはできない。
52602 しかし何よりも、国際法学(Völkerrechtswissenschaft)の分野では、超国家的な社会的統一体としての「世界団体(Weltverband)」がすでに真に存在し、現在も存在しているのかどうか、すなわち、国際法(Völkerrecht)がこの究極の社会的統一体の法秩序(Rechtsordnung)として理解できるのかどうかが問題となる。
52603 アルフレッド・フェルドロース(Alfred Verdross)は、この問題に関連する実定的・肯定的(positiv-bejahenden)見解の最も重要な代表者の一人と見なされるに違いない。彼の思考の発展(Gedankenentwicklung)はケルゼンと密接に連関しているが、フェルドロースは常に、法によって根拠づけられる社会団体(sozialen Verband)、「法共同体(Rechtsgemeinschaft)」と、この団体を確立する法規範(Rechtsnormen)の総体(Inbegriff)、「法秩序(Rechtsordnung)」を、迂闊に同一視してはならないという見解を堅持している。従って、世界団体(Weltverband)の真の存在という問題は、彼にとって、国際法秩序(Völkerrechtsordnung)によって確立された人間共同体(menschlichen Gemeinschaft)の現存在、すなわち「国際法共同体(Völkerrechtsgemeinschaft)」の現存在を一般的に認めることができるかどうかという問題となる。この問題を追求して、世界団体と国際実定法秩序(positiver Völkerrechtsordnung)との連関を論じることで、社会団体(sozialen Verbandes)の具体的存在様式についての考察を終えることにする。

52604 フェルドロースによれば、あらゆる「法共同体」は、ある「法秩序(Rechtsordnung)」と必要不可欠な構造連関を持つ。「すべての法共同体は、法規範によって基礎づけられた共同体である。法共同体とは、法規範の輪(Kreis)によって一つの単位として認識され、それによって他から区別される共同体でしかない。法の統一のみが、法共同体の統一をもたらすのである2401」従って、「法共同体」は「規範に対応する(normentsprechenden)事実(Tatsachen)」の総体(Inbegriff)であり、法は規範の体系(System)そのものである。この二つを同一と解することは、伝統的な言語の慣用を蹂躙するだけでなく、法の規範的性格を曖昧にすることになる。その結果として、フェルドロースは「法秩序として一定の規範の総体(Inbegriff)を指定し、法共同体として法秩序によって規制される行為の総体、すなわち法行為(Rechtshandlungen)を指定することが望ましいかもしれない」と主張する2411
52605 今日、複数の国家間の関係(Verhältnis)を規制することを目的とした一定の法規範が存在し、それが「国際法規範(völkerrechtliche Normen)」と呼ばれていることは、議論の余地のない事実である。唯一の問題は、これらの国際法規範の総体を「統一された(einheitliche)」法秩序(Rechtsordnung)とみなすことができるかどうかである。これらの規範の全体(Gesamtheit)が統一された秩序を形成するのであれば、それによって規制され決定される法行為の総体(Inbegriff)もまた、統一された共同体(Gemeinschaft)とみなすことができ、「国際法共同体」の現存在を科学的に裏づけられる。フェルドロースによれば、あらゆる法共同体の統一性は、常に、必然的に、それに対応する法秩序の統一性によって決定される。このように、統一された(einheitlichen)国際法共同体の現存在という問題は、国際法秩序そのものの統一性(Einheit)を前提としており、必然的にそれによって条件づけられている。
52606 国際法秩序の統一性の問題を論じる際、フェルドロースは純粋法学(reinen Rechtslehre)に特有の(eigentümliche)考え方(Auffassung)「法秩序の段階的構造(Stufenbau der Rechtsordnung)」と、それと必然的に連関する「根本規範(Grundnorm)」の理論を用いるようになった。フェルドロースによれば、国際法の規範の統一性は、個々の規範が「一つの規範が一つ以上の他の規範を参照し、一つの規範が一つ以上の他の規範に委任する」ような形で互いに結びついている場合、すなわち、「参照(Verweisung)」または「委任(Delegation)」という必要不可欠な依存関係連関(Abhängigkeitszusammenhang)に置かれている場合にのみ認められる。「すべての国際法規範が、参照連関(Verweisungszusammenhang)、任命と受命(berufenden und berufenen)、委任と受任(delegierenden und delegierten)の規範という委任連関を形成する場合にのみ、統一された国際法秩序を語ることができる」と言う2412。このような委任連関(Delegationszusammenhang)は、階層秩序(stufenmäßigen Rangordnung)として現れ、最高規範(höchste Norm)が特定の法秩序の考えうるあらゆる規範を委任し、その結果、この法秩序全体の統一性を確立することに必然的につながる。純粋法学は、特定の階層的に組織された法体系の最高規範を「根本規範(Grundnorm)」と呼ぶ。従って、国際法の規範の統一性は、「根本規範」が有効であるという事実によってのみ構成され、この「根本規範」の中に、他のすべての国際法規範が直接的または間接的にその最終的な有効性の根拠(Geltungsgrund)を見出すことができる。「従って、国際法の統一性の問題は、国際法の根本規範の問題とともにある2421
52607 加えて、フェルドロースは、根本規範はその性質上、実定法秩序に関する科学的認識を可能にする認識論的「仮説(Hypothese)」として理解されるべきであるとするケルゼンの見解(Auffassung)を批判している2422。フェルドロースは、根本規範はあらゆる実定法秩序(positiven Rechtsordnung)の不可欠の前提条件(Voraussetzung)であると考えるが、それは法認識(Rechtserkenntnis)を可能にする科学的な基本仮説という意味ではなく、「客観的規範(objektive Norm)」として実定法有効性の究極的根拠を決定するにすぎないという意味である2423。シュライアー(Fritz Schreier)が的確に言うように、根本規範は、それゆえ、実定法命題の有効性に関するあらゆる疑問が参照されなければならない究極的な源泉として理解されなければならない2424。それは、実定法の委任連関の最も原初的な(allerursprünglichsten)構成要件、すなわち「基本的構成要件(Grundtatbestand)」を確立する実定法規範である2425
52608 このように根本規範を原理的に「客観的規範(objektive Norm)」として、さらに「客観的価値(objektiven Wert)」として理解することによって、フェルドロースは、一方では国際法(Völkerrechtes)の発展の歴史と国際法学(Völkerrechtswissenschaft)のより正確な議論に基づき、他方では実際の国家実務の紛れもない(unleugbaren)経験(Erfahrung)に基づき、「pacta sunt servanda(パクタ・スント・セルウァンダ;合意は守られなければならない)」という成句の中でそれを確立したのである2426。この原則は国際法の根本規範であり、それは、国際法の当為連関(Soll-Zusammenhanges)の原初的事実を決定するものであり、その結果、あらゆる国際法規範(völkerrechtlichen Norm)の究極的な有効性根拠(Geltungsgrund)を確立するものだからである2427(訳者注;是非すぐに参照されたい)。従って、国際法規範の総体(Inbegriff)とは、決して国家間の個々の法規範の積み重ねではなく、「国際法秩序(Völkerrechtsordnung)」という段階的な委任連関(Delegationszusammenhang)の中で、「pacta sunt servanda(パクタ・スント・セルウァンダ;合意は守られなければならない)」という国際法の根本規範によって組織された統一体(Einheit)なのである。
52609 国際法がその本質上、統一された法秩序を形成しているという事実から、フェルドロースの前提によれば、国際法によって決定され根拠づけられる実際の法行為(Rechtshandlungen)もまた、全体として統一された法共同体、「国際法共同体(Völkerrechtsgemeinschaft)」、を形成しているということになる。国際法とは、真に存在する国際法共同体の法秩序である。国家法秩序(Staatsrechtsordnung)の一般的な部分が当該国家共同体の憲法(Verfassung)と呼ばれるように、国際法の一般的な部分も「国際法共同体の憲法(Verfassung der Völkerrechtsgemeinschaft)」と呼ぶことができる。この事実はまた、国際法秩序が、国家法秩序と真っ向から対立する法体系(Rechtssystem)ではなく、いくつかの国家秩序をその部分的秩序として包含する包括的な法秩序でなければならないという事実とも必然的に連関している。そのためフェルドロースは、国際法と国家法を完全に分離する「二元論的(dualistischen)」法理論と断固として対決し、究極の統一体である国際法秩序が国家法秩序に優先することを明確にする「一元論的(monistische)」法構成を主張する。国際法と国家法との関係は、決して並立するものではなく、論理的な法的意味において理解される上位秩序、下位秩序の関係である。この関係は結局のところ、「国際法は『国家間(zwischenstaatliches)』でも『国際(internationales)』でもなく、超国家的な、超国家法(übernationales Recht)である」ことを意味する2431。それに応じて、「国際法共同体」とは、複数の独立した国家からなる単なる連合体(Verbindung;繋がり)ではなく、究極的には「超国家的」な「超国家団体(übernationaler Verband)」であり、各国家は自国の存在を保持しつつも、最終的には下部連合体としてそれに属するものであると言わなければならない。

52610 超国家的な法的団体の存在が真実であるというフェルドロースの明確かつ決定的な主張は、否定的な学派を代表する批評家からは単なる「むだ話(Gerede)」に過ぎないと評される。アレクサンダー・ホルト=フェルネック(Alexander Hold-Ferneck)はこれについて次のように述べた。「『国際法共同体』という言葉は、各国家が大きな連帯感を抱いて(solidarisch fühlen)おり、全体として平和のうちに共生(zusammenleben)し、共働(zusammenwirken)しているという前提(Annahme)につながる。各国家には確かに多くの利害が共通している。まさにこの事実こそが、国際法を生み出したのである。しかし、国際法がこのように構成されているのは、国家の利害がしばしば対立するからであることは間違いない」と2441
52611 ホルトによれば、人間の社会的現存在のありのままの事実は、すべての近代国家が他のすべての国家から基本的に孤立していることを明確に示している。平和愛好家(Friedensschwärmer)たちは、「主権(Souveränität)」という概念はすでに有用性を失い、国家間の連関では「連帯(Solidarität)」がますます主権に取って代わり中心的な役割を果たしつつあると自信を持って言える。「しかし、一般的に適用される規制(Regeln)が少ないことこそ、国家間に真の連帯がないこと、そして各政府(Regierungen)がそうした連帯をあまり感じていないことを示している。もし各国家が本当に連帯しているのであれば、国際法がこれほど断片的で、その最も重要な規範(Normierungen)がこれほど脆弱だということは看過できないであろう2442」だからこそホールドは、「国際法共同体(Völkerrechtsgemeinschaft)」という概念だけでなく、複数の国家間の「連帯(Solidarität)」という概念も、現在の社会的現存在の状態において客観的かつ現実的な相関関係(Korrelat)を見出すことはできず、従ってそれは、あらゆる余分な概念と同様に、誤った結論(Schlüssen)に導くだけだと考えている。
52612 フェルドロースとホルトの見解、すなわち「国際法共同体」の真の現存在に対する肯定的な(bejahenden)態度(Einstellung)と否定的な(verneinenden)態度の間にあるこの際立った対比は、二つの理由(Gründen)から生じていると筆者は考える。第一の理由は、この見解の相違(Meinungsverschiedenheit)は「国際法共同体」の概念規定(Begriffsbestimmung:定義)が曖昧(Vagheit)なことである。フェルドロースは、この概念を事実上の実態(Sachverhalt)を指すものと理解しているが、もちろん、もはや言葉の厳密な意味での「世界団体(Weltverband)」と理解することはできない。しかし、この問題を完全に明確にするためには、「国際法共同体」という概念の正確で一義的な定義(Bestimmung)が不可欠である。第二の理由は、国際法共同体の「現存在(Dasein)」について、一方では単に理念的な「存在(Existenz)」という意味で、他方では真の「現実的存在性(Wirklichseins)」という意味で、二つの根本的に異なる意味で語ることができるという事実が、同じ問題についての根本的に異なる意見を可能にしていることである。世界団体(Weltverbandes)の客観的現存在という問題は、「現存在(Daseins)」という概念の二重の意味(Doppelsinnigkeit:曖昧性)を明確に認識せず、それをときにはある意味で使用し、ときには別の意味で使用する場合、決して最終的な解決には至らない。
52613 まず第一に、フェルドロースがその概念化(Begriffsbildung)に基づき、極めて論理的に「国際法共同体」の真の現存在を主張していることを認めなければならない。フェルドロースは「法共同体(Rechtsgemeinschaft)」を、すなわち法秩序(Rechtsordnung)によって規制される行為の総体(Inbegriff)だと理解している。もしフェルドロースとともに「国際法共同体」を、国際法秩序によって統一的に規制された事実上の「法的行為(Rechtshandlungen)」の総体という意味においてのみ理解するならば、ヴァードロスとともに、国際法共同体が今日すでに客観的にかつ真に存在していることも認識しなければならない。というのも、現在の(gegenwärtige)国際法が、もはや個々の散在した二国家間の法的規則(Rechtsregeln)の単なる集積ではなく、基本原則(Grundprinzip)に貫かれた統一的な「法秩序(Rechtsordnung)」として理解できることを、フェルドロースが認めていることは確かだからである。
52614 しかし、フェルドロースの見解(Auffassung)をこのように認識(Anerkennung)するのは、同時に、ある懸念(Bedenken)もある。というのも、真の社会的全体(soziale Ganze)としての人間の(menschliche)団体(Verband)は、単に人間の実際の行為の領域には見い出せないことを、我々は最初から知っているからである。法実証性(Rechtspositivität)の問題に関して、フェルドロースが、法的実体(rechtliche Gebilde)もまた属する「客観的価値(objektiven Werte)」の実際的理念的現存在領域に対する深い洞察力を示し、その上で、この理念的現存在領域とは明確に区別して、「実際に行われた法的行為」の事実的領域に法秩序の「実定性(Positivität)」の根拠を認めるのであれば2451、フェルドロースは、社会的現存在の問題に関しても、社会団体は単に事実的な社会的行為の総体(Inbegriff)と同一ではありえない、事実的な社会的行為の総体は理念的精神的実体(idealen Geistesgebildes)としての団体(Verbandes)の真の存在(Wahrhaftsein)の「根拠(Boden)」に過ぎない、という見解を持つはずである。フェルドロースが実定法の存在様式(Seinsart)を的確に表現した美しい言葉を使うなら、社会団体や法共同体は、理念的精神的実体であり、その頭(Haupte)で価値世界を指し示し、その足(Füßen)で人間の実際の行為という堅固な地盤に立っているのである2452。従って、「国際法共同体」の客観的現存在という問題は、「国際法によって規制される事実上の法的行為の総体(Inbegriffes)」の確立によって解決されるようには決して見えない2461:訳者注;是非すぐに参照されたい
52615 「現存在(Daseins)」という概念が持つ独特の二重の意味(Doppelsinnigkeit:曖昧性)に従って、この問題は二つの異なる次元で提起され、議論されなければならない。まず第一に、「国際法共同体(Völkerrechtsgemeinschaft)」、あるいは我々の用語によれば「世界団体(Weltverband)」が、現在の(gegenwärtigen)社会性(Sozialität)の世界において「理念(Idee)」として客観的に存在するのかどうかを問わねばならないだろう。究極の社会的全体としての「人類(Menschheit)」という考え(Gedanke)が、社会的な思考者および行為者によって広く認識され支持されている限りにおいて、世界団体という「理念(Idee)」の存在は、今日、無条件に(vorbehaltlos)肯定(bejahen)されなければならない。「国際連盟(Völkerbundes)」の創設(Begründung)に、世界団体(Weltverbandes)の意味形成行為(Sinbildungsaktes)の客観的な実行(Vollzug)を認めることさえできるが、こうして形成された世界団体の意味の実際的な意義(Bedeutung)は、究極的な普遍性(Allgemeinheit)の観点からはあまり考慮されずに、それでも少なくともそれを構成する個々の国家団体(staatlichen Verbände)の観点からは考慮され評価されている。つまり、「理念(Idee)」としての世界団体は明らかに既に存在しているのである。
52616 対照的に、理念(Idee )として既に現存在しているこの世界団体(Weltverband)は、同時に、その理念性にもかかわらず、それ自身の「現実的存在性(Wirklichsein)」を持っているのか、つまり、理念的でありながら現実的な既存の精神的実体(Geistesgebilde)として見なす(betrachtet)ことができるのか、という疑問が、今浮かび上がってくる。この問題は、我々の基本的な議論(Erörterung)によれば、社会団体の現実的存在性(Wirklichsein)は一般に相対的な概念(Begriff)であることから、我々に大きな困難をもたらす。一つの社会団体は、内的に調和した、その構成員間の共同体的関係によって成り立っている限り、その限りにおいてのみ、現実のものである。社会団体は、それを支える所属者間の社会関係(sozialen Beziehungen)が、共同体化(Vergemeinschaftung)の特異性(Eigentümlichkeit)を多かれ少なかれ示しているかどうかによって、多かれ少なかれ現実のものとなる。しかし、たとえ最高度に社会化(vergesellschaftende)された関係であっても、共同体化の契機をまったく含まない、つまり、当該社会団体の現実的存在性への関連(Bezug)がまったくないほど純粋な社会化の構造を持つことはできない。従って、ある社会団体がいつ、どの程度、現実的に存在する(wirklich seiend)と認識できるかを明確に判断できる一定の基準(Maßstab)がないため、世界団体の現実的存在性についての意見の相違(Meinungsverschiedenheit)を避けることは難しい。
52617 もちろん、人間の社会性の現状では、世界団体はいまだに現実的存在性(Wirklichseins)のレベルとしては非常に低い段階(Stufe)にあると言わざるを得ない。従って、ホルトが「現存在(Daseins)」という概念を単に「現実的存在性(Wirklichsein)」という意味に理解している限りにおいて、「国際法共同体」の現存在を否定するのは、正しい。世界団体の現実的存在性を支えるはずの複数の国家間の現在の関係(Verhältnis)は、典型的な(typisch)社会化関係(vergesellschaftende Beziehung)であることが判明しているからである。個々の国家が他国との平和的共存(friedliche Zusammensein)や共同作業(Zusammenwirken)を受け入れるのは、それが自国の現存在(Dasein)にとって有利であるか、あるいは少なくとも有利に見える場合に限られる。「すべての国家が、土地(Bodens)や産業(Gewerbfleißes)の生産物を交換するために他の国家を必要としているように、経済(Wirtschaft)は国家を結びつけるものでもあるが、隔てるものでもある。自国の安全と発展をあきらめない国家はすべて、可能な限り経済的に自立し、輸出を増やし、輸入を減らすために、全力で努力する。すべての国家が自給自足(Autarkie:自主独立)を目指し、他国に依存しない(Nichtangewiesensein)ために不可避の努力をすることこそが、我々の時代(unserer Zeit)を特徴づける暴力的な(heftigen)闘争(Kämpfe)を解き放つのである」ということだ2471。そうであるから、国家間の条約(Vertrag:契約)は一般的に、それ自体が内的に調和する関係(Verbindung)を確立することを目的としているわけではなく、利己的な(eigennützigen)目的(Zweckes)を達成するために不可欠な手段として承認され締結されるものであるという特徴を持っている。国家が条約(Vertrag)に真に忠実であろうとするのは、条約の遵守が直接的であれ間接的であれ(mittelbar oder unmittelbar)、肯定的であれ否定的であれ(positiv oder negativ)、自国の繁栄(Gedeihen)や存続(Fortbestehen)のために一定の利益(Vorteil)を約束する(verspricht)場合だけである。このように、複数の国家による平和的な交流(Verkehr:通商)は、常に個々の国家の利己的な都合(Zweckmäßigkeitserwägungen:合目的性検討)に基づいていることは間違いない(zweifellos)。
52618 しかし、このような状況であっても、世界団体(Weltverbandes)の現実的存在性(Wirklichsein)を単純に否定してはならない。もちろん、一見では外的に調和のとれた平和的な国家間関係であっても、根深い利害対立(Gegensatz des Interesses)や、その結果生じる解決し難く、隠蔽されベールに包まれた闘争関係(Kampfverhältnis)の上に成り立っていることが多いことは、今日では否定できない。しかし、だからといって、現在の国家間の関係(Verhältnis)に、内的に融和的で共同体化関係(Beziehung)が一契機(Moment)たりとも含まれていないというわけではない。さまざまな国々(Nationen)で平和主義的な風潮(Stimmung)や運動(Bewegung)がますます広まり、深まり、国際法秩序(Völkerrechtsordnung)の統一的な組織化を目指すようになっており、国際連盟(Völkerbundes)や常設国際司法裁判所(Internationalen Gerichtshofes)の設立にその典型的な表出(Ausdruck)が見られるようになったなかに、国家間関係における共同体化の傾向の紛れもない兆候を見ることができる。従って、世界団体(Weltverband)がすでに理念として客観的に存在し、その基礎となる国家間関係もいわば共同体化的に構成されているとすれば、それは単なる理念(Idee)としてだけでなく、極めて低い程度ではあるが、現実に存在していることを率直に認識しなければならない。
52619 ちなみに、国家間だけでなく、社会性の世界(Welt der Sozialität)一般において、単に外的に調和し、社会化する関係(Beziehun)が現在の典型的な関係形式(Beziehungsform)であるという事実を、我々ははっきりと心に留めておか(klar vor Augen führen)なければならない。従って、複数の国家の国際連関(Zusammenhang)と複数の個々人の国内関係(Verhältnis)との間には、実際には本質的な差(Gradunterschied)はなく、相対的な差しかない。外見上だけは調和している繋がり(Verbindung)を、その根底にある隠れた対立から「偏向させる(ablenkend:そらす)」ための優れた技術(Technik)としての「外交(Diplomatie)」は、国家間関係だけに特有な戦略(Strategie)ではなく、同じ国家に属する個々人の関係においても同様に一般的なものである。現在の各国内の内政上の対立や熾烈な階級闘争にもかかわらず、個々の国家の現実を否定されたくないのであれば、国家間の利害の対立が公然あるいは隠然としていることを理由に、世界団体の現実を、ホルトのように、そう簡単に、しかもそれ以上の議論なしに否定してはならない。

