第1部

3 音楽の分析@

 知の音楽としてのゴールドベルク変奏曲BWV988を楽譜の側からと演奏されたものの側から、それぞれ分析します。

(1) 楽譜の分析@

a 楽譜@
原典の名称(ドイツ語)

Clavier-Ubung bestehend in einer Aria mit verschiedenen Veraenderungen vors Clavicimbal mit 2 Manualen. Denen Liebhabern zur Gemuths-Ergetzung verfertiget von Johann Sebastian Bach, Konigl, Pohl. und Churfl. Saechs. Hof-Compositeur, Capellmeister u. Directore Chori Musici in Leipzig. Nurnberg in Verlegung Balthasar Schmids. (表紙をご覧いただけます)
クラヴィーア練習曲集 二つの鍵盤をもつチェンバロのためのアリアと種々の変奏より成る。愛好家の心を慰めるため、ポーランド国王およびザクセン選帝侯の宮廷作曲家、楽長にしてライプツィヒの音楽監督たるヨハン・セバスティアン・バッハにより作曲。ニュルンベルクのバルタザール・シュミットにより出版
(ヘルマン・ケラー著「バッハのクラヴィーア作品」東川清一・中西和枝共訳:音楽の友社による。なお、「選帝侯」とは当時のドイツで貴族間の選挙で選ばれる統治者を示します。)


作曲年
 ライプツィッヒ時代、1741年又は1742年、バッハの円熟期57才の時の作品です。
 この時期に平均律クラヴィア曲集第2巻が出版されています。ただし、この第2巻はもっと以前の作品も多く含んでいてこの時期に集中的に作曲されたわけではありません。それよりもゴールドベルク変奏曲の完成と平行して「フーガの技法」の準備が進められていたことが重要な意味を持っているといわれています。


分析の対象とした楽譜の版
ラルフ・カークパトリック版
「1934年9月15日 ザルツブルクにて」と記された楽譜は、邦訳されて音楽出版社ゼンオンから出版されています。この楽譜にはカーク・パトリック自身による詳しい解説がつけられているとともに、オリジナルの楽譜だけでなく、それに対応した装飾音の奏法と、2段鍵盤用変奏をピアノで弾くときの奏法について、もう一つの楽譜が掲げられています。特に装飾音については詳しく記されていて専門家でなくても、オリジナルから実際の演奏への道筋をたどることができるのです。私もこの楽譜に出会わなければ、ゴールドベルク変奏曲の分析など思いもよらなかったことでしょう。


ブライトコップ版、バッハ協会版
1850年に、バッハの作品を刊行するために設けられた協会がバッハ協会で、ブライトコップ&ヘルテル社の協力を得て1900年までに、全46卷の編集を完了させています。これがバッハ全集です。


その他の版
ピアノ練習用の一般的な楽譜ではオリジナルが省略されているとともに、装飾音についても偏った解釈のものがつけられていて、それがあたかもオリジナルのように表現されている場合があるので注意が必要です。
例として、新編世界大音楽全集バッハピアノ曲集1器楽編1音楽の友社(1989.11.25)では、原典に近い形すなわち装飾記号のみのついた楽譜です。この楽譜の版元はミュンヘンのG.HelenVerlagと付記されています。こうした楽譜では初学者には演奏は困難でしょう。それぞれの装飾記号の意味から学ばなければならないからです。

b 演奏の楽器及び調律@

 二つの鍵盤をもつチェンバロが楽譜において指定されている楽器です。楽譜どおりに演奏する為には2段鍵盤でなければ、両手が重なってしまう部分のある曲もいくつかあります。1981年のグールドの演奏のビデオを見ますと、両手が自由に交差してまるで2段鍵盤で演奏しているかのようです。普通はピアノで演奏する場合、通常はオクターブずらしたり、重複する音を省略します。
 調律は当然ですが平均律とは指定されていません。平均律のピアノで演奏することは問題ありませんが、別の調律、例えば中全音律であれば、より深い味わいが出てくるかもしれません。