52620 このような人類(Menschheit)の社会的連関(sozialen Zusammenhanges)の現状は、現在の「実定的(positiven)」国際法の構造におおむね反映されている。最終的な分析において、法の「実定性(Positivität)」とは、その現在の「現実的存在性(Wirklichsein)」以外の何ものをも意味しないことは、すでに前述したとおりである。国家間の関係が典型的な(typische)社会化(Vergesellschaftung)であることが証明されている以上、複数の国家間の社会関係を第一義的かつ直接的に規制するすべての「社会規範(sozialen Normen)」の総体(Inbegriff)としての国際実定法(positive Völkerrecht)もまた、本質的に「社会化の法(Recht der Vergesellschaftung)」である。従って、原則的に、国際法秩序は、自己中心的で利己的な個々の国家間の社会化秩序(vergesellschaftenden Ordnung)の構造を持っている。かような自己中心的な考えを持った個々の国家は、自国の利益に必要である限りにおいて、何よりも条約(Verträgen)を締結することによって、偏向した(ablenkend)調和の繋がり(Verbindung)を作り出している。このように、現代の国際法は基本的に契約法(Vertragsrecht)として形成されている。「pacta sunt servanda(パクタ・スント・セルウァンダ;合意は守られなければならない)」の原則は、国際法の根本規範(Grundnorm)として重要な役割を果たしている。それはまさに、現代国際法がその本質上、典型的な社会化(vergesellschaftendes)契約法(Vertragsrecht)だからである。
52621 国際実定法の本質的な特徴は、結局のところ、「社会化の法(Recht der Vergesellschaftung)」としての特殊性にもかかわらず、体系的に発展した「強制秩序(Zwangsordnung)としての法」によって補完されていないという事実にある。我々がこれまで確立した法の構造法則(Strukturgesetz)によれば、「社会化の法」は必然的に「強制秩序(Zwangsordnung)としての法」と並行して発展しなければならないが、一方、共同体化の法は、その保持(Aufrechterhaltung)のために強制による組織的な保障(Garantie)を必要としない。しかし、国際法が社会規範の総体(Inbegriff)として、典型的な社会化で構成されているにもかかわらず、その有効性(Geltung)を保証(Gewährleistung)するための体系的に発達した強制秩序を持たないのは、国際実定法に特有のことである。
52622 このように強制秩序が発達していないことは、現状の国際法ではまだ適切な法命題構築(Rechtssatzkonstruktion)ができないという事実に対応している。完全に構築された法命題(Rechtssatz)においては、それに先行する一定の社会規範に反する振る舞い(Verhalten)は、条件づけの構成要因として、当為連関における法的帰結(Rechtsfolge)としての強制行為(Zwangsakt)と結びつけられなければならない。今日の国際法では、このような法命題構築は非常に困難である。なぜなら、国際法の下での組織的な強制執行手段(Vollzugsmittel)がまだ存在しないからである。その結果、「戦争(Krieg)」に国際法上の強制行為(Zwangsaktes)の性格を帰属させ、国際法において法論理的な(rechtslogisch)法命題構築を可能にする試みも行われている。これによれば、国際法上の法命題(Rechtssatz)は次のように形成されるはずである:ある国家が、ある他国と条約を締結し、その他国が条約に違反する行為を行った場合、締約国または他の特定の国家によって布告された「戦争」は、当為連関(Soll-Zusammenhang)における当該不法(rechtswidrigen)構成要因(Tatbestand)に対する「強制行為(Zwangsakt)」となる。同時に、戦争は国際法に違反する振る舞い(Verhalten)に対する反動(Reaktion)として正当化されている(rechtfertigen)。従って、原始的な社会的現存在形式において合法的に(rechtmäßig)血の復讐(Blutrache)を行う個々人を、当該社会的全体の機関(Organ)と表現できると同じように、国際法上の強制行為として認められるこの戦争を行う国家を、国際法上の機関(Organ)とみなすことも理論的には可能である。しかし、国際法の場合、究極的な社会的全体、すなわち世界団体(Weltverband)は、当面の間、程度の差こそあれ、実際には存在しているにすぎないため、個々の国家の機関的性格(Organcharakter)が十分な明確さで前面に出ることはない。ある国家行為(staatliche Handlung)が国際法上の機関行為(Organhandlung)とみなされる場合があるとしても、そのような真の機関行為を「擬似機関行為(Pseudo-Organhandlung)」や恣意的な(willkürlichen)武力行使(Gewaltausübung)と明確に区別することは極めて困難である。このように、国際法の下での強制秩序(Zwangsordnung)は、今日でも非常に未発達な段階にある。
52623 しかし、現在の(gegenwärtige)国際法全般、とりわけ国際法の強制秩序が、体系化の道(Weg)を辿っていることは紛れもない事実である2501。このような国際実定法の発展は、世界団体(Weltverbandes)の実現(Wirklichwerden)と並行して進められなければならない。国際連盟(Völkerbund)とハーグの常設国際司法裁判所(Ständige Internationale Gerichtshof)は、基本的に、国家間の紛争(Streitigkeiten)を解決する任務(Aufgabe)を引き受けることによって、国際法の強制秩序(Zwangsordnung)を体系的に確立し、それによって乱れた(gestörten)国際社会秩序をこれまで以上に回復させることを目的としている。人間の社会的現存在(sozialen Daseins)における将来の(künftigen)最も重要な課題(Aufgaben)のひとつは、今日、国際法の下での統一的な立法と、それに連関する国際法の下での強制執行機構(Zwangsapparates)の組織化に見られる。
52624 もし将来、究極的な人間の全体性がより高度な現実的存在性(Wirklichsein)となり、国際法の強制秩序(Zwangsordnung)が次に体系的に組織化されるようになれば、その結果として本当に誕生した世界団体(Weltverband)は、必然的に「国家(Staates)」の形式、すなわち「世界国家(Weltstaat)」の形式をとることになる。我々の分析によれば、国家とは、強制秩序としての統一的な法体系と構造的に連関し、その結果、発展した司法機構および強制執行機構の組織を伴う、具体的な類型の団体に他ならない。この考えうる世界国家(Weltstaat)は、その一部として、主として「利益社会団体(Gesellschaft)」の内部構造を持つことになる。というのも、その基礎は、結局のところ、いくつかの個別国家との社会化関係(vergesellschaftenden Beziehung)にあるからである。しかし、理論的考察の観点からは、世界国家が「協成社会団体的(Körperschaflicht)」に構成される可能性を絶対に否定してはならない。この場合、世界国家は「協成社会団体(Körperschaften)でできた協成社会団体(Körperschaft)」という構造をとることになる。なぜなら、協成社会団体の構成において、それ自体が協成社会団体である最後の社会団体は、その性質上、下位の部分団体も協成社会団体として決定するからである。

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第六章 社会団体論の方法論的再検討(Methodischer Rückblick)


第二十七節 社会的現存在の存在論的科学(ontologische Wissenschaft)としての社会団体論

62701 社会団体論は我々の議論全体の目標であったが、最後(Schluß)に遡及的な(rückblickende)内観(Selbstbesinnung)を必要とする。ある理論科学が、内観を通じて自らの科学的認識(Erkenntnis)の基礎を明らかにし、科学の体系全体における自らの位置を確立する手法(Verfahren)は、当該科学の「方法論(Methodologie)」と呼ばれる。従って、我々は社会団体論を「方法論的」に再検討するという最終的な任務(Aufgabe)を自らに課した。
62702 科学のいわゆる(sogenannte)「方法論(Methodologie)」は、現在では本質的に異なる二つの要素に分けられる。第一に、方法論は、問題となっている科学的認識そのものの即物的性格に直接言及するものではなく、単にその「基礎(Grundlegung)」に言及するものである。客観的世界に存在する特定の対象を研究しようとするすべての科学は、哲学的(philosophischen)基礎に基づいて自らを構築しなければならないが、それを決定することは、もはや当該科学自体の任務の範囲を超えている。あらゆる 「ありふれた(mundane)」科学は、基本的にその特定の対象を探求し、その本質的な構造を分析し、この対象と他の同じように客観的な対象との間の必要な連関を明らかにすることを目的としている。この取り組みにおいて、あらゆる科学はその対象の客観的な現存在を最初から(von vornherein)前提としている。つまり、最初から(von Anfang)「普遍的な(universalen)先入観(Vorurteiles:偏見)」に基づいている。まさにこの理由により、この科学はもはや、その前提となっている(vorausgesetzten)判断(Urteiles)の法的根拠(Rechtsgrund)を再帰的に(reflexiv)決定し、その対象(Gegenstandes)の現実的存在性(Wirklichsein)を最終的に正当化することができない。そこで、あらゆる「ありふれた(mundane)」科学は、その科学が基礎を置く究極の前提(Voraussetzung)を根本的に批判し、その法的根拠をきっぱりと(für allemal)確立できる哲学的基盤を必要とする。この哲学的科学(philosophische Wissenschaft)は、あらゆる 「ありふれた(mundanen)」科学の根底にあり、究極の科学理論(Wissenschaftslehre)の役割を果たすものであるが、それは 「超越論的現象学(transzendentale Phänomenologie)」に他ならない。その本質(Wesen)と任務(Aufgabe )は、我々がこれまで最も一般的な用語で明らかにしようと努めたものである。従って、この科学の基礎の方法論的(methodischen)内観(Selbstbesinnung)という意味での社会団体論の「方法論(Methodologie)」は、その対象(Gegenstandes)の現実的存在性(Wirklichseins)の究極的な意味(Sinnes)の現象学的解明(phänomenologische Aufklärung)以外の何ものでもない。我々はすでに以前の章、特に本書の第二章と第三章でこの課題に取り組んできた。
62703 その第二の意味において、ありふれた(mundane)科学の「方法論(Methodologie)」とは、その客観的対象に向けられたこの科学自身の認識(Erkenntnis)の内観(Selbstbesinnung)を意味する。ここではもはや、当該科学の哲学的基盤について問うのではなく、その科学の性格(Wissenschaftscharakter)そのものについて問うているに過ぎない。正確に言えば、ここで問うているのは、検討対象となる科学がどのような構造を持っているか、どのような認識方法を用いているか、どのような特定の科学分野に属しているか、そして「隣接する科学」とどのように関係(Verhältnis)しているかということである。従って、この結論の章では、社会団体論の科学的性格に関する、この方法論的な記述にのみ関心を置く。

62704 この第二の意味での方法論的(methodische)再考(Rückblick)は、社会的現存在の「存在論的(ontologische)」科学として社会団体論を定義し、「現象学的」科学と対置させる。超越論的現象学とは、「超越論的主観性(transzendentalen Subjektivität)」という絶対的な経験場(Erfahrungsfeld)から、客観的世界の意味をその究極的な根拠まで解明することを求められる科学である。これに対して、社会団体論は、社会性の世界の客観的な現存在を前提としており、この世界から具体的な対象として社会団体を確立し、その本質的な存在構造を探究しようとする。この意味で、社会団体論は、他の 「ありふれた(mundane)」科学と同様、「自然な態度(natürlichen Einstellung)」に基づいている。我々が根本的な現象学的認識批判によって哲学的基礎を築いた社会団体論だけが、もちろん他の素朴(naiv)で無批判な(unkritischen)科学とは根本的に異なっている。こうして我々の社会団体論は、現象学的に正当化された(gerechtfertigte)、真に独立した科学であることが証明された。このような現象学的に正当化された科学が現象学的科学と呼ばれるのであれば、我々の社会団体論は、唯一無二の独立した普遍的科学(Universalwissenschaft)という意味で、超越論的現象学(transzendentalen Phänomenologie)の一分野(ein Teilgebiet)とみなすことができるだろう。しかし、我々が社会団体論を現象学的科学と呼ばない唯一の理由は、超越論的現象学の基本的課題を、もっぱら究極の科学理論であると見なしているからである。
62705 さらに、社会団体論は、「存在論的科学(ontologische Wissenschaft)」としての特性(Eigenschaft)において、社会的事実性のいかなる「事実科学(Tatsachenwissenschaft)」とも厳密に区別されなければならない。というのも、より高い理念性(Idealität)を持つ具体的な精神的実体(Geistesgebilde)として、社会団体は、単なる事実性の領域よりも原理的に(grundsätzlich)優れた現存在領域(Daseinssphäre)に属するからである。もちろん、社会的事実性(sozialen Faktizität)の領域が、精神世界の「最も低い(unterste)」領域として、すでに人文科学(Geisteswissenschaft:精神科学)の対象分野(Gegenstandsgebiet)を形成しているという事実を見落としてはならない(nicht übersehen)。従って、社会的事実性の事実科学(Tatsachenwissenschaft)は、社会団体論に劣らず、人文科学である。両者の本質的な違いは、精神的事実性(geistigen Faktizität)の事実科学が、物質的現実(dinghaften Realität)の根拠(Boden)の上に直接与えられる客観性(Gegenständlichkeiten)のみを対象とするのに対し、社会団体論の対象は、精神的事実性に立脚したより高次の行為段階にのみ開かれているという事実にのみある。
62706 従って、我々が社会団体を理解するための本質的な手法(Verfahren)は、より高次の「意味的直観(sinnhafte Anschauung)」であり、それは最下層の意味的直観(sinnhafte Anschauung)の機会にのみ、すなわち対応する精神的事実性(geistigen Faktizität)の理解の機会にのみ実行される。この意味的直観(sinnhafte Anschauung)は、前述したように「理解(Verstehen)」とも呼べるので、社会団体論は「理解(verstehende)」科学と呼ぶにふさわしい。しかし、より高い行為段階の意味的直観(sinnhafte Anschauung)としてのこの「理解(Verstehen)」は、単なる事実の理解、例えば「主観的に意味される(subjektiv gemeinten)」意味の理解とは明確に区別されなければならないことを見落としてはならない。ここにまさに、「存在論的(ontologischen)」科学としての社会団体論と、社会的事実性(sozialen Faktizität)の伝統的な「理解」の事実科学との根本的な違いがある。
62707 しかし、このような存在論的科学を構築する必要性は、社会団体との関連だけでなく、人文・社会科学の分野全体においても明らかである。この必要性の究極的な理由は、まさに精神的・社会的対象そのものの本質的な存在構造(Seinsstruktur)にある。歴史的・社会的現実を構成している無限で(unendlich)多様な(mannigfaltigen)具体的で理念的な精神的実体(Geistesgebilde)は、具体的な意味内容(Sinngehaltes)を欠いた文化や価値という高尚な観念を扱う方法しか知らない形式的な(formale)精神哲学や社会哲学では、また、精神的・社会的現存在という単なる事実的領域に縛られたままの経験的(empirische)事実科学によっても、歴史的・社会的現実を構成する諸関係を完全な形で理解することはできないが、それができるのは、高次の意味的直観(sinnhafte Anschauung)の手法(Verfahren)を持つ存在論的科学(ontologische Wissenschaften)だけである。まさにこの理由から、歴史的・社会的現実のこの具体的で理念的な対象分野(Gegenstandsgebiet)が、その真の意味(Bedeutung)において認識されず、また適切な存在論的方法(ontologischen Methode)で研究されていないことは、我々は非常に遺憾であると考える。 従って、社会的現存在の存在論的科学としての社会団体論の建設(Aufbau)は、単に専門的な科学的問題であるだけでなく、社会科学全体の発展にとって最も重要である。その正当化(Begründung)によって初めて、従来は単なる事実に焦点を合わせてきた科学の視野(Blickrichtung)を、具体的で理念的な精神的実体という実りある対象分野へと根本的に転換(Wendung)することができるのである。
62708 このことは同時に、社会団体論が決して非現実的な(wirklichkeitsfremden)理念的に存在するだけの意味形成体の科学ではなく、「現実科学(Wirklichkeitswissenschaft)」として最初から設定されていることを意味する。社会団体論は、その対象である社会団体が、その特異な具体的理念性(konkreten Idealität)にもかかわらず、同時に歴史的な現実的存在性(Wirklichseins)の本質的決定(Bestimmung)を示すという意味で、現実科学である。確かに(Freilich)、社会団体論は、その認識(erkennenden)と啓発(aufklärenden)の手法(Verfahren)において、実際の社会性の世界では純粋な(Reinheit)まま見出すことのできない匿名(anonymen)の概念を原理的に扱う。社会団体論は、「共同社会団体(Gemeinschaft)」「利益社会団体(Gesellschaft)」「協成社会団体(Körperschaft)」あるいは「国家(Staat)」「教会(Kirche)」「家族(Familie)」といった普遍的な(allgemeine)概念を形成し、次に、概念的に構築されたこれらの異なる団体類型(Verbandstypen)の本質的構造(Wesensstruktur)を分析する。しかし実際には、社会のいかなる契機も含まない純粋に共同社会団体的に(gemeinschaftlich)構成された団体も、具体的な形式において何ら経済的(wirtschaftlichen)意味内容(Sinngehalt)と構造的に結びついていない純粋国家(reiner Staat)も存在しない。これらの概念は、本質的に科学的に構築された本質概念(Wesensbegriffe)であり、思考上の抽象化の手法(Verfahren)を通してのみ形成され、その結果、現実の対象の実際の内容から多かれ少なかれ逸脱している。これらは「ある面だけ強調した(einseitig gesteigerte)」理念類型であり、その重要性はまさに「発見的(heuristischen:ヒューリスティック)」な機能にある。しかし、社会団体論の本質的な任務(Aufgabe)は、決して現実離れした(wirklichkeitsfreier)普遍(allgemeiner)概念の体系を形成することではなく、そのような抽象的に構築された概念を用いて、ひたすら(einzig und allein darin)現実に存在する(wirklich daseienden)社会団体を観察し、あるがままに(so wie er sich gibt)、その本質構造(Wesensstruktur)を概念的に明確に分析し、解明する(aufzuklären)ことにある。従って、社会団体論がその理論的準備作業(Vorarbeit)において形成する概念が、現実に存在する団体から逸脱しているとしても、この理論の認識目標(Erkenntnisziel)そのものは、基本的には歴史的・社会的現実に見られる具体的な社会団体の記述(Beschreibung)と解明(Aufklärung)なのである。従って、社会団体論は「存在論的(ontologische)」科学であるだけでなく、社会的現存在の存在論的「現実科学(Wirklichkeitswissenschaft)」でもある。

62709 想定できる誤解(Mißverständnis)を避けるためにここで指摘しておくが、社会団体論は、その認識手法(Verfahren)において様々な「本質概念(Wesensbegriffe)」を形成し、それらを認識の必要な手段として用いるために、存在論的科学として記述されているわけでは決してないということである。社会関係論(Lehre von der sozialen Beziehung)のような精神的事実性(geistigen Faktizität)の事実科学(Tatsachenwissenschaft)は、もはや「存在論的」科学に属さないことは認めるが、例えば、「合理的関係(rationale Beziehung)」あるいは「非合理的関係(irrationale Beziehung)」、「共同体化(Vergemeinschaftung)」あるいは「社会化(Vergesellschaftung)」のような、現実からある面だけ強調した(einseitig gesteigerte)本質の数多くの概念をも形成したのは、現実に存在する社会関係形式を正確に記述し、明らかにすることができるようにするためである。このような本質概念(Wesensbegriffen)を扱う科学が「存在論的(ontologische)」科学と呼ばれるのであれば、この呼称(Bezeichnung)はいかなる科学に対しても否定されるべきではない。社会団体論が存在論的科学として登場する理由は、その対象、すなわち現実に存在する社会団体、が、その実際の現実的存在性においてすでに、原理的に精神的事実性に優越する存在の理念的現存在領域に属しているという事実にのみ求めなければならない。対照的に、社会関係論のような伝統的な経験的(empirische)社会科学(Sozialwissenschaft)は、その性質上、存在論的科学(ontologische Wissenschaft)ではありえない。なぜなら、それは物(Dinghaften)に直結した精神的事実性(geistige Faktizität)を対象領域としているからである。存在論的社会科学と単なる経験論的社会科学が厳格に区別されなければならないという事実は、結局のところ、これら二つの科学群の対象の存在様式(Seinsart)と現存在領域(Daseinssphäre)の本質的な違いから生じる。
62710 この議論を通じて、我々は、我々の方法論的基本姿勢(Grundeinstellung)と、第一章ですでに批判的に検討したマックス・ヴェーバーの社会科学理解の「類型形成(typenbildenden)」方法論との関係(Verhältnis)を、より明確かつ明瞭に理解することができる。
62711 あらゆる社会科学は、その対象の存在構造を正確に解明するために、現実から多かれ少なかれ逸脱した(abweichende)ある種の「理念類型(idealtypische)」概念を形成する必要があることを、我々もまた、マックス・ヴェーバーとともに、率直に認識しなければならない。我々の見解とマックス・ヴェーバーの見解との本質的な違いは、我々が社会科学的認識(Erkenntnis)の対象分野(Gegenstandsgebiet)を、単なる事実性の領域を超えて、具体的で理念的でありながら現実に存在する精神的実体(Geistesgebilde)という基本的に上位の領域にまで拡大(ausdehnen)しようとしている、という事実だけにある。社会科学的認識の手法(Verfahren)ではなく、まさにその究極的な目標が、我々が創設した社会団体論を、当初から社会的事実性という経験的に認識可能な対象領域(Gegenstandssphäre)に限定されていたマックス・ヴェーバーの社会科学理解から分離する(scheidet)のである。例えば、我々の社会団体論が、「国家(Staat)」という具体的現実的事実内容を研究しようとするならば、マックス・ヴェーバーがそうであるように、「理念類型」に形成された国家概念(Begriff des Staates)を認識の必要な手段として用いる。しかるに、マックス・ヴェーバーによれば、この具体的で現実的な事実内容(Tatbestand)である「国家(Staat)」、社会科学の「対象」としての国家、は、結局のところ、人間のある「事実的な(faktischer)」行為の複合体に還元されなければならないが、一方で我々は、さまざまな具体的な意味内容(Sinngehalten)に満ちた実際の「国家(Staat)」を、原理的には単なる社会的行為の複合体よりも上位のもの(Übergeordnetes)、すなわち真に存在する社会的「全体性(Ganzheit)」として理解しようとしている。「理解社会学(verstehenden Soziologie)」の偉大な創始者が、社会学的認識(Erkenntnis)の最も重要な対象である人間関係全体としての社会団体を、この科学の認識分野(Erkenntnisgebiet)から排除しなければならないと考えたのは、社会科学が必然的に取り組まなければならない単なる理念的本質概念と、存在論的社会科学の対象そのものを構成する具体的で理念的な精神的実体との不幸な(unglückliche)混同(Verwechslung)だけが原因である。
62712 ちなみに、マックス・ヴェーバーが、理念類型(idealtypische)概念は、単に合理的な方向(rationalen Richtung)に一つまたはいくつかの観点を「ある面だけ強調させる(einseitige Steigerung)」ことによって得られると考えていたのは、正しい道筋ではなかった2581(訳者注;是非すぐに参照されたい)。というのも、例えば「共同体化(Vergemeinschaftung)」という概念のような理念類型概念は、「合理的(rationalen)」な視点を強調することによっては決して形成されず、対象の「非合理的(irrationalen)」「感情的(affektuellen)」「伝統的(traditionalen)」な要素を強調することによってのみ形成されることはもとより明らかだからである。理念類型(idealtypischen)概念形成(Begriffsbildung)の本質はむしろ、現実に存在する精神的な客体性(Gegenständlichkeiten)から、それが「事実的(faktische)」対象であれ、より高次の理念性の精神的実体(Geistesgebilde)であれ、当該客体性をそれ自体として決定する本質的特徴(Merkmale)が概念的に選び出され、統一された秩序(Ordnung)に持ち込まれるという事実にある。現実科学(Wirklichkeitswissenschaften)における認識手段(Erkenntnismittel)としての理念類型の概念は、このように、最も簡潔な(prägnantesten)意味での本質概念(Wesensbegriffe)である。

62713 社会団体論は、社会的現存在に関する存在論的な現実科学であり、その基本的な目的は、社会団体をその現実に存在する形(Gestalt)においてのみ、すなわち歴史的・社会的「現実(Wirklichkeit)」の構成要素としてのみ探求することにあるからである。社会団体が「歴史的(geschichtlichen)」現実の一部を構成するのは、その現実的存在性(Wirklichsein)が本質的かつ必然的に(wesensnotwendig)「歴史(geschichtlich)」によって決定されるからである。このため、社会団体ももちろん「歴史的(historischer)」科学の対象を形成しうる。社会団体もまた歴史の対象となりうるというこの状況から、存在論的科学としての社会団体論を、他の歴史的な客体性(Gegenständlichkeiten)に加えて、現実に存在する社会団体を研究しようとする歴史科学と、どのようにきっぱりと区別できるのかという疑問が必然的に生じる。従って、社会団体論の方法論的議論は、この科学がいかなる歴史科学とも最終的に一線を画すという自律性(Eigenständigkeit)をも明確にしなければならない。
62714 今日(1932年)、ハインリヒ・リッケルト(Heinrich Rickert)が新カント派の(neukantischen)認識論(Erkenntnistheorie)に基づいて歴史科学の方法論的基礎(methodische Grundlage)を明確にしたことは周知の事実である。リッケルトによれば、我々が歴史科学的認識に到達するのは、「個性化(Individualisierung)」の手法を用いて、与えられた、科学以前(vorwissenschaftlichen)の現実から、唯一無二の比類のないものだけを選び出し、それを歴史的認識の対象として決定することのみによる。しかし、対象が何らかの文化的価値を持つか、少なくともそのような価値の観点から見られる場合にのみ、対象は個性的な(Individuelles)ものとして、比類のない(Einzigartiges)ものとして現れるのであるから、個性化の手法(Verfahren)もまた、「価値関係(Wertbeziehung)」の特異な(eigenartiges)手法となるのである。歴史科学(Geschichtswissenschaft)が主に「文化科学(Kulturwissenschaft)」と呼ばれるのは、まさにこの文化的価値との関連づけの手法のためである。歴史科学は「価値関係化(wertbeziehend)・個性化(individualisierende)」する文化科学として、「価値無差別(wertindifferent)・一般化(generalisierenden)」する自然科学とは対照的である2591
62715 しかし、すでに古典となったリッケルトの文化科学的方法論の不満足な側面は、歴史科学の実際の対象を、個性(Individuelle)、すなわち精神的事実性(geistigen Faktizität)の領域においてのみ求めたという事実において再び明らかになる。我々が、経験的社会科学(empirischen Sozialwissenschaften:実証社会科学)の支配的な(herrschende)方法論に関して繰り返し強調してきたように、歴史科学の場合にも、対象分野を単なる事実性の領域に限定することは、科学的認識の嘆かわしい貧しさ(beklagenswerte Verarmung)につながるだけである。というのも、我々は、精神世界における「個人(Individuums)」という概念が、最初からまったく相対的なもの(Relatives)であることを知っているからである。精神世界(Geisteswelt)では、無限に多様な、比較的一般的な精神的実体を認識するが、その比類のない存在において、個人(Individuen)と見なすことも十分に可能である。もちろん、リッケルトは、この具体的で理念的な精神的実体の存在領域(Existenzsphäre)に対する深い洞察(Einsicht)を欠いているわけではなく、その存在様式(Seinsart)を「非現実的な意味形成体(Sinngebilde)」として詳細に解明している2592。「ギリシャの民族精神(Volksgeist)」や「ロマンチックな時代精神(Zeitgeist)」は、そのような非現実的な意味形成体(Sinngebilde)の鮮明な例であり、それらは比較的一般的であるにもかかわらず、「価値関係から(wertbeziehend)」把握できる(erfaßbare)独特の(eigenartige)個性(Individualität)を示している。しかし、リッケルトは、文化科学は「経験的(empirische)」科学としてのみ可能であり、その対象は「実在(Reales:現実)」のものでしかありえないと考え、また、「実在性(Realität:現実性)」の概念を「現実(Wirklichkeit)」一般と、安易に(ohne weiteres)同一視していたため、歴史社会的な現実(Wirklichkeit)の最も重要な対象であって、「価値関係化(wertbeziehend)的個性化(individualisierende)」の手法(Verfahren)によってのみ間違いなく把握されうるもの、すなわち「非実在的(irrealen)」でありながら現実的に存在する意味形成体(Sinngebilde)を、歴史科学の認識分野(Erkenntnisgebiet)から、きっぱりと排除しなければならなかった2601
62716 一方、人文科学または文化科学の認識分野(Erkenntnisgebiet)を、単なる事実性(bloßen Faktizität)の領域を超えて、具体的で理念的精神的実体(konkret-idealen Geistesgebilde)一般にまで拡張すれば、その結果、これらの科学に「存在論的(ontologischer)」科学という本質的構造を帰結させることとなり、歴史科学にもまったく新しい、実り豊かな視野(Blickfeld)が開かれる。そのとき歴史学は、重要な人物の個々の行為や個々の歴史的出来事や事件を、単なる事実として「時系列的(chronologisch)」に確認することに満足するのではなく、より高い行為段階の意味的直観(sinnhafter Anschauung)においてのみ把握することができる、具体的で理念的精神的実体を、その特異なあり方や文化的意義において正確に記述し、解明するという基本的な任務(Aufgaben)を自らの手にすることになる。厳密に言えば、このような「存在論的(ontologische)」な歴史科学のみが、唯一の真の歴史科学と呼べるのである。なぜなら、「準永遠性(Quasi-Ewigkeit)」の概念を含む拡大された意味で実際に「歴史的(geschichtlich)」と呼べるものは、決して単なる事実的な生の事象(Lebensvorgang)ではなく、むしろ理念的で客観的な精神的実体(Geistesgebilde)そのものだからである。
62717 しかし、まさにこの理由から、非歴史的な存在論的人文科学または社会科学一般を、同様に存在論的に構成されている歴史科学から明確に区別することは非常に困難である。まったく歴史的ではない人文科学や社会科学など存在し得るのかという疑問さえあるだろう。しかし、まったく歴史的ではない人文科学や社会科学の際立った特徴は、これが歴史的・社会的現実を対象としているにもかかわらず、それをその静的な(statischen)「構造連関(Strukturzusammenhang)」において正確に記述しようとするという事実に見出すことができるのに対し、本来の歴史科学は、存在論的態度を取っているとはいえ、常にこの同じ現実をその動的な(dynamischen)「作用連関(Wirkungszusammenhang)」において観察し、解明しようとするという事実に見出すことができる。このように、ディルタイがその著作「精神科学の基礎(Grundlegung der Geisteswissenschaften:この場合の一般的な訳は人文科学でなく精神科学)」で初めて明確に示した、構造連関(Strukturzusammenhanges)と作用連関(Wirkungszusammenhanges)という二つの基本原則は、歴史的・社会的現実に関する人文科学と社会科学の歴史的なもの、および非歴史的なもの、を区別するための最終的な基準となる。
62718 このことは、社会団体論の科学的性格の主な特徴を明らかにしている:それは、一般的には歴史的・社会的現実、特に現実の社会的現存在に関する存在論的・非歴史的科学であり、独自の意味的直観(sinnhafter Anschauung)によって対象を理解し、その内的および外的な構造連関の中で解明するよう求められている。
62719 社会団体論に関する方法論的(methodischen)検討(Rückblickes)のさらなる課題は、この理論が社会科学の体系全体においてどのような位置を占めているのか、さらに、この理論と関連する諸科学との関係を明らかにすることである。以下の二つの節は、この役目(Aufgabe)を正当に果たすためのものである。