c 楽譜における表現@

アリアや変奏の曲名をクリックしてください。演奏が始まります。
(全曲連続演奏は こちら midi版 それとも  こちら mp3版
曲  名調 性拍 子小節数声部鍵盤特   性
 アリア  (midi) (mp3)ト長調 3/432   
第 1変奏 (midi) (mp3)ト長調3/4322声一段 
第 2変奏 (midi) (mp3)ト長調2/4323声一段 
第 3変奏 (midi) (mp3)ト長調12/8163声一段同度カノン
第 4変奏 (midi) (mp3)ト長調3/8324声一段 
第 5変奏 (midi) (mp3)ト長調3/4322声一or二段 
第 6変奏 (midi) (mp3)ト長調3/8323声一段2度カノン
第 7変奏 (midi) (mp3)ト長調6/8322声一or二段 
第 8変奏 (midi) (mp3)ト長調3/4322声二段 
第 9変奏 (midi) (mp3)ト長調4/4163声一段3度カノン
第10変奏 (midi) (mp3)ト長調2/2324声一段フゲッタ
第11変奏 (midi) (mp3)ト長調12/16322声二段 
第12変奏 (midi) (mp3)ト長調3/4323声一段4度カノン
第13変奏 (midi) (mp3)ト長調3/4323声二段 
第14変奏 (midi) (mp3)ト長調3/4322声二段 
第15変奏 (midi) (mp3)ト短調2/4323声一段5度カノン
第16変奏 (midi) (mp3)ト長調2/2-3/848 一段フランス序曲
第17変奏 (midi) (mp3)ト長調3/4322声二段 
第18変奏 (midi) (mp3)ト長調2/2323声一段6度カノン
第19変奏 (midi) (mp3)ト長調3/8323声一段 
第20変奏 (midi) (mp3)ト長調3/4322声二段 
第21変奏 (midi) (mp3)ト短調4/4163声一段7度カノン
第22変奏 (midi) (mp3)ト長調2/2324声一段アッラプレーベ
第23変奏 (midi) (mp3)ト長調3/4322ー4声二段 
第24変奏 (midi) (mp3)ト長調9/8323声一段8度カノン
第25変奏 (midi) (mp3)ト短調3/4323声二段アダージョ
第26変奏 (midi) (mp3)ト長調18/16-3/4323声二段 
第27変奏 (midi) (mp3)ト長調6/8322声二段9度カノン
第28変奏 (midi) (mp3)ト長調3/4323声二段 
第29変奏 (midi) (mp3)ト長調3/4323声一段 
第30変奏 (midi) (mp3)ト長調4/4324声二段クオドリペト
アリアダカーポ(midi) (mp3)ト長調3/432 一段 

ゴールドベルク変奏曲全曲---(midi)---(mp3)


(感想、意見など送って下さい。)
mailto:mocfujita@aol.com

d 調声@

ト長調、ト短調
第15、21、26の変奏曲はト短調となっている以外はすべてト長調です。ト長調が基調になっている理由についてはあとで考えたいと思います。


e 音域@
全体の音域は、 最高音が 1G 最低音が d3です。
もともとチェンバロのために作曲されたのですから、音域がそんなにひろいわけがありません。4オクターブ半程度です。突然のようですが、シューマンのクライスレリアーナとの比較すると、こちらの方は6オクターブと、当然に音域は広くなっています。
また、もとは2段鍵盤用であったので中音域で両手が重なってしまうので、演奏家によっては、どちらかを1オクターブずらせて弾いていることもありますので、演奏上の音域は多少広がっているかもしれません。


f 構成@

[反復]@

 アリア及びすべての変奏は楽譜上、AABBすなわち反復が指定されています。例えば、平均律クラヴィア曲集では、一般にこの反復の指定の形にはなっていません。
 さらに、ゴールドベルク変奏曲の場合には演奏者によってアリアや変奏は、曲ごとにA−B−,A−BB,AAB−,AABBの基本的パターンのうちの一つが選択されて演奏されることが普通で、その選択は現状では演奏者に任されてしまっています。このようなことはクラシック音楽ではめずらしいことです。なお、記号の<−>は演奏における<省略>を意味します。
 まず、グレン・グールドの演奏をみてみますと、1955年のものと1981年のものでは、反復の取扱いに大きな差異があることが分かります。1955年には、32曲全曲反復なしのA−B−(なお、1959年のライブ演奏の録音では、A−B−が30曲、AAB−が2曲でした。)でしたが、AAB−は1981年には13曲となり、その分だけでも全体の演奏時間は長くなっています。ちなみに、どちらのグールドの演奏にも、後半の反復をするA−BBあるいはAABBの形式は採用されていません。
 楽譜(ラルフ・カークパトリック版)に再度よく目を通してみると、16小節目で1回目の演奏と反復された2回目の演奏が変化することになっている変奏があります。第2、第4、第6、第16、第25変奏の5曲です。これでも1955年のグールドは構わず、A−B−で演奏しています。バッハの書いた音符が一部とはいえ省略されているのです。
 このように反復の取扱いの考え方により演奏はずいぶん違ったものになってきます。