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第二十八節 社会団体論と社会学(Soziologie)<@> 62801 認識の方向性(Erkenntnisrichtung)の本質的な定義に従って、社会団体論は今や「純粋に」社会的な現存在("rein" sozialen Dasein:訳者注;ここでは純粋な社会的現存在ではなく純粋に社会的な現存在とした)の存在論的科学として特徴づけることができ、この特徴(Eigenschaft)において、同様に存在論的に構成された他の社会科学と明確に区別することができる。他の存在論的で非歴史的な社会科学は、一般的に具体的で理念的精神的実体を「社会的」実体として、研究することを目指しているが、しかし先験的には「実質的(sachhaltige)」社会的実体として、研究するのである。
62802 純粋に(rein)社会的な現存在(Daseins)や純粋な社会性(Sozialität)という概念は、具体的で歴史的な社会的現実から事実的(sachhaltigen)契機(Momente)を概念的(gedankliche)に排除することによってはじめて得られる。しかし、このことは、純粋に社会的な現存在の科学が、生きている(lebendigen)現実(Wirklichkeit)から抽象化されたこのような概念の単なる構築(Konstituierung)に満足できるということを決して意味しない。純粋に社会的な現存在という概念を概念的に構築する必要性は、すでに詳しく論じたように、歴史的・社会的現実を社会的なものとして理解したいだけの科学が、この概念化を通じてのみ科学的調査の出発点を得ることができるという事実から生じる。人間の認識能力(Erkenntnisfähigkei)にとって、歴史的・社会的現実を、その具体性(Konkretheit)と全体性(Gesamtheit)において、単一の科学によって探求し、完全に記述することはおよそ不可能であるため、あらゆる社会科学は、この広範な対象分野(Gegenstandsgebiet)を特定の出発点(Ansatzpunkt)から考察し(betrachten)、常にこの出発点との関連において記述し(beschreiben)なければならない。従って、社会団体論は、純粋な社会性という出発点から歴史的・社会的現実を解明するよう求められる社会科学に他ならない。純粋に社会的な現存在(Daseins)という概念の形成が必要なのは、それだけで、独立した社会科学としての社会団体論を発展させるための必要な前提条件を作り出すからに他ならない。
62803 純粋に社会的な現存在という概念は、段階的に組織化された二つの異なる対象層(Gegenstandsschichten)、すなわち、事実的領域(faktische Sphäre)と、より高次の具体的・理念的な精神的領域(Geistessphäre)を指す。単なる事実的な対象領域(Gegenstandssphäre)では、純粋に社会的な現存在は純粋な社会関係として姿を現すが、高次の理念性の精神的領域では、それは本質的に純粋に社会的な実体、すなわち社会団体の存在様式において姿を現す。社会的事実性の領域は、もはや「存在論的(ontologischen)」科学の対象分野(Gegenstandsgebiet)としてではなく、経験的な(empirischen)「事実科学(Tatsachenwissenschaft)」の対象分野としてしか理解できないのだから、純粋に社会的な現存在の「存在論的」科学とは、結局のところ、純粋に社会的な実体を、その実際の具体的・理念的な現存在領域(Daseinssphäre)において研究しようとする科学なのである。従って、まさに純粋に社会的な現存在に関する存在論的科学とは、社会団体論に他ならない。
62804 このようにして形成された純粋に社会的な現存在という概念は、とりわけジンメルに見られるように、歴史的・社会的現実をその社会性においてのみ考察し記述する科学の独立した出現を可能にするものでしかない。用語の厳密な意味で、我々はこの科学を「社会学(Soziologie)」と呼ぶことができる。純粋に社会的な現存在に関する存在論的科学としての社会団体論は、この社会学の一部となる。実際、厳密に言えば、社会団体論は社会学の存在論的一分野(ontologische Teilgebiet)に他ならない。

62805 しかし、社会学(Soziologie)の存在論的一分野として社会団体論を確立することは、同時に伝統的に定義されてきた社会科学(soziologischen Wissenschaft)の対象分野(Gegenstandsgebietes)そのものを根本的に拡大することでもある。現代の(gegenwärtigen)経験主義が強い(stark empiristisch)社会学の見解によれば、この科学の焦点は社会的事実性の領域に限定されるべきである、となる。また、それゆえ、社会学的認識(soziologischer Erkenntnis)の対象となるのは、人間の事実的な行為および関係のみであるべきであり、社会団体をそのようなものとして、すなわち人間相互間(zwischenmenschlich)に構成された全体(Ganzheit)として、社会学の対象とする試み(Versuch)は、単に想像された(Vorgestellten)もの、あるいは想像のつく(Vorstellbaren)ものを形而上学的(metaphysische)に実体化(Substanzialisierung)することに他ならないはずである、となる。社会学の本質と任務に関するこの支配的である見解(Auffassung)を唯一正当(berechtigte)なものとして受け入れる(Nimmt)ならば、社会学の一分野(einen Teil)としての社会団体論を理解し、正当化する(begründen)ことは最初から(von vornherein)不可能であろう。もし社会学が単に社会的事実性の経験的科学(empirische Wissenschaft)であるとするならば、その対象が高次の精神的理念性の領域に属し、それゆえ「存在論的(ontologische)」科学としてのみ可能である科学は、もはや「社会学的(soziologische)」科学とは呼べなくなる。
62806 我々の社会団体論に関する基礎は、このような社会学の一面的な(einseitig)経験主義的見解(empiristischen Auffassung)の持続不可能性(Unhaltbarkeit)を明らかにすることが、その基本的な目的であった。現実問題(Wirklichkeitsproblems)についての現象学的な議論は、存在論的科学の対象領域と経験的事実科学の対象領域は、常に信じられているほど本質構造(Wesensstruktur)において根本的に異なるものではないことを示した。というのも、存在論的科学の対象領域に属する具体的で理念的な精神的実体は、その特異な意味的直観(sinnhaften Anschauung)における対応する事実的客観性の存在に基づいて存在する限りにおいて、一方では、現実に存在する対象(wirklich seiender Gegenstand)として理解されうるからである。他方、ある事実的対象の現実的実在性(Wirklichsein)もまた、それに対応するある事物のような(dinghafte)客体性(Gegenständlichkeit)があり、その実在性の適切な現実の根拠(Wirklichkeitsboden)として機能するという事実の中に、究極的な基礎(Grund)を持つ。このため、支配的な(herrschenden)経験主義的見解によれば、人文科学や社会科学の唯一の認識目標を形成すべき事実的対象は、存在論的科学の実際の対象を形成する具体的で理念的な精神的実体と同様に、理念性(Idealität)の中にその現存在の核心を持っている。この意味で、両者(人文科学や社会科学の唯一の認識目標を形成すべき事実的対象と、存在論的科学の実際の対象を形成する具体的で理念的な精神的実体)は理念的・精神的な対象であり、原理的に意味的直観(sinnhaften Anschauung)に優る感覚的知覚(sinnlichen Wahrnehmung)を通じてのみ、その完全な姿(Gestalt)を把握することができる。この二種類の対象様式(Gegenstandsarten)の違いは、一方が、すなわち精神的事実性は、対応する事物性(Dinghaftigkeit)の上で直接つながる(erschließt)ことができるのに対し、他方は、すなわち高次の精神的理念性は、精神的事実性によって基礎づけられた現存在領域の上でしか与えられないという事実にのみある。
62807 この状況(Sachverhalt)から、理解社会科学の対象分野を、単に事実的な領域を超えて、具体的で理念的な精神的実体の領域にまで拡大することの原理的な(grundsätzliche)正当性(Berechtigung)が生じる。この正当性は、同時に、社会学の科学的性格についての支配的な単に経験主義的な見解の持続不可能性(Unhaltbarkeit)を明らかにするものでもある。もし社会学(Soziologie)が真の(wahre)精神科学(Geisteswissenschaft:訳者注;人文科学であるがここでは精神科学とした)でありたいとするならば、つまり社会学がもはや人間の社会性を自然なものとしてではなく、むしろ、ずばり精神的なものとして、意味的理解可能な(sinnhaft Verstehbares)ものとして研究したいのであれば、社会学はもはや人間の共存(Zusammenlebens)の単なる事実性(Tatsächlichkeit)に固執してはならない。その代わりに、社会的現存在の存在論的研究を最も重要な課題の一つとして取り上げなければならない。
62808 このような認識分野(Erkenntnisgebietes)の拡大(Erweiterung)を通じてのみ、社会学は本来の(ursprünglichen)、そして実際の(eigentlichen)任務に立ち戻ることができるのである。というのは、語源的(etymologisch)にも発展史的(entwicklungsgeschichtlich)にも、「社会(Gesellschaft)」(2641:著者注;もちろん、ここでも「社会(Gesellschaft)」という概念は、伝統的な、より広い意味、すなわち社会団体(sozialen Verbandes)全般という意味で使われている)の科学としての社会学が、つまり真の「社会論(Gesellschaftslehre)」としての社会学が、当初から、そして主として一つの社会団体論であることを意図したものであることは明らかだからである。しかるに、社会学は、その発展の初期段階において、主として素朴な自然科学的方法に基づいていたため、その主要な任務(Hauptaufgabe)、すなわち社会団体の研究を遂行する上で、全般的な疑念(Mißtrauen)に直面しなければならなかった。精神科学(人文科学)の学派は、後にこの科学の分野で次第に支配的な地位(herrschende Stellung)を占めるようになったが、社会学を社会団体論として確立することは当初から控え、その結果、多かれ少なかれ深く根ざした理解方法(Methode des Verstehens)を用いて、社会的現存在の事実的領域のみを研究することで満足した。しかし今(1932年)こそ、精神科学(人文科学)におけるこの発展をさらに一歩進め、完全に新らしく、哲学的に明確に定義された基礎の上に、社会団体論としての社会学をその本来の形(eigentlichen Gestalt)に再構築すべき時なのだろう。そして、純粋に社会的な現存在の存在論的科学としての社会団体論は、社会学の単なる下位分野(Teilgebiet)ではなく、この科学の最も重要な部分、実に中心的な分野(Zentralgebiet)を構成している、と正当性をもって言うこともできる。

62809 ところで、社会学には認識の方向性が異なる二つの下位分野がある。その最初の、そして最も簡潔な意味において、社会学とは社会団体論に他ならない。この社会学の最初の部分の対象である社会団体(soziale Verband)は、その本質上、事実性に優越する精神的理念性(geistigen Idealität)の領域に属するものである。従って、この対象の社会学的認識もまた存在論的構造を示す。これに対して、第二の意味での社会学とは、その事実的領域における社会的現存在の科学を意味する。そして、社会的事実性は何よりもまず社会関係(sozialer Beziehungen)の総体(Inbegriff)であるから、社会学のこの第二部分は、その基本的特徴において社会関係論(Lehre von der sozialen Beziehung)を形成しなければならない。社会関係論は、その本質上、精神科学的な事実科学である。一方では、その対象である社会関係が、人体(menschlichen Körpers)の運動(Bewegen)や静止(Stillstehen)に直結する事実性の領域に属するため、事実科学(Tatsachenwissenschaft)である。しかし他方で、その対象が明らかにされるのは、確かにそのような物質的な基盤が存在する場合であるが、意味的直観(sinnhafte Anschauung)の中だけであるため、精神科学(人文科学)であることは明らかである。純粋に社会的な現存在の存在論的科学としての社会団体論と、純粋な社会性の事実科学としての社会関係論は、このように精神科学(人文科学)における社会学の二つの下位分野(Teilregionen)を形成している。
62810 社会学のこれら二つの下位分野は、同じ一つの科学の下位分野として、必然的に互いに連関(Zusammenhang)している。このことは、社会団体が事実社会学の対象分野(Gegenstandsgebiet)、すなわち社会関係の事実的領域(faktischen Sphäre)にその現実的存在性(Wirklichseins)の基盤を置いているという事実から理解できる。この意味で、社会関係論は、まさに社会団体の「現実の根拠(Wirklichkeitsboden)」を探求するものであるが、その任務は、団体の現実の根拠として相応しい(geeigneten)共同体化関係(vergemeinschaftende Beziehung)の探求に限定されるわけではない。従って、社会団体の現実の問題の解明は、社会関係論の結果(Ergebnisse)を通じてのみ達成され得る。
62811 さらに、社会関係論は、社会団体論と必然的に連関しており、このことだけが「社会(Sozialen)」の科学としての究極の特性(Eigenschaft)を与えているからである。一般的な社会性の概念は、人間相互間(zwischenmenschliche)の相互関連性(Aufeinander-Bezogensein)、すなわち純粋に社会的な関係(社会関係)一般として理解することもできるが、それにもかかわらず、この言葉の最も実際的で簡潔な意味での社会性とは、まさに人間相互間係の「全体性(Ganzheit)」、すなわち社会団体そのものを意味することは紛れもない事実である。社会関係(sozialen Beziehungen)は、それ自体が独立した社会学の対象となりうる。しかし、社会関係に対するこの社会学的認識に「社会理論(Gesellschaftslehre)」としての究極的な意味を与えているのは、社会団体論との必然的な連関以外にどこにも見出すことはできない。社会団体が事実的な社会関係を「意味的に(sinnhaft)」基礎づける一方で、その「現実的実在性(Wirklichsein)」がある種の共同化(vergemeinschaftende)関係形式(Beziehungsform)によってのみ基礎づけられるように、純粋に社会的な現存在の科学の二つの下位分野としての社会団体論と社会関係論は、最も近い、基礎づけ・基礎づけられる関係(Verhältnisse)にある。


第二十九節 社会団体論と法学(Rechtswissenschaft)

62901 前の節の方法論的な議論を通じて、社会学一般に対する社会団体論の内的関係(innere Verhältnis)、そして社会学のもう一つの下位分野(Teilregion)としての社会関係論との内的関係が、最も一般的な言葉で我々の前に明確に示される。そこで、最後に、社会団体論と他の社会科学との外的関係(äußere Verhältnis)を明らかにしなければならない。というのも、社会団体論、ひいては社会学一般は、決して単独で、孤立してその任務を果たすことはできず、他の、すなわち密接に(engem)連関する(Zusammenhang)「関連する(sachhaltigen)」社会科学との関係においてのみ、その任務を果たすことができるからである。
62902 純粋に社会的な現存在の科学としての社会学と、他の連関する(sachhaltigen)社会科学との間のこの連関(Zusammenhang)は、この科学が「現実科学(Wirklichkeitswissenschaft)」であるという本質規定(Wesensbestimmung)から必然的に生じる。すでに繰り返し述べてきたように、純粋に社会的な現存在という概念は、社会学的科学の基礎の指導原理として機能する。なぜなら、この概念化によってのみ、その対象分野を他の関連する(sachhaltigen)社会科学から明確に区別することができるからである。しかしこれは、社会学が純粋に社会的な現存在という「概念(Begriff)」をその対象としていることを意味するものではまったく(ganz und gar)ない。むしろこの概念は、科学によって思考上(gedanklich)構築された実体(Gebilde)である。従って、それは人間の「社会的(sozialen)」行為の中ににその現実的存在性(Wirklichseins)の基盤を見出す「社会的(soziales)」実体(Gebilde)ではなく、むしろそれ自体が(für sich)「即物的(sachliches)」な精神的実体(Geistesgebilde)なのである。純粋に社会的な現存在という概念は、社会学が歴史的・社会的現実を独自の方法(Weise)で観察し、研究するための視点を確立しているにすぎない。社会学の任務(Aufgabe)は、決して自らの視点を確立することで終わるのではなく、むしろそこから始まるのである。社会学はこのように、必然的に純粋に社会的な現存在という概念を扱う科学であるが、認識という目的を達成しようとするならば、この単なる「概念化」に満足することなく、「もの(Sachen)」そのものにまで踏み込まなければならない。
62903 対照的に、社会学の「対象(Gegenstand)」としての社会関係や社会団体は、単なる思考上の構築の結果でも、単なる認識手段(Erkenntnismittel)でもなく、この思考実体によってのみ、社会的現実の客観的世界においてのみ発見され、確立され得るものである。社会学的認識は基本的に、純粋に社会的な現存在という思考上(gedanklich)固定された視点から、歴史的・社会的世界を具体的な形(Gestalt)で記述し、その「社会的(soziale)」構造を解明することを目指さなければならない。その一方で、社会学的な認識目標は、最初から社会的現実そのものにあるが、他方、社会学的認識の手法(Verfahren)は、その特異な概念化と概念の使用によって、本質的に社会的な領域に属するものではなく、科学的な領域、すなわち即物的な(Sachlichen)領域に属するものである。従って、社会学的研究においては、社会学の対象としての社会関係や社会団体と、純粋に社会的な関係(社会関係)や純粋に社会的な実体(社会的実体)という概念は、注意深く区別されなければならない。
62904 本書の第一節(序文)でのフライヤー(Hans Freyer)についての議論を思い出してほしい2671。社会学の「ロゴス科学的な(logoswissenschaftlichen)」構成の可能性を否定しようとするフライヤーの試みは正当化されるが、それは、この批判が、社会学的概念の単なる思考上の(gedanklichen)定式化(Formulierung)と体系化(Systematisierung)で満足しようとする、そのような社会学的体系に向けられている限りにおいてのみである。社会学の対象となりうるのは「社会的」現実だけだからであるという、フレイヤーのこの批判は正しい。他方、フライヤーは、ディルタイが言うところの文化体系の科学も「ロゴス科学」に含め、社会学がこの意味でのロゴス科学的構造を持つことを否定しようとしているのだから、間違っている。さらに、フライヤーは、これらのロゴス科学の対象は、たとえそれが必ずしも「社会的(soziale)」現実ではないとしても、社会学の対象と同様に客観的な現実であるという事実を見落としている。彼はまた、社会的な精神的実体の総体(Inbegriff)としての社会的現実が、あらゆる文化体系、あらゆる客観的精神と同じように、意味的にしか把握できない理念的な現存在の核心を持っているという事実を見落としている。ちなみに、フライヤーの社会学そのものを含め、あらゆる現実科学は、「国家(Staat)」や「社会(Gesellschaft)」、「身分(Stände)」や「階級(Klassen)」といったある種の「論理的(logische)」思考形成体(Gedankengebilde)に働きかけることなしには、「科学(Wissenschaft)」として成り立たない。従って、社会学は、必然的に論理的概念を扱うという意味でも、その主要対象(Hauptgegenstand)である社会的現実としての社会団体が理念的な精神的実体の構造を持つという意味でも、ロゴス科学として現れなければならない。この必然性(Notwendigkeit)は、社会学が現実科学(Wirklichkeitswissenschaft)としてのみその任務(Aufgabe)を十分に果たすことができるという要件との矛盾(Widerspruch)をもたらすものでは決してない。社会学、とりわけ社会団体論は、「社会的現実のロゴス科学(Logoswissenschaft der sozialen Wirklichkeit)」としてのみ構築されうるという、創設当初の我々の断固たる態度をもって定式化された命題(These)は、こうして確固たる方法論的根拠づけ(Begründung)を見出すことになる。

62905 もし社会学がその対象を、単に科学的技法上に構築された思考形成体(Gedankengebilde)としてではなく、実際に存在するその具体的な形(Gestalt)として理解したいのであれば、この社会学は、社会関係(soziale Beziehung)や社会団体(sozialen Verband)を、それらに付随する「実質的(sachhaltigen)」契機(Momenten)から思考上の分離のなかで研究してはならない。むしろ、これらの実質的な意味内容との内的な結びつきにおいてこそ、その対象を解明しなければならないのである。ディルタイが築いた精神科学(Geisteswissenschaften)の基礎に基づき、我々は、客観的現実における精神世界と社会世界(geistigen und sozialen Welt)の、概念的に分離可能なさまざまな部分要素(Teilelemente)の内的な結びつき(Verbundenheit)を「構造連関(Strukturzusammenhang)」と呼んでいる。それゆえ、社会学は常に、方法論的に抽象化された純粋に社会的な現存在の範囲(Region)を、実質的な範囲との関係において、すなわち実質的な社会現象(Erscheinungen)との構造連関において記述し(beschreiben)、解明し(aufzuklären)なければならない。厳密に言えば、事実科学的(tatsachenwissenschaftliche)社会学は社会関係(soziale Beziehung)を、存在論的社会学は法、宗教、経済などとの構造連関にある社会団体(sozialen Verband)を、それぞれ明確に(anschaulichen)表現しなければならない。社会団体論の基礎づけにおいて、我々が純粋に社会的なものを、法との構造連関において明らかにしようと試みたとすれば、この部分(Ausschnitt)は、例えば、社会学がその完全な構築のためにとらねばならない道筋(Weg)をも示すはずである2681
62906 その結果、純粋に社会的な現存在の構造をそのまま抽象的に分析するだけの「純粋(reine)」社会学としての社会学は、その任務を完全に遂行することは決してできない。純粋社会学の任務は、社会的現実の具体的調査を準備するために、社会的現存在の純粋概念を形成することにのみある。ジンメルが社会学を「形式(formalen)社会学」として正当化したことの不正確さ(Ungenauigkeit)は、彼が方法論的に、歴史的社会的現実から純粋に社会的なものを抽象化することに社会学的認識の重点を置いたという事実にも明らかに表れているが、とはいえ、彼の社会学的思考(Gedanken)の具体的な展開は、社会性の事実的(sachhaltigen)世界の生き生きとした描写がいたるところに満ちている。現実には「純粋な(reine)」社会関係(soziale Beziehung)も「純粋な(reines)」社会的実体(soziales Gebilde)も存在しないのだから、「純粋な」社会学としての社会学は、厳密に言えば、現実科学としてはまったく成立し得ない。対照的に、未来の社会学は、純粋な社会性の領域への制限を放棄し(aufgeben)、事実的な(sachhaltige)社会学として、例えば「法社会学(Rechtssoziologie)」「宗教社会学(Religionssoziologie)」「経済社会学(Wirtschaftssoziologie)」としての自らを確立しなければならない。そうして初めて、現実科学としての目的を果たすことができる。
62907 しかし、社会学が事実的契機に没頭する中で、純粋に社会的な現存在(rein sozialen Daseins)という出発点(Ansatzpunkt)から歴史的・社会的現実を見るという、自らの(eigene)基本的な方法論的態度(methodische Grundeinstellung)を決して放棄してはならないことは当然明らかである。社会学は、事実(Sachhaltigen)の「社会的(soziale)」構造を具体的に研究し、正確に記述することができ、またそうしなければならないが、事実そのものを科学的考察(Betrachtung)の中心に据えてはならない。というのは、社会学を他の社会科学から区別する最終的な特徴は、他のすべての社会科学が、同じ現実を特定の個別的な事実的原理(sachhaltigen Prinzipes)の視点から見ようとするのに対して、社会科学(Sozialwissenschaften)一般に共通する(gemeinsame)対象分野(Gegenstandsgebiet)、すなわち社会性の現実世界を、純粋に社会的な現存在との関連において常に研究するという事実にのみある。事実的社会学(sachhaltige Soziologie)がこの境界線を越えてしまえば、事実性(Sachhaltigkeit)を認識の中心に据える他の社会科学との違いは、きっぱりと曖昧にならざるを得ない。そうなると、「法社会学」は必然的に理論的法学と一致し、「経済社会学」は理論的経済学と一致しなければならない。実際、社会学は、かつてアルフレート・フィーアカント(Alfred Vierkandt)がエルンスト・トレルチ(Troeltsch)2701に倣って(im Anschluß)そう呼んだように、本来の「歴史哲学的・百科事典的方向」に戻されなければならない。社会学がいかに事実的な社会科学と密接に連関していようとも、社会学は常に、純粋社会学(reine Soziologie)によって決定されるその出発点に固執しなければならない。

62908 これらの事実(Sachverhalt)をより正確に理解するために、社会学、特に社会団体論を、ある事実的(sachhaltigen:関連する)社会科学、すなわち「法学(Rechtswissenschaft)」との連関において見てみたい。ここで法学(Rechtswissenschaft)を考察の最前線(Vordergrund)に取り上げているという事実は、すでに述べたように、法が一般的な社会的構造連関(Strukturzusammenhang)の中でまぎれもなく優先順位を持っているという事実からも理解できるであろう。社会と法の間のこの必要な構造連関は、社会学と法学の密接不可分の(engen und untrennbaren)関係にまさしく反映されている。この意味で、ヘルマン・カントロヴィッチ(Hermann Kantorowicz)が言うように、社会学なき法学は空虚(leer)であり、逆に法学なき社会学は盲目(blind)である2702
62909 法学(Rechtswissenschaft)とは、規範的で価値あるものとして実践的な生活連関(Lebenszusammenhang)に現れる法を、純粋に理論的に理解し解明しようとする科学である。その際、実践的なものや規範的なものはどのようにして理論科学の対象を形成できるのか、という疑問が生じるだろう。本著第一章で、ケルゼンの国家の規範概念(normative Auffassung vom Staat)に関して、理論的規範科学(theoretischen Normwissenschaft)全般の哲学的基礎についてすでに論じたので2703、この点に関してはもはや曖昧さはない。
62910 基本的に、理論法学は三つの下位分野(Teilregionen)に分けられる。まず第一に、法学とは狭義の(im engeren Sinne des Wortes)「法哲学(Rechtsphilosophie)」を意味する。このため、そもそもの法の究極的な現存在理由(Daseinsgrund)、ひいては法一般の認識の究極的な根拠(Grundlage)を明らかにすることがその任務となる。従って、その目的は、法の存在と認識という問題(Seins- und Erkenntnisproblems)の「現象学的(phänomenologische)」解明でもある。第二段階では、理論法学は「存在論的科学」として自らを提示し、その対象である法を具体的で理念的な精神的実体の統一された体系として理解し、それを研究するよう求められる。法は、その固有の存在様式において、規範的精神的実体の複合体として理解されなければならないため、法の存在論的科学は理論法学(theoretischen Rechtswissenschaft)のまさに中心を形成する。第三に、理論法学は、法をその現実の具体的理念的現存在領域(konkret-idealen Daseinssphäre)においてではなく、その事実的実現段階(faktisch verwirklichenden Phase)において研究するように構築する(aufbauen)ことができる。あらゆる社会的な精神的実体と同様に、法的実体の意味(Sinn)もまた、主観的に意図された意味として人間の社会的行為(sozialen Handlungen der Menschen)を決定し、その結果、社会性の事実的領域(faktischen Sphäre der Sozialität)においてそれ自体を実現される。この法的に決定された社会的事実性の領域を、その固有の法的意味に関して原理的に研究するならば、理論法学の第三段階は「法事実科学(Rechtstatsachenwissenschaft)」になる。一般的に、理論法学は、狭義の「法哲学(Rechtsphilosophie)」そして「存在論的法学(ontologischen Rechtswissenschaft)」と「法事実科学(Rechtstatsachenwissenschaft)」から構成される。
62911 理論法学の第二段階、すなわち存在論的法学は、法の理論的研究に焦点を当てたもので、さらに二つの基本的な類型に分けられる。一方、存在論的法学は、具体的な理念的法的実体(Rechtsgebilde)をそのように考え、当該法学的実体(juristischen Gebildes)の現実的存在性(Wirklichsein)を考慮することなく、その本質構造(Wesensstruktur)を分析する科学である。存在論的法学のこのような類型を「法の本質論(Wesenslehre vom Recht)」と呼ぶ。法の本質論の対象領域は、その本質上、社会的現実を超越しているので、この科学を真に哲学的な学問分野(Disziplin)として理解することもできる。広義の法哲学が法の本質の教義をも含むのはこのためである。他方、存在論的法学は、具体的な理念的法実体をその歴史的な現実的存在性においてまさしく論じる科学として自らを構成することができる。この存在論的法学が、人間の共存の歴史的発展の中ですでに存在した法体系をその「作用連関(Wirkungszusammenhang)」の中で考察するならば、それは存在論的な「法の歴史学」へと発展する。他方、ある「現行の(gegenwärtiges)」法体系をその本質的な「構造連関」の中で考察し、解明するのであれば、そのとき初めて「実定法(positiven Recht)」の科学、すなわち厳密な意味での「実定法学(positive Rechtswissenschaft)」が出現するのである。
62912 現在の形(Gestalt)の実定法学が、常に純粋に理論的な学問であるわけではなく、通常は、同時に、法を生成する(rechtserzeugenden)、あるいは少なくとも法を補足する(rechtsergänzenden)行為という実践的な手続き(Verfahren)をも内包していることは紛れもない事実である。ほとんどの法教条主義者が実定法学の主要な手続き(Hauptverfahren)とみなしている「法解釈(Rechtsauslegung)」の手続きは、原理的には、純粋に理論的な認識行為というよりも、法の自己創造(Selbsterzeugung)と自己補完(Selbstergänzung)の実践的行為である。このことは、実定法学における理論(Theorie)と実践(Praxis)の特異な(eigenartige)二重構成(Doppelkonstitution)を明らかにしている2721。それ自体は抽象的で一般的な規範にすぎないこの法命題(Rechtssatz)を、目の前の具体的な構成要件(Tatbestand)との関係において個別化できるようにするために、当該法体系の指導理念(leitenden Idee)から実定法命題(positiven Rechtssatzes)の意味を解釈する規律(Disziplin)が存在しなければならないことは、公然と認められなければならない。この意味で、あらゆる実定法体系は、実践的な法解釈理論(Rechtsauslegungslehre)を必要とする。しかし、理論研究の面から見ると、実定法学における実践的(praktischen)規律(Disziplin)のこのような干渉(Einmischung)は、その中心分野(Zentralgebiet)における純粋法学理論の真っ当な発展を妨げ、惑わせるものであり、非常に残念な(bedauerlich)ことである。他方で、実践的な法解釈論(Rechtsauslegungslehre)を実定法学からきっぱりと排除する(ausscheiden)ことができれば、実定法学が現実に存在する実定法の存在論的科学としてのみ自らを提示できる必然性を明確に理解することができるだろう。
62913 この法科学群全体と社会科学との連関を明確に理解するためには、法事実科学を、理論的認識の最下層に位置づけ、理論的・存在論的構造を持つ実定法学を考察の最前面に据えなければならない。なぜなら社会学は、同じ科学的構造を共有する事実的(sachhaltigen:関連する)社会科学と密接な連関(engem Zusammenhang)にあるからである。従って、ここで議論されているのは、原則的には、一方では法事実科学(Rechtstatsachenwissenschaft)と社会関係論(Lehre von der sozialen Beziehung)との連関について、他方では実定法学と社会団体論との連関についてである。
62914 法的事実科学の対象分野(Gegenstandsgebiet)は、法的に決定された社会的事実性(Faktizität)の領域(Sphäre)であり、厳密に言えば、ある法命題やある法体系が主観的に意図する意味(subjektiv gemeinten Sinn)に何らかの方向性をもって向かう社会的行為や社会関係の領域である。法的事実科学は、この社会的・法的事実性の領域(Sphäre)を、当該法的意味内容(Sinngehalt)との関連において、常に第一義的に(immer und in erster Linie)考察・研究する科学として登場する。人間(Menschen)間の特定の行為(Handlung)や関係(Beziehung)は、それが「法的に(rechtlich)」関連する(relevant)限りにおいてのみ、法的事実科学の対象となる。他方で、この同じ対象領域を純粋に社会的な観点からのみ見るならば、それは事実科学的社会学(tatsachenwissenschaftliche Soziologie)あるいは社会関係論(Lehre von der sozialen Beziehung)ということになり、社会的なものを法的なものとの構造連関において理解しようとする、すなわち事実科学的な「法社会学(Rechtssoziologie)」である。この法社会学にとって、人間相互間の事実関係(faktische Beziehung)は、それが「社会的に」決定され、方向づけられる場合にのみ、認識対象(Erkenntnisgegenstand)となる。従って、事実科学的法社会学は、社会的事実性の法的関連領域(rechtlich relevanten Sphäre)の「社会構造(soziale Struktur)」を研究する。
62915 社会的事実性の法的関連領域が、事実科学的法社会学と法的事実科学によって二つの異なる視点から研究されているのと同じように、高次の理念の社会的・法的な精神的実体の領域は、社会団体論と実定法学の共通の対象領域を形成している。社会団体論は、基本的に、まず具体的で理念的な精神的実体を純粋な社会的実体として理解し、それから初めて、それを事実問題(mit Sachhaltigem)、特に法的問題(mit Rechtlichem)との構造連関の中で研究することを目的としている。これとは対照的に、実定法学は、同じ精神的実体を「社会的(soziales)」実体として、しかし常に単なる規範的なものとして、規範の複合体として、分析し(untersuchen)解明し(aufklären)ようとする。社会と構造的に連関するこの法的なもの(Rechtliche)は、「社会規範(sozialer Normen)」の複合体でもありうる。しかし、社会的なもの(Soziale)が「利益社会団体的に(gesellschaftlich)」あるいは「協成社会団体的に(körperschaftlich)」構成された社会団体という形で現れるのであれば、この団体は本質的に「社会秩序(sozialer Ordnung)としての法」だけでなく、「強制秩序(Zwangsordnung)としての法」とも連関している。ここでは、社会的なものと法的なものとの連関が、まさに「国家(Staates)」と法的に(gesetzlich)組織された「国家法秩序(Staatsrechtsordnung)」との連関として明らかにされている。それに応じて、科学的認識の面では、国家団体論(Lehre vom staatlichen Verband)と国法学(Wissenschaft des Staatsrechtes)の間には必然的な連関がある。この連関は決定的(maßgebende)である。というのも、これまで発展してきた実定法学は(positive Rechtswissenschaft)、主として国家の強制秩序(staatlichen Zwangsordnung)を科学するものであり、「社会秩序としての法(Recht als sozialer Ordnung)」の存在論的科学は、まだ最も原始的な状態(Zustand größter Primitivität)にあるからである。
62916 これにより、「国家論(Staatslehre)」と「国法論(Staatsrechtslehre)」の関係(Verhältnis)が完全に明らかになる。存在論的に構成されたこの二つの現実科学は同一ではないが、表裏一体の連関にある。社会団体の重要な形式としての国家を、国家法秩序(Staatsrechtsordnung)と同一視してはならないのと同様に、社会団体論の重要な類型としての国家論を、単なる国法論(Staatsrechtslehre)に矮小化してはならない。この還元(Reduktion)が絶対に必要だと考えられたという事実は、ケルゼンの法理論研究が極限まで進んだ結果の一つである。しかし同時に、ケルゼンの鋭い主張が、国家学と国法学を必要な並列性(Parallelität)において構築しようとする、根拠のある努力に基づいていることも率直に認めなければならない。というのも、国法学(Staatsrechtslehre)は、国家学(Staatslehre)との造連関においてのみ、根拠づけられ、追求されうるからである。国家学の基礎づけは、国法学の存在論的構造と平行して進行し、常に国法学と協働するという事実によってのみ可能となるからである。

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結語(Schluß)


第三十節 社会団体論の基礎づけの実践的意義(Praktische Bedeutung)

73001 今日(1930年)の社会科学(Sozialwissenschaften)は、その本質的な目的が純粋な理論の構築であるにもかかわらず、多かれ少なかれ意図的に偽装された実践的態度に基づいているという事実によって、一般的に特徴づけられる。社会科学(Sozialwissenschaften)は常に、実践的な態度が理論的研究に干渉(Einmengung)する危険性(Gefahr)に脅かされ(bedroht)てきたことは紛れもない事実である。この危険性(Gefahr)の理由は、これらの科学の対象が、まさに人間自身の実践的な社会生活そのものであり、この対象の有意義な(sinnhafte)理解(Begreifen)は、それに応じて、冷静な知性によってのみ可能なのではなく、研究者全体としての精神的能力(Geistesvermögen)によって、いや、ある意味では研究者の全人格的活動によってのみ可能なのだという事実にある。しかし、研究活動(Forschungstätigkeit)において倫理的・政治的要請(Postulate)の影響(Einfluß)を受けている社会科学者(Sozialwissenschaftler)が、意識的(bewußt)、意図的(absichtlich)にこの内的な実践的態度(Einstellung)を「理論(Theorie)」という外被(Hülle)で隠そうとするのは、特に現代(Gegenwart)の特徴である。社会科学者が科学性(Wissenschaftlichkeit)という威厳のある(würdigen)仮面をかぶって、命がけの戦い(Kampf ums Leben)に直接参加したがるという事実は、社会的、政治的、経済的生活が、人間がほとんど経験したことのないような困難に直面している今、まったく驚くべきことではない。結局のところ、社会科学は、それが純粋な理論として構築されている限りにおいては、実生活におけるこうした大きな困難の前では、実に「幽霊のような(Gespenstig)、無力な(Kraftloses)」ものなのである。
73002 しかし、社会科学は、たとえその最初から最後まで、実践的な生活を実践的なものとして明確に理解し、記述することが任務であるとしても、社会科学が科学でありたいと願う限り、純粋に理論的な認識に対して設定された限界を決して超えてはならないことを強調しておかなければならない。その対象である社会的現存在は、間違いなく実践志向のものである。しかし、社会科学的認識の目標は、この対象を純粋に理論的に観察し(Betrachten)理解する(Begreifen)こと以外にはありえない。現実科学としての社会科学の認識対象(Erkenntnisobjekt)は、当然ながら「それ自身の中に意志の方向性(Willensrichtung)」を「持って(trägt)」いる。しかし、この明白な事実(Sachverhalt)は、「真の意志(Wollen)が真の認識(Erkenntnis)を支える」というような定理(Lehrsatz)を生み出すものではない。社会科学がこのように理論的な態度(Einstellung)と実践的な態度の融合(Vermengung)を許容する(zulassen)ならば、社会科学は実践的な生活の一部へと自ら堕落し、当然ながらもはや純粋科学とは見なされなくなる。従って、理論と実践(Theorie und Praxis)を切り離すという原則は、まさに社会科学研究の現状(heutigen Zustande)を鑑みれば、最大限の厳密さをもって支持されなければならない。
73003 この確固とした信念に基づき、我々は、純粋理論(reine Theorie)としての社会団体論の基礎を築いた。社会団体(soziale Verband)が人間相互間の全体的実体として客観的かつ現実に存在するという事実は、ここで、直接的で絶対的に明白な経験根拠(Erfahrungsboden)を鏡映関係づけ(Rückbeziehung)することによって、厳密に理論的かつ科学的な方法で確認された。社会団体の科学的研究の哲学的基礎を原理的にすでに明らかにした今だからこそ、この理論的に基礎づけられた科学について実践的な観点から評価・判断する立場をとり、「社会団体論の基礎づけの実践的意義(praktischen Bedeutung)」について我々は問うことができるのである。理論の実践への応用(Anwendung)は、より一層必要なことではあるが、純粋な客観性の精神に貫かれた科学でなければ、それはできない。