[小節数]@

 まず、アリアは32小節でできていますが、この32という数字は全体の曲の数と同じです。そして、アリアはまた16小節の前半と16小節の後半でできていて、変奏曲全体も16曲づつの二つの部分に分けられます。各変奏も基本的には16小節の前半と16小節の後半の32小節で構成されています。例外は、第3、9、21及び30変奏の8小節+8小節、第16変奏の16小節+32小節です。

[拍子]@

 アリアの3/4拍子が基本で、途中で拍子が変わる曲も含め3/4拍子が15曲です。また3/8拍子が4曲 、4/4拍子が3曲、2/4拍子が2曲、2/2拍子が3曲、6/8拍子が 2曲、他に12/8拍子、12/16拍子、9/8拍子、18/16拍子と3/4拍子の組み合わせ、などいろいろな拍子が使われています。特に第26変奏は右手と左手が18/16拍子と3/4拍子にそれぞれ割り当てられていて特殊な拍子です.SMFどデータ上では3連符か付点で取り扱うことになります。

[カノン(CANON)]@

 30の変奏のなかで、第3変奏からの3曲ごとに「カノン」の形式がとられています。1度すなわちユニゾンから9度までの9つのカノンがあります。そして第12変奏の4度と第15変奏の5度のカノンは反進行(旋律の上下が逆さま)になっています。
 カノンとは、ひとつの声部の旋律を他声部が厳格に模倣していく対位法の一形式です。マルセル・ビッチ;ジャン・ボンフィスの「フーガ」によれば、「カノンによる模倣とか、単にカノン(模範、典則などの意味)という言葉は、連続し、接近する模倣でふたつの音句(先行句、追行句)が重ねられるものを言いあらわす楽語である。」と説明されています。一度のカノンとは、模倣している旋律がもとの旋律と同じ音の高さ、すなわちユニゾン、のカノンのことです。ちなみに、8度のカノンであれば、1オクターブ異なる旋律が模倣するということになります。カノンの作曲は、高度に知的な作業であるといわれています。
 なお、1974年にはゴールドベルク変奏曲の和声をもとにしてバッハにより作曲された14のカノン(BWV1087)がストラスブルクで発見されています。
 また、カノンはバッハの時代だけのものでなく、モーツアルト、ベートーベン、シューマンもカノンによる書法を頻繁に用いていました。特にシューマンはカノンの勉強や練習に自らの精神的安定を求めていたのです。シューマンは、「カノンやフーガの分析は大変有益で、いわば全人格に道徳的な強さを与える効力があるともいえます。バッハには萎縮したり病的であったりするところがなく、すべてが永久の生命をもって作曲されているのです。」と考えていました。しかし、どうもシューマンはゴールドベルク変奏曲を知らなかったようです。彼の書簡集には平均律を始め多くのバッハの曲についてのコメントがあるのですが、ゴールドベルク変奏曲については筆者の読んだ限りにおいてはなんのコメントもありませんでした。もし、知っていて奥さんのクララに演奏してもらっていたら、精神症のあれほどの苦しみに襲われることはなかったのではなかろうかと想像してしまいます。もっとも、E.A.ホフマンの作品「クライスレリアーナ」には、ゴールドベルク変奏曲らしいバッハの曲を楽長クライスラーが演奏する場面がはじめの部分に出てきます。
 また、十二音音階音楽で知られるシェーンベルクはカノンの熟練者だったといわれています。「月に憑かれたピエロ」の17番、18番がその例とマルセル・ビッチ;ジャン・ボンフィスの「フーガ」では紹介されています。
 


(2)演奏の分析@

一覧表にまとめてみました。それぞれの項目について分析しましょう。
*****一覧表*****

a 誰が演奏しているでしょう。@

 最初の記念碑的演奏は、1934年のワンダ・ランドフスカによる録音でした。この演奏があまりにも有名で、それ以外はもういらないという状況が暫くの間あったようです。1955年にグールドが自らのデビューアルバムをゴールドベルク変奏曲にしたいとCBSに伝えたところ、コロンビア・レコードのトップは反対しました。その時のようすは、オットー・フリードリック著の「グレン・グールドの生涯」に記されています。「いくら何でもそんな冴えないめんどうでややこしい作品に、駈け出しのピアニストのキャリアを賭ける気は君にはあるまい。」また、「ゴールドベルク変奏曲なら、あの恐るべきワンダ・ランドフスカが、これまた恐るべき彼女のハープシコードですでに録音しているではないか、それに、音楽通の大半の間ではゴールドベルクと言えばランドフスカなんだよ」と、ある重役は言ったそうです。
 その後の演奏者を、入手可能なCDからリストアップしてみます。録音年順に、ワンダ・ランドフスカ、カール・リヒター、グスタフ・レオンハルト、グレン・グールド(再録音)、トン・コープマン、ダニエル・バレンボイム、日本からは熊本マリさんです。それ以外に、録音年が不明のものとして、イエルク・デムスの録音もあります。また、グレン・グールドには1959年録音のザルツブルクでのライブが残されています。その他タチアナ・ニコラーエワ、アンドレイ・ガヴリーロフなどが録音しています。
 録音の記録ではありませんが、グールドが公開で演奏した記録があります。その記録によりますと、彼が23才の時にオタワで演奏したのを始めとして全部で27回世界各地で演奏を行っています。ゴールドベルク変奏曲の公開での最後の演奏は、1961年にロス・アンジェレスで行われました。当時の公開演奏のうちザルツブルクでのライブがCDになっているのです。当時は結構ステージでグールドのゴールドベルク変奏曲を聴くことができたのですね。