73004 社会的実践(sozialen Praxis)の核心問題は、人間の共存(Zusammensein)のどこに一般的(allgemeinen)価値判断(Werturteiles)の究極的基準(Maßstab)があるのかという問題に定式化できる。そしてまさにここで、社会団体に関する理論的研究の成果が、原則的に実践的な社会生活に応用されるのである。
73005 「共同社会団体的(gemeinschaftlich)」に構成された社会性(Sozialität)の世界では、社会的価値の中心は究極の全体としての社会団体(sozialen Verband )に移されるのに対し、「利益社会団体的(gesellschaftlichen)」現存在の世界では、社会的価値の中心は個々人(Einzelpersonen)の福祉(Wohlfahrt)と幸福(Glückseligkeit)に移されることを、社会的団体の内的構造を分析することによって明らかにした。人間の社会性の現状の特異性は、今やその「利益社会団体的(gesellschaftlichen)」構成に顕著に表れている。個人主義的な自然法観(individualistisch-naturrechtliche Anschauung)は、十九世紀の世界の法的・経済的組織にその痕跡を残した。フランス革命が、契約の自由(Vertragsfreiheit)と私有財産(Privateigentums)の不可侵(Unverletzlichkeit)という原則にその典型的な具体化を見出した政治思想傾向の(ideologische)基礎を提供したのはこのためであった。基本的に、社会主義政治思想(sozialistische Ideologie)がますます支配的な(herrschende)地位(Stellung)を占めるようになった後も、社会的現存在の現代世界におけるこの根本的な原子論的個人主義的(atomistisch-individualistischen)な構成は何も変わらなかった。(訳者注:原子論的個人主義;社会構造やその変化を、個人の意思決定の集積として説明し理解する考え方)というのも、現代の社会主義(Sozialismus)は、「社会団体(sozialen Verbandes)」の真の現存在を認めていないゆえに、実際には厳密な意味での「社会主義(Sozialismus」ではないからだ、 現代社会主義の本質はむしろ、それが「多数派の個人主義(Individualismus der Mehrheit)」であり、したがって資本主義の「少数派の個人主義(Individualismus der Minderheit)」とは単に「量的に(quantitativ)」異なるという点にある。しかし、この社会的現存在の原子論的社会構造(atomistisch-gesellschaftliche Struktur)は、すでにその歴史的使命は完全に終わっている。それは現在、すでに固まったものとして存在し続けており、将来的には何一つ益はなく、むしろ害しかもたらすことはない。より過激な(radikaler)変革(Umformung)への途方もない衝動(Drang)が、現在(Gegenwart)の社会構造(soziale Organisation)を揺さぶっており、どのような社会(Organisation)が現在の社会に取って代わるのか、まだ誰にもわからない。
73006 それゆえ、人が時に憧れ(Sehnsucht)と熱意(Begeisterung)をもって「共同社会団体(Gemeinschaft)への道(Weg)」を求める(suchen)傾向がある(dazu neigt)のは理解できる。こうした願望(Bestrebungen)は、人間存在の価値中心を個人から社会的全体へと移すことを目的としている限り、確かに正当化される(berechtigt)。というのは、今日の社会組織には、何よりも、単なる個々人に優る社会的全体性(sozialen Ganzheit)や普遍性(Allgemeinheit)という考え方が欠けているからだ。「民主主義的な(demokratischer)」考え方が、平等な権利を持つ(gleichberechtigter)複数の個々人の存在を唯一の(einzig)疑いようのない(unbezweifelbare )真実(Wahrheit)と信じる(glaubt)限り、現実的な問題を最終的(endgültige)かつ公正に(gerechte)解決(Lösung)する究極の基準(Kriterium)を見出すことは不可能である。「多数決(Majoritätsbeschlusses)」の原則(Prinzip)は、便宜的な理由(Zweckmäßigkeitsgründe:訳者注;「目的合理的理由」とも言える)のみに基づくものであり、多数派(Majorität)が決定したことがなぜ「正義(gerecht)」とみなされ、認められなければならないのかが明確になっていない。このような正義の観念(Gerechtigkeitsgedankens)の混乱(Verwirrung)は、個人主義的な(individualistische)基本的見解が、社会的全体性(sozialen Ganzheit)の本質(wahre Sein)を完全に忘れ去り、あるいは無視してきたことに起因しているに過ぎない。というのは、社会的全体性を認識することによってのみ、正義の理念(Idee der Gerechtigkeit)を決定的に把握することができるからである。真の価値ある(wertvollen)社会的全体性の精神を再び目覚め(wieder zu erwecken)させ、この精神に基づく新しい正義の理念を目に見えるものにする(sichtbar zu machen)ことは、間違いなく今日(heute)最も重要(allerwichtigste)かつ緊急の(dringendste)課題(Aufgabe)である。
73007 しかし、「共同社会団体(Gemeinschaft)」という言葉の厳密な意味での共同社会団体的全体性への道は、まったく見いだせないことをはっきりと認識しなければならない。というのは、共同社会団体的な構成は、社会全体を形成する個々人の自己意識(Selbstbewußtsein)がまだ十分に発達しておらず、分化していない場合にのみ可能だからである。より高度な利益社会団体的組織の時代に生まれ、最高度の「自己意識(selbstbewußt)」を持つようになった現代の人間は、それゆえ、自らの個性(Individualität)を否定し(Verleugnung)ながら共同社会団体的全体性を再構築することは最初から不可能である。ちなみに今日では、社会的現存在がこの原始的な状態にまで遡ることができたとしても、共同社会団体(Gemeinschaft)を人間の社会性の正当な状態として認識することはもはやできないだろう。社会性(Sozialität)の世界で、全体のみが真に存在し、全体のみが真に価値あるものであると主張し、個々人は、犠牲を必要とする理由をすら知ることなく、全体のために自分の利益や命さえも犠牲にしなければならないというような社会的現存在の構成は、しかし、完全に時代遅れになって有用性を失ってしまった。従って、共同社会団体(Gemeinschaft)への道は理論的に見つけることが不可能であるだけでなく、実際的な観点からも、もはや考慮に値する何の価値もない。
73008 このことから必然的に、社会性の「協成社会団体的に(körperschaftlich)」構成された世界においてのみ、人間の共存(Zusammenlebens)という絶対的に公正な状態を見ることができるということになる。協成社会団体(Körperschaft)とは、そのような類型の社会団体(sozialen Verbandes)であり、そこでは、普遍的なもの(Allgemeine)が個々人(Einzelnen)の中に自らを自覚し、個々人(Einzelnen)は普遍的なもの(Allgemeine)の中に真の自己実現(Selbstvollendung)を見出す。従って、協成社会団体(Körperschaft)においては、普遍的なものと個人的なものは互いに、依存(Abhängigkeit)と相互補完(wechselseitigen Ergänzun)の関係(Verhältnis)にあり、人間の精神はその中でこそ最高の有効性(Wirksamkeit)と客観化(Objektivierung)に到達することができるのである。厳密に言えば、客観的精神の継続的な発展とさらなる訓練は、従って、協成社会団体として組織化された社会的現存在形式に基づいてのみ可能なのである。協成社会団体的(körperschaftlich)に構成された社会性(Sozialität)の世界は、結局のところ、その価値の中心が人間の直接的な領域を超越し、人間の共存(Zusammensein)によって生み出される即物的な(sachlichen)精神的実体(Geistesgebilde)に置かれているという事実によって特徴づけられる(gekennzeichnet)が、それはこの事実的な人間の現存在を超えた存在を導く。厳密に言えば、客観的精神の継続的な発展とさらなる訓練は、従って、協成社会団体的に(körperschaftlich)組織化された社会的現存在的形式に基づいてのみ可能なのである。そして、人間の精神は全世界の文化的共同作業(kulturellen Zusammenwirken)の中でこそ、最も実りある働きをすることができるのだから、将来創設される協成社会団体(Körperschaft)は、単一民族や単一言語共同体に限定されるものではなく、究極の人間全体(menschliche Ganzheit)としての「世界団体(Weltverband)」でなければならない。従って、我々が求め、見出さなければならないのは、「協成社会団体(Körperschaft)として構成された世界団体(Weltverband)への道」に他ならない。真に実在する世界団体を協成社会団体(Körperschaft)として創設することは、現在の(gegenwärtige)社会的現存在が全力(Kräften)を挙げて努力しなければならない究極の現実的目標である。
73009 協成社会団体的に(körperschaftlich)構成された本格的な世界団体を構築することは、今日でもまったく実現不可能に思えるかもしれない。だからといって、しかし、これまでの成功はほとんどないとはいえ、人類の発展という究極の目標を達成するために努力を傾けることを妨げるものではない。というのも、協成社会団体的世界団体(körperschaftliche Weltverband)が社会団体(sozialer Verband)である限り、その現実的実在性の根拠は、究極的には、個々人の内的な調和的な共同社会団体的関係(Beziehungen)、つまり、我々自身の共同社会団体的関係にあるに違いないからである。従って、極めて現実的で、協成社会団体的世界団体という限りなく遠い理念を達成する(Erreichung)ための道は、我々自身の、我々の日常の活動(alltäglichen Betätigung)の、そして同胞に対する我々の態度の中に求められ見出されるより他にない。

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注釈:

注の番号 abcd のうち 数字abc は「社会団体論(原著)」の該当するページを表し、数字dはそのページ内での番号を表す。0062とは本論文(原文)の6ページの2番目の注の意味である。ただし、訳文ではページ表記は別になる。また、book形式になってもページ番号は原著のものと一致しない。
また、A. a. O.(Am angegebenen〈angeführten〉Ort) は「前掲書」で、前述の箇所で S.(seite)ページ ff.(folgende Seiten) 次ページ以下の意味(上述の箇所〈文献〉)である。

0021 ギールケ:人間団体の本質(Das Wesen der menschlichen Verbände;仮訳). 1902年10月15日、学長就任式での講演 S. 12ff.
0022 A. a. O., S. 16.
0023 A. a. O., S. 18.
0024 シュパン(Othmar Spann): 社会の学(Gesellschaftslehre) 第二編 1923, S. 509.
0025 A. a. O., S. 87f.
0026 A. a. O., S. 103f., S. 509.
0031 A. a. O., S. 509, S. 259ff.
0032 A. a. O., S. 45, S. 3Sff.
0033 ギールケ:人間団体の本質(Das Wesen der menschlichen Verbände) S.20.
0034 A. a. O., S. 2lf.
0041 シュパン: 社会の学(Gesellschaftslehre)S. 41ff.
0051 ケルゼン(Kelsen):統合としての国家・根本的な考察(Der Staat als Integration. Eine prinzipielle Auseinandersetzung) 1930, S. 11;ケルゼン:社会学的国家概念と法学的国家概念・国家と法の関係についての批判的考察(Der soziologische und der juristische Staatsbegriff. Kritische Untersuchung des Verhältnisses von Staat und Recht) 1922, S. 75ff.
0061 第五節を参照のこと。
0062 国家を法秩序と同一視することの原則的な通用性のなさは、私の小論「国家と法秩序との関係(Kunftige Aufgaben der Reinen Rechtslehre)」においても、その最も一般的な特徴として提示されている。ヴェルドロス(Verdross)編集論文集:「社会、国家、法。純粋法学に関する研究(Gesellschaft, Staat und Recht. Untersuchungen zur Reinen Rechtslehre)」ハンス・ケルゼン記念論文集(1931年105ページ以降)を参照のこと。ちなみに、本書では上記の小論の説明を、内容だけでなく文字通りにも使っているところがあることをお断りしておく。
0063 前掲小論第二節参照。本書第十二節を参照のこと。
0071 スメント:憲法と憲法法(Verfassung und Verfassungsrecht)(別訳:憲法体制と実定憲法) 1928, p.2.
0072 A. a. O., p. 4f.
0073 ケルゼン:国家の社会学的および法的概念(Der soziologische und der juristische Staatsbegriff) p.76f;また、国家の一般理論(Allgemeine Staatslehre) 1925, p. 44f.
0081 ケルゼン:統合としての国家(Der Staat als Integration)、10ページ。
0082 参照:リット(Litt):個人と共同体(Individuum und Gemeinschaft)文化哲学の基礎3、1926版S. 234ff.
0083 スメント:憲法と憲法法(Verfassung und Verfassungsrecht) S. 13.
0084 A. a. O., S. 18.
0085 A. a. O., S. 18.
0086 ケルゼン:統合としての国家 26ページ
0087 前出の拙小論、第四節
0111 ヘーゲル:精神現象学(Phänomenologie des Geistes) SCHULZES版、II 版、1841年、序文、p.4
0112 イェリネク:一般国家学(Allgemeine Staatslehre)、III版、1922年、VI章。キスティアコウスキー:社会と個人、1899年、p.60以降。ケルゼン:社会学的国家概念と法学的国家概念(Der soziologische und der juristische Staatsbegriff)、p.106以降、p.114以降を参照。
0113 ケルゼン:統合としての国家(Der Staat als Integration)p.21f参照。 同:国法学の主な問題点(Hauptprobleme der Staatsrechtslehre; Entwickelt aus der Lehre vom Rechtssatze)。第2版の序文、1923年。
0141 フライヤー:現実科学としての社会学(Soziologie als Wirklichkeitswissenschaft)社会学体系の論理的基礎。1930, S. 79.
0151 A. a. O., S. 168.
0161 A. a. O., S. 194f.
0201 社会学は、他の社会科学とは明らかに異なる「社会化の形態」の特定の社会科学としてのみ確立されうるとするジンメルの基本的方法論的見解は、根本的な再定義と明確化を伴うとはいえ、社会団体論の対象領域を「分析的に」決定するうえで、主導的な役割を果たすことになる。特に「社会化の形態」としての「相互作用」の概念に関しては、本書の第十四節でジンメルを詳しく扱わなければならないだろう。
0211 ジンメル: 社会学 社会化の形態に関する研究(Soziologie. Untersuchungen über die Formen der Vergesellschaftung), 3. AufI., 1923年, S. 4.
0212 A. a. O., S. 375f.
0221 A. a. O_, S. 376.
0222 A. a. O., S. 376.
0223 A. a. O., S. 377.
0224 A. a. O., S. 377.
0225 A. a. O., S. 377.
0231 A. a. O., S. 377f.
0232 A. a. O., S. 379.
0233 A. a. O., S. 380.
0234 A. a. O., S. 381.
0241 A. a. O., S. 382.
0251 ヴィーゼ:人間の関係(Beziehungen)と関連団体(Beziebungsgebilden)の研究としての一般社会学。 第Ⅰ部: 関係学(Beziehungslehre)、1924年、8 ページ。
0252 A. a. O., S. 9.
0253 A. a. O., S. 25.
0261 A. a. O., S. 25.
0262 ヴィーゼ: 一般社会学(Allgemeinen Soziologie)体系」の第二部、団体学(社会形象論;Gebildelehre)、1929年, S. 18
0281 マックス・ヴェーバー:社会学の方法論的基礎(学問論論集), 1922年, S. 503.
0282 マックス・ヴェーバー:理解社会学論(Über einige Kategorien der verstehenden Soziologie) A. a. O., S. 415.
0283 A. a. O., S. 416.
0284 マックス・ヴェーバー:社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」(Die "Objektivität" sozialwissenschaftlicher und sozialpolitischer Erkenntnis)A. a. O., S. 200.
0291 マックス・ヴェーバー:科学理論(Wissenschaftslehre) S. 514.
0311 マックス・ヴェーバー:科学理論(Wissenschaftslehre) S. 505.
0312 A. a. O., S. 201.
0321 マックス・ヴェーバー:経済と社会。社会経済学の基礎 第三部、第二版, 1925年, S. 13.
0331 マックス・ヴェーバー:科学理論(Wissenschaftslehre) S. 519.
0341 A. a. O., S. 193.
0342 A. a. O., S. 202.
0371 ケルゼン: 国法学の主要問題(Hauptprobleme der Staatsrechtslebre, entwickelt aus der Lehre vom Rechtssatze)、1911年、第二版
0381 ケルゼン:国家の社会学的・法的概念(Der soziologische und der juristische Staatsbegriff)、S. 76f.
0391 ケルゼン:「一般国家学(Allgemeine Staatslehre)」 S. 14.
0392 ケルゼン:「統合としての国家(仮訳)(Der Staat als
Integration)」 S. 11.
0401 コーエン:純粋意志の倫理学ー哲学の体系(Ethik des reinen Willens. System der Philosophie) 2. Teil、 2 AufI、 1907年、S. 24.
0402 A. a. O., S. 67
0411 ケルゼン:社会学的国家概念と法学的国家概念(Der soziologische und der juristische Staatsbegriff) S. 75.
0412 ケルゼン:統合としての国家(仮訳:Der Staat als Integration) S. 6.
0413 ケルゼン:一般国家学(Allgemeine Staatslehre) S. 15f.
0414 ケルゼン:国家概念(仮訳:Staatsbegriff) S.75.
0415 ケルゼン:国法学(Staatslehre) S.16
0421 以下の第五章、特に第二十五節を参照のこと。
0441 ケルゼン:国家概念(仮訳:Staatsbegriff) S. 80.
0442 A. a. O.; vgl ケルゼン:「統合としての国家(仮訳)(Der Staat als Integration) S. 21£. S. 25ff
0461 ディルタイ:「記述的分析的心理学(Ideen über eine beschreibende und zergliedernde Psychologie)」、V. Vol 1894年。著作選集、1927年。以下の 二十二節を参照。
0462 マックス・ヴェーバー:職業としての学問(Gesammelte Aufsätze zur Wissenschaftslehre)1922年。「経済と社会(Wirtschaft und Gesellschaft)」 I編 1922年
0471 リッケルト:自然科学的概念構成の限界(Die Grenzen der naturwissenschaftlichen)(歴史科学への論理的な入門書)3. und 4. Aufl., 1921年 S. 256ff.
0481 ハイディガー:存在と時間(Sein und Zeit) I 1927年, S. 61.
0491 フッサール:論理学研究(Logische Untersuchungen) I. Bd. 純粋論理学への序説(Prolegomena zur reinen Logik) 3. Aufl., 1922年, S. 47ff 訳者注:論理学研究 I(E.フッサール 著:立松弘孝 訳)第二版 第十六節「規範学の土台としての理論学」67頁参照
0561 フッサール:「純粋現象学および現象学的哲学のための考案(イデーン)(Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie)」の「あとがき」 哲学・現象学研究年鑑 XI. Bd. 1930年 S. 551£.
0571 A. a. O., S. 561.
0572 フッサール:論理学研究(Logische Untersuchungen) II. Bd 認識の現象学的解明の初歩(Elemente einer Phänomenologien Aufklärung der Erkenntnis:仮訳), 2. Teil, III. Aufl., 1922, S. 122.
0573 ベッカー(Oskar Becker):エトムント・フッサール の哲学(カント研究)(Die Philosophie EDMUND HUSSERLs, KANT-Studien:仮訳), XXXV. Bd., Heft 2/3, 1930, S. 134.
0591 フッサール:論理学研究(Logische Untersuchungen) II. Bd., 2. Teil, S. 123.
0601 A. a. O., S. 117f.
0602 A. a. O., S. 116f.
0603 A. a. O., S. 118.
0604 A. a. O., S. 121.
0611 A. a. O., S. 121.
0612 A. a. O., S. 121£.
0613 A. a. O., S. 122.
0621 フッサール:形式論理と超越論的論理。論理的理性批判の試み(Formale und transzendentale Logik. Versuch einer Kritik der logischen Vernunft) 1929年, S. 111
0622 A. a. O., S. 180.
0623 A. a. O., S. 181.
0624 A. a. O., S. 189.
0631 A. a. O., S. 14.
0632 A. a. O., S. 178.
0651 A. a. O., S. 209.
0652 A. a. O., S. 248.
0653 A. a. O., S. 210f.
0661 フッサール:論理学研究(Logische Untersuchungen) II. Bd., 2. Teil, S. 132f.
0681 A. a. O., S. 128f£., S. 137ff., S. 142ff.
0682 A. a. O., S. 145.
0683 A. a. O., S. 145f.
0684 A. a. O., S. 152ff.
0685 A. a. O., S. 183.
0691 A. a. O., S. 147.
0692 ベッカー:A. a. O., S. 136.
0701 フッサール:論理学(Logik), S. 150.
0711 A. a. O., S. 138
0761 フッサール: Logik S. 146.
0762 A. a. O., S. 148.
0771 フッサール : イデーン 純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想, I. . 純粋現象学概論。1913, p.179ff.
0772 A. a. O., p. 207.
0773 「現実(Reellem)」と「非現実(Irreellem)」の対概念は、この問題の連関では、より一般的な「現実(Realem)」と「非現実(Irrealem)」の対概念よりも好ましい。なぜなら、ここでは単に、内在性の領域における純粋意識の現象学的構造分析の問題にすぎないからである。対照的に、第二の概念の対は、超越論的対象の二つの異なる存在様式の存在論的対立を指し示している。
0781 A. a. O., S. 182.
0782 A. a. O., S. 20lff.
0791 A. a. O., S. 20lff.
0792 A. a. O., S. 270f.
0793 A. a. O., S. 271.
0801 山内得立(とくりゅう) 京都帝国大学文学部哲学科教授
0802 山内得立 「現象学叙説」 1929
0861 植田寿蔵:京都帝国大学美学美術史教授
0862 植田寿蔵:原典と複製(Genga to Fukusei)「哲学研究」Bd. 167, 1930, S. 14f.
0891 ハイデッガー(HEIDEGGER):存在と時間(Sein und Zeit) 1. Hälfte, S. 68.
0892 A. a. O., S. 68£.
0911 以下の第十二節と第十三節を参照のこと。
0931 しかし、物象(Dinghaften)という概念には、人間の「身体(Leib)」や「肉体の(körperliche)」な動きのようなものも含まれる。
1021 マックス・ヴェーバー:科学理論(Wissenschaftslehre) S. 503
1081 シュライアー:「可能法(möglichen Recht)」論について。同時にケルゼンの「一般国家学(Allgemeiner Staatslehre)」についても論じている。Logos, vol. XV, issue 3, 1926.
1091 ケルゼン:自然法論と法実証主義の哲学的基礎(Die philosophischen Grundlagen der Naturrechtslehre und des Rechtspositivismus) 1928, S. 12.
1092 A. a. O., S. 12.
1101 ケルゼン:「一般国家学(Allgemeine Staatslehre)」 S. 104; 同: 「主権の問題と国際法の理論(Das Problem der Souveränität und die Theorie des Völkerrechts)」 「純粋法学への貢献(Beitrag zu einer Reinen Rechtslehre)」 II. Aufl., 1928, S. 97, Anm. 1.
1102 フェルドロース(フェアドロス、Alfred Verdross):「国際法共同体の憲法(Die Verfassung der Völkerrechtsgemeinschaft)」Die Verfassung der Völkerrechtsgemeinschaft 同:「国際法憲法に基づく法的世界像の統一(Die Einheit des rechtlichen Weltbildes auf Grundlage der Völkerrechtsverfassung)」 1923, S.77ff. フェルドロースは最新著作で、この状況を次のように説明している:「その頭でそれ(実定法)はそれ自身を越えて価値観の世界を指し示し、そこから規範的妥当性を導き出すことができるが、その足は人間の実際の行為過程の強固な社会学的基盤の上に立っている」「国際法の源泉としての法の一般原則、社会、国家、法(Die allgemeinen Rechtsgrundsätze als Völkerrechtsquelle. Gesellschaft, Staat und Recht)」358頁
1241 ジンメル:社会学(社会化の諸形式に関する研究)S. 2.
1261 A. a. O., S. 9f.
1271 ヴィーゼ:一般社会学 (Allgemeine Soziologie) I. Teil, S.9ff.
1272 A. a. O., S. 18.
1281 A. a. O., S. 10.
1282 A. a. O., S. 10ff.
1291 フッサール :イデーン I. 特に § 10, § 12, § 16.
1301 ジンメル:社会心理学補説(Exkurs über Sozialpsychologie)社会学 S. 421 bis S. 425.
1331 ジンメル:社会学の根本問題 個人と社会(Grundfragen der Soziologie - Individuum und Gesellschaft). o. J., S. 12.
1341 臼井二尚、京都大学社会学講師(当時)
1342 臼井二尚:社会心理学的相互作用の過程(Der Vorgang der sozialpsychischen Wechselwirkung、「哲学研究8Philosophische Studien)」 Bd. 135, 1927, S. 44.
1343 ディルタイ:歴史的理性批判への草稿, 1. Teil: 経験、表出、理解。著作集, VII. Bd., 1927, S. 191.
1361 マックス・ヴェーバー:経済と社会(Wirtschaft und Gesellschaft) S. 20.
1371 A. a. O., S. 12.
1381 ジンメル:社会学(Soziologie) S. 10 I f f .
1411 一般的な社会学用語とは異なり、この「社会化(Vergesellschaftung)」という概念は通常、より広い意味で使われ、社会的に関係のある複数の人間の生活過程全般を意味する。例えば、ジンメルはこの概念を、社会的単位を形成する生活過程そのものを意味し、その「形式(Form)」が「相互作用(Wechselwirkung)」であると理解している。これとは対照的に、我々にとって「社会化」という言葉は、ある特定の種類の具体的・調和的関係のみを意味し、もうひとつ別の種類の具体的・調和的関係、つまり「共同体化(Vergemeinschaftung)」とは明らかに対照的である。(訳者補注:なお、柴山昌山は、「人間が、集団や社会の容認する行動様式を取り入れることによって、その集団や社会に適応することを学ぶ過程」を「社会化」としている)
1421 テンニエス(Tönnies):ゲルマンシャフトとゲゼルシャフト(Gemeinschaft und Gesellschaft) I. Aufl., 1887.
1422 マックス・ヴェーバー:経済と社会(Wirtschaft und Gesellschaft) S. 21 f.
1423 A. a. O., S. 21.
1431 プフェンダー:態度の心理学(Zur Psychologie der Gesinnungen) I. Teil, II. Abdruck, 1922, S. 42ff.
1432 シェラー:同情の本質と諸形式(Wesen und Formen der Sympathie) Neudruck, 1931, S. 16ff.
1433 プフェンダー:A. a. O., S. 43f.
1434 要参照 例 フィールカント(Alfred Vierkandt): 社会学(Gesellschaftslehre) II. Aufl., 1928, S. 144, S. 209f.
1441 ヴァルター:社会的共同体の存在論への貢献(Ein Beitrag zur Ontologie der sozialen Gemeinschaften) 1923, S. 49.
1442 A. a. O., S. 63.
1561 ここで注意しなければならないのは、「Gesellschaft」という用語は、シュパンだけでなく、一般的な社会学用語においても、より広い意味で社会組織一般として理解され、使用されているのであって、本章のように、特定の団体の三つの基本的な種類のうちの一つの呼称として理解され、使用されているのではないということである。これは、「社会化(Vergesellschaftung)」の概念定義でもそうであったように、「Gesellschaft」という概念の二重の意味である。
1562 シュパン(Spann):社会学(Gesellschaftslehre)S. 104.
1563 ハイデッガー:存在と無(Sein und Zeit)I. Hiilite, S. 118.
1571 上記を参照 S. 137 f.
1591 これは「社会学的(soziologischen)」問題の連関に「法的(juristischer)」概念を粗雑に統合したものだと反論されるかもしれない。しかし、この反論は、法的思考は他の社会科学とは本質的に異なる構造を持たなければならないとする伝統的な方法論的見解が唯一の正しいものであると考えることからのみ生じ得る。「独断的な(dogmatischen)法解釈理論(Rechtsauslegungslehre)」における法的思考が、社会科学一般の理論的認識による思考とは全く異なるものであることは明らかである。一方、純粋に理論的な法学は、法的なものを純粋にそのようなものとして客観的な構造で捉えようとするものであり、他の社会科学と同じように人文科学の(geisteswissenschaftlichen)基礎の上に構築されるべきである。従って、「法学的」手法と「社会学的」手法の厳密な分離(Auseinanderhaltung)は、社会的現存在の全体構造に関する人文科学の研究にはもはや当てはまらない。むしろ、理論法学は、「機関(Organes)」や「代表(Vertretung)」といったいくつかの概念を、社会団体の構造論から取り入れなければならない。第二十九節以下を参照のこと。
1592 最も一般的な意味での行政(Verwaltung)という概念のこの使い方は、まさにここで適用されるものである。なぜなら、我々は社会団体と「法」との外的な連関を全面的に考慮する必要がまだないからである。
1593 マックス・ヴェーバー 経済と社会(Wirtschaft und Gesellschaft)S. 26.
1601 A. a. O., S. 17f.
1641 テンニエス(Tönnies):共同社会と利益社会 純粋社会学の基本概念(Gemeinschaft und Gesellschaft. Grundbegriffe der reinen Soziologie) VI. und VII. AufI., 1926, S. 3.
1642 A. a. O., S. 39.
1643 A. a. O., S. 19ff.
1644 A. a. O., S. 51ff.
1651 A. a. O., S. 85.
1652 テンニエス:社会学の本質 社会学的研究と批判 Das Wesen der Soziologie, Soziologische Studien und Kritiken, I. Bd., 1925, S. 35l.
1653 テンニエス:共同社会と利益社会 Gemeinschaft und Gesellschaft, S. 85ff.
1661 A. 3. O., S. 51.
1662 A. 3. O., S. 157.
1663 A. 3. O., S. 3.
1671 テンニエス:社会学の本質 社会学的研究と批判 Zur Einleitung in die Soziologie, Soziologische Studien und Kritiken, 1. Bd., S. 65£.
1672 A. a. O., S. 66.
1673 テンニエス:共同社会と利益社会 Gemeinschaft und Gesellschaft, S. 3.
1674 A. a. O., S. 5.
1681 後に、社会学的な考え方を体系化する中で、テンニエスは「Körperschaft」という語も使っているが、それは社会団体一般の意味においてのみである。テンニエスは、最新の著作「社会学入門(Einführung in die Soziologie)」(1931年)の中で、「社会的実在態(sozialen Wesenheiten)」を「社会関係(sozialen Verhältnisse)」「社会的集合体(sozialen Samtschaften)」「人間団体(menschlichen Verbände)」の三つの概念段階に分け、第三を「Körperschaften」とも呼んでいる。それゆえ、テンニエスにとって「Körperschaft」とは、特定の類型の団体(Verbandes)を意味するのではなく、団体一般を意味する。一方、「共同社会と利益社会」論は、その基本的性格にもかかわらず、依然として人間の意志の「結びつき(Verbundenheit)」、すなわち人間の「積極的(positiven)」な関係に焦点を当てている。前掲書の第四節、第五節、第十二節以下を参照。
1691 ヘーゲル:法の哲学 自然法と国家学 Grundlinien der Philosophie des Rechts oder Naturrecht und Staatswissenschaft im Grundrisse. 発行:エドワード・ガンス, 3. Aufl., 1854, § 26.
1692 A. a. O., § 19, §21.
1693 A. a. O., § 24.
1694 A. a. O., § 33.
1695 A. 3. O., § 5 bis § 7.
1701 A. a. O., § 155.
1702 A. a. O., § 157, 158.
1703 A. a. O., § 164,
1704 A. a. O., § 162.
1711 A. a. O., § 176.
1712 A. a. O., § 181.
1713 A. a. O., § 182.
1714 A. a. O., § 199.
1721 A. a. O., § 209ff.
1722 A. a. O., § 238.
1723 A. a. O., § 255.
1724 A. a. O., § 260.
1731 A. a. O., § 257.
1732 A. a. O., § 258.
1733 A. a. O., § 33, §259.
1761 ギールケ:人間団体の本質(Das Wesen der rnenschlichen Verbände), S
1801 テンニエス:共同社会と利益社会(Gemeinschaft und Gesellschaft) S. 24.
1802 A. a. O., S. 23.
1803 この連関では、エミール・デュルケム(Emile Durkheim)が非常に興味深い著作「宗教生活の初歩的な形式(Les formes élémentaires de la vie religieuse)』(1912年)の中で行った、宗教の原初的形態に関する純粋に社会学的な分析も考慮しなければならない。
1811 下記参照 § 24, § 25.
1821 また、「共同体化の法(Rechtes der Vergemeinschaftung)」の概念については、以下の§24を参照のこと。
1831 シュパン:社会学(Gesellschaftslehre) S. 88

1861 ヴント(WUNDT):倫理学(人倫的な生の領域)(Ethik. Eine Untersuchung der Tatsachen und Gesetze des sittlichen Lebens) 1. Ed., V. Aufl., 1923, S. 284ff.
1862 ヘーゲル :法の哲学(Grundlinien der Philosophie des Rechts) §191
1863 A. a. O., § 189ff.
1871 A. a. O., § 196.
1872 A. a. O., § 198, § 20lff. 参照 デュルケーム(Émile Durkheim):社会分業論(La division du travail social)2 éd. 1901
1901 オイゲン・エールリッヒ(Eugen Ehrlich):法社会学の基礎理論(Grundlegung der Soziologie des Rechts) 1913, S. 106.
1961 ヘーゲル:法の哲学(Grundlinien der Philosophie des Rechts)ラッソンズ編、 第二編 1921, 補遺 S.350
1981 ディルタイ:精神科学序説(Einleitung in die Geisteswissenschaften.)全集 第1巻第2版 1923, S. 27f.