b いつ録音しているでしょう。@

 ワンダ・ランドフスカが一番古くて1934年、記録で探した限りにおいては、その次に古いのがちょっと意外ですが1955年のグレン・グールドになります。グールドは、1959年にもライブ録音を残しています。ただし、1959年の演奏についてはグールド自身がそれをレコードなりCDで発表する積もりがあったかどうかはわかりません。そのあとは10年以上経過した1970年のカール・リヒター、また暫くして1976年のグスタフ・レオンハルトです。この二人の演奏はそれぞれ特徴的であって、風格もあり、歴史的に残っていく演奏だと思います。そしてしばらくして、1981年のグールドの驚愕の再録音となります。
 その後は、1987年にトン・コープマン、1989年にダニエル・バレンボイムが録音していますが、1981年のグールドの再録音の存在が大きすぎてか、影が薄いようです。最近の1993年の熊本マリさんの演奏は、グールドとの対抗心はさらさらないとみえて、自然な良い演奏に感じられました。
 このほか、ジャズピアニストのキース・ジャレットの1989年のチェンバロによる演奏もありますが、ジャズピアニストでも弾けますよ、という程度の演奏でした。

c ピアノかチェンバロか、どちらで演奏しているでしょう。@

 ピアノで弾いているのは、グレン・グールド(デビュー版)、グレン・グールド(再録音版)、ダニエル・バレンボイム、タチアナ・ニコラーエワ、アンドレイ・ガヴリーロフ、熊本マリです。
 チェンバロで演奏しているのは、カール・リヒター、グスタフ・レオンハルト、トン・コープマン、イエルク・デムスとワンダ・ランドフスカです。それに、キース・ジャレットもチェンバロでした。
 楽器の選択は、それぞれの演奏家がそれぞれの考えがあれば、それによって行っています。グレン・グールドの場合は、デビュー版では、スタンウエイのうちから特に気に入った一台(C174)、再録音版では、当時愛用していたスタンウエイ(CD318;1945年製)が搬送中の損傷でグールドにとって使えなくなってしまったので代わりを探していたところ偶然、グールドがニューヨークで見つけて気に入ったヤマハの中古ピアノが使われました。
 グスタフ・レオンハルトは、1730年頃パリで製作されたブランシェのモデルにより作られた、1975年のウイリアム・ダウド製のチェンバロです。
オルガンでの演奏もあります。

d 1955年のグールドの録音は本当に凄くテンポの速い演奏だったでしょうか。@

 確かに、ゴールドベルク変奏曲の全曲演奏で、38分17秒はとても短い演奏時間です。しかし、アリアと全ての変奏を反復なしに演奏していますから、他の演奏とそのままの比較はできません。そこで、少し単純化して、グールドがもし反復を省略せず演奏したとしたらどうでしょう。すなわちA-B-でなくAABBの場合を想定してみます。実際には繋ぎの部分があったり、AaBbという演奏もありうるので簡単ではないのでしょうが、それは目をつぶって、「A-B-」を「AABB」にするわけですから、演奏時間は2倍です。38分17秒を2倍してみますと、76分34秒となります。この76分34秒をバレンボイムの演奏の82分38秒(最後のアリアをA-B-で演奏しているため、79分52秒にアリアの反復分の 2分46秒を加えました)と比較しますと、演奏時間で8%程度の違いで、大差のないことが分かります。
 演奏の速さは、なにも演奏時間の比較によってのみ、なされる訳ではないでしょう。

e 反復の取扱い@

 グレン・グールドは1955年版ではA−B−のみの演奏で、1981年版ではA−B−19曲、 AAB−13曲に変化しました。1959年のライブ録音では第4変奏と第30変奏のふたつの変奏がAAB−で演奏されました。
 演奏家によって反復の取扱いは様々です。
 カール・リヒターとダニエル・バレンボイムはアリア・ダ・カーポ(最後のアリア)をA−B−で演奏したほかはすべてAABBとしています。イェルク・デムスも基本はAABBですが最初と最後のアリアと第15、 21、 25変奏のゆっくりの曲をA−B−で演奏しています。トン・コープマンはなにを考えているかわかりませんが、アリア・ダ・カーポをA−B−としたほかは、すべてAAB−でした。グスタフ・レオンハルトは、その硬そうなイメージからは予想外でしたが、すべてA−B−の演奏でした。熊本マリさんは、全体に自由な設定で最初のアリアをゆったりとAABBで演奏し、いろいろな組み合わせてしなやかにやさしく演奏していて素敵です。
 変わっているのワンダ・ランドフスカです。 1934年のものですから、SP時代でもあり、3枚か4枚組みの大変貴重な録音です。その時代にはこれしかなかったのでしょうから、きっと大きな影響力を持っていたと思いますが、意外な部分があるのです。全体としてはA−B−が多いので、これはきっと録音時間を短くするためにそうした演奏になっているのかと考えながら聴いていますと、第4変奏ではAABBとなりますし、第5変奏ではあれっと少し驚かされます。それは、A−B(A/2)すなわち後半の16小節を一回演奏した後、それに続けて前半の前半分の8小節を繰り返しているのです。この形は第7及び第18変奏でも使われています。これによりランドフスカは独自の表現(インディビジュアル・タッチ)を加えたということらしいのですが、彼女以外に一般向けに演奏する人はいなかったようだし、まして録音されたのは、これだけだったようですから独自の解釈をこういう形で加える必要が本当にあったのでしょうか、疑問に感じます。
 スヴャトスラフ・リヒテルは、1975年にズザナ・ルージチコ−ヴァのハープシコード演奏会でゴールドベルク変奏曲を聴いて、その感想を次のように記しています。「バッハのこの巨大な作品をハープシコードで聴くのは初めてだ。グールドの演奏会での演奏とレコードは聴いたことがある。いつの日にか自分も弾いてみたいものだ。・・・最後まで弾きとおせるものなら。 プラハ出身のこのチェンバロ奏者は実に真面目に弾いており、有難いことに繰り返しを全部やっている(繰り返しをやらなければ、全曲弾かない方がいいくらいだ)。」 また、少しさかのぼりますが、1972年にグールドのレコードでバッハのパルティータを聴いた感想は、グールドを「バッハの最も偉大な演奏者」と最大限の評価をしながらも、「グールドにおいては、いっさいがちょっとばかり輝きすぎ、外面的すぎる。その上、いっさいの繰り返しを行わない。これは許せない。」と、繰り返しについての強い考えを示しています*。結局、リヒテルはゴールドベルク変奏曲を録音どころかコンサートでも演奏しませんでした。
(*出典: リヒテル ブリューノ・モンサンジョン著中地義和・鈴木圭介訳2000)

f テンポの設定@

・アリア
 主題のアリアについては、普通のテンポで、<トントントトトーン>と演奏する場合と、ゆったりと<トーントーント・ト・トーーーン>のように弾く場合におおまかに分けられます。グールドの新旧の演奏がその典型的な例といってもよいでしょう。1955年版では1分53秒、1981年版では3分5秒というようにかなり変化しました。どちらも素晴らしい演奏です。他の演奏者はだいたいこの中間にそれぞれ位置します。1981年版のグールドの場合、ゆっくりといっても緊張感に満ちたという表現がふさわしい程まで充実したもので、のんびりしたといった印象とはまったく違います。
 テンポでなく演奏時間で比較すれば、グールドの1955年の1'53"は、熊本マリの1993年の4'16"の半分以下に過ぎません。それこそ「あ」という間にアリアは終わってしまうのです。

早く-------------------(「反復なし」に換算して比較)
  1'53"    グレン・グールド(1955年)

  2'08"    熊本マリ(1993年) ただし、AABBでは4分16秒
  2'17"    ワンダ・ランドフスカ(1934年)
  2'39"    藤田SMF(1992年)
   ・
   ・
  3'05"    グレン・グールド(1955年)
 (4'16"    熊本マリ(1993年))

ゆっくりと-------------

・第25変奏
 1981年のグールドの演奏(6分3秒)は1955年の録音(6分29秒)より多少テンポが早くなっています。後にグールドは1955年の演奏では、第25変奏をまるでショパンを弾くように感傷的に演奏してしまったと回顧しています。


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