2001 ディルタイ:記述的分析的心理学の諸理念(Ideen über eine beschreibende und zergliedernde Psychologie) G. S., V. Bd., 1924, S. 139、(訳者注:ディルタイは、AnalyseとZergliederungを使い分けている。Zergliederungは解剖の意だが、著書名の邦訳では『分析』が使われている」)
2011 A. a. O., S. 152.
2012 A. a. O., S. 152.
2013 A. a. O., S. 174.
2014 A. a. O., S. 158.
2021 A. a. O., S. 200.
2031 A. a. O., S. 156.
2032 ディルタイ:精神科学の基礎に関する研究(Studien zur Grundlegung der Geisteswissenschaften)著作集VII. Bd., 1927, S. 17.(訳者注:Geisteswissenschaftenは一般には人文科学と訳されているが、ディルタイの著作では精神科学が使われる)
2041 ディルタイ:精神科学における歴史的世界の構成(Der Aufbau der geschichtlichen Welt in den Geisteswissenschaften)著作集VII. Bd., S. 87.
2042 A. a. O., S. 87.
2051 A. a. O., S. 118.
2052 A. a. O., S. 118.
2053 A. a. O., S. 86.
2054 ディルタイ:精神科学における歴史的世界の構成(Plan der Fortsetzung zum Aufbau der geschichtlichen Welt in den Geisteswissenschaften) 著作集VII. Bd., S. 208.
2061 ディルタイ:精神科学における歴史的世界の構成(Der Aufbau der geschichtlichen Welt in den Geisteswissenschaften)著作集VII. Bd., S. 154.
2062 ディルタイ:解釈学の成立(Die Entstehung der Hermeneutik)著作集V. Bd., S. 318.
2081 ディルタイ:精神科学における歴史的世界の構成(Der Aufbau)著作集VII. Bd., S.
2082 A. a. O., S. 153ff.
2091 A. a. O., S. 155.
2131 参照のこと:シュタムラー: 法学の理論(Theorie der Rechtswissenschaft) 1911, 序と第一部。ここで、スタムラーは、「法(Rechtes)」の概念化(Begriffsbildung)に際しての「批判的内観(kritische Selbstbesinnung)」の手続き(Verfahrens)の本質を体系的に提示している。
2132 シュタムラー:唯物史観による経済と法(Wirtschaft und Recht nach der materialistischen Geschichtsauffassung)第五版 1924, S. 75.
2133 A. a. O., S. 81.
2141 A. a. O., S. 82.
2142 A. a. O., S. 126ff.
2143 参照のこと: この点に関しては、マックス・ヴェーバーの論考「シュタムラーの『唯物史観の克服』」(『知識学』291頁)と「シュタムラーの『唯物史観の克服』に関する論考の補足」(前掲書 556頁)がある。
2151 フリッツ・シュライアー:法の基本概念と基本形式。現象学に基づく形式論的法理論と国家論の概要(Grundbegriffe und Grundformen des Rechts. Entwurf einer phänomenologisch begrundeten formalen Rechts- und Staatslehre) 1924, S.28.
2161 それに対して、経済活動は、法的規制と同様に社会生活の維持に不可欠である、という反論が多分にしてあるかもしれない。しかし、経済活動が「社会的な共同作業(Zusammenwirken)」であり、それゆえ必然的に外的な規制を受け、組織化されなければならない以上、その現実の可能性も結局は(schließlich)法的規制に基づいている。
2191 シュタムラー:法学の理論(Theorie der Rechtswissenschaft) S. 68ff.; 同様に:法哲学教科書(Lehrbuch der Rechtsphilosophie)II編, 1923, S. 54ff.
2192 シュタムラー:法哲学綱要(Lehrbuch der Rechtsphilosophie) S. 66.
2221 テンニエス:共同社会と利益社会(Gemeinschaft und Gesellschaft) S. 192.
2222 マックス・ヴェーバー:経済と社会(Wirtschaft und Gesellschaft) S. 415f.
2223 A.a.O.,S. 415.
2231 D.B.G.B.(ドイツ民法典:Deutsche Bürgerliches GesetzBuch、DBGB) § 123.
2241 オイゲン・エールリッヒ(Eugen Ehrlich):法社会学の基礎理論(Grundlegung der Soziologie des Rechts) S. 101.
2271 例えば、ドイツにおける統一的な民法の立法(bürgerlichen Gesetzgebung)の必要性に関するサヴィニーとティボーの間の有名な論争(法典論争:Kodifikationsstreit)は、我々の法構造論の立場から見れば、最初から相容れない(unschlichtbar)ことが証明されている。ティボーがドイツ統一の必要条件であると主張した「法」の統一と、歴史学派が民族精神(Volksgeistes)の無意識的創造(unbewußte Schöpfung)であることを実証しようとした「法」とは、二つの根本的に異なるものを意味していたのである。前者は強制秩序としての法の体系であり、後者は社会秩序としての法の統一であった。この事実は、次項の議論から明らかになるであろう。
2281 ケルゼン:国法学の主要問題(Hauptproblemen der Staatsrechtslehre) 序文(Vorrede), VI.
2282 A. a. O., Vorrede VIf.
2291 ケルゼン:一般国家学(Allgemeine Staatslehre) S. 48.
2292 ケルゼン:国法学の主要問題(Hauptprobleme) Vorrede VI.
2301 カウフマン(Felix Kaufmann):論理学と法学 純粋法学体系の概要(Logik und Rechtswissenschaft. Grundriß eines Systems der reinen Rechtslehre) 1922, S. 91.
2311 ケルゼン:一般国家学(Allgemeine Staatslehre) S. 51.
2331 オイゲン・エールリッヒ(Eugen Ehrlich):法社会学の基礎理論(Grundlegung der Soziologie des Rechts) S. 101 ff
2332 レオン・デュギー(Léon Duguit):憲法概説(Traité de droit constitutionnel) 3. Aufl., I. Bd., 1927, § 10.
2333 末弘厳太郎:東京大学教授・民法(bürgerlichen Rechtes)
2334 末弘:民法講話(Einleitung in das bürgerliche Recht) 1. Bd., 1926, S. 7ff. 拙論要参照:純粋法学の将来の課題(Künftige Aufgaben der Reinen Rechtslehre)社会、国家および法(Gesellschaft, Staat und Recht)、フェルドロース編, S.133f.
2341 ケルゼン:一般国家学(Allgemeine Staatslehre) S. 80ff.
2351 ケルゼン:国法学の主要問題(Hauptprobleme der Staatsrechtslehre) S. 71ff., Vorrede, IXf.;ケルゼン:一般国家学(Allgemeine Staatslehre) S. 48ff.
2352 ケルゼン:国法学の主要問題(Hauptprobleme) S. 145.
2361 A. a. O., S. 183.
2362 上記を参照 S. 11ff.
2371 ケルゼン:(国法学の主要問題Hauptprobleme) 序文 S. XIX.
2372 A. a. O., S. XX.
2381 フランツ・オッペンハイマー(OPPENHEIMER):社会学体系(System der Soziologie;仮訳) II.Bd., 国家論(Der Staat) 1926, S.259ff.
2401 フェルドロース(Alfred Verdross):国際法共同体の構成(Die Verfassung der Völkerrechtsgemeinschaft) 1926, S. 4.
2411 A. a. O., S. 6.
2412 A. a. O., S. 11f.
2421 A.a.O.,S.12.
2422 ケルゼン:一般国家学(Allgemeine Staatslehre) S. 104; 同:主権問題と国際法理論(Das Problem der Souveränität und die Theorie des Völkerrechts 仮訳) S. 97; 同:自然法と法実証主義の哲学的基礎(Die philosophischen Grundlagen der Naturrechtslehre und des Rechtspositivismus 仮訳) S. 12, S. 20, S. 21£f., S. 25f.
2423 フェルドロース : A. a. O., S. 21ff.
2424 シュライアー(Fritz Schreier) : A. a. O., S. 180ff.
2425 根本規範の性質に関する著者自身の見解は、拙論文「純粋法学の将来の課題(Künftige Aufgaben der Reinen Rechtslehre")」第2章および第5章において述べている。
2426 フェルドロース : A. a. O., S. 23ff., S. 28ft, S. 32f.
2427 フェルドロースは、「国際法の源泉としての法の一般原則(Die allgemeinen Rechtsgrundsätze als Völkerrechtsquelle) に関する最新の論考の中で、「pacta sunt servanda(パクタ・スント・セルウァンダ;合意は守られなければならない)」の原則を国際法の唯一の根本規範として確立すべきであるとするこの以前の見解を、他のすべての規範をこの原則に組み入れようとするのは誤りであるという理由から、修正している。 彼はこう述べている:「従って、国際法の根本規範は次のような内容を持つことになる: 主権国家および部分主権国家の法共同体は、国際関係においてこれらの原則から逸脱する特別な有効規範(gültige Normen)が出現しない限り、法の一般原則に従って相互関係を行う」と。(社会・国家・法:Gesellschaft, Staat und Recht)しかし、国際法の原則の一つである「pacta sunt servanda(パクタ・スント・セルウァンダ;合意は守られなければならない)」という成句には、紛れもない優位性があると著者は信じている。なぜなら、現在の(gegenwärtige)国際法はその本質において契約法(Vertragsrecht)だからである。以下参照: S. 248f.
2431 フェルドロース:国際法共同体の憲法(Verfassung) S. 40.
2441 ホルト(HOLD):国際法教本(Lehrbuch des Völkerrechts:仮訳) I. Teil, 1930, S. 90.
2442 A. a. O., S. 92.
2451 上記参照 S. 110, ADm; 2.
2452 フェルドロース:社会・国家・法(Gesellschaft, Staat und Recht) S. 358.
2461 ちなみに、超国家的団体(überstaatlichen Verbandes)を「国際法共同体(Völkerrechtsgemeinschaft)」と名付けることは、我々の言葉の使い方(Sprachgebrauch)と調和しないことにも留意しなければならない。というのも、我々は「共同体(Gemeinschaft)」という概念(Begriff)を、特定の類型の社会団体、すなわちを共同社会団体、を意味するものと理解しているからである。一般に共同体はおそらく、人間の単純な共存(Zusammensein)としてばしば見られるが、そうした存在構造(Seinsstruktur)では、複雑(komplex)で重層的(geschichteten)で大規模な(umfangreichen)団体(Verband)は成り立たないのである。一方、超国家的団体は、原則として「利益社会団体(Gesellschaft)」か、せいぜい「協成社会団体(Körperschaft)」の形式をとって現れることができる。従って、用語を明確にするために、ここでは「国際法共同体(Völkerrechtsgemeinschaft)」の現存在(Dasein)を扱っているのではなく、単に「国際法団体(Völkerrechtsverbandes)」、あるいは単に「世界団体」の現存在を扱っているのだと言わなければならない。
2471 ホルト: A. a. O., S. 92.
2501 参照:横田喜三郎、東京大学国際法教授:国際法共同体の憲法の概念と構造(社会、国家および法)フェルドロース発行、390頁以降
2581 ウェーバーは言う。「類型形成科学的な見方からすれば、行為に影響を及ぼす、自己振る舞いにおける非合理的で、感情的に条件づけられた意味連関はすべて、構築された純粋に目的合理的な同じ経過からの『偏向(Ablenkungen:そらし)』として、現在最も明確に研究され、提示されている。例えば、『株式市場のパニック(Börsenpanik)』を説明する場合、まず便宜的に(zweckmäßigerweise)、非合理的な情動(Affekte)の影響(Beeinflussung)がなければどのように行為が進んだかを判断し、次にそれらの非合理的な要素を『外乱(Störungen)』として入力することが有効である、など。従って、厳密に目的合理的な行為の構築は、あらゆる種類の非合理性(情動;Affekte、錯誤;Irrtümer)の影響を受ける現実の行為を、純粋に合理的な振る舞いにおいて期待される道筋からの『逸脱(Abweichung)』として理解するための類型(『理念類型;Idealtypus』)として、その明白な理解可能性と合理性に忠実なその明快さのゆえに、このような場合に社会学に役立つのである」経済と社会(Wirtschaft und Gesellschaft) S. 2f.
2591 リッケルト:自然科学の概念形成における限界(Die Grenzen der naturwissenschaftlichen Begriffsbildung:訳者仮訳) 第三篇および第四篇 S. 256ff., S. 389ff.
2592 A. a. O., S. 404ff.
2601 参照 A. a. O., S. 454ff.
2641 もちろん、ここでも「社会(Gesellschaft)」という概念は、伝統的な、より広い意味、すなわち社会団体(sozialen Verbandes)全般という意味で使われている。
2671 上記参照 S. 13ff.
2681 このことは同時に、我々の社会団体論の基礎づけは、存在論的現実科学としての体系的社会学の構築への道筋を明らかにするものではあるが、この科学の対象をその実際の形において正確に記述するものでは決してないことを意味する。第四章と第五章で行った社会団体の具体的な存在様式に関する議論は、それによれば、存在論的・現実科学的・社会学的研究の事実的な(sachliche)成果としては、当然ながら非常に不十分(mangelhaft)であり、一面的な(einseitig)なものである。具体的な歴史的現実における社会団体の体系的な提示は、将来の(künftige)課題(Aufgabe)として留保しておかなければならない。
2701 アルフレート・フィーアカント(Alfred Vierkandt): 社会学、哲学的社会学の主な問題(Gesellschaftslehre. Hauptprobleme der philosophischen Soziologie) I. Aufl., 1923, S. 1.
2702 ヘルマン・カントロヴィッチ(Hermann Kantorowicz): 法学と社会学(Rechtswissenschaft und Soziologie) 1911, S.29. (社会学なき教義は空虚(leer)であり、逆に教義なき社会学は盲目(blind)である。Dogmatik ohne Soziologie ist leer, Soziologie ohne Dogmatik ist blind.の言い換え)
2703 上記参照 S. 48ff
2721 参照:小拙論(meinen Aufsatz):法学における理論と実践(Theorie und Praxis in der Rechtswissenschaft)公法ジャーナル (Zeitschrift für öffentliches Recht) X. Bd., Heft 1, 1930.

用語対訳:

感覚的知覚 sinnliche Wahrnehmung
先験的間主観性 transzendentale Intresubjektivität「超越論的相互主観性」
意味的直観 sinnhafte Anschauung
底礎の連関 Fundierungzsusammenhang
主観的に思念された意味 subjektiv gemeinter Sinn
意味の連関 Sinnzusammenhang
現実的存在 現実的存在性 Wirklichsein
現実の基礎 Wirklichkeitsfundierung
現実の根拠 Wirklichkeitsboden
定在する daseiende
内観 Selbstbesinnung
人間相互間の経験連関 zwischenmenschliche, wechselseitige Erlebniszusammenhang
現存在の核心 Daseinskern
物象性 Dinghaftigkeit
客体性 Gegenständlichkeit
対象分野 Gegenstandsgebiet
生活過程 Lebensprozeß
精神的実体 Geistesgebilde
理念的対象 idealen Gegenstandes
意味形成体 Sinngebilde
理念的精神的実体 ideales Geistesgebilde
意味(感覚)領域 Sinnessphäre;Zur Sinnessphäre gehört jedoch auch die Denksphäre, insbesondere die Wortsphäre und damit auch der Wortsinn. しかし、意味(感覚)領域には思考領域も含まれ、特に言語領域、つまり言葉の意味も含まれる。INGE REGNAT-ULNER "Raumreliefs für mehrere Sinne"
「実現(Verwirklichung)」と「現実(Wirklichkeit)」
根本規範 Grundnorm
即物性 Sachlichkeit
事実性 Sachhaltigkeit
事実的 sachhaltigen 独語辞書では不出だが、「関係する」との見方もある。
対等関係 Egalitätsbeziehung
社会的実体 sozialen Gebilde
結びつき Verbindung Verbundenheit
個別性 Einzelheiten
職業団体 Korporation
意味 Sinn(意義 Bedeutung)個体的対象意味 Gegenstandssinne
意味発生 Sinnesgenesis
諸作用 kundgegebene Akte
表現された対象性 ausgedrückte Gegenständlichkeit
意味付与作用 sinngebender Akt
意義付与作用 bedeutung(s) verleihender Akt
意義充実化作用 bedeutungerfüllender Akt
志向する意義 intendierende Bedeutung
充実させる意義 erfüllende Bedeutung
意義志向 Bedeutungsintention
有意味的に sinnvoll
充実化統一 Erfüllungseinheit
合致する sich "decken"
判断作用 Urteilsakt
相等性 Gleichheit
同一性 Identität
客観化作用 objektivierender Akt
成素 Bestandstück
意義機能 Bedeutungsfunktion
意義作用 Akte des Bedeutens
表意的作用 signifikative Akte
時間性 Zeitlichkeit
志向的内容 intentionaler Inhalt
実的内容 reeller Inhalt
実際に形成するもの wirklich Aufbauendes
実在性 Realität
意味志向 Bedeutungsintention
存在状態 Seinsverfassung
事実性 Tatsächlichkeit
法実定性 Rechtspositiviät
根本事実 Grundtatsache
実定性の基準 Positivitätskriterium
行為 Handlungen
Handeln 行為 Handelnden 行為者
共同体化 Vergemeinschaftung
共同体化の vergemeinschaftende
共同体化関係 vergemeinschaftende Beziehung
契機 Momentum
社会化 Vergesellschaftung
社会化の vergesellschaftende
社会化の形式 Form der Vergesellschaftung
相互作用 Wechselwirkung
社会関係 sozialen Beziehungen
社会経験 sozialen Erlebnisse
実存的 existenzielle
共同社会団体 Gemeinschaft 英語;community、日本語:共同体
利益社会団体 Gesellschaft 英語;society、日本語:社会
協成社会団体 Körperschaft 英語;corporation、日本語:会社、組合
科学的技法的の wissenschaftstechnisch
相互関係 Wechselbeziehung
価値生成 Werterzeugung
目的追求 Zweckverfolgung
当為連関 Soll-Zusammenhang
当為命題 Soll-Satzes
自己本意な selbstherrlich
階級闘争 Klassenkampfes
法命題 Rechtssatzes
作用 Wirkung
仮言的な hypothetisches
仮言判断 hypothetisches Urteil
構成要件 Tatbestanden
両面理論 Zweiseitentheorie
法秩序 Rechtsordnung
ある面だけ強調した einseitig gesteigerte
理解社会学 verstehenden Soziologie
純粋に社会的な現存在 rein sozialen Daseins
社会的現存在 sozialen Daseins
観念体系・政治思想 Ideologie
《つまり意味志向(Bedeutungsintention) が、それに対応する直観に基づいて充実される場合、換言すれば、表現が顕在的な命名において、与えられた対象に関係付けられている場合、対象はなんらかの作用のなかで、《与えられ》たものとして構成されるのであり、しかもその対象はその作用のなかで ― 表現が直観的に与えられたものに実際適合する限り ― 意味ベドイトゥングがその対象を思念するのと同じ仕方で、我々れに与えられているのである》(二巻61頁)
十全性 Adäquation


参考文献:
01 尾高朝雄の法哲学 矢崎光圀 ほか
02 『社会的世界の有意味な構成」Der sinhafte Aufbau der soziakn Welt シュッツ
03 純粋法学の将来の課題(尾高朝雄著、小林琢自邦訳)立命館大学人文科学研究所紀要(101号)
https://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no101_07.pdf
https://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no104_08.pdf
04 尾高朝雄『国家構造論』(岩波書店 1936年)
05 『法の窮極に在るもの』
http://wisteriafield.jp/law-ultimate/index.html
06 尾高朝雄のウィーン(森元孝著)

https://wienmoto.w.waseda.jp/Japanese/Forschung/MMori201312.pdf
07 個体について -フッサールを手がかかりとして-(品川哲彦著)
http://www2.itc.kansai-u.ac.jp/~tsina/kotai.htm
08 信用による連合化と社会的結合(清田匡著)
https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DBa0650303.pdf


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